眠れぬ夜
眠れない夜と、雨の日には、忘れかけてた愛がよみがえる。
渚カヲルが死んで、三日経った。
昼間だというのに黒い雲が低く垂れ籠めて、ちっとも明るくならなかった。シンジは空気が重く澱んだ部屋でベッドに横たわって、天井を眺めていた。
「カヲルくんが死んでから、ずっとこんなだ」
そして、シンジもカヲルが死んでからずっとそんなだった。
カヲルの事件以降ネルフもしばらくは開店休業状態となり、ミサトもずっと部屋にいたが、あれ以降一度も会話をしていなかった。何度となく顔を合わせたが、どちらもすれ違ったものが空気のごときものであるかのように振舞ってきた。
ミサトはずっとリビングの椅子に腰掛けて、頬杖を突いて前を見据えていた。たまに思い出したように冷蔵庫から缶ビールを取り出し、致死量の毒を飲むようにそれを飲み干し、トイレに立ち、シャワーを浴び、三度三度計ったように同じ時刻に出されるシンジが作った食事を食べ、気が向くと眠った。シンジがいるのは意識していたが、シンジが全く存在感をまとっていなかったので、気にしないことにしていた。
シンジは一日二十二時間は部屋にこもっていたが、たまに思い出したようにトイレに行った。食事を二人前作り、胃の中に落とし込み、そして部屋に帰った。
その顔からは何の表情も読み取れなかった。顔色が悪いわけでもない。やつれているわけでもない。何もかもが殺げ落ちて、とても静物画のモデルにすらなりそうもない。
そんなシンジがミサトには哀れだった。百億人いれば百億人がそう思うに違いない。だからミサトは放っておいた。
陽が落ちてから雨が降り出した。ここ数日曇りっ放しだったが、雨になったのは初めてだった。
シトシト、シトシト、存在を確認できる程度の音しかたてない雨。嫌らしい、と呟いて、ミサトは今日七本目の缶ビールのプルトップを開けた。
夜七時。シンジが部屋の中から出てきて、夕食を作り出す時刻になった。事件の前に大量に買い出ししてあったから、あと二日ぐらいは食料ももつだろう。このままここで二人餓死するのも悪くない、とミサトは思った。しかし、そんなに世の中が甘くないことも知っていた。
シンジは黙々と食事を作り、食器を並べてテーブルにだし、音も立てずに全てを素早く食べ終え、また部屋へと帰っていった。その儀式が終わるまでミサトは身動ぎ一つせずにシンジを見届けた。それから初めて料理に手をつけた。いい加減冷めていたし食欲もなかったが、全部食べた。怖らく今はシンジの作ったもの以外は食べる気にはならないだろう。
食べ終わると、ミサトは一応食器を流しに片付けておく。それがせめて今のミサトにできることだった。
八本目のビールとともにまた椅子に座る。このとき初めて、ミサトの視線が眼の前の空間からシンジのいる部屋のほうへ移動した。
シンジは雨音を聞いていた。少し風があるらしく、窓に雨粒があたってきざかしい音を立てる。
「うるさいな、静かにしてよ」
呟いても、誰も答えない。眼の前に浮かぶカヲルのヴィジョンも消えない。
あの日以来、眼を開けているとちょうど三十センチほど離れたところに絶えずカヲルの、あの少し皮肉っぽい笑顔が浮かんで消えない。眼をつむったって、消えない。気味が悪いほどリアルなくせに、手を伸ばすとすり抜けてしまう。死ぬほど抱きしめたいのに……。そんななら出てこないでくれたらいいのに、と恨みっぽく言ったところで、詮ない。
シーツが冷たい。日がな一日横たわっているのに、ちっとも温もりが移らない。カヲルと二人でくるまったシーツはもっともっと温かかったのに。二人の想いをたっぷり吸い込んだシーツは、心地好い眠りに誘ってくれたのに。
温もりが欲しい、体温が欲しい。シンジは寒くて自分の身体をかき抱いた。
「なんで僕を捨てたのさ」
忘れかけた人の温もりを思い出させてくれたカヲル。冷えきった身体を暖めてくれたカヲル。これまで放っておかれた分たっぷりと肌を合わせてくれたのに、また放っとかれてしまった。シンジは抱き癖のついた赤ん坊だった。
身体が冷たくて、なかなか眠ることができなかった。たまに眠りに落ちると、決まってカヲルが現れた。夢の中のカヲルは、優しくシンジの身体を受け止め、温もりと愛をくれた。眼覚めると必ず精を漏らしていた。
たとえ夢の中でもいい、カヲルと抱き合っていたくて、シンジは必死で眠ろうとした。夢精して下着を汚そうが、ちっとも嫌悪感は湧いてこなかった。ただカヲルの温もりが欲しかった。
カヲルは永遠に去ってしまった。二度と戻ってこない。それは、シンジには理解や認識以前の問題だった。カヲルはいなくてはならない存在であって、カヲルのいない状態はすでに考えられないのだった。
涙は出てこなかった。カヲルが死んでから、一滴も涙は流れなかった。ただただ寒くて、空しいだけだった。
シンジは毛布を手繰り寄せ、それを抱きしめた。冷たくてもいい、何かと肌を合わせていないと、存在することにすら耐えられそうになかった。
不意に扉がノックされた。
「シンジくん、入るわよ」
ミサトの声がした。シンジは返事をせず、かわりに眼を閉じた。
扉は開き、ミサトが入ってきた。
「ねえ、シンジくん。起きてる」
訊かずもがなのことを思いやりのつもりでミサトは訊いた。シンジは無言で背中で答えた。
ミサトは静かにベッドに歩み寄った。シンジの眼は閉じたままだ。
「シンジくん、いつまでもそうしていたって、何の解決にもなりはしないのよ」
穏やかに声をかける。しかし、シンジにはそれが表の雨音ほどに鬱陶しく感じられた。
「なんて分別臭いことを言うつもりはないの」
ミサトは声音も表情も変えなかったが、シンジは瞼を開いた。
「私にもシンジくんの気持ちが少しは分かるから。シンジくんがいつまででもそうしていたいっていう感覚は分かるの。でも、そうしてるのは辛いでしょう」
ミサトの声は穏やかで、淋しかった。シンジは自分と同質のものを感じ取った。
ミサトは言った。
「眠れないんでしょう、シンジくん」
シンジは答えるかわりに寝返りを打った。久し振りにミサトの顔を見た。
「寒いのね、可哀相に。あたしもね、寒いの。だから、二人で暖め合いましょう」
ミサトの顔がにっこりと、さすがのシンジすらも表情を動かすほど綺麗に微笑んだ。あまり綺麗で危険だった。
ミサトはTシャツを脱ぎ捨て、ジーンズの短パンを下ろし、パンティーを放ってしまった。スレンダーでグラマラスな肢体があらわになる。シンジはその姿に見入った。
「フフ、あたしの裸、初めて見るでしょ。綺麗?」
さっきとは一転して艶然と、冗談っぽく笑う。シンジは少し安心した。
ミサトの身体は確かに綺麗だった。男であれば百人が百人とも欲情を覚えずにはいられないだろう。しかしシンジは、欲情は覚えなかった。ただカヲルみたいに綺麗な身体が他にもあるんだという感慨を抱いた。
ミサトはシンジが被っていた毛布の端をめくり、シンジを追いやるようにしてベッドの中に潜り込んだ。ミサトの温もりと匂いがシンジの鼻をくすぐった。
「どう、こうすると少しは暖かいでしょう」
少しどころではなく、冷えきった全身の皮膚に体温があまねく染みわたる。シンジは強張らせていた表情を緩めて、小さく頷いた。
二人の視線がぶつかって、絡み合って一つになる。二人は小さく微笑んだ。
「でもね、シンジくん。本当はもっと暖かくなるのよ」
ミサトの手がシンジのカッターシャツのボタンに掛かった。シンジの身体が小さく震える。
「大丈夫、何も取って食おうなんて思ってないわよ。可愛いわね」
クスリと笑うミサトに、シンジは少しむくれてみせた。今のミサトになら少し心を開いてもいいような気がした。
ミサトは一枚一枚、ブドウの皮を剥くようにシンジの服を剥ぎ、自分と同じ姿にさせた。そのシンジを、きつく抱きしめる。
「ああ、シンジくん。暖かい。ずうっとこうしていたい」
直接合わせた肌は、熱いほどだった。シンジもうっとりと眼を閉じた。ここ数日間で初めて、表情を動かしたような気がした。
二人はしばらくそうしていた。シンジも、ミサトと同様にずっとそうしていたかった。ミサトの体温は、カヲルのものと同質だった。自分と同じものを抱えた、心の虚空が生む暖かさ。虚空を抱えていなければ感じられない暖かさ。狂おしいほどに触れ合いを求めるがゆえの発熱。それは気持ちよかった。
カヲルでなければ得られないと思っていた心地好さ。それをミサトの腕の中に見つけて、嬉しかった。背中を小さく丸めて、もっとぴったりくっつくように自分から腕をミサトの背に回した。
カヲルはその体温で自分を満たしてくれた。この温もりに包まれていられるなら、生きていたいと思った。初めて積極的に生きていたいと思った。生きていることの歓びを感じた。
ただシンジにとって不幸だったのは、初めてにしてあまりにも強烈な快楽を受け取ってしまったことだ。カヲルのくれるそれが、そのままシンジの生きていく理由となった。だからカヲルの死は、その喪失と同義だ。
なぜ、カヲルは死ななければならなかったのか。
「ミサトさん」
「え、なに?」
何日かぶりに聞いたシンジの声に、ミサトは声を跳ね上がらせた。
「どうしてカヲルくんは死んじゃったんだろう」
シンジの声は読み上げたように平板だった。ミサトはハッとしてシンジの顔をまじまじと見つめた。それは無表情だった。
ミサトの眼をじっと見つめて、シンジは唱えるように言葉を続けた。
「多分、怖かったんだ。怖かったんですよ。カヲルくんのくれる温もりが、快楽が。カヲルくんに抱かれていれば生きていけた。幸せになれた。そんなの初めてだった。それまでずっと僕には生きていく価値なんてなかったんだから。それは嬉しかったですよ。だから僕は必死でカヲルくんを求めたんです。そのことでミサトさんに心配をかけたことは謝ります」
シンジは小さく頭を下げた。ミサトは反応のしように困った。
「好きだった。僕にはよく分かりませんけど、多分愛していたのかもしれません。そして何より、僕に命をくれた。だから、怖かったんです」
ミサトにできることはそっとシンジの背を撫でることだけだった。
しばしの沈黙の後、ミサトは唇から言葉をこぼした。
「人の心には、自分の欲求を検閲して、それを歪曲する働きというものがあるのよ。自分の中にある道徳とか、常識とかといったものにその欲求が沿わない場合に働くの。シンジくんが生きていくうえでのポリシーというか、方針っていうのは、お父さんに捨てられて以来、ずっと分離不安を基底にしてきたの。逆にいえば、それによってしかシンジくんは生きられなかったの。常に不安に揺れていることこそがシンジくんの存在理由だったのよ。でもシンジくんは彼の出現によって、新たな、そしてはるかに快適な存在理由を見つけてしまった。ところがシンジくんの心は、それによってシンジくんが生きていくことを認めようとはしなかったの」
「だから、僕はカヲルくんを殺した」
「無意識の防御機制が働いたのよ」
ミサトは自分の顔から表情が吸い込まれていくのを感じた。
一度口を噤み、唇を舐めて湿らせてから、滅びの呪文を口にする審判者の面持ちでシンジに告げた。
「シンジくんの不幸な存在理由はお父さんが原因。つまり、あなたのお父さんが彼との幸せをつかむことを許さなかったといっても、言い過ぎではないと思うわ」
ミサトは大きく息を吸い込んで眼を閉じた。自分の唱えた呪文の効果を見るのが怖かった。
胸の谷間に肌触りのよい、暖かいものが押しつけられる。ゆっくりと眼を開けると、小さなシンジの顔がうずまっていた。
「父さんが、カヲルくんを殺したんだ」
ミサトは答えなかった。
「そう、気がついたら、エヴァがカヲルくんを握る手に力を入れてて、カヲルくんがお人形みたいに潰れて、ぼちゃんっていう音がしてカヲルくんの首が落ちて。僕は何もしていないのに、知らないうちに。殺したんじゃないんだ、死んじゃったんだよ。聞こえたよ、カヲルくんの身体中の骨が折れる音。カヲルくんが潰れる瞬間だって見ちゃったんだから」
「シンジくん、もういい!もういいの!」
ミサトは窒息させんばかりにシンジの頭を抱きしめた。シンジはされるがままだった。
「そんなこと、もう忘れよう。忘れられないかもしれないけど、カヲルくんは死んで、シンジくんは生きてるの、こうして。そのことだけは分かって。確かに彼はこの世の存在物ではなくなったわ。でも、あなたの中では生きてるんでしょう。その彼を、大事になさい。心の中で、彼と愛し合って、幸せをつかみなさい。それが今後シンジくんが選ぶべき道よ」
「思い出に逃げろって言うんですか。ミサトさんらしくないや」
「渚カヲルという人間は、シンジくんの中ではもう思い出になってしまったの」
ミサトの視線はシンジを射た。シンジは一瞬硬直し、そしてかぶりを振った。
ミサトは薄く笑った。シンジの小さな頭を軽くポンポンと叩いた。
「でしょう。現に、今でも眼の前から彼の顔が消えないんだから。夜寝ると、彼が現れて生きているときと同じように優しくシンジくんを愛してくれるんでしょう」
「うん、すごく優しくて、素敵なんです」
「こんなときに惚気ないでよ」
今度はしっかりと苦笑して、シンジの頭をクシャクシャと撫で回した。胸の中の小さな小さなシンジが、可愛くて仕方がなかった。今にも折れてしまいそうなシンジを、守りたかった。
シンジは上目遣いにミサトを見た。その眼は、初めて逢ったときよりもずっと青白い不安の灯し火に揺れていた。
「ミサトさんは、カヲルくんに溺れていていいって言うの」
「ええ、ポジティブにならね。その愛に閉じこもって、ネガティブにさえならなければ、それは決して悪いことじゃない。夜、眠りに就いてほんの一時現実世界から離れられる間くらい、自分だけの幸せに浸っていたって罰は当たらないわ」
ミサトはシンジから眼をそらした。それが自己欺瞞であることぐらい、ミサトにだって分かっていた。
シンジはベッドを這い上がり、ミサトの頬を抱いた。カヲルが、よくシーツの海の中でシンジにそうした。
「ミサトさん、やっぱり、加持さんですか」
「結構キツいとこついてくれるわね」
ミサトは苦笑いしてシンジの口唇をついばんだ。
「そう、今の台詞は私に言ったのよ。でも、勿論八割以上は本心だし、半分はシンジくんへの忠告だけどね」
「ミサトさん……」
「そんなシケた顔しなくてもいいのよ。ホントのことなんだから。あたしもね、死ぬほどシンジくんの気持ちが分かるのよ」
迷子の子供の眼をしたシンジに頬ずりをしてやる。シンジもミサトも、人肌の温もりなしには平生ではいられない。
「加持に、死なれたでしょう。あのあとね、シンジくんは知らないかもしれないけど、今のシンジくんと全く同じ気持ちだったの。別にこちらが拒絶してるわけじゃないんだけど、世界が入ってきてくれないのよね。もう何も手につかなくて、ただぼうっとしてたわ。それでウトウトと眠ると、加持が出てきて抱いてくれるの。今だから言っちゃうけど、生きてるときより優しくて、それで眼を覚ましちゃうの。眼を覚まして空しくなるの」
「僕もそうです。男は、ほら、特にそうですから」
「可哀相に。だからシンジくんの気持ちが切ないほど分かって。あたしにはこんなことをしてあげるぐらいしかできないから。カヲルくんみたいにはいかないだろうけど」
ミサトはシンジの乾いた口唇を吸い、下半身に手を伸ばした。ミサトの手は熱かったが、シンジのそれは、冷めていて力がなかった。指先でしばし玩んでも、力をみなぎらせるようなことはなかった。
シンジは口唇を離して、泣き出しそうな顔で笑った。
「ミサトさん、いいですよ」
「どうして、シンジくん、あたしとしたくないの?」
「違いますよ、そうじゃないんです。ミサトさんみたいに素敵な女性と、……したくない男なんていないと思います。でも、今はイヤなんです。だって、空しいじゃないですか」
「空しい?」
「そんな、傷を舐め合って慰め合うようなセックスなんて、一人でするより空しいですよ。そういうのは夢の中だけで十分です。今は、こうして静かに抱き合っているだけで十分です」
「そっか」
ミサトは自嘲気味に笑った。そのくせ、いじけたようにシンジの股間をいじくった。
「あたしは加持の代わりをシンジくんに求めちゃってたのか。あたしって学習能力ないわねえ。まーた同じこと繰り返してんだもんね。ごめん」
「僕のほうこそごめんなさい。別にミサトさんを責めてるわけじゃないんです。僕だってそんな生意気言える立場じゃないですから。ちょっとミサトさん、やめてくださいよ。……おもちゃじゃ、ないんですから」
シンジはミサトの手を遮った。本当にミサトは幼児が自分のおちんちんを弄ぶようにシンジのをいじくっていたのだ。
ミサトは、打って変わってたがが外れたように陽気な笑みを浮かべた。
「だってシンジくんのって柔らかくて可愛くて面白いんだもん」
「そ、それって、どういう意味ですか!」
シンジはトマトのように真っ赤になって叫んだ。皺くちゃになった白いシーツの上に、全裸の身体を隠しもせずに乱暴に座った。真っ赤な頬が、それこそトマトのように膨らむ。
「メンゴ、メンゴ。冗談よ、冗談。でも、シンジくんにはそういう屈託のない表情が一番お似合いよ。辛気臭い顔じゃなくてさ」
ミサトの笑みにつられて、シンジも相好を崩した。
「なんだか久し振りに、真面目に人と話して、笑ったような気がします。ずっと、こういう普通の人の感覚っていうのを忘れてました」
「あたしもそう。殆ど喋り方を忘れかけてたもの。シンジくんがいなかったら本当に廃人になってたかもしれない。シンジくんと二人で、本当によかった」
ミサトは眼を閉じて、もう一度強くシンジを胸の中に抱きしめた。肌の内に秘めた温もりをもっともっとじかに感じられるように。この温もりがあれば、なんとかこの今を生きていくことができるから。
シンジも、ミサトの背に回した腕に力を込めた。少なくとも、生きている人間のこの温もりだけは信じられる。裏切らない。そして、自分はその信じられるものをここに持っている。二度と帰らないものよりもそれは、はるかに優しいのだ。
二人はお互いの顔を見合わせた。お互いの顔に光のような生気が兆しているのを確認して、微笑みあった。
「シンジくん、もう寝ましょう」
ミサトが囁いた。
「今夜は久し振りにぐっすり眠れそう」
「それに、もう空しい朝を迎えないですみそうです」
「そう、そうね。もうあたしたちは、寒くないんだもんね」
二人は寄り添って、温もりを伝え合うことによって愛を確かめる赤子と母親になって、ベッドに横になった。
あとは、もう染み透るような眠りが待つだけである。
「おやすみなさい」
「おやすみ」
静かに瞳を閉じた。
(FIN)
あとがき
私は今、人類補完計画というものに大変批判的である。あんなものがあるためにあの作品は愚作になり下がってしまったのだ。したがって、現在私が最も興味を持っているのが、本編では描かれることのなかったカヲル死後の人間関係である。それは一種のパロディーではあろうが、創作行為でもありうる。これはその一つである。別にそういう意図を持って書き始めたわけではないが―本当はカタルシスなどを用意するつもりはなかったのだ―、結果として本当の意味での人類の補完とは、というようなことをテーマにした話になった。結局人というのはこんなものだろう。現在の私はあんなご都合主義なカタルシスなど認められない、という結論に達している。