はじめに

 「新世紀エヴァンゲリオン」という作品が、取りも直さず登場人物の内面を描くことを主題にしていることは疑いがない。しかし、拾九話の時点では、どのような方法で個々の精神にアプローチしているのかが不明であった。思春期の少年と父親との葛藤を描くのか、子供が他人との接触の中で大人になっていく過程を描くのかetc.

 ところが、弐拾話において唐突にその回答が制作側から提示された。弐拾話の英語のタイトルを思い出していただきたい。念の為ここに書出しておけば、WEAVING A STORY 2:oral stageとなっている。この中に答えが隠されている。oral stageという言葉は、和訳すると「口唇期」となる。これは著名な精神分析学者であるS.フロイドが提唱した言葉である。この言葉を見て、私はこれはフロイドの理論がこの作品に少なからず関係していることの作者の自白と考え、その時たまたま読んでいた彼の代表的な著書「精神分析入門」−この中に口唇期という言葉が出てくる−の中に述べられている理論を、「エヴァ」に出てくるキャラクターたちの心の動きに当てはめてみた。すると、まるで魔法の鍵で次々と扉を開けていくように、彼らの複雑な精神の構造が詳らかになることが分かった。

 すなわち、この作品はフロイドの理論を各キャラクターの精神構造へのアクセス・ロードとして選択しているのである。そこで、私はこれからフロイドの精神分析の手法を用いて、各キャラクターの心の仕組み、動きに解説を加え、ここに報告する。

 あらかじめ述べておくと、各キャラクターの心を読み取る鍵であるフロイドのリビドー理論とは、つまり性に関する理論である。中には現在流布している道徳に照らし合わせると、思わず眉をしかめ、反駁を加えたくなるような事柄も少なくない。しかし、それは紛れもない事実であり、作者が意図としたものであることをご承知願いたい。フロイドの説が真理であろうとなかろうと、それを元に作者はストーリーを展開しているわけで、このストーリーの中ではそれは絶対的な真実なのである。このことだけは十分に念頭において以下の私の報告を読んでいただきたい。ここに記すことは作者が意図したことである。

筆者

精神分析学に関する基礎講義

 実際に各キャラクターの分析結果を見る前に、基本的な事柄について説明をしておく必要があるので、ここであらかじめまとめておく。退屈な話がしばらく続くが、どうか我慢して読み進めていただきたい。

 まず、先にも述べたが、フロイドの理論の核をなすのが「リビドー」である。リビドーとは、すなわち性衝動を発現させる力の名称である。換言すれば性的欲求を性的満足に変えようとするエネルギーのことだ。ここで是非注意しておかなければならないのだが、「性」という言葉が出てきたからと言って、それをすぐに生殖、及び生殖行為と結び付けてほしくないのである。確かに性と生殖には切っても切れない関係があることは認めるが、同値のものとしては扱って欲しくない。なぜなら、現在流布している道徳において生殖行為は卑猥な、忌避すべきものと見られており、色眼鏡で見られてしまうからだ。しかしながら、性を明確に規定する定義を定めるのは大変困難なことであり、ここではそれは避けたい。あくまで仮定的に、両性の相違、快感の追求、生殖等によって構成されるあるもの、と述べておくに止めておく。取りあえず、ここではリビドーの力を大幅に増強するものが生殖であり、生殖が発現してくる思春期以前にもリビドーは弱いながらも存在するのだ、ということを理解していただきたい。

 このリビドーをいかに処理するかが人間の精神生活の根本である、というのがフロイドの理論の出発点である。リビドーを円滑に処理するためには二つのものが必要になる。性的快感を得る身体の部位−性愛部位と呼ばれる−と、性的対象である。勿論正常な成人にとって、それは性器であり生殖に適した年齢の異性である。しかし、それは初めからそうであるわけではない。乳児期から様々な変遷を経て、そこに行き着くのである。 あなたは今胸に一つ疑問を抱いたはずだ。そう、乳児にまでもリビドーはある。乳児が母親の乳房をしゃぶっている情景を思い出していただきたい。実に気持ち良さそうな顔をして、しばしばそのまま寝入ってしまう。まさに乳児にとって母親の乳房をしゃぶることは、栄養の補給以外に、快感の享受でもあるのだ。つまり、初期の乳児にとって乳房をしゃぶることはリビドーの充足であり、母親の乳房がリビドーの対象なのだということができる。

 乳児にとってしゃぶる行為がリビドー充足の方法であることは、もう一つのことから証明される。離乳期の乳児は、指をしゃぶることを憶える。つまり、母親の乳房から離されるが、しゃぶることが止められず、しゃぶるための新たな対象として自分の指を選ぶわけだ。指をしゃぶるということは、一見それ以上の何の意味もない動作だ。しかし、子供は止めさせようとしても一向にそれを止めない。子供が快感獲得を第一に考えて行動することを念頭にいれれば、しゃぶる行為そのものが快感なのであると考えざるを得ない。この場合、性愛部位は口唇部であると断言できる。何かをしゃぶる場合、一番刺激を受けるのは唇とその周辺である。

 さて、ここであなたは怖らく「口唇期」という言葉を思い出すだろう。弐拾話の英語のサブタイトルとなった言葉である。口唇期とは、乳児期の性愛部位が口唇部である時期のことなのである。この時期の経験は、リビドーを充足させることによって快感を得る最初の経験であり、性生活全体の出発点となり、今後の性生活に大きな影響を与えることになる。

 性愛部位の説明が取りあえずついたので、再びリビドーの対象の話に戻ろう。最初期の乳児の対象が母親の乳房、つまり母親であることは既に述べた。次の自らの指をしゃぶって快感を得る段階に入ると、対象は母親から自分に移る。幼児の性が自己愛的なものに変化するのである。このことを出発点として自慰への道を辿ることになるのだが、このことはここでは割愛する。

 もしかしたらあなたはここまでの話を読んで、どうして幼児が物をしゃぶることによって快感を得るという話をわざわざリビドーという言葉を用いて性的なものだと考えるのか、もっと簡単に生理学的な「器官快感」の追求だと言えばいいではないか、と思っているかもしれない。それでは問うが、性行為によって得られる性器の快感も、器官快感にすぎない。幼児の器官快感を性的でないというなら、いつの段階でどの様に、後年得られる性交による快感に性的な意味が加わるのか。さらに、性的倒錯者は性器以外の部位で性交を行うが、これは性的ではないのか。とにかく、性的なものイコール生殖行為という図式が成り立たないことだけはよく憶えておいていただきたい。

 口唇期はあくまでリビドーの発達の最初の段階であり、この後には「肛門期」「性器期」という二つの段階が続くのだが、ここではその説明は省く。なぜなら、エヴァのキャラクターには口唇期以降の段階への成長を遂げているものは一人としていないので、その必要がないからだ。悲しいかな、みんな精神的には幼児期から成長していないのである。

 リビドーの発達の話はこれで終わったことにして、リビドーの「抑圧」についてここで少し述べなければならない。リビドーはいつでも本人の望むように解決されるわけではない。多くの場合、常識、道徳、タブー、環境といったものによって抑圧を受ける。最初の抑圧が離乳であり、指しゃぶりを親に禁止されることである。抑圧にぶつかると、リビドーはそのまま引き下がるのではなく、性愛部位を他の身体の部分に変えたり、対象を他のものに移すことによって、その性質に幾らか変更を加えて抑圧の眼をかいくぐり、何とか求める快感を得ようとする。このときの性愛部位や対象の変更を「転移」と呼ぶ。最も単純な例を挙げれば、先にも述べた、無理矢理乳離れをさせられたために母親の乳房の代わりに指をしゃぶる、というようなことである。

 今度はエディプス・コンプレックスの話に移ろうと思う。ひょっとしたらご存知かもしれないが、エディプス・コンプレックスとは、父親を殺害して母親と結婚したギリシャ神話の人物、エディプスの伝説に由来し、男児が母親を愛し、すなわちリビドーの対象とするために、父親を邪魔な存在と考え、憎むようになるという心的過程である。男児が乳児期において母親に性的愛情を抱くことは、口唇期の説明のところで述べた。このことは、幼児が同じように可愛がっても父親ではなく母親の後をつきまとったり、時にはっきりと「大きくなったらお母さんをお嫁さんにするからね」などと口にすることからも裏付けられる。この母親をリビドーの対象として選択した状況は、はっきりと近親相姦願望であると断言できる。しかし、この願望はいつの間にか姿が見えなくなってしまう。これは、取りも直さず近親相姦を最大のタブーと見做す大人たちの教育によって、抑圧されてしまうからである。近親相姦願望の存在を否定する人は、近親相姦が神話の神々には許容されていること、古代の王家においては近親相姦によって血筋を守ることが神聖な掟であったこと、そもそもどうしてむきになって近親相姦を禁止しようとするのか、ということを考えていただきたい。

 ここまでは男児の場合についてのみいってきたが、性別を裏返せば勿論女児についても同じことが言える。この場合はエレクトラ・コンプレックスと呼ばれるのだが、フロイドの用語ではないのでここでは女性の場合もエディプス・コンプレックスと呼ぶことにする。

 もう少しの間辛抱していただいて、もう一つだけ人間の精神の仕組みについて簡単に触れておきたい。まず、分かりやすいように人間の心は三つの部屋から成り立っていると考えよう。

 一つ目の部屋には「自我」(あるいは「意識」)がいる。これは日常我々が知覚することができる思考、感覚、感情、記憶といったもの(「心的興奮」と呼ばれる)の総合体である。今我々の精神を占めているように感じられるものはこの自我である。この部屋の奥には鍵のかかっていない扉で仕切られたもう一つの部屋があり、ここには「前意識」と呼ばれるものがいる。ここにはもう一つ奥の部屋からやってきた心的興奮もおり、まだ自我の部屋に入ることを許されていない、すなわち意識化はされていないために、我々は知覚することはできない。しかし、何かきっかけがあれば、すぐに扉を開けて自我の部屋に入っていくことができる。この第二の部屋と奥の第三の部屋を仕切る扉には鍵が掛けられていて、その前には番人が居座っている。第三の部屋の住人こそが「無意識」である。無意識は、第三の部屋にいるうちはまず意識されることはないが、何らかの理由で部屋の外に出て意識化されようと努力することがある。そのときに無意識が意識化されるに相応しいかを審議するのが扉のところの番人である。第二の部屋に入る資格があるものとは、第一の部屋にある心的興奮のどれとも軋轢を生じないもののみである。第一の部屋には世間にあるあらゆる常識や道徳も含まれる。どれほど強く無意識が外に出ようと思っても、資格がない以上番人は外に出すことはない。あるいは第二の部屋にいるものも、もしそこにいる資格を失ったら途端に番人は第三の部屋につれ戻してしまうのだ。

 これが先に述べた「抑圧」の正体である。抑圧の結果それを受けたものがどうなるかはご承知の通りである。ただ、この番人の抑圧がかなり小さくなるときがあり、それはすなわち睡眠時−睡眠時に限らず、気絶したときなどにも起こることだが−である。睡眠時には意識は完全に閉じられてしまうために、多少無意識が漏れ出しても自我と軋轢を起こすことがないからだ。しかし、あまり大騒ぎをされては意識が刺激されて睡眠が妨害されてしまう。そこで、もともとの形を崩さない程度の軽い抑圧を加えて、夢という形で部屋から出してやるのである。また、パイロットとエヴァの神経接続の折にしばしば使用される「自我境界線」とは、第二の部屋と第三の部屋とを仕切る扉のことであると推測される。だから、自我境界線を突破できないということは、扉の前にいる番人に阻まれてしまうということになる。

 さて、退屈な解説はここで終わりである。しかし、以上に述べたことはこれからの報告において大変重要なことなので、是非とも念頭に置いておいていただきたい。

各キャラクターの分析結果

・碇シンジの場合

 彼の場合は、主人公ということもあって、心的成長の過程がリビドーの発達という形で明確に述べられている。それをここでは明らかにしていこうと思う。

 拾六話の後半において、彼の精神の内部が明らかにされる。この中で、注目すべきは生命維持機能が切れ、彼が意識を失ってからの部分である。抑圧の魔の手から開放された彼の無意識は、母親と全裸で一つになる夢を彼に見させる。これは彼のリビドーの対象が未だ母親であり、幼時の近親相姦願望から抜け出せていないことを示している。つまり、彼が精神的には口唇期から成長していないということになる。

 ここで一つの疑問が生まれる。ここでは彼は夢を見ることによってリビドーの満足を果たしたわけだが、それ以前はどのようにリビドーの充足を得ていたのだろうか。その答えはエヴァにある。エントリープラグ内部におけるパイロットの様子を思い出していただきたい。エントリースーツを着るために全裸になり、エヴァのちょうど下腹にあたるあたりに乗り込み、エントリープラグの中では羊水に似たL.C.L.という液体に満たされ、そこでは空気呼吸の必要がない。子宮内の胎児を思わせる状況下におかれる。しかも、シンジ自身がエントリープラグの中は妙に落ち着くと言っている。すなわち、母親という対象を転移の作業によってエヴァに置き換え、エヴァのエントリープラグの中に座ることは彼にとって母親と一つになることだったのである。そうでなければ、後に明確な殺意にまで発展するほどの強い憎悪を抱いている父が作ったエヴァに、彼が乗り続けた理由の説明が付かない。

 さて、彼がはっきりと近親相姦願望を吐露したことによって、一つのことが明らかになった。彼はかなり強いエディプス・コンプレックスの持ち主である。彼の母親は父親が行った実験中の事故によって死亡したわけで、彼にしてみれば父親は愛する人を奪った者ということになり、それも仕方がないとはいえるが、ともあれエディプス・コンプレックスが何の解決もなされていない状態で残されていることからも、彼の精神が非常に幼いことが証明される。

 続いて彼の内面が語られるのは弐拾話である。ここでの彼の精神はエヴァに取り込まれたことによって自我境界線を失っており、抑圧を行う番人が消えてしまったので、完全に開放されてしまった状態であり、様々なものが吹き出していて大変興味深い。一つには、父親への明確な殺意が語られ、挙げ句の果てには実際の殺害のヴィジョンすら現れる。様々な敵へのヴィジョンが交錯する中、本当の敵は父親であるという結論が出る。自分の生命、生活を脅かす使徒に父親への殺意を転移させ、エディプス・コンプレックスの一方の願望である父親の殺害を果たしているのである。

 さらに、彼は散らばった無意識の中から母親の事故のときの記憶を拾いだし、そのとき以来自分は父親だけでなく母親からも逃げ出したのだと告白する。これはどういうことだろうか。あくまで推測の域を出ないのだが、ゲンドウは間違いなくユイを愛していたし、ユイもまたゲンドウを愛していたことは確かである。そのことはシンジにも分かっていたはずだが、ユイが事故で亡くなるとき笑っていたということ−拾六話でシンジの口から語られている−によってそれが決定的に証明され、いわば愛する人に裏切られたように思ったのだろう。その出来事がきっかけになって、父への憎悪が加速したことは想像に難くない。

 この話で語られるシンジの精神の中でも、最も興味深いのはミサト・アスカ・レイの三人が登場する以降の部分である。彼女たち三人の言動はどう見ても性的誘惑としか思えず、「心と身体を一つにする」ことが「とてもとても気持ちいいこと」だと言うあたり、露骨にセックスを求めている。しかし、この彼女たちはシンジの精神の産物であって、彼の性的願望を表すものに他ならない訳だが、ここでは二通りの解釈が成り立つ。一つは、シンジは彼女たちに母親を転移させており、近親相姦願望を表しているのだという見方。もう一つは、文字通り彼女たちをリビドーの対象としているという見方で、こちらの解釈ではシンジが口唇期から脱したということになる。しかし、残念ながらここでは前者の解釈のほうが妥当に思われる。まず第一に、彼女たちが現れる前に、彼は海を見ている。海は紛れもなく母親の象徴である。第二に、ミサトの姿を認めた後に母親の匂いをかいでいる。第三に、自分が母親の乳を吸っているという大変初期の記憶を探りだしている−乳幼児期の記憶は、ないのではなくて無意識の奥深くに眠っているのである−。第四に、肉体を再構成する直前、彼は幼児期に立ち返って、母親を求めながら怖らく海と思われる水の中を泳いでいる。後者の解釈の理由として、エヴァに取り込まれたままのほうが近親相姦願望は満たしやすいにもかかわらず、現実世界に帰ってきたということが挙げられるが、それを考慮してもやはり前者のほうが納得がいく。そう考えるとなぜシンジが現実に帰ってきたのかの理由が分からなくなるのだが、現時点では説明が付かない。ミサトを完全な母親の代理と認め、彼女によってリビドーを満足させるため、という解釈はできるが、断言はできない。

 弐拾壱話のラストで、シンジは泣きじゃくるミサトを見て、自分がそんなミサトから逃げることしかできず、他には何もできず何も言えない子供だと分かった、と告白している。私はこの言葉の前に、「未だに母親を求めている自分は」という言葉が補える、つまり彼は、未だに母親から離れられない自分はこういう場面ではどうしようもない子供なんだ、と言っているのだと推測する。自我境界線が崩壊した状態で起こった心的興奮は、たとえそれが無意識の領域に属するようなことでも自我の中に記憶という形で組み込まれたと考えるのが自然であり、自分が−そういう用語は知らないにせよ−口唇期から抜け出せていない子供なんだとその時点では認識していると考えられるからだ。逆説的ではあるがこういう解釈が成り立つ以上、弐拾話での出来事は彼が未だ母親に囚われていることを示している、というほうが正しそうだ。

 以上が私が碇シンジに対して行った分析の結果であるが、結論を導く前に、フロイドがエディプス・コンプレックスについて非常に興味深いことを著書の中で述べているので、ここに抜粋してみよう。

「思春期においては、非常に強い感情過程がエディプス・コンプレックスに沿った方面で起こったり、あるいはエディプス・コンプレックスに対する反応の形で起こったりしますが、それらの過程はしかし、その前提になっているものが耐え難くなってしまっているために、その大部分が遠のかざるをえないのです。この時期から個々の人間は、両親から分離するという大きな課題に献身しなければならないのであって、親から離れて初めて人は子供であることをやめ、社会的共同体の一員となることができるのです。この課題は息子にとっては、自分のリビドー的願望を母親から引き離して、それを現実に外界に存在する愛の対象を選ぶために使用し、もし父親と反目状態のままにあるならばこれと和解し、もし幼児性反抗の反動として父親に屈服したままであるならばその圧迫から脱するということです。」

あまりに見事すぎて、こちらが新たに結論を提示する必要がない。この文章はシンジのために用意されたのではないかと疑いたくなるくらいである。敢て述べれば、フロイドのいう「その前提になっているものが耐え難くなってしまっている」とは、幼児期から思春期にかけての教育で、近親相姦や性器以外の部位で性的快感を得ることが忌避すべきことであることを教え込まれ、その結果強い抑圧が生まれて性愛部位やリビドーの対象の転移を余儀なくされる、ということである。これは強制的な形の説明であるが、要するにリビドーが自分や両親から離れ、他人を愛する段階に入る、ということを意味している。シンジはその成長過程の特殊さから、本来なら幼児期から思春期までに果たしておくべきこういった精神的成長を果たすことができなかったため、現在幼児期のエディプス・コンプレックスに悩まされている。それを、エヴァに乗って使徒と闘い、また周りの人間との関係を築いていく中で、フロイドが述べたような形で克服できるのかがこの物語の一つの鍵となるであろう。

 最後に、この作品に深く関係のある旧約聖書「創世記(Genesis)」から、第二章の二十二節から二十四節をここに挙げる。

「主なる神は人から取った肋骨の一つを抜き取って、その所を肉でふさがれた。主なる神は人から取った肋骨で一人の女を造り、人のところへ連れてこられた。そのとき人は言った。

『これこそ、ついに私の骨の骨、私の肉の肉。男から取ったものだから、これを女と名づけよう』

それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。」

・綾波レイの場合

 結論から述べると、彼女は分析不可能である。彼女の精神の中身は全く不明瞭であり、分析に必要なだけの材料が提示されない。またそれ以上に、彼女の場合はその成長の過程を描く、とかいうより、その存在の意味、綾波レイとは本当は誰なのか、が重要なのであって、彼女を分析しても何の意味もないのである。ここでそれを検証してもいいのだが、この文章の趣旨に反するのでそれは別の機会にする。この後に述べるアスカの分析結果を見れば、依怙贔屓だという向きもあろうが、以上の事情なのでご容赦願いたい。

・惣流・アスカ・ラングレーの場合

 結論から述べると、目下一番事情が深刻なのが彼女である。他の人間はぎりぎりのところで回避しているのだが、彼女ははっきりと神経症の症候を示している。それはどういうことなのか、そしてその原因は何なのかを分析によって明らかにしようと思う。

 彼女のリビドーの発達段階がかなり幼稚であることは、言動の端々から容易に伺える。まず、彼女はミサトと加持が付き合っているのを知ると、二人の関係を不潔と決め付けた。勿論十四歳ともなれば大人同士の恋愛にセックスが不可欠であることぐらい認識しているわけで、性器による性交を軽蔑しているのである。ということは、彼女が、性愛部位が性器となる、つまり心身共に成熟を遂げる「性器期」の段階に達した人間でないことが明らかになる。また、彼女もまた口唇期から成長できないでいる子供であることが、拾八話で判明する。アスカは暇潰しにシンジにキスをしようと提案し、彼と実際にキスをする。いくら暇だからといってもまず真っ先にキスをすることが頭に浮かぶということは、彼女が口唇部の刺激に執着を持っていることの証しである。しかも彼女のキスは、かなりの長時間に及ぶ、濃厚とまではいわないまでも少なくとも軽いキスではない。彼女の性格から考えれば、出し抜けに軽くシンジにキスをして、初なシンジがうろたえるさまを見て暇を潰すほうが余程彼女らしい。キスが時として口で行う性交となりうることを考えれば、あれほどのキスはリビドーを満たすための行動であると見做さざるを得ないだろう。

 また、彼女の加持への懐きかたを見れば、彼女が加持に父親を投影している、つまり近親相姦願望の対象を父親から加持に転移させている可能性が高いと思われる。デパートに買い物に連れ出したときの様子は、どう見ても恋人と一緒にいるときの態度とは思われない。さらに、加持とミサトの関係を不潔だと決め付けた際、彼女の軽蔑の念はミサトのみに向いており、加持には殆ど向いていない。これは異性の親のみに愛情を注いで依怙贔屓し、同性の親は邪険に扱うエディプス・コンプレックス特有の態度である。

 アスカのリビドー発達段階の説明は以上であるが、彼女はどのようにリビドーを満足させているのだろうか。シンジとキスをしたとき以外には特に口唇部に刺激を与えるような仕種を見せたことはないし、リビドーの対象である加持はミサトにとられている。一見リビドーを満たす術はないように見えるが、リビドーは食欲と同様満たさざるを得ない欲求の一つであって、どんな障害にぶつかろうとも必ず満足を得ているのである。彼女の場合は、周囲の抑圧から脱するには転移作業だけでは追い付かないために、リビドーを満たすための性的行為自体を全く異なる行為に置き換えてしまう「昇華」を行っているのである。彼女の場合は、エヴァに乗り使徒を倒すことに昇華されている。こう考えればアスカの使徒を自らの手で倒すことへの情熱、というより異常なまでの執着も納得がいく。さらに加えるなら、エヴァに乗り込む前は学問を行うことによって昇華されていたと考えられる。いくら知能が優れているといっても、十四歳で学位取得は普通ではない。

 そんな彼女が第拾三、第拾四使徒に連敗を喫した。リビドーが充足を得られなくなってしまったのである。しかし、先にも述べたがリビドーは何をしてでも満足を得ようとする性質のものである。行き場をなくしたリビドーがどうなるのか。その結果が弐拾話で見られた荒れまくっているアスカである。あれを見て怖らく「ヒステリー」という言葉を思い出された向きもあろうが、まさにそれは的を射ている。行き場を失ったリビドーは、最終的に転移や昇華の結果を考慮することを止めてしまう、つまり異常な行動によってリビドーを充足させることもやむを得ない、という態度を取るようになるのだ。こうして「神経症」といわれる疾患が生まれる。アスカの症候の仕組みは、通常の場合でもリビドーが破壊衝動に昇華されている、いわば危険な状態といえるのに、それでもリビドーが満足されないために破壊衝動が暴走してしまっているわけだ。この場合は「転移神経症」と呼ばれるグループの神経症に含められる。病名を断定することは危険なのでここでは避けるが、ヒステリーではないことは述べておく。

 以上が最初に述べたことの理由である。エヴァに出てくるキャラクターはどこか精神に歪みをきたしているが、病気にまで至っているのはアスカだけである。彼女のファンはさぞかし反駁したいだろうが、諦めて承認していただきたい。

・葛城ミサトの場合

 彼女が未だエディプス・コンプレックスを引きずっていることは、彼女自身の口から明らかにされる。つまり、拾伍話で、自分が加持に父親を重ねていると告白する。しかし、彼女が幸せな点は、自分がエディプス・コンプレックスから脱していないことを自認しており、加持が父親の代理物になることを承知してくれたために、円満な形で近親相姦願望を充足できているところだ。

 ミサトは父親という対象を加持に転移しているのだから、加持と寝るということは父親と寝ていることに他ならない。そういう幼児期の願望を充足させることによって、怖らく精神自体が退行を起こしてしまうのであろう。彼女はセックスの後にのみ煙草を吸うという。煙草をくわえるという行為は母親の乳房をしゃぶることにつながるものであり、リビドーの段階が口唇期に逆戻りしてしまっている。そのために急に口淋しくなり、思わず煙草をくわえてしまうのだろう。

 どうしてあんな女性士官として活躍している彼女が、精神的に未成長なのか、ときっと疑問に思うことだろう。その答えは弐拾壱話で語られた彼女の過去と関係がある。彼女はセカンド・インパクトのときの精神的ショックで心を閉ざしてしまった。それが思春期の大事な時期だっただけに、そこで行われるべき成長がなおざりになってしまったために、今のような状態になってしまったのだ。過程もその結果も似ているだけに、ミサトはシンジと精神的にそう大差がないと言ってもいいだろう。

・赤木リツコの場合

 彼女もレイの場合と同じく、自分のことを語らない人間なので−精神分析で一番重要なのは、分析される人間自身の言葉である−、分析は不可能である。一つ言えることは、拾参話で何の抵抗もなく母親を守ったことから、彼女はエディプス・コンプレックスからは開放されている。その分大人である。

 そんな彼女であるが、一つ口唇期と密接な関係がある部分が見受けられる。彼女はヘビースモーカーであり、コーヒーをよく飲む。この二つはどちらも口唇部に刺激を与える行為である。エディプス・コンプレックスが解決している以上、このことから彼女の性愛部位が口唇部に止まったままだということはできないが、口唇期に十分にリビドーの充足が得られないと、精神的な成長を遂げた後にも口唇部の刺激を求めるようになってしまうことが知られている。彼女の母は第一線で活躍する科学者で、満足に育児はできなかったであろう。現在のリツコの不摂生は乳児期の生活が深く影響を及ぼしているのである。

終わりに

 弐拾壱話を見た時点で私が言えることはここまでである。ここにあげた解釈は今後のストーリーの展開によって、レイの正体が明らかになったり弐拾弐話でアスカの内面が詳らかになったりすればいくらでも変わるものである。最終的な分析結果は完結後ということになる。

 怖らくこれを読んであなたはどこかしらで納得できない、腑に落ちない思いをしたことだろう。それは私が理論のこじつけをしたのではなく、一重に私の文章力の不足の問題に尽きる。この報告には納得しないが、理論そのものには関心を持ったという人は、是非「精神分析入門」を読んでいただきたい。

 エヴァの本質を見る鍵は、人の心を見つめることである。

参考文献

「精神分析入門 上・下」 S.フロイド 著 井村恒郎+馬場謙一 訳 日本教文社

「聖書(旧約・新約)」 日本聖書協会

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