「ええ?何でボクが綾波の部屋にいかなきゃいけないんですか」
 シンジの携帯電話。二月くらい前まで、その職務を一切果たしていなかった電話。今では、かけてくる相手は四、五人位で固定化しているが、とにかく役には立っている。

 五時間目が終わっての十分間の休み時間。その慌ただしい時間に、ミサトからコールが入ったのである。
「どういうことですか」
『今日レイ学校休んでるでしょ』
「ああ、そうですね。どうしたんですか」
『ここんとこチョッチハードな訓練が続いたのよね、レイ。もともとレイは丈夫なほうじゃなくてさ、そんで、体調崩しちゃって』
「そういえば昨日は早退しましたね」
『そう、具合悪そうだったんで熱計ってみたら九度もあるんだもの。びっくりしちゃった。それで昨日は早く帰したわけ。さっき一応tel入れてみたら大丈夫だとは言うんだけど、レイの大丈夫
っていうのはイマイチ当てにならないじゃない』
シンジは思わず頷いた。
「でも、ただの風邪でしょ。薬飲んで寝てれば、放っといたって治りますよ」
『シンちゃん、レイが人並みに自分の身体を大事にすると思う?』
シンジの頭の中で前に行ったレイの部屋の中がフラッシュバックした。なるほど、今回については何か見え透いた魂胆があるわけではなくて、単に自分しか適任者がいないだけの話のようだ。
『あたしやリツコが行ければいいんだけど、手が離せないのよね。まさかアスカを行かすわけにもいかないし。それとも、女のコの部屋に一人で行くのはおイヤかしら?』
「そんなんじゃないよ!行くよ、ボクだって仲間が病気っていうんじゃ心配だもの」
突然大きな声を出すので、周りにいたクラスメートの数人がシンジを振り返った。シンジは慌てて手を振った。

 受話器の向こうのミサトの声が和んだ。
『そう、そうしてくれると助かるわ。別に大したことしてくれなくても、薬飲ませて、ちゃんとご飯食べてるか監督して、寝かしつけてくれればそれでいいわ』
「分かりました」
『レイにはその旨伝えておくから。そうだ、それと悪いんだけど今晩あたし帰れないからさ、夜はレイの面倒見るついでに、食事の支度して一緒に食べてきてよ』
「はい、分かりました」
『シンちゃん、あたしが帰ってこないからって、レイになんかワルいことしちゃダメよ』
「するわけないじゃないですか!な、なに言ってんの、ミサトさん!」
教室中にシンジの声が響き渡った。みんなが振り返ったが、それは多分ミサトの名前を叫んだからだろう。
『バカねえ。そんな心配があったら頼んだりしないわよ。からかいがいのあるヤツ。ま、それはともかく、レイのこと、よろしくお願いね。グッバ〜イ』
チュッとキスの音が耳に飛び込んでくる。シンジは、年甲斐もなく、と呆れてラインを切った。

 シンジは電話をしまって溜め息を吐く。風邪で寝込んでいる仲間の看病をするのはちっともイヤではないが、レイといると今いち調子が狂う。レイは決して自分から歩み寄ろうとしない。だから、コミュニケートするさいにはこちらから歩み寄らなければいけないが、シンジはそれがひどく苦手だ。

 しかも、レイのほうは気にしている素振りはつゆとも見せないが、前にいったときに大失敗をやらかしている。何となくあの部屋で二人きりになるのは気恥ずかしい。

 しかし、引き受けてしまったのだし、高い熱を出しているレイを一人にしておくのは心配だ。色々準備していかなきゃ、と踏ん切りをつけて、机の中から物理用のソフトを出した。

 いきなり後ろから肩を叩かれて、シンジは椅子の上で飛び上がった。
「な、なんだよ!」
「ミサトさんやろ、今の」
「新しい使徒の襲撃でもあったのかい」
委員長の言う、三バカトリオのお揃いである。
「いや、別になんでもないんだ。ちょっと用事を言いつけられて」
「羨ましいなあ、ミサトさんに電話で用言いつけられるなんて」
トウジは両手を胸の前で握り合わせた。
「どこがいいんだよ。夜宿題やってるときにコンビニにビールのつまみ買いにやらされたりするんだぜ」
「ええやないか。ミサトさんのお役にたてるんやで。たとえばや、宿題をやってる最中にミサトさんに頼まれてコンビニに走っていったとする。せっかく憶えた方程式も分からなくなるし、くたび
れるし、さんざんや。けどな、部屋に帰ってきて、『シンちゃん、ありがとう』なんて言われてみいや。そんなブルーな気分なんか速攻でブッ飛ぶやろうが」
裏声まで使って力説するトウジに、シンジもケンスケも唖然とした。

 別にミサトにいいように使われるのは別にイヤじゃない。本当に心を許していなければ、気安く物を頼んだりはできない。それぐらいの分別はつけられるようになった。

 ただ、今回に限り気が進まないのは、相手がレイだからだ。

 一緒の部屋で生活しているアスカに対しては、特にこれといった特別な気持ちを抱くことはないのに、レイといると、妙に彼女の存在を意識してしまう。ソワソワしてしまって落ち着かない。なぜだか分からないが、身体も頭もいつものように動かなくなってしまう。何だかまたとんでもない失敗をやらかしそうな気がする。

 教師が入ってきて、めいめい散らばっていた生徒が自分の席に着く。号令とともに椅子に腰掛けて、シンジは授業と関係なく妙な決意をした。

 六時間目が終わって、シンジはいつものようにトウジやケンスケとつるむこともなく、真っ直ぐ家に帰った。レイの部屋にはろくに食べ物もなさそうなので、行く前に準備をしなければいけない。

 第三新東京市にくるまでの一人暮らしで、すっかり主婦根性が身についてしまった。レイに食べさせるご飯用に、卵とニラ、それにヨーグルトとアイスクリームを買い込み、カッターシャツにナップザック、スーパーのビニール袋という、ミスマッチな格好でレイの部屋のある団地へと向かった。

 人気があまりなく、工事の騒音が激しい上に残暑の熱気が陽炎いで、さながら砂漠を思わせる。人間らしい雰囲気の空間ではない。居心地が悪い。
 その中でも特に、レイの部屋は生活感に欠けているような気がする。前にいた自分の部屋だって、その中でほとんど生活らしい生活をしたとは思えないが、それでもこれよりはもうちょっと温もりというか、ドアに体温がこもっていたと思う。何だか、空き室よりも冷え冷えしていて、こっちまで孤独に囚われるような気がしてくる。

 ドアホンは鳴らない。
「綾波ーっ、入るよ!」
シンジは鉄の塊に向かって怒鳴った。返事はなかったが、拒絶もされなかった。例によって鍵の掛かっていないドアノブを回し、埃っぽい部屋の中に入った。

 電気は点いていなかった。シンジは意地になって玄関から片っ端から電気を点けた。
「どう、綾波、具合は。ちゃんと寝てる?」
レイはベッドの上に起き上がって、本を読んでいた。シンジの声を聞いて一瞬視線を上げ、そしてすぐにまた活字の上に戻した。普段は青白い頬が、熱のせいで紅潮している。
「本なんか読んでちゃダメじゃないか。ちゃんと寝てなきゃ」
「葛城三佐から話は聞いたわ」
噛み合わない会話にシンジはしばし絶句したが、気を取り直した。
「じゃあ、今日のところはボクの言うことをちゃんと聞けよ。ミサトさんの代理なんだから。とにかく、ベッドに寝て。いつまで経っても熱が下がらないよ」
すっかり母親の声音になって、言い渡した。レイは表情一つ変えずに、本を置いて身体をベッドに委せた。なるほど、扱いやすい病人かもしれない。

 シンジは、トウジやケンスケが見たら腹抱えて笑うだろうな、と思いながら、制服の上に持ってきたエプロンを着けた。
「ところで綾波、ちゃんとご飯食べたの」
台所を覗いて、流しを使った形跡がないのを見て訊いた。
「いいえ」
「どうして」
「葛城三佐にとにかく安静にしてろって言われたから」
「……いくら安静にしてろって言われたからって、ちゃんと栄養を採らなきゃ早くよくならないよ。ちょっと早いけど、今綾波でも食べられそうなもの作るから、ちょっと待ってて」
手を洗おうと思って流しを見回したが、石鹸がない。洗剤もない。シンジは溜め息を吐いて、買い物袋の中から石鹸を取り出した。
「石鹸ぐらい用意しときなよ。ちゃんと石鹸で手を洗わないから、こんな時期に風邪ひくんだよ。それで、熱は少しは下がったの」
熱をみようと額に手を伸ばして、触れたところでシンジの手はレイに邪険に払われた。
「あ……」
「ごめんなさい。わたし、あんまり人に触わられるのに馴れてなくて」
「あ、そう……。じゃあ、そこの体温計で計って」
シンジは動揺を押し隠して言った。しかし、それは我ながらあまり上手くいかなかった。

 蠅のように手を追い払われたことはなんでもない。しかし、相手がレイであるのが、シンジにはこたえた。他人とのコミュニケーションの拒否が著しいレイのことだから、接触嫌悪もいた仕方ないのかもしれないが、同じエヴァンゲリオンのパイロットとして、自分はレイの中でそれなりの地位を確立したものと思っていた。それを今、それはおまえの思い上がりである、とレイに指摘されたようで、一瞬身を切る木枯らしにさらわれたような気がした。

 デジタル体温計は、十五秒で体温が分かる。アラームの音で、シンジは我に返った。
「どれどれ」
顔に近づけると、微かにレイの匂いがする。ついさっきまでそれはレイの脇の下に挟まっていたのだ。シンジはこっちの体温も上がるのを感じた。
「八度七分か。まだ高いな。ちゃんと熱冷まし飲んでるんだろう」
「ええ」
「じゃあ、やっぱりちゃんと食べてちゃんと寝ないからだな。ご飯できるまで少し寝なよ。食べて寝れば、すぐよくなるから」
早口にそれだけ言って、台所に逃げ込んだ。そういつまでも、熱にうかされた瞳でジッと見つめられていたのではたまらない。

 しかし、そんなことを考えていたらキリがない。何しろ、熱を出している病人が部屋を閉め切って丸一日寝ていたのである。レイの身体の匂いが部屋中充満している。シンジは乱暴に頭を振って、嗅覚中枢の中のレイの匂いを追い払った。

 冷蔵庫を開けると何も入ってはおらず、そもそも電気が入っていなかった。そのほか本来野菜などを保管するための場所を探しても、食料は見当たらなかった。レイの部屋には米すらないだろうというシンジの直感は当たっていた。まさか、とは思ったが、戸棚を開けるとちゃんとヤカンと鍋が一つずつあった。シンジはややホッとして、ヤカンのほうにミルクをあけ、小鍋のほうに温めるだけで食べられるすでに炊けているご飯をあけて、おじやを作る。

 何から何まで用意してきてよかった、とシンジは胸を撫で下ろした。「食べる」ことに関係するものが、いま使っているヤカンと鍋と、一つのマグカップ以外には何一つなかった。食べ物は勿論、食べるために使う道具すら一つもー箸もーなかった。食べることは生きること。生命に執着を見せないことへのレイの徹底さに、鬼気迫る想いがした。

 鍋に入れる前に、水を一口飲んでみて、なぜ鍋とヤカンがあるのか分かった。鉄サビの味でとてもそのままでは飲めないからだ。鍋には、レイに飲ませる湯冷し用のミネラルウォーターを入れた。

 ナップザックに入れてわざわざ持ってきたボウルや食器類を並べると、やっと生活感のある台所になった。ボウルに卵をあけ、菜箸でといてご飯の上に流し込む。おじやが煮えてくる。ニラをきざむ音が響く。急速に生活感が部屋中に広がる。

 牛乳が温まったので、マグカップにあけてレイに持っていった。レイは眼を閉じていたが、眠ってはいなかったらしく、声を掛けるとすぐに眼を開けた。起きようとするのに手を貸そうかと思ったが、思い止まった。
「これ飲んで、身体温めて。汗かくと熱すぐ下がるから。熱いから気をつけてね」
「ありがとう」
レイはカップをシンジの手から受け取った。そのときちょっと手と手が触れ合ったが、レイは反応しなかった。

 口元にカップを持っていき、唇を尖らせてフーフー吹く。そんな仕種に十四歳の少女を垣間見て、シンジは慌てて台所に戻った。

 おじやがちょうどよく煮えた。鍋の中で、グツグツ煮えて美味しそうな湯気と匂いを立てている。小学生の頃、シンジは扁桃腺が弱くてよく熱を出し、こんなおじやをよく食べた。自分で作って。だから、この鍋の中身は辛い記憶だ。

 お椀に半分くらいを盛って、レンゲを添えてレイに持っていく。
「食べられるだけでいいけど、できればたくさん食べるんだよ。まだあるから」
「ありがとう」
お椀片手に熱いおじやをフーフー冷ましながら食べるレイの姿は、やはり可愛らしい。シンジは顔がほてるのを自覚して、俯いた。
「どう、味濃すぎない。煮過ぎちゃったかな。大丈夫?」
「ええ」
例によってレイは口数少なかったが、少し抑揚がこもっていたような気がした。

 レイは結構よく食べる。さすがにおなかが空いたのだろう。食欲があればすぐ治る。シンジは安心した。

 結局、レイの食べる姿をジッと見ていた。ちゃんと「食べ物」を食べている。人間らしい、生きていこうとする意思が感じられる。もう別れ際に「さようなら」なんて台詞を聞かなくてもよさそうだ。

 レイはお椀の中身をすぐに空っぽにしてしまった。
「おかわり?」
「ええ、お願い」
ホットミルクも飲み干されている。熱のせいで水分が足りないのだろう。すぐ湯冷しを作ってやらなきゃ、と思う。

 残りのおじやを全部持ってくると、また美味しそうに─少なくともシンジにはそう見えた─食べ始めた。
「なに?」
シンジがあまり熱心に食べる姿を見つめているので、訝しげに訊いた。シンジは慌てた。
「あ、あの、いや、別に、そのう、何て言うか、だから、よっぽどおなか空いてたんだなあって」
「そう」
額の汗は部屋にこもっている熱気のせいだけではない。
「リ、リンゴをすったの持ってくるから。喉乾いたろう」
動揺を隠すのが下手な自分に腹が立ってくる。心臓が躍っている。変なところで女の子になるからだ、と妙な理屈をつけて弁解した。

 リンゴをおろし金でおろしながら、どうしてこんなにまでレイのことが気になるのか考えた。自分から他人とのコネクションを作るのが苦手なシンジには、接続口が閉じてさえいるレイのようなタイプは敬遠したい部類の人間のはずだ。それなのになぜ、閉じたままの接続口を恨めしげに眺めるような真似をするのか。

 似ているからかもしれない、と思った。自分はコネクターを開けたままにして、他人からそこにケーブルをつないでもらおうと一生懸命人の顔色を窺っていて、レイはそうではない、というだけの話だ。結局他人との接触を好まないという点においては同じだ。だから、二人とも淋しい。

 シンジの孤独は歪んだ形で表れる。レイの孤独は奥深くに幽閉されて決して出てこない。その孤独に魅きつけられるのかもしれない。

 イヤな音がして、それから痛みが続いた。ふと、アスカの口癖が恋しくなった。

 血で汚さないように気をつけて、おろしたリンゴを小皿にいれて持っていった。
「どう、急にご飯食べて気持ち悪くなったりしない?」
「ええ」
「そう、よかった。じゃ、今湯冷しと薬持ってくるから」
もう動揺したくないので、空の食器を持って早々に退散した。しようとした。
「どうしたの?」
レイは右手の薬指から手首にかけてできた赤い流れに気づいた。はずみの傷なのでかなり深く、出血も多い。絆創膏までは持ってこなかった。
「あ、いや、さっきおろし金でちょっと……」
「そこに包帯が入ってるからそれを使うといいわ」
レイはシンジの背後の収納ボックスを指差した。シンジは指先の行方を追った。

 その隙に、レイはシンジの右手を取り、薬指の血を舌で舐めとった。
「な、なにを……!」
「血がこんなに出てるわ。早く止血しないと」
色の薄い唇が二つに割れて、もう一度血と同じ色をした舌が顔を覗かせる。

 劇的な反応だった。恐怖にかられたわけでもないのに絶叫し、怖しい力でレイの手を振りほどいた。あまり強く力を入れたので、勢い余ってひっくり返ってしまった。左手に持っていた食器が派手に合唱した。

 気がついたときには、不様な格好で尻餅をついていた。レイが冷たい瞳で見下ろしている。何か弁解が必要になった。
「いや、あの、その、何て言うか、突然指を舐められたもんだからちょっと、あわ、慌てちゃって。ゴメン、散らかしちゃって。今片すから」
散らばったお椀やカップを拾って、足をもつれさせながら台所に駆け込んだ。

 台布巾を引っつかんで、絨毯の汚れたところをゴシゴシこする。上を見ることはできなかった。布巾を汚すのは、こぼれたものではなく積もった埃だった。

 掃除もそこそこに、そそくさと台所に戻った。布巾を洗い、ミネラルウォーターを鍋にあけて火にかけるにつれて、落ち着いてくる。そして、疑問が頭をもたげてくる。

 傷口を見つめてみた。レイが舐めたあとから、また出血して赤黒い盛り上がりができている。なぜかちっとも痛くない。そうすれば答えが見つかるような気がして、レイがしたように傷口を舌先で舐めた。

 すると、不意にエヴァを思い出した。LCLは血の臭いがする。だから、レイは突然あんなことをしでかしたのだろう、と疑問に終止符を打った。

 エヴァを引き合いに出すと、途端に溜飲が下がって、平気な顔でレイの前に出られた。さっきレイが指差した収納ボックスを開けた。
「綾波、包帯使わせてもらうよ」
「ええ」
包帯は一応洗ってあるみたいだったが、巻きもせず乱雑に積んであった。そのうちの一枚を短く切り、傷口に巻いた。すぐに白い布に赤い染みが広がった。

 ヤカンのふたを開けて、煮え立つ熱湯を見てやっと平常心に戻った。
「そう、綾波の行動ってときどき突拍子もないんだよな。だから、こっちも調子が狂っちゃうんだ」
面積の拡大が止まった赤い染みを見た。何も考えずに、レイの舐めたあとに自分もそこを舐めてしまったが、よく考えれば間接キスと取れなくもない。頬が包帯の染みよりもずっと鮮やかに染まった。

 薬を飲ませれば、取りあえずシンジの仕事は終わりだ。薬と湯を嚥下するレイの細い喉の動きを見つめて、一仕事終えた気分になった。気が緩んで、肺から一気に空気が抜けた。

 レイが眠る前に、シンジは冷凍庫の中から氷枕を出してきた。
「まだちょっと熱があるからこれをして眠ると気持ちいいよ。よく眠ればすぐ熱なんか下がるからね」
「碇くん」
「なに」
「今日は、色々ありがとう」
唐突な礼に、シンジはどう返事したらいいものか咄嗟には分からなかった。レイが自発的に自分に
言葉をかけてくること自体が珍しいのだ。
「い、いや別に。大したことはしてないよ。仲間が熱を出したっていったら、やっぱり心配だろう。
それじゃ、おやすみ」
「おやすみなさい」
レイが眼を閉じる。翌朝、次に眼を覚ますときには大方熱は下がっているだろう。シンジは閉じられた瞳にもう一度おやすみをした。

 静かに台所であと片付けをする。水の音を聞きながら、シンジはさっきのレイの「ありがとう」を反芻していた。受け応えとしてではなく、純粋に感謝だけを表した「ありがとう」。感謝は裏を返せば最上級の信頼であることを、経験で知っている。シンジは無性に嬉しくなった。

 食器洗いを終えて、時計を見た。もう七時を過ぎている。そこでようやくシンジは空腹を感じた。ミサトに言われた通り、ここで夕食は済ますことにした。

 自分のは簡単にレトルトのカレーを作り、レイの隣りに腰掛けて食べた。レイの規則的な寝息が聞こえる。額にそっと手をやると、さっきよりは少し冷たくなったような気がする。安心したせいか妙におなかが空いて、いつもならカレーを一杯食べれば満腹になるのに、余った卵でゆで卵を二つ作って、食べた。

 レイが眠りに就くのも見届けたし、本当はもう帰ってもよかったのだが、まだ急に具合が悪くならないとも限らないので、シンジはもう少しいることにして、今日の宿題を広げた。

 広げたはいいが、一向に集中できなかった。レイが気になる。安心しきって眠る姿は、無邪気で可愛かった。いつもは全てを遮断しているが、今は無防備で、簡単に触れることができる。その普段とのギャップが、生の、ストレートタッチのレイというのがどういうものなのか、非常な好奇心をそそるのだった。しかし、ちょっとでも触れたら、砕けるように壊れてしまうような気がする。それが、好奇心を満たすのをためらわせている。

 ただ、一度だけどうしても我慢できなくなって頬を軽く撫でてみたが、ひどく肌理が細かくてなめらかで、繊細だった。触れた瞬間、爆発するかと思うほど胸が高鳴って、鼓動の音がレイに聞こえてしまいそうで、慌ててレイから離れた。それから、シンジはレイに近づいていない。

 寝息は穏やかでシンジのところまでは届いてこないが、布団の胸のあたりが規則的に上下している。レイは壊れてなんかいない。

 帰ろう、とシンジは決めた。こんな気持ちでレイのそばにいるのは自分の中で許されないし、レイにも失礼だ。自分はそれほど自分の理性に自信がないし─邪なことはこれっぽっちも考えていないが─、就寝中でバリア解除の状態のレイの中に踏み込むのは卑怯だ。だから、自分はとっとと帰るほうが得策だと思った。
 シンジは荷物をたたみ、レイに必要そうだと思うものは置いて、帰り支度をした。できるだけ物音を殺して、まるで間男かこそ泥が逃げ出す体で、食器が崩れたりして音が立つと、ビクついてしまって、そのたび苦笑いが漏れた。

 荷物をまとめ終えて、背負って部屋を出ようという段になって、レイに声を掛けられた。
「帰るの」
「え、ああ、起こしちゃった……かな」
別にそんな必要もないのに、脇の下から汗が流れた。
「ちゃんと寝ついたし、もう大丈夫かなあって思ったから」
「もうちょっといてくれる」
「え?」
「もう少しいてくれる」
「え、まあ、そりゃ構わないけど」
「じゃあ、お願い」
そうだけ言って、レイはもう一度伏せって眼を閉じてしまった。シンジはナップザックを背負いかけたままのポーズで固まってしまった。

 結局、荷物を下ろして、レイの隣りに腰掛けた。どういうつもりでレイが自分にここにいてほしいと頼んだのか分からなくて、シンジは考え込んだ。まさか自分にある一線を越えても構わないというサインではないだろうが、それでも周りにいて拒絶されない程度の信頼を勝ち得たとは考えてもいいのだろうか。それってただ単に人畜無害っていうんじゃないかな、とも思ったが、レイの人畜無害の基準は高そうだ。素直に喜んでもいいのかもしれない。

 レイは眠っている。吐息を送り出す唇はかすかに開いて、白い歯がこぼれている。思わず魅き寄せられそうで、慌てて首を引っ込めた。

 こんなに生き生きしているレイを見るのは初めてだ。いつもは、周到に張り巡らせられたバリアが、精気を覆い隠している。それがないレイは、ただの十四歳の少女だ。

 ふと、レイが宝物のように大切にしているゲンドウの壊れた眼鏡を思い出した。レイはゲンドウにだけはバリアの一端を開く。レイは、息子である自分にゲンドウの影をダブらせているのではないだろうか。それは屈辱的な思いつきだった。断じて認めてはならないことだった。自分があの父親の代理にされている。自分を通してあの父親を見ている。自分という存在は否定されて、あの父親だけが存在を是認されている。急激にゲンドウが憎らしくなった。

 しかし、胸の中に嫉妬、という言葉が浮かんで、怒りは驚きに変わった。父親に嫉妬している。
レイの心の中を占めているのが自分ではなく父親であることに、嫉妬している。そんな気持ちは、つまりレイに対して……。

 そんなことあるはずがない、と思い、同時にまさか、と思った。そして、それはいけないことだと思った。今はまだいけない。レイの寝顔にそう言った。

 レイの安らかな寝顔を見ていると、それでもいいような気がしてきた。たとえ自分の顔がゲンドウに見えていても、それでこんなふうな寝顔が見られるのなら、許せる。取りあえずゲンドウへの嫉妬は脇に置いておいて、今はレイの気持ちを穏やかに柔らかくしておいてあげたい。そう思って、シンジはレイに微笑んでみせた。

 レイも、嬉しそうに微笑んだ。
                                                             (FIN)

(95/12/28記)

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