はじめに

 本来、私は「エヴァ」の最終回を見たあとは、多角的な見方(専門用語の解説・ストーリーやキャラクターの分析・批評等)からエヴァを総括し、最終報告と銘打って発表するつもりだったのだが、エヴァの最終回がかくのごとき有様だったので、全く当初の目的が果たせなくなってしまった。そこで、一応唯一完結した(と思われる)碇シンジ君の自我の変遷についてだけでも、第四次中間報告と銘打って分析結果を報告する次第である。

 前回の第四次中間報告では、フロイドのリビドー理論に基づいてキャラクターを分析したわけだが、報告書をまとめている段階から、視野狭窄に陥っているという思いは否定できなかった。しかし、あれはあれで間違っているとは少しも思っていない。ああいった見方も十分に説得力を持つと今でも確信している。しかし、先の報告書はアプローチの仕方が一面的で、到底十分とはいえない。

 そこで、今回はもっと総合的な視野からシンジ君を見つめていこうと思っている(こちらにそれをするに足る知識と能力があるかについては、首を傾げざるを得ないが)。

 この報告書における主題は、シンジ君の分析以外にももう一つある。それは「人類補完計画」の意義である。勿論、現段階ではその物理的方法等一切明らかにされてはいないが、内容については明確になっている。ここでは、その内容と意義を、シンジ君の自我の変遷や現代社会の構図とも関連づけて記述をしようと思っている。

 浅学非才たる私の力量では、とても皆さんに納得していただけるものが書けるとは思えないが、とにかく必死であがいてみる所存である。少し長い文章になると思うが、どうかお付き合いいただければ望外の幸せである。                              筆者

碇シンジ君の自我の軌跡

 彼の自我を語る上でまず最初に念頭に置いておいていただきたいのは、彼の内面描写においても度々登場する、幼い彼が駅のプラットホームで荷物とともに放り出されて泣いている場面である。事の真相は明らかにされていないが、彼の話すところによれば、あれは父ゲンドウに捨てられたときの様子である。このときの体験が元になって、彼は父親に嫌われないように、ひいては他のあらゆる人に嫌われないように他人の顔色ばかりを窺う人間になってしまった。これが彼の自我の出発点である。

 シンジ君が幼児体験から得てしまったこの種の不安は、去勢不安と呼ばれる。作中に度々出てきた「不安」という言葉の正体も、これである。子供が興味から、あるいは快感が得られるからとオチンチンをいじっていると、父親(あるいは母親)は、世間一般に流布している道徳的観念から、それをやめさせようとして、「あんまりオチンチンをいじってると、オチンチンをちょん切っちゃうぞ」などと脅かす。子供のほうはこの脅しに大変な恐怖を抱く(幼児にとってペニスが男性としての自我の大きな拠り所であることを説明する必要はないだろう)。このことを象徴的に、親(あるいは社会的絶対権威)から脅迫を受け、それに対して人が抱く不安が去勢不安なわけだが、シンジ君の場合は、単なる脅しにとどまらず、実際に父親に捨てられてしまい、父親から隔離されてしまったのだから、その不安は並々ならぬものであり、他人の顔色ばかり窺う人間になってしまってもそれはむりからぬことだろう。普通の人間は不安に打ち勝ち、それを拭い去って自我を確立していくのだが、彼の場合は打ち勝ちようがなかったのだから。

 しかし、そのとても怖しい父親に呼ばれ、エヴァンゲリオン初号機に乗るように命じられた瞬間、シンジ君の不安との戦いが始まる。不安に打ち勝つためには、まず父親と対等な立場で対峙しなければならない。そのために、彼の場合エヴァに乗ることが求められたのだ。エヴァに乗らない、これまでと同じ生活を続けるという選択肢も当然彼の中にはあった。しかし、それではいつまで経っても自分は不安の虜だ。それが分かっていたから、彼は「逃げちゃだめだ、逃げちゃだめだ!」と連呼したのである。

 彼は幼い頃から心に暗い影を落としていた去勢不安を解消する機会を与えられた。しかしながら、その一方でそれまでの彼が経験したことのない新たな問題が彼の身に降りかかることになったのである。

 エヴァのパイロットとなることで、彼はネルフの一員となった。その瞬間、彼は社会の構成員になることを強いられたのである。勿論、それ以前にもシンジ君は社会に身を置いていた。例えば学校である。しかし、学校という場は、そこに所属はしていても他人との接触を任意に拒否できる社会であって、転校したてのときの彼の様子からして、彼は学校社会の構成員になることを拒否し続けてきた。しかし、ネルフという組織は、その性質上所属した以上は構成員として積極的に関与することを求められる。まして彼は最前線に立つエヴァのパイロットである。

 どんな社会でもそうだが、その社会の構成員は一つの共通の理想や理念を持っている。ネルフの場合は、使徒を倒して地球を守ることである。こういった社会が持っている共通理想や理念を集団幻想と呼ぶが、シンジ君はネルフの一員になって初めてこの集団幻想に接した。ネルフという社会の一員になった以上、彼もこの集団幻想を持つように求められる。そのとき彼が、一つの確固たる集団幻想を持ったネルフという社会に飲み込まれてしまうのではないかという恐怖を抱いたのも当然の過程である。初めて社会というものに触れた彼が、社会との距離の取り方を知っていようはずもない。第四使徒との戦闘の折に彼が発した咆哮は、この社会に対する恐怖の咆哮である。

 そして、彼はいわゆる「ヤマアラシのジレンマ」を抱くようになる。ここで一つ注意を喚起しておきたいのだが、作中ではこのジレンマをミサトとの関係において象徴的に描いているが、それはあくまで特務機関ネルフの葛城ミサト一尉に対してだけであって、私人葛城ミサトに対しては当てはまらない。私人である彼女に対するシンジ君の態度は、依然としてもともとの人の顔色を窺ってばかりいる性格に基づいている。彼のヤマアラシのジレンマは、ネルフという社会に対するものであるので気をつけていただきたい。

 さて、ジレンマに耐えきれなくなった彼は、一番安易な解決の道、つまりネルフから逃げ出すという道を選び、紆余曲折の末再びネルフに戻るわけだが、肝心なヤマアラシのジレンマは一切解決されていない。シンジ君がネルフに戻って再びエヴァに乗る決心をしたのは、トウジとケンスケに自分のしたことを褒めてもらったからである。自分はいいことをしたのだと認めてもらったからである。ここでジレンマが解決されなかったことが、これ以後もエヴァのパイロットとして円滑にネルフと付き合うことができない原因となる。

 しかし、彼はヤマアラシのジレンマを放置したかわりに、彼の自我にとって大変大きな武器を手にいれた。エヴァンゲリオン初号機という脆弱な自我を守る殻である。厳密にいえば、トウジとケンスケの言葉によって、エヴァがその殻になり得ることに気がついたのである。自我を守る殻、言いかえれば居心地のよい自我の居場所である。

 人は生きている以上、居場所を必要とする。空間的なものも勿論そうだが、心の居場所、拠り所というものも不可欠である。人によってそれは様々である。その居場所を、シンジ君は当初ネルフの中には持っていなかった(家に帰れば自室に閉じこもれる)。持っていないと思っていた。ところが、エヴァに乗っていればみんなが社会的評価をくれる。エヴァに乗っていれば、エヴァの中にいれば、ネルフという社会の中でうまくやっていける。エヴァこそが自分が社会に適応するのに必要なもの、つまり居場所であることに気がつくのだ。そして彼は社会からの疎外感を解決する。エヴァによって使徒を倒したことを父に褒められて以後、シンジ君のエヴァへの依存度は高くなる。(余談だが、この依存度が限界を超えて高くなっているのがアスカである。アスカについては以後の報告で詳述することになるだろう。また、第弐拾四話でカヲルが言った、「帰る家、ホームがあるという事実は幸せにつながる。よいことだよ」という台詞も、つまりは人間にとっての居場所の重要性を語ったものである。)

 自分の居場所を見つけたことによって、シンジ君の自我は一応の安定を見せる。勿論その間も様々な事件が起こっているが、彼の自我に直接的な影響を与えるようなことは起こっていない。使徒に飲み込まれた際のことに関しては第四次中間報告にて詳しいのでそちらを参照願いたい。

 さて、ここで少し話題は逸れるが、アスカがシンジ君に対して内罰的だと言って揶揄した、そのことについて解説する。確かにシンジ君は大変に内罰的である。それはやはり幼いときの大きすぎる去勢不安に端を発している。去勢不安の状態における父と子の関係は、自慰をする(罪を犯す)子供と、脅かして止めさせる(罰を与える)父という関係に象徴される。シンジ君の場合はそれが極端であって、普通の人間であればこの関係はあくまで象徴的なものにすぎないのだが、彼は実際に追い出されるという罰を与えられている。そのことから、彼は自分が悪いことをする、罰を受けるということに対して非常に神経過敏となり、他人に罰せられる前にまず自分で罰してしまうのである。それはいた仕方ないことだ。

 次にシンジ君の自我が大きく動揺の契機となるのは、第十三使徒との戦闘である。このとき、ネルフは(ここではシンジ君がゲンドウを父としてではなくネルフという社会の権化として扱っていると考えたほうが、彼の言動から納得がいく)自分の心を優しく守ってくれるエヴァを使って、大事な友人を殺そうとした。この時点で、まずエヴァがもはや居心地のいい場所ではなくなってしまう。たとえ自分の意思ではないにせよ、友人を殺そうとするという許しがたいことをしでかしたのである。そして、ネルフという社会が持つ集団幻想(=何がなんでも使徒を倒す!)に初めて拒否を示すのである。先にも述べたが、彼はエヴァという居場所を見つけた嬉しさのあまり、集団幻想に飲み込まれるという問題をなおざりにし、結果何も考えることなしに飲み込まれていた。しかし、友人を殺されそうになるという事態に直面しては、さすがにシンジ君もそのままではいられなくなったのである。

 彼はネルフという社会、それが内包する集団幻想を拒否し、自らの意思で外へと飛び出す。ゲンドウやミサトは逃げ出すのか、と非難したが、それはあくまでネルフの側からの言い分であって、シンジ君の側に立てば、集団幻想の中に自我を漂わせる状態を脱し、一つの個として自我を独立させたわけで、逃避どころか実際は全くその反対、シンジ君の自我の著しい成長である。太平洋戦争下の日本で、反戦を叫ぶと非国民扱いされたのと同じことである。

 そしてまた、彼は自らの意思でネルフへと戻り、集団幻想の中に身を置く。しかし、このときのシンジ君は、ただ状況に流されるのではなく、自らの自我は自我としてきちんと確保し、その上で使徒を倒したいという自我をネルフの集団幻想にシンクロさせているのである。だからこそ、エヴァとのシンクロ率400%という驚異的な数字を記録したのであろう。

 シンクロ率400%以後のことは、再び先の報告書を参照していただきたい。エディプスコンプレックス、母親への恋慕といった事柄はやはりリビドー理論を用いるべき事柄なので、ここでは割愛させていただく。

 さて、その後しばらくはシンジ君の自我は再度安定期を迎える。たとえ一面的とはいえ社会の中に自我を確立し、ストーリー全体を通して彼の自我が最高潮を迎えたときといえる。

 しかしながら、それはあくまでもかりそめの安定にすぎない。集団幻想に流されない、という点だけは解決したが、それ以外の問題点は一つも解決していない。彼の自我の脆弱さの根本である去勢不安の解決も、ヤマアラシのジレンマの解決も、エディプスコンプレックスの解消も何もなされていない。したがってその安定も極めて脆いもので、ふとした契機ですぐに崩れてしまうほどのものなのである。

 その契機とは、すなわち渚カヲルとの出逢いである。彼はシンジ君に対して「好きだ」と言った。この言葉は、シンジ君にとっては最高の殺し文句である。なぜなら、それは父親に言ってもらいたい言葉だからである。父親に嫌われたくない、捨てられたくない、ということは、裏を返せば父親に好かれたい、ということになる。その殺し文句を、カヲルはさわやかな笑顔とともに言ってみせた。それはシンジ君にとっては不安からの解放宣言である。少なくともカヲルに対しては、もう嫌われる心配をしなくてよいのだから。カヲルはいつでも人懐っこい笑みを浮かべていて、ヤマアラシのジレンマを感じさせない。その上に、シンジ君の自我の薄弱さに対しても慰藉の言葉を与え、シンジ君はカヲルの虜になる。比喩ではなく、完全に同性愛の関係である。ただ世間一般で考えられているホモセクシュアルと違うのは、異性を同性に転移しているのではなく、父親を転移させているという点である。自分の求めている言葉、態度を全て投げ掛けてくれるカヲルを理想の人間像(ひいては父親像)と見做す、いわば「惚れ込み」とでもいうべき状態である。

 だからこそ、シンジ君はカヲルの部屋でこれまで誰にも語らなかった、語れなかったようなこともすらすらと話すのだ。あの部屋でカヲルに語ったことは、父親に聞いてもらいたかったことである。カヲルを自分の優しい父親と見做し、甘えているのだ。

 したがって、カヲルが正体を現し、シンジ君にとっての敵である使徒として彼と対峙したとき、シンジ君が裏切られたと感じたのも無理はない。彼の心の中では、敵となって自分の前に現れた=自分を嫌いになった、という図式が成り立ち、それはつまり幼い頃に父が自分に対してした仕打ちと同じなのである。だから、「父さんと同じに」裏切った、こととなるのだ。

 しかし、完全にカヲルに惚れ込んでいるシンジ君は、いざカヲルと対峙すると、憎悪の牙を彼に向けることができない。彼が見せるのは第拾四使徒との戦闘で見せたような形相ではなく、不思議と落ち着いた(恐慌に陥っているわけではない、という程度ではあるが)表情と言動である。そして、あくまで条件反射的に弐号機と戦う。戦闘に赴く前まではかなり強烈な憎悪をむき出しにしていたのに、カヲルに対しては一言詰ることさえもできないのである。

 そんなシンジ君であったが、結局カヲルを自らの手で殺す。カヲルを初号機でつかんで、それから握り潰すまでの彼の心の葛藤は、ついに物語の最後まで描かれることはなかったので今もって知る由もない。次の話で「なぜ殺したのか」の追及を彼は受けるが、そこでも明白な結論は棚上げされてしまっている(「敵だから殺したんだ」というシンジ君の言い訳は述べられるが、当然それが真相であるはずがない。このことに関しては、作り手側がシンジ君がカヲルに対して同性愛的惚れ込みに陥るというシチュエーションを用意した以上、受け手側の判断に任せるなどと言わずに、きちんと責任を持って解答を用意すべきである。シンジ君の自我の軌跡の大事な通過点を安直に処理してしまった点において作り手側は責められるべきなのだが、批評を行うのがここでの目的ではないので、詳しくは後の報告書にて)。この点がこの話の数ある欠点のうちの一つなのだが、敢えてこちらのほうで推論を展開すれば、一番妥当なのが、裏切られたことへの怒りが原因、という考え方だろう。本来父親に捧げる、最大の愛と信頼を捧げたにもかかわらず裏切ったということは、彼にとって死に値することだったのだ。可愛さ余って憎さ百倍、ということだ。(以上のように考えると、それより以前のシンジ君の冷静さと矛盾を生じる。憎さ百倍だったらカヲルの言葉に耳など貸そうはずがない。やはりこのエピソードは片手落ちと言わざるを得ない。)

 カヲルの死後も、シンジ君はカヲルへの惚れ込みから抜け出せない。カヲルへの断ち切れない想いをミサトに吐露する。「自分より彼のほうがいい人だった。だから生き残るなら自分より彼のほうだ……」。惚れ込みの状態に陥っている人間の吐く常套句である。

 さて、次からは、この報告書の趣旨からは大きく逸れるが、このアニメの評価をまっ二つに分けた問題に否が応にも直面せざるを得なくなってしまう。ここではシンジ君の自我の軌跡が問題なのだからその点からのみに絞って触れることにするが、第弐拾伍話以降の二話は、それ以前の話と殆ど全くといっていいほど接合性を持たない。これまでシンジ君が苦労して歩んできた道は一体どうなっちゃうのー!という感じである。例えば、暗がりの中でシンジ君は、「どうしてエヴァに乗るのか」という疑問に対して、「みんなが乗れって言うから」と答えている。その問題はすでに解決したはずではなかったのか!第拾九話で、彼は「自分で考え、自分で行動した」結果、再びエヴァに乗ったのではなかったのか!もし違うというのなら、シンジ君の「男の戰い」の意味はなんだったのだ!話に接合性が全くないとはいわない。しかし、接合点が弐拾四話ではなく、それよりもっと前の段階、第拾四話以前であることは確かである。だから、ある同人誌にあった、「私の中では最終回は弐拾四話!」という考え方はある意味で当たっている。極端な言い方をすれば、弐拾伍話以降というのは全く別の話、パラレルなのだ。

 そもそも、第弐拾伍話では、シンジ君の自我の軌跡という話題そのものが消失してしまっているのだ。シンジ君の自我は、周りの人間がゴチャゴチャ言うことに対して返事を返すのみで、少なくとも弐拾伍話においては彼の自我が能動的に動き出すことはない。ミサトやアスカに関しては極めて興味深い内容が明らかにされるが、それはここでは述べるべきものではないので、結果的に第弐拾伍話については黙殺せざるを得ない。少なくとも、シンジ君の自我の軌跡、という狭い視野で見ている以上、これ以上述べるべきことはない。

 したがって、ここでは問題の最終話について述べることになるのだが、これについてもこれまでとは少し趣を異にせざるを得ない。何しろパラレルワールドの話に移行したわけだから、こちらも新たに出直さなければならない。これまでは、シンジ君の言動からその自我の軌跡を辿ってきたわけだが、ここでは人類補完計画の中における彼、という視点で彼の自我を追っていく。というよりは最終話で語られていることの解説、といった内容になるだろう。これまで述べてきたことと多少チグハグになるだろうが、それはご了承願いたい。人類補完計画そのものについては次項にて詳述するつもりなので、そちらのほうを参照していただきたい。

 シンジ君は寂しがっている。彼が「寂しい」のはなぜか。自分という人間は一人しかいないのに、自分は自分を規定することができず、それを他人の手に委ねなければならない。それなのに他人は自分を見てはくれない。だから寂しいのである。

 自分のことを見てほしい!その叫びがあまりに強いから、彼は不安に陥ってしまう(このことの発端が父親に捨てられたという幼児体験にあることは先に述べた通りである)。「ちょっとでも人の気に入らないことをしたら、人は僕を見てくれなくなってしまう!」。しかし、何が人の気に入ることで、何が気に入らないものなのかなんて分かるわけがないから、彼は何もできずに竦んでしまう。彼が能動的に行動を起こさないから、彼には他人が認めるだけの「価値」が生まれることがなく、人は彼という存在に気づくことないため、シンジ君はさらに寂しくなる。彼はこの悪循環に陥ってしまうのである。

 彼は他人に、社会にその存在を認められていない存在、つまり存在理由を持っていない存在なのである。この存在理由という言葉が、先に述べた「居場所」と同義であることは理解していただけるだろう。人は必ずどこかに居場所を持っていなければ生存することができない。しかし、シンジ君は社会の中にその居場所を持っていないのである。

 だが彼は生きていかなければならない。居場所がどこにもない、ということは現代の自殺の最も主要な原因であるが、シンジ君はその最も安易な解決法を選ばなかった。だから、彼はどこかに居場所を見つけなければならない。

 そこで、彼は自分には価値がないと自己規定することによって他人の存在を遠ざけ、自分だけの世界に閉じ籠ることによってそこに居場所を見出だした。つまり彼は他人のいる世界から逃げ出したのである。

 しかし、それでも彼は依然として現実の世界に晒されるし、大多数の他人の中に生きている。その大多数の他人は、もはや自分たちの社会から逃げ出し、自分の世界に閉じ籠ってしまった彼を相手にはしない。社会の一員ですらなくなった彼に対して、一瞥すらくれることもなくなる。「自分を見てほしい」願望の強い彼は、完全に外界を遮断することはできず、未練たらしく外を覗き見ている。そんな彼には、他人が自分を本当に存在しないものとして扱う状態に耐えることはできない。だから「逃げちゃだめ」なのである。

 自分の世界に閉じ籠っていられない以上、彼は社会の中に居場所を見出ださなければならない。何か人が認めてくれることをしなければいけない。だから彼はエヴァに乗ったのだ。 エヴァに乗ると、他人は彼を「エヴァに乗って我々の命や生活を守ってくれる少年だ」と認知する。シンジ君に居場所ができた。だがそれは大変脆いものだ。エヴァに乗るという行為は大変刹那的なものであり、かつまたエヴァがあれば居場所があるということは、エヴァがなければ何もできない、ということと同義なのだ。確かにエヴァに乗れるということは社会的な価値である。しかし、それは後から取ってつけたもので、彼自身に内在する普遍的な価値ではない。だから、彼にとってエヴァは全てになってしまうのである。

 まだ彼に救いがあるのは、アスカと違ってエヴァが自分の本当の居場所になり得ないことが分かっている点だ。シンジ君はエヴァの中に閉じ籠る前に、再び居場所の喪失の恐怖に襲われる。 そして、彼は居場所のない自分、というものが何かを問い始める。他人が認めてくれない自分が何かを問い始める。自分は自分の存在を確認することができる。しかし、存在の有無は確認できても、自分がどういう存在なのかは自分では規定することができない。それは周りが規定することなのだ。ヒトの中で育ったヒトは自分をヒトだと認識する。しかし、オオカミの中で育ったヒトは自分をオオカミだと認識するのである。

 他人による存在の認識を得られていないシンジ君には、自分がどういう存在なのか分かるはずもない。他人は自分を映す鏡なのだから。鏡を覗き込んでもそこには何も映っていない。何も映っていない鏡を見るのが怖いから、鏡を遠ざけ、眼を背ける。再び自分だけの世界に没入していく。

 他人を拒否する彼の世界は、彼が恐れた鏡の中同様真っ白である。せっかくの自分の居場所なのに、何をどうしたらいいのか分からなくなる。他人が規定する自分のイメージに縛られることがない代わりに、何一つ把握することができない。

 補完計画の中では、比喩的に彼の真っ白な世界に、一本の直線で大地が与えられた。これはつまり他人が規定する自己のイメージの一つのことである。他人が一つイメージを規定してくれたことで、シンジ君はそれに沿って行動をすればよいことになる。ベースになっているのは他人から渡されたものだ。しかし何をするかはシンジ君の意思なのだ。

 そして、他人が規定するイメージすらも、シンジ君の意のままであると補完計画は教える。他人とは自分を映す鏡である。自分が変われば、当然鏡が映す像も変わるのだ。

 鏡の前に立つのが怖いからといって鏡の前から離れていたら、いつまで経っても自分の姿を見ることができない。自分の掌だけをじっと見つめていても自分の姿は見えてこないし、何をすればいいのかも分からない。

 補完計画は、優しく、噛んで含めるように鏡の存在を認識するようにシンジ君に語り掛ける。他人に自分を規定してもらわなければ人間は自分を知ることができない。だから、勇気を持って他人の前に出て、自分のイメージを作ってもらいなさい、と。

 そして、ついにシンジ君は人間が他人という鏡によって自分の姿を見ていることを理解するのである。

 シンジ君がワンステップをクリアしたので、補完計画は今度は別のステップに移る。つまり自己変革の可能性である。かなり極端な例示だとは思うが、補完計画は今とは全く違う世界を見せ、ほら、こういう世界もあるでしょう、と教える。この世界のシンジ君は、エヴァのパイロットではないけれども、生き生きと社会に溶け込んで生きているでしょう、と。そして、あなたもこうなれるのよ、と。

 今のシンジ君がシンジ君なのは、他人が、社会がそう決めたのではなく、自分が勝手にそう決めてしまったのだ。子供のときに不幸な体験をしてしまったから、すぐに不安に駆られてしまう。ただそれだけが原因なのだ。他人は君を嫌ったりはしていない。君は君なんだ。だからまず自分を好きになって、そして他人を好きになって。

 その声を理解したとき、彼は不安の殻を破って本当に自由な彼になれたのだ!!自我を確立するための道がようやく開けたのだ!!

 不安を払拭したとき、シンジ君は父親に「ありがとう」と言えるだろう。これまで自分を支えてくれた母親に「さようなら」と言えるだろう。そして、それを見た人々は彼に「おめでとう」と言えるだろう。彼はその時を迎える大きな可能性を手にし、怖らくその時はそう遠くはないのだ。

 シンジ君の自我は、まだ生まれたばかりの赤ん坊である。しかし、これからすくすく成長して、すぐに大きくなるだろう。だから私は彼にこの言葉を贈る。

「シンジ君、おめでとう」

終わりに

 皆さんのおっしゃりたいことは分かっています。何だ、もう終わりか。人類補完計画についてはどうしたんだ。あれについて何やら述べると言ったのはあれは嘘か。

 公約不履行については深く謝罪します。内容も今いちうまく作品を分析しきれていないのも分かっています。でも、これが限界です。思考回路はショート寸前、です。普段殆ど使わない頭を酷使しすぎて、もう死にそうです。ちょっと休ませて下さい。だから取りあえずこのたびはここで打ち切りです。

 人類補完計画については、ストーリーの中でのそのものの意味ではなく、それが何を象徴しており、シンジ君とそれとの関係において作り手側が何を言いたかったのかを検証してみるつもりです。そして、それをしてこそエヴァという作品を見たかいがあると思っています。

 最後になりましたが、この文章を書くにあたり、小此木啓吾「フロイト その自我の軌跡」(NHKブックス)と中島梓「コミュニケーション不全症候群」(ちくま文庫)の二冊を大変参考にしました。特に後者は、怖らく次回の報告書では最も助けを求めることになるでしょうが、オタクについて大変深い洞察がなされているので、是非お薦めしたい本です。

 ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました。

                                          筆者

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