─ 第16回 ─


++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

「おーい、直樹ぃ!」
 放課後職員室まで来いと言われていたのを思い出して、珍しく(俺にしては本当に珍しく)1人で廊下を歩いていると、いきなり後ろからデカい声をかけられた。
 その、聞き覚えのある、なんとな〜く耳障りな声に俺は振り返らないままずんずん歩いた。俺のカンはよく当たる。そのカンが、『振り返るな』って警告してる気がしたから。
 だけどそいつはしつこく俺の名前を呼びながら、履き潰した靴をぺったぺったと鳴らしながら小走りで俺を追いかけてきて。
「おい〜、待てってばぁ」
 みょ〜に甘ったるい声とともにがしっと肩を掴まれて、俺は小さく舌打ちした。こういう奴って本当しつこくてウザいんだよなー。
 それ以上付きまとわれるのがイヤで仕方なく、
「……なんだよ」
 あからさまに嫌そうな顔をして振り返ってやると、なんとな〜く見たことがあるような顔がそこにはあった。
(……こいつ、名前なんだっけ?)
 見たことはある顔なんだけど、いつどこで知り合った奴なのか、何年何組の誰なのかさっぱり思い出せない。
「あんた誰だっけ?」
 思い出せないままでいるのが気持ち悪くてズバリと聞くと、そいつは俺の肩に手をかけたままずっこけるような動きをした。
「なんだよ、覚えてないのかよー。1日だけとはいえ熱い夜を過ごした相手をさぁ」
 デカい声で堂々と言い切ったそいつに、ぎょっとした顔で数人の生徒が振り返る。俺はそんな奴らの反応なんて気にせずに(きっと皆すぐに冗談だと思うだろうからさ)、
(ああ……昔ヤッた男の1人か)
 と納得した。制服の下の身体がなんとなーく想像できたってことは、そういうことだ。
「なに? お前とは1回きりって言ってあっただろ?」
『遊びで寝る相手とは1回しかやらない』それが俺のポリシー。後々面倒なことになるのも嫌だし、本気で好きじゃない奴とベタベタ馴れ合うのって苦手なんだよな。
 俺が嫌そうな顔全開で言うと、そいつはにやにや笑いを引っ込めずに、
「わかってるって。お前とヤるのはもう諦めてるさ」
 そう言いながらさらに俺にすりよってきて。わっ、どさくさに紛れてそんなとこ触るなよっっ!
「ふざけんなっ」
 そいつの態度があまりにウザくて、こういう奴が本気で嫌いな俺は、『キモイんだよ!』って言って蹴りの一発でも食らわしてやろうとした。
 だけど、俺が足を上げるより先にそいつの口が開いて──出てきた言葉に俺は目を丸くした。
「な、最近お前の兄貴、やけに色っぽくなってんじゃん?」
「………………は?」
「フェロモン垂れ流し状態っての? な〜んか見ててムラムラしてきちゃうっていうかー股間が窮屈になってきちゃうっていうかー」
「なんだよ、それ」
「お前とはまた違ったやらしさなんだよな。だから気になってるってカンジ?」
 でへへ〜っとエロい顔全開で笑うそいつは、どうやら兄貴のことで俺に話しかけてきたらしかった。
 ていうか、『ムラムラ』ってなんだよ。『股間が窮屈』って、そりゃもう勃起してるってことだろ?
「欲求不満だったら他の奴で発散しろよ。兄貴は盛りのついた犬みたいな男なんて相手にしないからな」
 今にもヨダレを垂らすんじゃないかってくらい、だらしない顔をしたそいつに心底嫌気が差して、俺は相手にするのをやめてまた歩き出そうとした。
『クールビューティー』の名にふさわしい見た目と性格の兄貴には、ちょっと他人を寄せつけない『壁』みたいなものがある。その原因が、実は兄貴が人見知りが激しいからだって俺は知ってるけど、他の連中は『自分たちとは格が違うから』ってふうに捕らえてるらしい。
 それはそれで当たらずとも遠からずって感じだから弟の俺も否定しないし、だからそのイメージはこれからも崩れることはないだろう。
 こいつだってそれは知ってるんだろうに……なに夢見てんだよ?
「そりゃ、お前の兄貴が俺みたいな奴を相手にしないってわかってるけどさぁ。けど、1回でいいからお願いしてみたいって思うのはしょうがないだろ〜?」
 さっきよりも大股で、半分小走りみたく歩き出した俺に、そいつは慌ててついてくる。
「どんなふうに感じてどんなふうイクのかすっげー気になるし。あんな滑らかそうな肌、生で触れたら俺昇天しちまうかも〜〜v」
「勝手に昇天してろ。つーかさ、なんでそんな話を俺にしてるわけ?」
 兄貴のことをどうこうしたいって俺に言われたって、俺に兄貴の代わりはできないし。こいつだって、俺が兄貴の代わりにならないことくらいわかってるはずなのに、なんでこんなにしつこく俺につきまとうんだ?
 そしたらそいつ、まるで俺がそう聞くのを待ち構えていたみたいに、いきなり俺の前に立ちはだかって。
 顔の前で手を合わせて、とんでもないことを言い出したんだ。
「お前から頼めない? 1回だけ、ホント1回イクだけでいいから付き合ってくれって!」
「──────はぁ!?」
「俺けっこう経験あるし、きっと痛い思いなんかさせないからさ。ほら、お前だって覚えてるだろ? 俺ってベッドの中じゃけっこう紳士的だって」
(んなこた覚えてねーよ!)
 たった1回寝ただけなのにそんなことを頼んでくるなんて、ずうずうしいにも程がある。だいたい、俺があの兄貴にそんなこと頼めるかよ!
 さらにしつこく「なぁ頼むよ直樹〜」と馴れ馴れしく言い寄ってくるそいつに、俺はがつんっと牽制球を投げておくことにした。目ざわりなハエは早めに叩き落としておかないとな。
「兄貴にはチョーごっつい彼氏がいるから、手出そうなんて考えない方がいいよ。……死にたくないならね」
 実際には絶対あり得ないことをさらっと言うと。
 そいつは「げぇっ」と一瞬で青ざめて、なぜか自分の股間をガードするように両手をそこに当てた。……まさか本気で兄貴に手ぇ出そうとしてたのか? こいつ。
「そういうことだから。余計なことするなよ」
 一応念を押してからその場に硬直してるそいつを置いて、俺はまたさっさと歩き始めた。ったく、ホントにウザいんだから。
 …………だけど。
(もしかして……もしかしなくても、兄貴のフェロモンにやられちゃってる奴って、けっこう……いる?)
 今の今まで気づかなかったけど、その可能性は高いかもしれない。
 確かに最近の兄貴は、頭からかぶりつきたいくらいおいしそうなフェロモンを垂れ流してると思う。
 特にフロ上がりなんて「今すぐ食べてv」ばりに色っぽくて。最近自分で買ってきたらしいピーチの香りの入浴剤が、またなんともたまらないって感じなんだ。
 ときどき家に帰ってくる親父やおふくろも兄貴の変化には気づいてるみたいだし。親父なんて、このあいだ
兄貴のこと見てぽーっとしてたもんな(雰囲気とかおふくろに似てるからな、兄貴は)。
 それに俺も、兄貴は自分と同じ顔をしてるはずなのに、ときどき見愡れちゃったりしてたりして(俺は綺麗なものが好きだからさ)。
 でも、そうなってくるとマズイんだよ。俺の『兄貴と晴海先生をラブラブにさせちゃおう』計画がめちゃくちゃになっちゃうかもしれないんだから。
 まさか兄貴のフェロモンがあそこまで全開になるとは思ってなかったから、俺としてもちょっとびびってたりして。『フェロモン系』ってよく言われてるけど、もしかしたら兄貴もそれにあてはまるのかも(兄貴が当てはまるなら俺も当てはまるんだろうけどな)。
「う〜ん、なんとかしなくちゃなぁ」
 こんな展開になるなんて、この俺も全然考えてなかった。まさか兄貴のフェロモンがあんなに強烈だなんて──誰が予想できたっていうんだ? だって、俺の知ってる限り、兄貴はバージンだぞ?
(いやーな予感がプンプンするぞ〜)
 先生がこのままウジウジしてたら、横から野生の狼に持ってかれちゃうぞ。
 晴海先生ってば、まだアクションを起こす気配が全然ないんだもん。俺がどんなに急かしても、
「うん、それはこれから少しずつね」
 とかなんとか言っちゃって、行動する気配がまったくないんだ。
 だけど『これからだんだん』なんてやってたら、兄貴がどっかの誰かに強姦されるのは目に見えている。そう、近いうちにかならず襲われちゃうんじゃないかな!(俺のカンはよく当たるんだ)
「……やっぱり俺が早いとこ手ぇ打たないとまずいかな〜?」
 俺は進行方向をくるっと反転させると、そのまま兄貴と慶太のクラスに向かうことにした。
 晴海先生に助言しに行く前に、普通の生活してて兄貴がどれだけフェロモンふりまいてるのか、もう一度ちゃんと確認しとかなきゃな。

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

「おーい、兄貴ぃ〜!」
 授業が終わって部活に行こうとしていると、突然デカい声をかけられて、俺は思わず肩をびくつかせた。
 恐る恐る振り返ると、そこには双児の弟の直樹がいて──俺は内心『げっ』と思ったんだった。
 ほら、よくあるだろ? 同じ学校に通う兄弟に会ったときに気まずいような気持ちになることって。妙に恥ずかしくて学校じゃあまり話したくなくて、できれば周りにも自分達が兄弟だってことで騒いでほしくない……みたいな感じ(すごい仲のいい兄弟だったらそんなことないのかもしれないけど)。
 しかも、同学年に兄弟がいるってことがどれだけ恥ずかしいかは、普通の場合と比べられないと思う。──教室が少ししか離れてないから廊下ですれ違う回数が多かったり、学年全体の行事でも顔を合わせたり、ヘタすれば他のクラスとの合同授業で一緒になっちゃったり……最悪だ。
 たぶん直樹もそう思ってるから、極力俺に会わなくてすむようにしてるんだろうけど──俺の見てないところで慶太とは会ってるみたいだけどな──ときどきこうして俺の所にくる。
 ……はっきり言って、嫌な予感を引き連れて。
「──直樹?」
 直樹の声に反応したのか、俺よりも先に慶太が直樹に駆け寄る。……ったく、マメな男だな慶太も。だから直樹にこき使われるんだよ。
「あ、慶太。ちょっと待っててよ、俺兄貴と話あるから」
 そんな慶太をしらっとあしらうと、直樹は俺の前まで小走りでやってきて、
「なぁ兄貴、今日って部活ある?」
 俺の様子を窺うようにそんなことを聞いてきた。
(なんだ……俺の帰宅時間チェックか)
 内心何を言われるのかどきどきしていたから、直樹らしすぎる言葉にがっくりと肩が落ちる。
 ホントにもう……いつも登校する前に家で聞いてくることを、わざわざ学校でも聞いてくるなよな。
「あるよ。あるからお前らは早く帰って家でいちゃいちゃしろよ」
 だから俺が帰る頃にはそういうことはしてるなよ、とげんなりしながら言外に込めてみたけど、
「わかってるって。兄貴が帰ってくるときには、俺たち風呂に入ってるからさ」
 と、まるで見当違いなことを言ったのだった。だから、『風呂に入ってる』んじゃなくて『やることやって慶太を帰しとけ』ってことだって!!(我が弟ながらバカな奴だ!)
 だけど俺が、直樹の認識違いをはっきり正してやろうとしたら、
「……っと。そんなことは別にいいんだよ」
 なんてあっさり話を変えやがって(こいつ本当に俺の弟か!?)。
「ねぇ、兄貴」
「なんだよ」
 不機嫌さ丸出しで返事をしたものの、それすらまったく気にしていないらしい直樹は俺の目をじっと見て。
 やがて、俺の嫌いなニヤけた顔で、またしてもワケのわからないことを聞いてきた。
「晴海先生に、何か言われたりやられたりした?」
「──は?」
「だーかーら、最近晴海先生から何かされなかった? こう、『ガバッ』とか『ぎゅっ』とか、『チュ〜v』とかさ」
「…………???」
 直樹は『がば』やら『ぎゅう』やら『ちゅー』やらを、身体をくねくねとくねらせながら言って。
「ねぇ、どうなの?」
 それから問い詰めるような勢いでにじり寄ってくる直樹に、俺は思わず後ずさりした。こ、こいつ何言ってるんだ? 気持ち悪い動きまでして。
「直樹っっ!」
 そのとき、慶太が慌てたような様子(ちょっと顔が引きつってたみたいだった)で俺たちの間に割って入ってきて、
「早く帰ろうぜっ、なっ? じゃあな、和樹。部活頑張れよ!」
「ちょっと、なにすんだよ慶太!」
「いいから来いって!」
 不満たっぷりといった感じの膨れっ面をしてみせた直樹に、いつもだったら「ご、ごめん」と言って用が済むまで端で待っているはずの慶太が、今日に限っては強気な態度を取った。
 なんと、直樹の腕を掴んだかと思うと、その身体を引きずるようにして教室から出て行ったのだ。
 ……でもその様子は、どこか俺から逃げるような感じに見えたんだけど。
「なんだよ、あいつら……」
 俺はそんな二人を、ただぽかんと口を開けたまま見送ることしかできなかった。
 なんなんだ、あいつら? 直樹は意味不明なことを聞いてくるし(しかも奇妙な動きつき)、慶太はまるで『余計なことを言うな』って感じで直樹を連れてくし……。
 しかも直樹のやつ、晴美先生がどうとか言ってたな。もしかして、また何かおかしなことを考えてるんじゃないだろうな……?
「────あっ!」
 晴美先生のことを考えた瞬間、のんびりしている場合じゃなかったと時計を見て、慌てて教室を飛び出した。今日こそ自分の作品を少しでも完成させないと(いつも先生の絵ばかり気になって、自分のやつがあまり進んでないんだ)。
 今日も部活のあと、先生の絵のモデルをするんだ……もうすっかり習慣みたいになってるけど、やっぱり考えただけでドキドキするな。

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

TOP 続く