毛原の年中行事
やまぞえ双書 年中行事平成五年、山添村発刊の『やまぞえ双書1 年中行事』 から
毛原の行事に関する部分を抜粋させていただきました。

◎山の神
◎修正会(おこない)
◎どんど
◎涅槃講会式
◎神武さん
◎地蔵会式(万灯会)
◎長久寺 御影供については長久寺のページをご覧ください。

平成5年11月1日発行
やまぞえ双書 1_年中行事
編集者 山添村年中行事編集委員会
山添村教育委員会
発行者 山添村長_久保 光之助
印刷所 第一法規出版株式会社

山の神

一月七日の早朝、家々の男たちはカギ引き用の長い「空木(うつぎ)」と藁の福俵、そして小判型の餅を、それぞれ一家の男の数と倉立て用の材料を持って、山の神へと急ぐ。
毛原には東と西の二か所に山の神が祀ってあり、竹又はヒノキの枝に福俵を添えてカギを掛け、その下の地面に倉立てをする。
倉立てが終わると餅を削って供え、カギを引きながら「東ノ国ノ…」と唱え、財宝を引き寄せる所作(しょさ)をして参拝が終わる。そして付近のカシの枝を切り、福俵の半分と一緒に持ち帰って土蔵の入り口に納める。
この日、婦女子は弁財天に参って、女の幸せと家運の繁栄を祈る。

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修正会 (おこない)

修正会のことを別名「おこない」という。毛原長久寺では住職が本尊地蔵菩薩を中心に、脇座の不動明王像並びに弘法大師像に対して、檀家(だんか)の無病息災(むびょうそくさい)と五穀豊穣(ごこくほうじょう)祈願の法会を厳修する年始めの勤行(ごんぎょう)である。

もともとこの修正会は、一月一日から三日にかけて行われるもので、僧侶が仏戒(ぶっかい)を修め、勤行することから「おこない」といわれたようである。そして、修法(しゅほう)の眼目(がんもく)は前述のとおり農作物の豊穣を仏に祈祷(きとう)し、「午玉宝印(ごおうほういん)長久寺」朱印の護符(ごふ)を檀家に授けるもので、当長久寺では昔から一月十日となっている。

当日の午後二時前になると、檀家の者は前もって準備しておいた長さ1メートルほどのヤマウルシの先を、三つ又に割ったいわゆる「ゴオウズエ」を持って本堂に参り、厄除けの護符をこれにはさんで祭壇に供え、祈祷を受けるのである。なお、この行事は祈祷となっているので、喪中にある者は参拝をひかえることにしている。
「ゴオウズエ」に「ソミンノ_シソンンナリ」とか「ソウミンノ_シソンナリ」といった呪文をしたためた紙片を、添えてあるのを時折見受けるが、この風習はおそらく「備後国土記」に出てくる「蘇民将来ノ子孫ナリ」の神話伝説によるものと思われる。

さて、僧侶の法要が始まってから一時間ばかりたったころ「ランジョウ」と、ひときわ声高いお唱えがあると、檀家の代表(大字の月当番二人)が、堂の縁側につるされてある半鐘(はんしょう)を、僧侶の打ち振る鈴に合わせて強く連打する。この勤作は法要の中途で二回われるが、鳴り出した鐘の合図で檀家の家々では、急いで座敷の障子を開け放し、ホウキを持って悪魔を掃き出す仕草をすることにしている。
また、昔はこの時、参拝者一同がヤマウルシを持って堂の縁板を激しくたたき、半鐘の乱打と相まって異様な騒音が、静かな寒村の隅々まで響き渡ったのである。しかし、この堂たたきの行事は、昭和三十五(一九六〇)本堂の改築を機に廃止となった。

ところで、僧侶が声高に唱える「ランジョウ」もしくは「ライジョウ」の語源は「乱声」または「雷声」ではなかろうかと考えられる。前者は入り乱れる叫び声、つまり鬨(とき)の声の意味で、悪魔を退散させることのようである。また、後者は雷鳴で、干天が続く夏季に雷鳴によって慈雨を呼び、田をうるおして稲の生育を助ける働きをするもので、これは稲妻の多い年は豊作だという日本古代人の信仰から生まれたものと推測される。

このようやくにして法事が済み、僧侶によって長久寺の朱印を額に押してもらうと、年中無病息災で暮らせるというありがたいご利益があるとのことで、参拝者はもちろん、村の子どもたちも急いで学校から帰り、大勢お参りして朱印を押してもらったのである。今ではこうしたありがたい風習も忘れ去られようとしている。
このように異様で、しかも緊張に満ちた行事がすべて終わると、お下(さが)りをいただくことになるが、参拝者一同はこの時ようやく平常心に戻るのである。

そして、雑談の後は各自が「ゴオウサン」をいただき、家に帰って仏壇に供えておく。四月になって苗代作りが始まるころ、これを苗代の畦に立て、ツバキ(椿)の花やスギ(杉)の小枝、そして炒り米を添えて苗の生育を祈るいわゆる「水口祭り」をする。

「長久寺 修正会」を参照

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どんど

当大字の左義長(どんど)は、毎年小正月にあたる一月十五日の早朝、子どもたちが主体となって行われている伝統的な行事である。そして、山の神の場合と同じょうに、昔から二か所に分かれており、西部にあたる十数戸は笠間川にかかる奥出橋近くの田で、その他は同じ川筋にある「ジンデ」と呼ぶ河川敷で行われている。

※どんど立て

どんど立ては、むろん小中学校に在学している者の手によって行われ、その主役は数え年一七歳の男子がなる。
どんど立てのすべてはこの主役によって段取りすることになっているが、なにぶんにもみんなが在学中のことなので、当日までの休日を二日間ほど利用して、家々の注連縄(しめなわ)や門松、それに、各神社の〆飾りや山の神の竹など、前記の場所へ集める。そして、この材料集めは主に男の子の役目で、女の子は注連縄をつなぐなどの軽い作業をする。

さて、どんど立ての要領は、最初に10メートルほどもある長い竹を心棒竹として立てることになるが、この竹は前年度に生まれた男の子の家から寄進してもらったものを使う。もし該当する子どもがいない場合は、主役の家から寄進する習わしとなっている。そして、まず、その竹の先には恵比寿(えびす)・大黒(だいこく)様の神棚飾りに作った藁(わら)のタイ(鯛)を取り付ける。
また、この心棒竹は炎上する時、その年の干支(えと)で示している明きの方位へ倒れるように仕組んでおく。

心棒竹を立て終わると、その周辺に寄せ集められた〆飾りや門松などを、直径三〜四bぐらいの大きさに囲い、高々と積み重ねて周囲を〆縄でしばる。
できあがったその姿は、一見して小屋が建ったと勘違いするぐらいの見事さである。それを見上げる幼い子どもたちにとっては大きな驚きであり、どんど焼きの朝を夢見ながら夕暮れの家路を急ぐのである。

※点火と風習

点火は十五日(成人の日)の午前五時ごろ、主役によって行う定めとなっていて、その他の者はいっさい許されない。夜の明けやらぬ闇の中、子どもたちの歓声とともに、寒空は一気に燃え上がる紅蓮(ぐれん)の炎で焼け尽くさんばかり、その壮観さは実にたとえようがない。火の粉を浴びながら村の子どもらは、めいめい持ち寄った書き初めを、火にささげて書写の上達を願ったり、餅やおやつを焼いたり煮たりして、はしゃぎながら野外での食事を楽しむのである。

ようやく東の空が白むころ、竹節の炸裂する鋭い音に目をさました家々の大人たちも、続々とこの場に集まって来て、古いお札さんを火に上げたり、どんど火で焼いた餅を食べる(病気にかからないといわれている)。また、餅を焼いて持ち帰り、小豆粥(あずきがゆ)に入れて炊き、神仏に供えてから家内一同いただくことにしている。

また、明きの方位に倒れた心棒竹には神が宿っているとされ、それを味噌部屋の味噌や醤油の桶の上にのせておけば、味が変わらないといわれていることから、一bほどの長さに切って割った竹をいただいて帰る。
さらに、どんどの灰を田畑にまくと病虫の害がなく、作物が順調に生育すると伝えられているため、灰を袋に入れて持ち帰り、田畑に振りまくことを忘れない。

なお、この日は、カキ(柿)の豊作を願って行う、いわゆる「成木ぜめ」の風習も多少残っており、カキの木の根本の荒皮を削って 「成るか生らぬか…」と叫びながら鉈目(なため)を入れ、小豆粥をその切り口に供えることにしている。

※子どもの火祭り

さて、前記のとおりどんどの場所は川原で、人家からも遠く離れているため類焼の心配はほとんどない。そんなことで、どんどの規模も大きくなり、時には早朝にもかかわらず遠方からの見学者もあって、その熱心さに驚くことさえある。
しかしその反面、子どもだけでこんなに大きなどんど立ては、多少無理な点もあって、たいていは主役の親たちが進んで手伝っているのである。
そんなわけで、毎年昔ながらの見事なものが立てられ、近郷では珍しい行事とされている。そしてまた、村の子どもたちにとっても、この日だけはだれにもとがめられることなく、大いに楽しめる年一度限りの火祭りでもある。

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涅槃会

涅槃会(ねはんえ)は常楽会(じょうらくえ)ともいわれている。これは、すべての迷いや欲望をはなれた悟の境地の意味で、聖者が死ぬこと、つまり釈迦(しゃか)の亡くなった二月十五日に行われる法会を指している。
その日の夜、長久寺においても大師講員らがお参りして、まず、本堂に掲げられた涅槃画像の前に正座し、手を合わせながら、しみじみとその画像を拝み感動するのである。

この涅槃画像はいうまでもなく、沙羅双樹(さらそうじゅ)の花咲く涅槃の床で、人々はもちろん、この世に生きるすべてのものに惜しまれながら、八〇歳を最期に落陽とともに涅槃に入られた釈迦安楽の姿であって、頭部は磁極の北に向け、足部は南赤道の方に、さらに、体を落陽の方向に横臥されているが、この相こそ人間臨終の自然の姿ともいえる。
その中に、住職をはじめ大師講員らが出そろうと、この画像の前で涅槃和讃(わさん)を唱えて、その死を悼み法会をする。

涅 槃 和 讃
くしなの森に夕日落ち_尼蓮の河水瀬をとどむ
天地静かに声なく_沙羅樹の花ぞ乱しく
時しも如月十五日の夜に_月も御空にかかる時
如来は涅槃の床に座し_最後の法門説き給う…

※子供涅槃講

昔から、生まれてから数え年一七歳までの男子が主体となって、講を営むことになっており、それを子供涅槃講と呼んでいる。釈迦の亡くなった二月十五日に行うのが建て前であるが、当日学校が休みでない場合は、休日に繰り上げて営むことにしている。

当日は午前九時ごろ、講員の子どもたちが集まって二班に分かれ、大スズメとなる大きい子は、米を入れる袋を肩に掛け、他の子スズメたちは大声で、

「ネハンノスズメ 米ナラ一升 銭ナラ百ヤ」

と連呼しながら各家々を回って、米またはお金の喜捨(きしゃ)を受ける。「ネハンの雀(すずめ)」と唱えているようだが、これはおそらく「ネハンの勧め」の意味で、勧めが転訛(てんか)して雀となったと考えられる。

喜捨された米または金をもとにして、お宿で会食するのであるが、宿をする男の子を「オヤ」と呼んでいる。そして、会食するまでに一同はまず長久寺の本堂へ参り、涅槃像の前にきな粉をまぶした五合の握り飯を供え、住職から釈迦の教えや画像についての説明を開き、その偉大な徳に感激して改めて手を合わせ、心からお加護を祈るのである。
参拝をすませるとお宿へ戻って、次のような昔ながらの精進料理を味わいながらにぎやかに会食する。

※献 立

大根と里芋の煮付、ネギの酢和え、ホウレン草のおひたし、こんにゃくの煮付け、凍豆腐粉の煮付け以上の五品と油揚げ飯となっていたが、最近になって豆腐粉の入手難から、この一品は廃止された。

乳幼児は母親同伴で参加しており、お宿は苦から大雀の家となっていたが、平成元年から構造改善センターで行われることに改められた。なお、数え年一七歳でお宿を営んだ男の子は、その年の九月十五日宮籠もりの折、神主から名付けの式があって、初めて大人としての資格が与えられることになっている。

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神武(じんむ)さん

八阪神社境内の一角に、「神武天皇遥拝所(ようはいしょ)」の碑が建っている。これは大正五年(一九一六)四月三日(戦前の神武天皇祭)当時の青優会(せいゆうかい)〔毛原中堅青年層の団体名〕が建てたものである。

以来四月三日は「神武さん」と称し、家内籠りや初老の厄除け祈願があり、にぎやかな胴あげや祝い込みも行われたが、戦後は各戸一人ずつの「昼籠り(ひるごもり)」となった。

またこの日は、早朝から昼籠りまで、村中総出で茶臼山越え名張行き道の補修作業をするのが例となっていたが、昭和三十七年(一九六二)路線バス開通以来廃止され、現在は「勝手(かって)道作り」の名目で、各自農作業道などの補修をして「昼籠り」を行うことにしている。

なお、当日は雛祭りの節句と重なるので、宮守(みやもり)は季節の草餅などを氏神と遥拝所の碑前に供えて、氏子の安泰と五穀豊穣を祈願する。

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地蔵会式(じぞうえしき)〔万灯会〕

 盆が過ぎて秋の気配が感じられる八月二十四日の夜、長久寺では「地蔵会式」が営まれる。
夕食を早めにすませた檀家の人々は、釣提灯(つりちょうちん)を持ち寄って、本堂の前につるし献灯するので「万灯会」(まんとうえ)ともいわれる。
その提灯(行灯:あんどん) には献灯者の名前や、家内安全といった願いごとが書き添えられるが、なかには初秋にふさわしい草花などをスケッチした風流なものもある。殊(こと)に子どもをもつ家の場合は、その子の名と共に身体健全とか学問上達といった願望をこめての語句も目につく。

堂内の本尊や水子地蔵の宝前には、花や果物そしてお菓子など盛りだくさんに供えられているが、わけても本尊地蔵菩薩は民間信仰の中心とされており、また寮(さい)の河原の救い主でもあって、子どもを守る仏として信仰を集めている。
そんなわけで、当夜は大師諸員はもちろん、子供も母親と一緒にお参りして法要に浴し、また詠歌を唱えて水子の霊を慰めるとともに、子供の健やかな成長を念じるのである。

なお、これとは別に、大師山八十八カ所霊場の入り口には「賽の河原」があり、水掛け地蔵が祀られているが、これは当寺中興の祖・智龍和尚の発願によって設けられたもので、近郷では例のないありがたい存在とされている。そしてこの河原で母親と幼児が、石を積み、塔を造ろうと苦心している姿を時折見かけるのである。

また、昔は地蔵会式当日、いっせいに野良仕事を休み、老若男女はもちろん、近在からも大勢の参拝者があって、盛大に法要が営まれた。そして、その後は境内の広場に設けられた音頭台を中心に、夜の更けるのも忘れて盆踊りを楽しみ、板店も出て子どもたちにとっても、一年で最も楽しみを覚える会式でもあった。

「長久寺 施餓鬼法要」を参照

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