| (4) 毛原廃寺建立の由来 |
| 本寺に関する古文書は今のところ見当たらない。したがってその建立の事情や性格は全く不明といってよい。ただ、当寺について深い関心を寄せられている権威の説を二点述べることにする。
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(その一) 管理説 |
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| 東大寺文書の中に「板蝿杣(いたばえのそま)」(“板生えの料林”の意)という文字が見える。これは孝謙天皇の天平勝宝7年(755)12月28日、伊賀国名張郡[当時は国境が確定されておらず、豊原や波多野(共に山添村)などの大部分が伊賀領と見なされていた。]に板蝿杣を四至(しし)に限り、東大寺領に施入(せにゅう)されたことに始まる。 この四至とは「東限名張河、西限小倉立蘇小野(こうの)、南限斉王上路、北限八多前高峯並鏡滝」と記されている。これは、おおむね現在の三重県名張市(安部田、黒田、大屋戸、夏秋、短野など)そして、奈良県室生村及び都祁村の一部と山添村の波多野、豊原の大部分を含め、約20キロメートル四方の広範囲に及ぶ地域をさすものと解せられる。 従って、そのほぼ中央に位置する毛原(焼原杣?)は、当然その域内に含まれていたことは確かである。 |
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さて、往古の青葉山系一帯は鬱蒼(うっそう)たる樹木が生い茂っていたようで、東大寺領に編入される以前から注目を浴び、さかんにこれを伐採し、奈良の諸大寺建立や都造りに必要な用材として、笠間川や名張川を利用して木津まで流し、そこで陸揚げされて奈良に運び込まれたと伝えている。「地図参照」都の司(つかさ)や寺僧の要請でこの地域に住む仙人(そまびと)たちは日夜密林にわけ入り、大木に挑(いど)んで熱い汗を流し続けたことであろう。 そして毛原寺は杣方支配の中心的役所としての性格をもつ大寺として建立されたものと推定されるのである。 (この管理説は、豊原村史編さん当時、歴史や考古学の専門委員として投稿いただいた先生方の説である。) |
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さらに、「続日本紀」に都が藤原京から奈良に移されてからの5年目の霊亀(れいき)元年(715)に「大倭国(やまとのくに)の都祁山之道を開く」と記されている。 大和から伊勢や東国へ行くには藤原京からであれば、ほぼ現在の近鉄大阪線の桜井、榛原、三本松、名張……といったコースとなるし、奈良平城京からであれば、桜井や榛原を通らないで、天理石ノ上から大和高原の都祁村を経て名張方面へ出る方が近道である。 そして、上笠間から名張へは笠間峠の急しゅんな道を越えることになるが、笠間川伝いに毛原へ下って名張方面へ出ることも一応考えられる。そうだとすれば、そのコース上に巨大な寺院を建てたであろうことも理解できないことはない。 |
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(その二) 聖域説 |
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| 平成元年より全3年に亘って、毛原団体営土地改良総合整備事業(区画整理)が実施されたが、それに先だって橿原考古学研究所の松田真一及び近江俊秀の両氏によって、遺物並びに試掘調査が行われた。 その際、今までに出土して保管されていた幾枚かの瓦について、その年代を調査された結果、瓦の型式は天平初年頃のもので東大寺の瓦より古く、聖武天皇即位に行われた造営事業に用いた瓦と共通すると断定された。 すなわち本寺の創建は、板蝿仙の管理、経営とは全く無関係で、官寺として仏教政策の一環の中に建立の理由があるというのであり、いわば山林修行の道場として、都の東に仏の聖域を造ろうとしたのであって、このことは聖武天皇の王城鎮後(おうじょうちんご)の勅願によるものである。 従って、白鳳(はくほう)又は奈良前期より国策として奈良に都が定められる時点で当廃寺の建立が決定されていたといっても過言ではないと思われる。 ![]() さて、毛原の地形は周囲に蓮弁に似た山々をめぐらし、そのほぼ中央部を西から東へと笠間川が流れている。川の南方は開けていて、狭いながらもややまとまった平地があって小盆地を形成している。そして、集落は川の左岸の高燥な傾斜地に散在し、すべての民家が南方に向け温かい日ざしを浴びて建っている。 話は中国唐の時代にさかのぼるが、都を長安(西安)に定めたところ「四神の思想」が強調され、都の選定条件として四神の地相が備わっていることを不可決の要素とした。 この四神とはすなわち「東は蒼竜(そうりゅう)「青」の尾根を控え、西は白虎(びゃっこ)「白」の森林、北は玄武(げんぶ)「黒」の瞼山を負い、南は朱雀(すざく)「赤」の平地に臨む」という地相である。 藤原京から平城京へ遷都(せんと)された理由の一つに、奈良がそうした地相に合致していたからでもある。 毛原の地も地相上からみて、小規模とはいえ都や大寺建立の条件を満たしていたと言えるのである。 そして、また近くの笠間川周辺からは良質の石材が豊富に得られたことや、地盤が強靭(きょうじん)な岩石や粘土層から成り立ち、耐震上からしても極めて安全といった自然的な立地条件の恵まれている点は他に求め難く、王城鎮護の観点から最適地とされたのではなかろうかと思われる。 |
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(その三) 考察 |
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| 毛原寺建立の由来で上記(その一)においては、板蝿杣説が強調されているが、この地は孝謙天皇以前から用材の供給地となっていて、東大寺領に編入される頃には、すでに相当伐り尽くされていたのである。従って、その時点で大寺を建ててまで、杣山を管理する必要はなかったと思われる。 また、都祁山之道の開通がきっかけとなって実現したような述べ方になったが、果たしてこの道開通以前の毛原は、全くの陸の孤島的存在であったと断言するのは早計でもある。 逆説のようではあるが、むしろ都祁山之道の開通以前にあっても、名張川や笠間川に沿って自然の道ともいうべき人の通れる道が開かれていて、中央とも経済や文化の交流がそれなりになされていたとみることも、あながち無謀とは言えない。 ![]() 従って毛原寺建立の時期も、都祁山之道の開通とは無関係であるかも知れない。例えば長田王作の万葉の御井の歌も、この道を開く以前に詠まれたものであって、板蝿仙説を固執すると筋が通らなくなる。 また、大和史料によれば、毛原寺を次のように述べている。 |
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| 「聞音覚書」曰ク毛原二言ヒ伝フルニハ 柿本人麻呂此所二大仏殿建立ノ礎有ル跡卜言フ‥‥ 柿本人麻呂は有名な万葉歌人で、和銅3年(710)即ち奈良遷都の年には世を去っており、もしこの説をとれば、山之道とは全く無関係ばかりでなく、毛原寺の創建時は奈良朝以前のものという論理が成り立つわけである。 更に「毛原ニモ筑紫ノ都府婁、磯城郡ノ栗原寺、山田寺、川原寺、比曽ノ世尊寺卜同規模ノ毛原寺ガ7世紀ノ中頃存シティタ」(懐風藻<天平勝宝(751)>)という口碑が真実とすれば、毛原寺は板蝿仙説はもちろん、都祁山之道とは一切無縁の古い建造となる。 また「山辺郡誌」に毛原の地名や青葉山系の主峯とされる茶臼山の事など、次のように述べている。 |
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![]() 板蝿杣の一部に当たる青葉山系中央鑵子 (かんす)型の山が主峰の茶臼山である。 |
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□ 山添村発刊“村の語りべ”民話「京原の都」参照(伝 鑵子山古墳) 以上の諸説は現在までの調査からすれば、極端に事実と相反する単純な空想に過ぎぬと一笑に付されると思われるが、果たして、それは誤りと決めつける証拠にはならない。 大正15年史跡に編入されるに当って、一応の地上調査はなされているが、現在各地で行われているような精密な学術的調査にまたなければ、真実を知ることにはならない。そしてまた、現代人の感覚だけで千数百年前の遠い昔の人々の営みを判断することも禁物である。 更にもう一点問題になることは、毛原の在所が伊賀と近接している関係上、先にもふれたように、時には伊賀側の勢力圏に属していたこともあって、いずれの国に属しているかあいまいな存在が、正確な記録から脱落した要因とも考えられるのである。 ともあれ、奈良から京都へと遷都されるまでの期間は、都道りや諸大寺建立のための宮人や寺僧の往来。そして史実に明らかな聖武天皇の東国への行幸、更には伊勢神宮へ仕える斎王のあでやかな旅姿。 なおまた当廃寺の各伽藍が地形の関係上、平地のそれと異なり段階的に建てられていたので複合的立体感にあふれた素晴らしい景観美。 それらは、いずれも人々の心に強く印象づけて、いわゆる当時謳歌(おうか)された「におうが如き天平文化の花」が、この草深い山里にも咲きほこり、当地の人々の心にも"み民われ生けるしるしあり"の境地に存分ひたったであろうとさえ思われるのである。 |
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