ソフトウエアの未来             2006年6月5日     


 1.人間はソフトウエアで動いている?
大学を出てからもう相当長い間ソフトウエア業界に身をおいて、この先もしばらくは抜けられそうもないので、自分の過去はさておいて「これでいいのかソフトウエア!」の一旦を述べて見たくなった。

というのは見渡せば我々の行動はかなり多くのものがコンピュータでコントロールされている。ニュースや生活情報、チケットや自動車、さらには不動産まで、ありとあらゆる情報がネット上から手に入れることができる。交通機関や銀行などは「システムの示したある手順」に従わなければ、改札も通れないし、お金もおろせないという仕組みである。間違いなく社会はコンピュータへの依存度を高めている。

このコンピュータ全般を制御しているのがソフトウエアであるから、ソフトウエア技術者はこの現実世界や人間に対する見識をどれだけ持っているのかと感ずることが多々ある。例えばキオスクである。駅のホームで週刊誌を買うのになんでバーコードリーダで商品情報を読み取らせないといけないのかがわからない。本当はシステム構築側の論理(企業論理)はわかっているが、情報を取得する手段が間違っている。今までのようなキオスクのお姉さん(おばちゃん)とサラリーマンとの瞬間のお金のやり取りの妙がバーコードの出現によって失われてしまった。
このようなシステムを考えるのはおそらく××総研とか○○コンサルタントという会社が現状分析からシステム企画提案をそれこそ高い費用をとって行なってきたのだと思うが、利用者のことを考えていない典型である。システムが「官僚的」なのである。
人が考えたシステムで私がその通りに素直に動くかと言うとノーである。

2.社会システム大丈夫?

何でも物をつくるときは手順があるようにソフトウエアをつくるときも「開発手順」なるものがある。ただはっきり言ってこんなにわかりずらいものはない。せめて料理のレシピ、車の作り方程度の理解のし易さが必要だと思うが、そうはなっていない。それはまずは歴史がないからである。

私が入社したとき(今から35年前)は「日本のコンピュータのハードウエアは米国に追いついたが、ソフトウエアはまだまだである。君らががんばれ!」と会社の幹部に言われたが、それからまだ追いついていない。

もっともアメリカでもソフトウエアの需要が爆発的に拡大しているにもかかわらずソフトの供給能力は不足しており、国家は時には脆弱なソフトウエアに依存しているのも事実である。これは大変というよりも怖いことである。日本国内でも同じような悩みを持ち、ソフトウエアの需要の拡大に対応しきれていないのと、品質が追いつかないという現状、さらにはソフトに対する思想性(これは色々な議論があるが)のなさと即物性優先の発想で「この先、社会システム大丈夫なの」とつい他人事のように考えてしまう。

だから脆弱なシステムの上で我々が動かされてはいけないと認識して、行動をとることにしている。

3.誰もが高給取りになれる?

そしてソフトウエア業界の話である。
報道ではIT業界のバブリーな人種が取りざたされているが、この業界に身を置く9割以上の人たちはおそらくその話を信用していない。なぜなら、この業界は労働集約産業だからである。特に私の知っているシステム開発の現場は多くはいつ終わるともわからない打ち合わせと設計・プログラミング作業に黙々と携わっている。
さらに日本のソフトウエア産業は階層構造である。開発現場を支えているのは多くの小さなソフトウエア会社である。契約形態の多くは経験、年齢、資格によって決まり、人月単価(時間単価)で計算される。階層構造の下部へ行くほど単価が下がるのは自明の理であるがそれよりももっと問題なのはプログラマーの質による違いである。同じ課題を優秀なプログラマーが1時間で完成し、普通のプログラマーは8時間で完成しさらに出来の悪いプログラマーは残業をして3日かかったとすると、この出来の悪い人間の方が結果的に給料が高くなるという実態になってしまう。これがソフト開発における能力の評価に結びつかず、仕事をさっさと片付けて早く帰る優秀な人よりもいつまでも遅くまで残業をやっている人間の方が、「がんばっている」という評価になってしまうのである。

優秀なプログラマーは素質とかセンスが全然ちがうし時には天才ではないかと思うことがある。こういう優秀な人達を埋没させてしまう一方多くの普通の人たちがプログラム開発を支えているような産業構造からはどう考えても高給取りが生まれる素地はないと思うのだが、もっとうまい分野や方法がこの業界にあるのだろうか?

4.ソフトウエアの未来
映画「明日に向かって撃て」はポール・ニューマンとロバート・レッドフォード、キャサリン・ロスが主演し、1970年に公開された映画である。西武開拓時代の末期、自転車が「未来の乗物」と宣伝されていた時代の物語である。

列車強盗や銀行強盗を生業としていた男二人と女教師がボリビアに新天地を求めて旅をする直前に、買ったばかりの自転車を放り捨て「未来なんてくそくらえ!」という。そして男二人は軍隊に包囲されながら「もっといいところへ行こうぜ」と飛び出していく。そう、彼らにはもっといい世界が本当はあったのだ。

ソフトウエアの世界も本当はもっといい事があるかもしれない。少なくとも未来を考えると、今より良くしないといけないのが我々世代にかかった責任だとも考えている。そのためには脆弱なソフトウエア基盤を強くし、人が誇りを持って働ける労働構造を作り、人間のためのシステム開発を設計する人材を育成していくことが当面必要である。

明るい未来はこういうことを地道に積上げていくことで初めて手に入るのだ。

2006年6月5日   oggi