『ガクらん』



 番外編・お母さん




 生徒会の仕事をしていると、しばしば休日が潰れることもある。
 たとえば、今日のように。
 今日は春休みの真っ最中だが、役員の集まりのために、学園に赴かなくてはならない日だった。
 だが健四郎は、休日に登校することが嫌いではない。
 特に――こんな、よく晴れた春の日ならば。
 いつもの朝のような、あわただしい空気の漂う登校景色はあまり好きではないが、こういう日ならば、のんびりと春の陽射しを愉しむことも十分にできる。
 ――あったかくて、気持ちいい。
 軽く眠気を催すほどの、心地よさ。
 あくびをこらえつつ、いつもよりも遅い足取りで歩を進める健四郎。
 (こりゃあ今日は、うっかりすると昼寝しそう……)
 そんなことを思いつつ、生徒会室に到着。
 早めに来たつもりだったが、一番乗りではなかった。
 ……だが。
「すぴー」
 一番乗りを果たしたと思われる人物は、テーブルに突っ伏しつつ、豪快に寝息を立てていた。
 その人物――北館先輩は、お昼寝の真っ最中だった。
「すかぴこー」
 なにやら、ありえない類の寝息だった。
「その変ないびきの音、もうちょっとどうにかならないんですか……って、聞こえてないだろうけど」
「すぴょろー」
 ……むしろ、聞いててわざとやっているのかも知れない。
「かおーかおー」
 ややしばらくしても、北館先輩の寝息は止まない。
 まあ、これほどまでに遠慮なくいびきをかけるのだから、本当に眠っているのだろう。
 きっと日頃から、素でこういう珍妙な寝息を立てる人なんだ……と、健四郎は自分を納得させた。普通に考えればありえなさそうないびきではあるが、しかし、ありえないからこその北館先輩なのだ。
 ……それにしても。
「すやーすやー」
 本当に屈託の無い、幸せそうな寝姿だった。
 普通、こういう綺麗な女性の寝顔を見たら、もっとこう、ドキドキしてしまうような気もする。だがこの人の場合は、まるでやんちゃな小学生が熟睡しているかのようなので、なんだか微笑ましい気分にしかなれなかった。
 よくよく考えてみれば、北館先輩の情操は基本的に、小学校高学年の男の子のそれだ。それもまさに、よくいるガキ大将風の。たとえいつもは悪ガキでも、寝てしまえばかわいいものだった。
 ……もうちょっと、このかわいい姿を見ていたいところではあったのだが。
 今日は生徒会の集まりがあるわけで、このまま熟睡されたままというのは、ちょっと困る。
 本当ならば、このまま寝かしてあげたいところなのだけど、集合時間まであと十分ほどしかない。寝起きはかなり悪そうだし、一応、起こしておいたほうがいいだろうと健四郎は判断した。
「……先輩?」
「……すぴかー」
 軽く声をかけてみたが、やはり届かない。
 まあ、この陽気では無理もないな、と思った。健四郎自身、先ほどから眠気に襲われ続けているのだ。
 少々躊躇われたが、肩をゆすってみることにする。
「うぅん……」
「……先輩?」
「……んふ、ん……」
 ゆさゆさ、ゆさゆさ。
 なるべく優しく、遠慮がちに体をゆさぶる。
「んあ……?」
 少しだけ、意識が戻ったようだ。
 すると先輩は、肩に乗せた俺の手を、体をよじって逃れるようなそぶりを見せた。
「やぁ、エロハンドぉ……」
「……んな」
 エロ扱いされてしまった。
 もちろん、変なところなどは神に誓って触っていないのだが……ひょっとして、手触りがえっちだったのだろうかと、健四郎はどぎまぎしつつ悩んだ。
「なーにーよー……夜這い?」
「超違います」
 内容はともかく、声は返ってきた。
 どうやらもう半分起きているようだ。
 だが、残り半分が壮絶なまでに寝ぼけ続けている。
「……まだ寝りゅ」
 ふたたび、まどろみの中に逃げ込もうとする北館先輩。
「もうそろそろ起きましょうよ」
「んうー……」
 聞く耳持たず。
「寝かせてあげたいですけど、もうすぐみんな集まりますから」
 しかし、なぜか今日は、他の人たちがまだ来ていない。いつもはみんな早めに来ているのに、どうしたことだろう。
 だがいずれにせよ、みんなもうじき到着するには違いない。
「さ、起きましょ、先輩」
「……やー」
 唸り声をあげつつも、顔を上げようとはしない。
「……もっと、お母さんみたく言ってくれなきゃ起きないー」
 あげく、そんな無茶なことを言ってきた。
「吉田○車のネタはこの際どうでもいいですから」
「やーだー……。お母さんみたいに起きなさいって言ってー……」
 そう言って、机にかじりついて離れようとしない。
 すでに起きているようなものなのだが、この人の場合、ほっとくとまた本当に熟睡してしまいかねないので、やはり捨て置くわけにはいかない。寝起き状態で会議に参加させても、どういう状況を引き起こすか目に見えているような気もするし。
「むにゃ……言ってー……」
「ううっ……」
 ゴネ続ける北館先輩。
 健四郎は少し悩んだ。 
 たとえ阿呆極まりないことでも、この際ちゃっちゃと付き合ってあげたほうが、すんなり起きてくれるかも知れない。
 春の陽気のせいで、多少頭のネジが緩んでいた健四郎は、うかつにもそう判断してしまった 。
「……え、えーと……じゃあ」
 普通ではない精神状態の中、健四郎はアクションを起こす。
「さ、聡美……? もう、起きなきゃ駄目じゃない?」
 超勇気を振り絞って、言葉を紡いだ。
 あげく、手つきや表情まで、ちょっぴりお母さんっぽくしてしまった。
 ――刹那。
 がばあっ!
 北館先輩が飛び上がった。
「な、なんですか」
「これをご覧なさい」
 つーか起きてたんじゃないですか、という突っ込みを入れる間さえ与えず、北館先輩は健四郎の前に「何か」を突き出した。
 その「何か」の液晶画面には、健四郎の姿が映っていた。
 ……映っていたどころか。

 「さ、聡美……? もお、起きなきゃ駄目じゃない?」

 そんなセリフまでが、動画と共に再生された。
 追い討ちとばかりに、その画面の中の健四郎は、可愛らしいしなを作っていた。
「最近の携帯電話は便利なことで」
 最新機種と思しき大液晶の携帯電話をぱちん、と閉じつつ、北館先輩は呟いた。
 その表情には、勝利者の喜色がありありと浮かんでいる。
「……してやられた、というヤツでしょうか?」
「Yes、I do!(訳:はい。してやったり、というアレです)」
 ――やられた。
「うわああああああああ!」
 健四郎は断末魔の叫びをあげた。
「し、死ぬー! むしろ死なせてくれー!」
 ハラキリ用の脇差を本気で探す。
「もう生きてられない!」
「やー、駄目ー! 死んじゃ駄目よ、お母さんー! ……プッ、くすくすくす」
「うわああああんっ! お、お母さんって言うなー!」
 事態は極めて深刻だった。
「やーもう、良かったわよー? マジでマジで。健クンひょっとして、主婦というかお母さんがすごく似合ってるんじゃない?」
「似合っていたくないですよそれこそマジで! マジというか真剣!」
「あー、お母さんの役割を放棄する気? こんなにかわいい娘を捨てて?」
「捨てるも何もないような気がすごくっ!」
「証拠もあるというのに」
「ヒィィィィィ!」
 ちらり、とヘンテコなストラップのついた携帯を見せつける北館先輩。
「まさか本当にやってくれるとは。健クンはいい子ねー……子といってもお母さんだけど」
「き、気の迷いだったんすー! っていうか、そもそも北館先輩がやれって言うから」
「うん。健クンにお母さんみたく起こして欲しかったから」
 いけしゃあしゃあとのたまった。
「あー、どうしたのふたりともー?」
「にぎやかで楽しそうですね」
 最悪のタイミングで、天城先輩と舞原さんがやって来た。
「聞いてふたりとも! 今日から健クンは、私のお母さんということになったから」
 さっそくとばかりに話す北館先輩。
「えー、お母さん?」
「健四郎さんが……ですか?」
 言われたふたりは、首をかしげた。そりゃあ、いきなりそんなこと言われても、普通は戸惑うだけだろう。
「おっけー」
「健四郎さんがお母さんで、北館先輩がその娘さん、ということですね」
 ――だが悲しいことに、このおふたりも、残念ながら普通の範疇には納まらない人たちだった。
「色々言いたいことはありますけれど、とりあえず順応早すぎですってば!」
「えー? ……順応って?」
「なんだかあまり違和感を覚えませんでしたけれど」
「マジっすか!?」
 思わず敬語で聞き返していた。
 つーか、自分=お母さんのイメージって、そんなにマッチしているのか……と、健四郎は悲しい気持ちになった。
「うーふーふー。ダメ押しもあるけれど?」
 ポケットの中から何かを出そうとする北館先輩。
「や、やめれー!」
「だーいじょうぶ。その必要はないくらいにノリノリみたいだから」
 確かに、すでに順応どころか、積極的に盛り上がろうとしている様子だ。
「あははっ。健ちゃん、お母さんなんだ。それじゃあ……私がお父さんになる!」
 事態は更に珍妙な方向へと進もうとしていた。
「健ちゃんは今から、私のかわいー奥さんだからね?」
 およそこの学園で一番かわいらしいと思われる外見の天城先輩が、あろうことか、そのようなことを主張してきた。
「……まじですか」
「まじまじー!」
「……うむぅ、なんとも倒錯的」
「なにやらいけない感じがゾクゾクとしますよね」
 言われたい放題だった。
「健ちゃーん、新妻っぽく旦那様に甘えてきても、いいんだよ?」
「……もうこれ以上は勘弁してください」
 本気で世を儚んでしまいたくなる。
「お母さーん、おなかすいたー」
「……こっちはもう馴染みきってるし」
 娘=北館先輩は、すっかり娘ぶりを発揮していた。
「あらら。それじゃあ私は、夫の隙をつけ狙う若奥様の間男ということで」
「な、なにー!」
 舞原さんの、これまたぶっ飛んだ意見に、健四郎のみならず天城先輩までが声を上げた。
「むーっ、愛する妻(健四郎)になにをするだー!」
「それはもう、旦那様の前では、とても説明することなどできないようなことを行います」
「ど、どんなこと……!?」
 天城先輩がびくびくしつつ尋ねた。
「あえて説明するとそれはつまりセッ……」
「説明すな!」
 汚れ会話も平然と行うのが北館先輩だった。放っておくと危険。どうして危険かというと、大抵の場合健四郎がセクハラーな憂き目にあうので。
「うふふ」
「そこで意味深に笑うのもやめてくれよー!」
 いったい俺にどうしろというのか、と泣きたい気分の健四郎。妖しく笑う舞原さんに目があわせられない。
「うー、健ちゃんがー! ふりふりエプロンの似合う私の愛妻がーっ!」
「しかもフリフリエプロンとかの設定まで加えられている!?」
 それは視覚的に暴力的ですらある。それを着用しろというのだろうか。暴虐すぎだった。
「ともかくこれで、母あり夫あり、娘ありで……うーん、理想的な家庭には、まだ何か足りないのよねー。なんだろ?」
「……なにやってるの」
 北館先輩がなにやら悩んでいると、綾部先輩がちょうど部屋に入ってきた。
「あら、葉」
「あのね、今日から健ちゃんが、みんなのお母さんなの!」
「そうなんだ」
「いや、素で返さないで下さいよ」
 健四郎としては、救いを期待していたというのに。
「……別に、そんなに変じゃないよ?」
「……そうなんですか」
「うん。そんなには」
「……」
 よくよく考えてみると、綾部先輩のこの一言が、素なだけに一番辛かった。
「そーだ、犬よ! 理想的な家庭には、愛犬がつきものじゃない!」
 突然すっくと立ち上がり、思うところを主張する北館先輩。
「……ということで葉は、飼い犬のシベリアンハスキーということで」
 今入ってきたばかりの綾部先輩に、あろうことか犬の役割を申し渡した。
「ちょっ、いくらなんでも、犬って」
「わん」
「ノリノリっすか!?」
 意外とノリノリだった。
「わふわふ」
「……いや、先輩が良いというのであれば、別に構いませんけれど」
「……わん」
 よく見ると、ちょっとだけ恥かしそうだった。
 なにもそこまでしなくても……と思うが、今は自分の事で手一杯だった。
「……ちなみに今のは、OK、と言ったつもり」
「そ、そうですか……」
 突っ込むことはできなかった。
「うーむ、素晴らしいわ……。これこそまさに理想の家族」
「間男が混じってるのがあんたの理想的家族像ですか」
「波乱があってこその家族じゃない、ねーお母さん?」
「うぐっ」
 ちらり、と姿を見せる携帯。
「それもなにもかも、お母さんあっての理想よー。かわいい娘の望みなんだから、ここはもうひとつ頑張って乗ってきて頂戴」
 頂戴、と懇願しているようだが、事実上脅迫になってると思う。
「すみません、遅れましたっ!」
 ……とそこに、息を切らして松瀬がやってきた。集合時間ギリギリといったところだ。
「……って、なにやってるんですかみんな」
 部屋に入るや否や、場の空気のおかしさに眉をひそめる松瀬。
「えっとねぇ……家族計画ー!」
「健クンが私のお母さんになって、由香利がその夫」
「そして私がアクセントの間男です」
「……」
 ほんの少し居心地の悪そうにする綾部先輩。さすがに、露骨に素の松瀬相手にまでわんわんわふわふすることはできないようだった。
「……なんとなく……ですけど、全部わかりました」
 露骨に呆れたという風に肩をすくめた松瀬。
「それは別にいいですけど……もう時間ですから、話し合いを始めなきゃダメですよ?」
 そう言いつつ、方々(主に北館先輩と天城先輩)ににらみをきかす。さすがに彼女の委員長的風情に逆らってまで健四郎いじめを続ける気はないようだった。
「武田くんも、変なこと言われてヘラヘラしてないの」
「は、はいっ」
「……もう」
 言われて、思わず萎縮してしまう健四郎。
 ……そんなに強い口調ではなかったのだが。
 ただ、この統率力を見て、健四郎は思う。
(誰がお母さんかって言ったら、この中だと、明らかに松瀬だよなあ……)
「……なに?」
 ふと目があった。
「いや、松瀬って、母親になったら、すごく立派なお母さんになるだろうなって思って」
「え? ……な、なにっ、突然っ!?」
 なにげなく口にした言葉に、なぜか動揺する松瀬。
「ど、どうしたんだ?」
「ど、どうしたって……べ、別に、なんでもないよ。あ。あはは」
「?」
 そう言って笑う松瀬の表情は、どこか怒っているような、恥かしがっているような感じがして、よくわからなかった。



 ……ちなみに、この日撮られた「お母さん健四郎」の動画は、後に様々な局面で用いられる ことになるのだが、それはまた別の話。





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