ザ・オヤジ受7-1



 夕飯の準備をしていると、『ガラガラ』と音がして玄関のドアが開いた。
「ああ、もうそんな時間か」
 本を読みながら悠長に煮物の番をしていた私はその音に慌て、棚の上にしまっておいたガスコンロを出すために椅子を動かした。
 スリッパを履かない足音は私のいる台所に真っ直ぐ向かってきて、椅子に乗ったままの姿をさらすのは恥ずかしいと思い焦って手を伸ばしたものの、バランス感覚のない身体を椅子の上で安定させるのが精一杯で、
「ただいま…………なにやってんだ?」
 台所に入ってきた瞬間目を丸くした彼に、引き攣った笑いでその場を繕うことしかできなかった。
「お、おかえりっ。その、ちょっとガスコンロを……」
「……ああ、今日は鍋か」
 ガス台に乗っていた鍋を見た彼は私の言いたいことを素早く察知してくれたらしく、私が乗っていた椅子の背を掴むと、
「椅子下りろよ。俺が取る」
 と、ぶっきらぼうにも聞こえる声でそう言って。
「ご、ごめん。じゃあ……お願いするよ」
 この程度のことでも人の手を借りなければならないのは恥ずかしくも思ったが、ここで意地を張っても笑われるだけだとわかっていたため、素直に椅子を下りて任せることにした。
 彼は私が乗っていた椅子を脇に退かすと太い腕を真っ直ぐに伸ばし、私が容易に取れなかったガスコンロをすんなり掴むと下ろしてくれる。
「ありがとう」
 そしてすぐに受け取ろうとして手を伸ばすと、
「居間に持ってけばいいんだろ?」
 端的にそんな言葉を残し、さっさと台所を出て行ってしまった。
 彼のことをよく知らない人にしてみれば、彼は怒っているのではないかと思われてしまうかもしれない。けれど、あれが彼の素なのだと知っている私は、以前のように彼の顔色を窺うこともなく夕飯の準備に戻ったのだった。


 彼と知り合ってすでに半年。
 彼はすっかりこの家に馴染み、かなり頻繁にこの家に来るようになっていた。
 もちろん仕事が終わってから来たときは自分の家に帰ることなどなく、次の日も仕事のときはこの家から出勤していく。……つまり、気がつけば彼はこの家で生活しているような状態だった。
 最初のうちは(なぜ毎日のように来るんだろう)と思っていた私も、今では彼がこの家に来るのが当たり前のように感じていて……以前よりもずっと時間をかけて食事の準備をするようになっている(彼は働き盛りで食欲も旺盛だし、私が作ったものを残さずに食べてくれるため作り甲斐を感じているのかもしれない)。
 なにより、ずっと一人だった食事の時間を他人と共有できることが嬉しくて──いつしか私も彼がこの家に来るのを心待ちにするようになっているのかもしれなかった。
「おい、鍋はもう持っていっていいのか?」
「あ、うん。お願いできるかい?」
「ああ」
「熱いから気をつけて」
 再び台所に戻ってきた彼はその後も夕飯の準備を手伝ってくれて、十数分後私たちは居間で出来たての料理を囲んでいたのだった。

 ここのところ急激に冷え込んできたこともあり、数年ぶりに我が家で作った鍋はことのほか美味しく感じられた。
 特に久しぶりに作った肉団子は彼の口にも合ったらしく、大量に作ったタネをすべて平らげてくれて。いっそ清々しいほどの食べ方に、見ている私のほうが満腹感を感じるほどだった。
 やがて彼はテーブルの上の料理をすべて綺麗に食べ終え、満足したように小さく笑ってくれた。
「ごっそさん。美味かったぜ」
「そう、よかった」
 その顔を見るとなぜか嬉しくなってきて、私の顔にも笑みが浮かんでくる。彼にこう言ってもらえるたび、年の離れた彼にも私の料理を気に入ってもらえたのだと自信のようなものが芽生える気がするのだ(……本当に自己満足でしかないが)。
「今度は何鍋がいいかな? チゲ鍋とか、身体が温かくなるもののほうがいいかな?」
 年甲斐もなく胸が浮き立つような気分に調子に乗って聞いてみると、彼は私の言葉に明らかに驚いたように眉を上げ、逆に聞き返してきた。
「あんたチゲ鍋なんか好きなのか?」
「え? い、いや、私は……食べたことないけど」
 そんなふうに聞き返されると思っていなかったため、必要以上にうろたえた声になってしまう。
 それは私が若い頃には名前すら聞いたことがないものだったが、今日たまたま見ていたニュース番組で最近若い人の間で流行っているのだと聞いて、もしかしたら彼も好きなのではないかと思い尋ねてみたのだ(実は今日鍋にしたのも、その番組を見たからだった)。
 すると彼は私の答えに『やっぱりな』と言いたげな顔で小さく笑うと、
「俺はなんでもいいって。あんたの好きな鍋を作ってくれよ」
 私の浅はかな知識を一蹴して、そんなふうに言ってくれた(本当に恥ずかしい……)。
 それから少し鍋の話をして、今度は蟹鍋を作ろうということで鍋の話は終わり、彼は風呂へ向かって私は夕飯の片付けをしに台所へ向かった。
 北向きの台所は他の部屋よりも冷え、食器を洗う手は夏場よりも自然と素早く動く。翌朝の朝食の準備は夕方のうちに済ませておいたため、必要最小限の用事を終わらせると私はすぐに居間に戻った。
 電源を付けっ放しにしておいたこたつに潜り込み、下半身を包む暖かさにほっとする。
「もうそろそろストーブも出したほうがいいか……」
 夜になると急激に冷え込むようになった気がするし、この寒さを凌ぐにはもうこたつだけでは無理かもしれない。彼は私より寒さに強いようだが、それでもやはり寒いと感じているかもしれないな。
「……待てよ?」
 ──いや。もしかしたら彼は外から帰ってくるのだから、私以上に身体が冷えていて……実は帰ってきたときにも「寒い」と思っているのかもしれない。
「……明日には出そう」
 そこまで思い至らなかった自分を情けなく思いつつ、しかし押入れに入れたままほこりをかぶっているだろうストーブをすぐに出す気にはなれず(……寒さに負けて)、明日の日中には用意をしようと考えながらぼんやりとテレビを見つめた。
 彼が見ていた番組は私にはよくわからず、見ているうちに眠気が襲ってくる。
(今日は特別寒かったし、彼もいつもより時間をかけて湯船に浸かってくるかもしれないな……)
 そんなことを考えるとさらに眠気が強くなった気がして──
「少しだけ……」
 気づくと私は両腕をこたつ机に乗せて、そこに頭を乗せて眠ってしまっていた。


「おい。……おい」
 どこか遠くから声がして、はっと目が覚めた気がした。
「なんつー格好で寝てんだよ」
 さらに頭上から声が降ってきて、自分がこたつ机に身体を預けて寝ていたのだと気づき、がばっと頭を起こした。
「あ……?」
 その途端口から間の抜けた声が洩れ、思わず口元に手を伸ばす。すると唇の端に湿った感触を感じ、慌てて手の甲で拭った。
 いい年をした男がうたた寝で涎を垂らすなんて……恥ずかしい!
「こんなところで寝てると風邪引くぞ」
 幸いにも彼はそれには気づかなかったようで、私の顔に手を伸ばしてくると鼻を摘んできた。
「鼻の頭が冷たいぜ。身体が冷えてるんじゃないか?」
「ふぇ?」
「手も冷え切ってる。ったく、冷え性なら少しは考えろよ」
 さらにもう片方の手でテーブルの上に置いたままになっていた左手を掴まれ、鼓動が急激に早くなる。
「こたつに入ってるからって油断しすぎなんだよあんたは。家の中でも厚着なくらいでいろよ」
「う、うん……すまない」
「ほら、早く風呂入ってあったまってこいよ」
「ああ……」
 鋭い視線(睨むというほどのものではなかったが)で見つめられ、私は気まずさを感じてそそくさとこたつから這い出すと一目散に風呂場に向かったのだった。

 私は極度の冷え性である。若い頃からその兆候はあったが、年を取るにつれて症状がどんどん重くなっている。
 元々血行がいいほうではないのもあり、これくらいの時期になると手足の冷えが顕著に現れるようになるのだ。特に寝ているときの冷え方は尋常ではなく、起きたときにふくらはぎが肉離れしたような状態になっていることもある。
 そしてそのことを以前彼に話したことがあったのだが、どうやら彼は私の話をちゃんと覚えていたらしい。
 ……しかし、さっきの彼の態度……風邪を引いたときにも思ったけれど、本当に彼は面倒見のいい性格をしているんだな。
「──あつっ」
 手早く服を脱いで湯気の残る風呂場に入り、寒さから逃れるように身体に湯をかける。すると、冷え切った身体には適温であるはずの湯も熱く感じられ、思わず身体が震え上がってしまう。
(これは相当冷えていたのかもしれないな……)
 自分ではそんな気などしていなかったが、彼の言う通り私の身体は芯から冷え切っていたらしい。特に熱く感じる手足の先に何度も湯をかけ、それからようやく浴槽に浸かった。
「はぁ……」
 じわじわと浸透していく熱が気持ちよくて、全身から力が抜けた途端に吐息が洩れてしまう。こんなところを彼に見られたらそれこそ『おやじくさい』と言われてしまいそうだ(実際親父なのだから仕方ないが……)。
 そうして人心地つくと、今年も寒い季節になってしまったなと改めて思ったのだった。
「もう冬か。今年も1年早かったな」
 例年口にする言葉を呟いたものの、この1年にあったことを回想して今年はそうでもなかったなと考え直す。
「今年は……いろいろあったな」
 彼と衝撃的な(思い出すのも恥ずかしいような)出会いをし、そしてこうして共に過ごすようになって。まさか自分が再びこんな感情を持つことになるとは思いもしなかった。……しかも自分の息子よりも年下の、同性の青年に。
 だが今の私には当初感じていた戸惑いなどまったくなくて。むしろ日々心が満たされていくような、ささいな幸せを手に入れたような気持ちに喜びさえ感じていて……。
「来年もいい年になるといいな……」
 来年も、再来年も、その先もずっと──この幸福感を持ち続けることができればいいなと思いながら、浴槽にゆったりと身体を預けたのだった。


 風呂を出ると手早く身体を拭き、夏場に比べると何枚か多い肌着を身に着けて最後に靴下を履いた。
 今は全身ポカポカしているが、一時間もしないうちにこの熱はどこかへいってしまう。熱を逃しやすい自分の身体が本当に恨めしいほどだ。
 最後に寛人がくれた半纏を着て居間へ行くと、テレビを見ていた彼がゆっくり私を振り返った。
「ちゃんとあったまったか?」
「え? う、うん」
「……何度見てもすげーな、ソレ」
「あ、ああ、これ? ……恥ずかしいけど、でも1番暖かいから……」
 少し前に息子の寛人が誕生日プレゼントにと買ってきてくれた半纏は、若者の彼にはみっともなく映っているに違いない。けれど寒さを凌ぐには最適で、貰ったその日から私は毎日のようにこれを着ている。
「あんたに似合ってるよ。別に恥ずかしがるこたねぇさ」
 彼は私が気にしているほどその半纏をバカにしているわけではないらしく、そうわかって内心ほっとする。半纏というものを着たのはこれが初めてだったが、今では私の生活に必要不可欠なものとなりつつあるため、彼に否定されてしまったら本当に困ることになると思ったのだ。
 彼が座っている向かい側に座り、こたつに足を入れる。すると彼はチラリと私を見て、
「もう寝るか?」
 と聞いてきた。
 確かに風呂上りですぐに布団に潜り込めば身体も暖かいまま眠れるはずだ。だが、時間はまだ22時を少し回ったところだ。
「いや……少し喉が渇いたからお茶が飲みたいかな」
「そうか」
 彼の言葉に答えながら急須に手を伸ばすと、彼も再び視線をテレビに戻す。そんな彼の横顔を視線の中に収めながら、私の唇は自然と笑みを浮かべていた。
 今の彼の発言が私の身体を気遣ってのことだというのは明らかだ。彼にそこまで気を遣わせてしまう自分が情けなかったが、同時に彼の優しさが嬉しくもあって……不謹慎にも込み上げてくるものが抑えられなかったのだ。
 それから私たちはいつものように会話もほとんどないまま時間を過ごし、日付が変わるくらいの時間になってから寝室に入ったのだった。


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