【第1話】

「亨、今何時だー?」
 洗面所のほうから声が聞こえ、俺は洗濯物を干す手を止めて時計を確認した。
「もうすぐ9時だ」
「マジで!? やっべー早く行かねーと!」
 俺の返事にデカい音を立てながら準備を終えたらしくリビングに戻ってきたそいつは、普段着より多少めかしこんでいた。
「俺はハジメたちと遊んで、そのまま店に行くから。時間通りにちゃんと来いよ」
「ああ、わかってるよ」
「じゃ、行くな!」
「うん。……行ってらっしゃい」
 楽しそうな表情で出かけていく龍太を笑顔で見送ったものの、玄関のドアが開く音が聞こえてくる頃には作り物の笑みは完全に消えていた。
「朝から夕方まで遊んでから行くって──そっちのほうがメインになってんじゃねぇのか」
 約束の時間は夕方6時。それまでの時間、俺は休日にしかできない家事をこなしてから出かけようと思っていた。事前に予定を言わないのはいつものことだが、あいつが朝から遊びに行くのは知らなかった。……同じ時間に、同じ場所に行くのに。
 一緒に暮らしていてこの差はなんなんだ。そう思いつつ、あいつに対して文句の一つも言えない自分自身に一番苛立ちを感じていた。

 俺の名は亨。つい最近30歳になってしまった、中年と呼ばれる存在になりかけているゲイだ。
 そしてさっき出かけていったヤツ……龍太は、5歳年下の25歳でこの家に一緒に住んでいる──一応俺の恋人だ。
 出会ったのは5年前。唯一の行きつけのバーでいつものように1人で飲んでいたとき、あいつのほうから声をかけてきたのが始まりだった。
 人見知りの激しい性格のせいで、恋人はおろかゲイの友人すらいなかった俺。運良く声をかけられても(自分から誰かに話しかけたことはない)、いつも一晩限りの関係で終わってしまい、他人とうまく付き合えない自分に辟易していた。だから龍太のことも、それまでの連中と同じ『一晩限りの相手』という認識しかなかった。
 しかし何を思ったのかわからないが、コトが終わって先に帰ろうとした俺に龍太は自分の連絡先を教えてくれて。(どうせ出ないだろう)と思いつつ、意を決してかけた電話にヤツが出たことでたまに会うようになり、いつしか世間で『恋人』と呼ばれるような関係になっていた。
 某企業で営業職をしていた社会人の俺と、大学生活を大いに満喫していたあいつ。生活習慣の違いや元々の性格の違いも大きく、会うたびに必ず一度は小さな口論をしていたし、どうせ長く続かないだろうと思っていた。
 はっきり言って、俺はあいつに一目惚れだったから「別れたい」なんて考えたことはなかったけど──一緒に暮らして3年経つが龍太もその言葉を口にすることは未だにない。それどころか2年前にあいつが社会人になったとき、当然のように自分の荷物を俺の家に運び入れてきて、なし崩し的に一緒に暮らし始めたんだ。
 青天の霹靂ともいえるあいつの行動には、一緒に住めるっていう嬉しさより『からかわれてるんじゃないか』っていう不安のほうが大きかった。出会ったその日にカラダの関係を持ち、しばらくして付き合い始め……数年後に同棲なんて、都合のいい小説か何かのシナリオをなぞってるような気がしてならなかったからな。
 それでも一緒に過ごす期間が長くなってくればそれが日常になっていったし、(このままこいつとずっと一緒に暮らしていくのかもしれない)と漠然と思うようになっていた。

 だけど、月日の流れは凝り固まった考え方すら変えるものらしい。
 いや、ただ単に将来を楽観視できない年齢になってきたせいなのかもしれないが、30の誕生日を迎えてから自分が思い描いていた未来は酷く曖昧なものだった気がしてきている。
 現実問題として俺は結婚適齢期を軽く過ぎかけていて、上司やおせっかいな友人から結婚の話をちらほら持ちかけられるようになっているし、いい年をした男2人がいつまでも共同生活を続けているなんておかしいだろう。
 しかも俺は田舎の家族にゲイだってことをカミングアウトしてなくて、龍太と一緒に暮らしていることすら話していない。知られたら本当のことを話すまでしつこく追及され──その結果どんな修羅場になるか、考えただけで気が重い。
 今まで直視することを避けてきた問題に向き合うときがきたってことなのかもしれないが、これから先のことなんて龍太とはこれっぽっちも話したことがない。だから俺は、あいつが俺とのことをどうするつもりなのかまったくわからなかった。


 ──そんな不明瞭な気持ちのまま日々を過ごしていたが、まるで俺に決断を迫るようにある出来事が起こったんだ。


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