誘い受け・変態たちのホワイトデー・1



 毎年思うことだが、2月14日と3月14日ほど必要のない日はないと思う。
 いや、その日自体は当然あっても構わない。その日に割り当てられているイベントがいらないという意味だ。
 何が嬉しくて強制的に甘いものを貰わなければいけないのか。そしてなぜその嬉しくもない貰い物にお返しをしなければならないのか(この場合『お返しをしない』という選択肢はない。しなかったが最後、社内で「橘部長はケチ」というレッテルを貼られることになるのだ)。
「はー……」
 仕事帰りにデパートに寄り、必要数の菓子折りを買い込んだ俺は荷物の重さに辟易しながら家路に着いた。明日社内でこれを配らなければならないことを考えるとさらに憂鬱になる。
 しかも、憂鬱の種はそれだけではない。
『橘さん、ホワイトデー楽しみにしてますから!』
「はぁぁぁ……」
 底抜けに明るい顔でそんなことを言った男の顔を思い出し、俺の口はそれまでよりさらに大きな溜息を洩らした。
 宮森修一。なんだかんだと俺にまとわりつき、いつの間にか俺の家にも普通に出入りするようになっている同じ会社の別部署の男。
 元妻以外の人間だと最長の付き合いとなるその男の、イベントに対する執着心は恐ろしいものがある。
 誕生日、クリスマス、バレンタイン、果てはハロウィンまで……どうしてそこまでするのかと思うほどに張り切って用意をし、恐ろしいほどの盛り上がり方で当日を過ごすのだ。付き合わされるほうはたまったものではない。
 そう思いつつもあいつに付き合ってしまう俺は、いつの間にかあのアホに毒されてるってことなのか……。

 家に着き、手に持っていた荷物を放り出すとすぐに喉を潤すために冷蔵庫に近づく。
 中に入っているのはビールにすぐ食べられるようなつまみ程度だ。それから、以前は入っていなかった甘い酒の缶。
 それを見た瞬間能天気なアホ面が脳裏に浮かび、俺の口はまた大きな溜息をついていた。
「あいつには何を買ってやればいいんだ……?」 
 デパートで散々考え抜いたものの、結局あいつにやるものは何も買ってきていなかった。
 あの野郎のことだ、どうせ会社でばら撒くお返しと同じ物を与えても喜ばないだろう。いいや、喜ばないどころかきっと怒るに決まってる。『社内でばら撒くのと同じ物を買ってくるなんて、愛がない!』とかなんとか言ってな(こういう想像だけは嫌というほどできる)。
 ちなみに去年のホワイトデーは何も返さなかったんだが、そのせいか今年は随分早い段階から話の折々にホワイトデーの話題を持ち掛けてきて本当にうんざりした。男のくせにイベントに執着するとは──しかも女が盛り上がるイベントで──どうしようもない野郎だ。
 しかしそうは思っても、今年は何もしないで終わらせるわけにはいかない。奴を相手にその選択をするのがどれだけ危険なことか……残念ながら俺はよく知っていた(付き合いが長くなってくれば嫌でも思い知らされるってことだ)。
(食いもんだと文句言いそうだよな。けどあんま金掛けたくねーし……どうしたもんか)
「めんどくせーなぁ……あいつがくれたTバックでも返せばいいか。──いや、あれは貰った直後のあれこれで薄汚れたから捨てたんだっけか?(もちろんあいつには言ってないが)」
 ……よく覚えていないが、使えるものはなさそうだ。
「はー……」
 なんで俺があいつ如きのためにこんなに考えなければならないんだ? ……そうだよ、別にそこまでしてやる必要なんかねぇよな。
「明日コンビニで適当に買ってくりゃいいか」
 1番無難といえば無難な結論に落ち着き、俺は夕飯を食うためにデパートの地下で買ってきた惣菜をテーブルに並べたのだった(やもめオヤジの夕飯ほど侘しいものはない)。


 翌日。いつもより30分早く出勤した俺は、急いで社内を回り買ってきたバレンタインのお返しを配り歩いた。
 毎年似たような品を持ってくる俺を『芸がない男』だと思っている女性社員も少なくないはずだ。だが、他の連中も似たようなものなんだから気にすることはないだろう(いちいち女性社員のご機嫌取りをする必要もないしな)。
 一回りして形だけのお礼を配り終えた頃には就業時間が迫っており、俺は面倒な用事から解放された清々しさと共に自室へと引き上げることにした。くそ、軽く一服したかったのにそんな時間もねぇ。
 同じフロアの別部屋の社員と通りすがりに挨拶しながら部屋へ向かうと、俺のデスクがある部屋の出入り口付近に見慣れた姿が立っているのが目に入る。
(やっぱり来てたか……)
 それはなんとなく予想していたものだったため激しく驚くことはなかったが、1番面倒なことが残っていたことを思い出させられて思わずデカい溜息をついた。
 その溜息に気づいたわけじゃないだろうが、そいつは俺が近づいていることを察したのか唐突にこちらへと振り返り、顔に人好きのする笑みを浮かべながら小走りで近づいてきた。……どうでもいいがあと数分で仕事が始まるぞ? 上司に怒られるんじゃないのか?
「おはようございます、橘さんっ!」
「ああ……おはよう」
「朝からいい天気ですね! 橘さんも調子良さそうですしっ!」
「…………ああ、ああ、そうだな」
 朝っぱらから何をわけのわからないことを言っているのか。だが他の奴の目もある所でどやしつけるわけにもいかず、適当な相槌を打つに留まった。これがどちらかの家での会話なら、間違いなく俺はこいつを罵っているだろう。
 俺の内心の憤りなどまったく気づいていないらしい宮森は、それまでよりさらにつつっと身体を寄せてきて軽く潜めた声で言った。
「今日、泊まりにいってもいいですか?」
「──あ?」
「橘さん、残業だったら俺に連絡くださいね。鍵預かりますからっ」
 ガキのような無邪気な笑顔でそう言うと、人気のなくなった廊下に気づき「それじゃまた!」と言い捨てて慌てて走り去っていった。──手に持っていた2つの紙袋をガサガサと鳴らしながら。
 あの紙袋、1つは俺と同じようにホワイトデーのお返しを持ってきたものだろう。だがもう1つは……奴曰く『お泊り道具一式』が入っているに違いない。あの袋には見覚えがあるしな。
「……ったく」
 明日も普通に出勤日だっつーのに、ホワイトデーだからって泊まりに来るなよな……っと、そういえばあいつへのお返しはまだ買ってなかったな。
「こうなりゃ本気でコンビニだな」
(こういったプレゼントなんて、形よりなにより気持ちがこもってると思わせることが大事なんだしな、うん)
 そう思い至ったところで頭の中がリセットされ、とりあえずホワイトデーのことは頭の中から削除した。
 年中エロいことを考えているあいつのことなんかでいつまでも悩んでいられない。仕事は仕事、きっちりやらないとな。


 その日の仕事は勤務時間内に終わったが、あいつと一緒にコンビニに立ち寄るわけにもいかないだろうと、俺は携帯でトイレに呼び出したあいつに家の鍵を預け先に帰らせた。
 いつぞやと同じようにウキウキと帰っていく宮森を見送り、会社近くのコンビニに立ち寄って1番安いホワイトデー用の商品を買ってから家に向かう。途中、買ったばかりのそれをコンビニの袋から鞄に移すのを忘れずに。
 これを見たときあいつはいったいなんて言うんだろうか。……何を言われてもシラを切るが。
「ただいまー」
「おっかえっりなさーいっっ!!」
 軽くチャイムを鳴らしてドアをくぐると、部屋の奥からバカデカい声が聞こえてくる。その声に思わず溜息を洩らしながらも一度に向かうと、台所からパタパタとスリッパの音が近づいてきた。
「おかえりなさい、橘さんっ」
「ああ」
「夕飯もうすぐできますけど、先にお風呂入ってきますか?」
「あー……そうするかな」
「じゃあ、すぐに食べれるように準備しておきますね!」
 何がそんなに楽しいのか、ウキウキしながら手に持ったままだったお玉を振り回しながら台所に戻っていく宮森。俺はその姿を見届けると、一日の疲れを癒すべくシャワーを浴びるため風呂に向かった。……風呂から上がれば新たな疲れを感じるのは必至だが。

 いつものようにさっとシャワーを浴びただけで上がると、台所のテーブルはすでに夕飯の用意が完了していた。
「相変わらず早かったですねー上がるの」
「ビール」
「あ、はいはい」
 宮森の言葉を聞き流しながら席に座ると、最後の皿をテーブルに並べ終えた宮森が冷蔵庫に向かいビールを出してくる。
 最近はこんなふうにあいつに頼むことが増えているんだが……あまりいい傾向とはいえないよな(自覚してるんだが、やっぱり楽なんだよ……)。
「さ、食べましょ!」
「ああ。……って」
 缶ビールを手渡され、向かいの席に宮森が座るのを見届けてからテーブルに目を移し──何か様子がおかしいことに気づく。
「なんか……白くねぇか?」
 いつも目にする夕飯に比べると、テーブルの上が全体的に白く見える。皿がってことじゃなく、料理一つ一つがだ。
 ホワイトシチューにポテトサラダ、白身魚のムニエルに……飯は当然白米だ(俺はおかずが何であっても夕飯は白米と決めてるんだ)。
(まさか、今日がホワイトデーだからとか言うのか?)
 いやまさかそんなはずはと思いたいところだが、こいつだったらやりかない。そう思っていると、
「今日はホワイトデーですから、ちょっと遊んでみたんです。これだけ白いものを並べると面白いでしょう?」
 俺の考えがまさしく大正解だと告げるようにニコニコ笑いながら宮森は言った。……やっぱこいつはアホだ。
「さあ食べましょう」
 何が楽しいのかウキウキと声を弾ませて箸を取ったアホを放置し、俺はビールに口をつけた。──が、次の瞬間せっかく口に入れたビールを吹き出してしまった。
「橘さん、俺へのお返しはなんですか?」
「ぶ────っっ!!」
「わっ、どうしたんですかっ!?」
「げほっ、げほっ! ど、どうしたって……っ」
(いきなり直球で聞いてくんじゃねーよ!)
 まさかこんなふうに聞いてくるとは不意打ちだった。いつものこいつは、プレゼントがあるってわかってても自分から聞いてくることなんかなかったから思いっきり油断していた。
 俺はわざとらしいまでに咳を繰り返し(喉の違和感を和らげたかったからでもあるが)、目の前の人物から視線を逸らしながらくぐもったような声で言った。
「……飯食ってからでいいだろ」
「はーいっ」
 そんな俺の言葉にやけに物分りのいい返事をすると、それからは他愛のない話を延々とし始める。……宮森のその様子になんとなくほっとして、俺も奇妙なほど白い夕飯を食い始めたのだった(白いってだけで、味はまったく問題なかったがな)。

 夕飯後はいつものように居間に移動し、テレビを見ながら食後の一杯を楽しもうと再びビールを飲んだ。一緒に寛ぎたがった宮森は「先に風呂に入って来い」と追い払い、たった数十分ではあったが1人の時間を堪能する。
 宮森がこの家に来るのは大概週末だけだ(次の日が祝日のときも当然のように来るが)。だが日数にしたら大したことはないはずなのに、1人のときもこの家でのんびり過ごす時間が極端に少なく感じられるのは気のせいではないだろう(あいつが来たときの疲れが残ってるってことかもしれない。……俺もそれなりに年だからな)。
 そんな貴重な時間をビールと煙草で満喫していると、風呂場のほうからガタンガタンという音が聞こえてきて思わず溜息をついていた。長風呂なあいつにしてはいつもより随分早く上がった気がするが──これも心待ちにしている物のためなのだろう。
「はー、気持ち良かったぁ!」
 タオルでがっしがっしと髪の水分を拭いながら居間に入ってきた宮森は、だがその視線だけは何かを探すようにキョロキョロと部屋の中に忙しなく動かしていた。
 そしてテーブルに放り投げておいた包みを目聡く見つけ、俺の隣に座りながらも早速それを手にとる。
「橘さん、これ俺へのホワイトデーのお返しですか?」
「……ああ」
「えっ、ホントですかっ? じゃあ開けていいですかっ?」
 聞かなくてもわかっていただろうことをわざわざ確認し、さらにわざとらしく驚いたフリを装い聞いてくる。キラキラと光らせた目が子供のそれほど純粋には見えず、俺は投げやりに頷いた。
 俺の声を聞くと宮森は素早く手を動かし、包装紙を破らず綺麗に剥がして中の箱を取り出した。そしてゆっくり箱を開き、中に詰まっていたものを1粒口に運んだ。
「う〜ん、おいしいですvvv」
 口の中でゆっくり溶けているのだろうそれに満足したように笑み、続けざまにもう1つ口に放り込む。
「橘さんも1ついかがですか?」
「いや、いい」
「そうですか。そうですよね、これすっごく甘いし」
 俺の返事に納得したらしい宮森がさらにポンポンと口に入れていくそれは、ショコラとかなんとかいうやつだった(箱に書いてある商品名を見ただけじゃよくわからなかったが、どうやらチョコみたいだな)。甘い物が好きなこいつにはぴったりだったようだ。
「……橘さん」
 だが宮森は、ひとしきりチョコを楽しむとすべてを食べ尽くす前に唐突に指の動きを止める。
「あー?」
 そして、それまでの楽しげな様子から一変した空気には気づかないフリでしらばっくれようとした俺の顔を覗き込んでくる。
「プレゼント……これで終わりですか?」
「…………」
 そう聞いてくるということは、つまり不満を感じてるってことだろう。まぁ当然かもしれないな……バレンタインのときは相当力を入れていたようだから。
 予想通りといえばその通りの反応に、まぁ待てと宮森を制す。
 特に策があったわけじゃないが、さっきの夕飯を見ていて思いついたことがあった。……この方法こそこいつが喜ぶものだろう。
「まぁ、これを飲め」
 俺は持っていた缶ビールを宮森に手渡し、手を添えて缶の飲み口を宮森の唇に押し当てた。そのまま缶を傾け、驚いた顔の宮森の中にビールを流し込んでいった。
「ん、んんっ」
 ゴクッゴクッと音を立てて喉に落ちていくビール。飲み慣れないビールの味に顔をしかめている姿はなかなか見ていて楽しい。
「た、橘さん……?」
 ようやく缶を離してやると、戸惑ったように俺を見上げてくる顔がある。
 その唇の端を流れていた泡立った液体を舐めとってやりながら、俺は自分でも鳥肌を感じずに入られない台詞を吐いていた。
「本当のホワイトデーはこれからだぞ……」


不安な続きへ


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