今月の本

2002年8月


晴子情歌(上・下)

高村薫  新潮社  各1800円



 今年(2002年)の父の日に高村薫さんの「晴子情歌」をもらった。

読み始めてすぐ久々に胸のときめきを覚えた。それはこれから始まる15歳の晴子の物語が、東京本郷に始まり、まだ見知らぬ津軽筒木坂や北海道江差の土場、青森の野辺地などの土地や生活が描かれていたからである。

この小説は母晴子の昭和叙事詩であり、また一方では時代に同化できず未だ彷徨っている息子彰之の物語である。母と子はこんなに絆が強いのだろうかと思ってしまう反面、父や夫が助演の役割に徹し、いっそう晴子の矜持を 浮かびあがらせている。晴子の初恋の相手、谷川巖以外の男どもはどこにいってしまったのかというくらい影が薄い。

昭和の始め、全体主義が台頭し、軍部勢力が増大していく中で、晴子の父康夫は外語大の教授をしながらも、非合法活動にまで入りきれない悶々とした生活を送っている。そうこうしている内に晴子の母も急死してしまい、父は子供を連れて生まれ故郷の津軽筒木坂へ帰ってしまう。

 後に晴子の夫となる淳三も青森の旧家に生まれ、代議士の家系にありながら兄弟の中でただ一人放蕩の画家で家に寄りつかず、旅館で愛人と暮らしていた経緯がある。出征直前に突然晴子と結婚するが、ここでも当然強い人には描かれていない。

それに比べ晴子はなんと聡明で、強く描かれているのだろうか。こういう女性は昭和のはじめだから多分いても不思議ではない気もするが、まわりのいろいろな人たちを思い浮かべてみても、なかなか該当しそうな人は見当たらない。

高村薫は 綿密で周到な取材をした上で、それぞれの土地に暮らす人の「心」や「気持ち」をよく表現している。
特に本郷の野口家や野辺地の福澤本家の人間模様はかってみた映画やTVドラマで情景を思い浮かべることができたのか、あるいは自分の家族や親戚での同じような経験が遠い記憶を思い出させてくれたのか、妙に納得できる描写であった。

まして晴子は私の母と同年代であり、そのころ独身だった父は樺太に住んでいて、北海道はよく通っていた。そして息子彰之は私と同じ時代を生きていたのである。 だからこの「晴子情歌」は彰之の影と自分を重ねあわせながら読んだのだ。学生時代の羽田闘争や、神田カルチェラタン、日大闘争とそれに続く安田講堂落城までの情熱と恐れ、時代への怒りと失望などを思い出し、普段あまりしない感情移入が久々に入ってしまった。

なお、この物語は登場人物と時間の関係が頭の中で混乱してしまったので、途中から次のようなメモを取りながら読んだ。(読後再整理)


<読書メモ>

(本郷) 
岡本芳国、きく 長女房子、次女民子、三女富子 
大正2年(1913年) 
野口康夫 東大英文科入学 本郷の岡本家に下宿する。この時、岡本富子 15歳
大正8年(1919年)
野口康夫、岡本富子結婚
大正9年(1920年)
2月22日
晴子誕生
大正12年(1923年)9月    
関東大震災
昭和7年(1932年)
3月 
野口富子34歳 死去
昭和8年(1933年)
2月21日
小林多喜二 死去
昭和8年(1933年)
5月 
京大 滝川事件
父康夫から「嵐が丘」をもらう。
(筒木坂)  
野口タエ 長男忠夫、次男昭夫、三男康夫、四男邦夫
昭和9年(1934年)
3月 
父野口康夫の実家に戻る。 晴子15歳、哲史11歳、幸生9歳,美也子6歳 「嵐が丘」とはだいぶ印象が違うと晴子は思う。
(土場)  

昭和10年(1935年)2月
筒木坂〜土場 連絡船は松前丸に乗船
昭和10年(1935年)3月
初山別へ
昭和10年(1935年)6月
野口3兄弟、谷川巌 カムチャッカへ 晴子 土場へ
昭和10年(1935年)8月
野口康夫 死去    哲史―本郷へ、幸生、美也子―市ヶ谷へ
昭和11年(1936年)1月 
晴子 野辺地へ
(野辺地)  

昭和11年(1936年)1月 
晴子 野辺地の福澤家へ
福澤勝一郎―福澤キヨ 長女 初子―敏郎 次女 和子 長男 栄―睦子 次男 啓二郎―範子 三男 淳三
昭和11年(1936年)2月20日 
選挙で勝一郎(民政党)当選
同年  2月26日
2.26事件
同年  3月27日
和子―山岡徳三と結婚
昭和15年(1940年)8月16日 
勝一郎 代議士辞職
昭和17年(1942年)
当時の福澤家の子供達  
初子 長女(生母カナ)弘子、次女茜,三女百合  睦子 長男優、次男肇    
和子 長男 総一、次男貴弘    
淳三 美奈子
同年  8月17日
淳三に招集礼状
同年  8月18日
晴子―淳三結婚
昭和19年(1944年)
勝一郎倒れる。
昭和20年(1945年)3月
美也子学徒動員先の空襲で死去
同年5月
幸生沖縄出撃で死去
同年6月
勝一郎死去
同年7月28日 
青森空襲
同年8月15日 
玉音放送
昭和21年(1946年)3月23日 
彰之誕生
同年  11月20日 
淳三 帰還
昭和33年(1958年)春 
晴子、美奈子青森へ
昭和34年(1959年)
彰之 八戸の福澤水産、遙(高校2年)に通う
昭和35年(1960年)
野辺地へ戻る。
昭和42年(1967年)
彰之 初江と別れる。
昭和43年(1968年)5月 
福澤遙 遭難
同年 11月24日 
谷川巖 遭難
昭和44年(1969年)1月18日 
東大安田講堂落城
昭和47年(1972年)  
福澤淳三・晴子 米内沢に新居
昭和50年(1975年)4月 
彰之 カムチャッカへ
昭和50年(1975年)7月12日 
晴子の手紙始まる
昭和51年(1976年)3月4日 
福澤淳三死去
昭和51年(1976年)4月9日 
晴子入院 晴子の手紙完了
昭和51年(1976年)4月24日 
彰之(北幸丸)帰港