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縄ファン(D)に (あるいはエコロジーに興味のあるかたに) |
「夜叉ケ池」 『夜叉ケ池/天守物語』 泉鏡花 岩波文庫 |
まず最初に断っておかねばならないが、「縄ファン」といっても、もちろん、 「人間国宝・名和山芝右衛門が綯った荒縄は絶品だ」 「荒川興業の今年の新作縄、見た? サイコーだぜ!」 という方面の「縄ファン」ではない。 ここで言及するのは、縄そのものというよりも、縄を使用してなす行為の主たるもの、すなわち「縛る」という方面にまつわる、ある種の嗜好を持つ人のことである。 これも無論、「縛る」という方面にまつわるある種の嗜好を持つ人だからといって、 「薪を縛らせたら日本一です」 「大根を縛って干すのが趣味なんです」 というわけではないことも、言うまでもなかろう。 縛る対象は薪でも大根でもない、人である。人の生身の肉体である。 すなわち、まあ、その、世間でよくいうところの、えーと、あっちの方面というか、ちょっとここでは口に出すのをはばかられるけれども、そこらへんのいいところの奥さんや善良そうな課長さんなどにはたぶん一生縁のない、あ、いや、一見したところいいところの奥さんや善良そうな課長さんのほうがかえってヒソカに縁があったりするのかもしれないけど、まあとにかく、そういう方面であることは語らずとも理解して欲しいというところの、そういう方面の「縄ファン」である。 しかしまあ、なんですかな。 縄。 考えてみると、われわれの現代生活は、縄とはあまり縁がない。縄なんてどこにでもありそうな気がするけれども、案外そういうわけでもないのではなかろうか。 そもそも、縄の活躍しそうな場面、というものからして、まず思いつかない。 キャンプや登山、ヨットなどをするような人であれば、縄を手にする機会も多少は多かろうが、その人たちとて毎日山や海で暮らしているわけではないだろう。工事現場や事故現場など「現場」関係の場所では、黄色と黒のだんだら模様のロープがめぐらされていたりするが、あれは触れちゃいけない縄なのであって、日常の中で親しむというものではない。 縄が登場しそうなシーンというと、たとえば、新聞紙を縛る、というような場面が思い浮かぶかもしれないが、こうしたときに登場するのはビニール紐であって、決して縄ではない。 思えば昔はどこの家庭にも縄があった。てきとうに引出しを開ければ、黒い鉄の鋏やら竹の物差しやら赤チンやら印鑑やらと一緒に、必ず縄が一巻き放り込まれていたものだ。 あるいはまた、どこの町にも荒物屋などというものがあって、そこの軒先には必ず荒縄などというものがぐるぐると巻いたまま釘にひっかけてあったりしたものだ。しかし、そんな光景はすでに絶滅して久しい。 近年、強盗殺人などの凶悪犯罪が増えているというが、ここにも縄の不在が関わっているのではないか。昔だったら、そこらへんにある縄で、家の人をぐるぐる縛り上げれば済んでいたものだが、縄がそこらへんにない今では、相手を動けなくするためには殺すしかない。 おそらく現代人の多くは、小学校の縄跳び以来、縄というものを手に取ったことがないのではなかろうか。こう言われてみてはじめて、自分と縄とのつながりが絶えて久しいことに気づいたという人も多かろう。 かつて、人と縄との関係は、深かった。強かった。 縄は、生活必需品であった。人々は木の蔓を編んだり、稲の藁を編んだりして、苦心して縄を作っていた。 縄がなければ何も縛れなかった。縛らなければ何もまとめることができなかった。 人々は、縄をはじめさまざまな道具や産物を通じて、大地と、そして自然と接していた。縄によってものを縛ることを通して、人々は世界をまとめ、くくり、把握していた。 縄文時代の人々などは、縛るばかりでなく、縄を使って土器に模様を付けることまでしていた。彼らが縄文人と呼ばれるのはそれゆえなのであることを思うと、縄は太古の日本人のアイデンティティそのものと関連していた、といえなくもない。 それほど縄とは重要な存在であったのだ。 だが、今、縄に代わるものはいくらでもある。縄と人との蜜月は、もはや過去のものでしかない。歴史上、現代ほど人と縄との関係が希薄な時代はないであろう。 それを思うと、縄ファンは偉い。 人と縄とのつながりを大切にしている。縄を愛し、縄に魅了され、縄とともに生きている。 しかも、縄ファンのうち推定半分くらいの人は、自らの身体を縄で縛(いまし)めている。それも、多くの場合は着衣の上からではなく、素肌の上に直接縄である。文字通り、縄を身体で感じている。縄と一体化しているのだ。 ああ、すばらしいではないか。 もしかしたら彼らは、過去の日本人がそうであったように、縄を通じて大地や自然と接しているのかもしれない。縄を通して、大地の歌声を、自然の囁きを聴いているのではないか。(注1) エコロジーやら大地への回帰やら、そんなことを大声で叫んでいる人たちよりも、縄ファンのほうがよほど地球に近いところで生きているに違いない。縄ファンより地球に密着している人間といったら、あとはもう泥レスファン(注2)くらいしか思い浮かばない。 縄ファン、それは、大地や自然から冷ややかに決別しつつある現代社会に対しての、大いなるアンチテーゼである、と呼べるのではないか。 などと言ってるうちに話が大幅に逸れているのだが、ところで、さっきから隔靴掻痒、切歯扼腕、歯がゆい思いをしている縄ファンの人がいるであろう。 「おい、キサマ、おとなしく聞いていれば、エッ、何だ。縄ファン縄ファンなんて、さも知ったようなことをほざいているが、少しもわかってないではないか。コラ、デタラメぬかすんじゃない。縄ファン、なんて、オレたちのこと、簡単に一言でくくらないでくれ。エッ、縄ファンだけに、くくっていいとでも、思ってるのか。エッ」 そうおっしゃるかたが、いるのではないか。 はい、もちろん、それはわかっています。 安心してください。 残念ながら私は縄ファンではないけれど、そのくらいはわかります。 これからちゃんと説明しますってば。 ということで、上の縄ファンの人(誰だよ)の苦情からも明らかなように、「縄ファン」といっても、彼らは決して一枚岩ではない。ヴァリエーションに富んでいるのだ。 たとえば、素人でもすぐに思いつくだろうが、縛るほうが好きなファンと、縛られるほうが好きなファンがいる。縄だったら何でもいい、縛るのも縛られるのもどっちも好き!というファンは、あまりいないような気がする。あまりよくわからぬが、縛る方は縛り専門、縛られる方は縛られ専門、という確固たる分業体制、2つの才能による華やかなコラボレーション、ということになっているようである。 そのうえ、縛る/縛られるというその実践が好きなファンと、自らは手を下さない見学派のファンもいる。 このあたりは、たとえば「せせらぎ党」(注3)のかたなどとは、大いに異なるところであろう。縄ファンに比べればせせらぎ党員は、一致団結している、と言っていい。 なにしろせせらぎ党員が好むところは、せせらいでいる工程を見学する、というただ一所におさまるからである。熱心な党員の中には、「その場で生産物の味見をしたい」という人もいるだろうが、しかしそれは、あくまで見学をした上でのお土産のようなものであって、見学よりもお土産を優先しているわけではなかろう。また当然ながら、自らせせらぐのが好きです、という人はせせらぎ党員たりえないことも、容易に理解できるであろう。 それはさておき、このように、縛る/縛られる、実践/見学、という2つの軸を使ってまとめると、少なくとも4種類の縄ファンが存在することがわかる。(これに男女の別があるのではないか、という人もいるが、ここではジェンダーフリーというかユニバーサルというか、そういうことにしておいてほしい。) それを表したのが、下の図である。この図を便宜的に、 「縄目のマトリックス」 と呼んでおこう。 |
縛られる/実践派 B |
縛る/実践派 AAAAAAA |
C 縛られる/見学派 |
DDDDDDD 縛る/見学派 |
A〜D、各々の差は、大きい。 たとえばDにとっては、縛るという実践行為はどうでもいいわけで、むしろ面倒ですらある。実際に縄を持たされても、縛ることができない人も多いはずだ。ただ縛られた対象を見学し、詳細に鑑賞したいだけなのが、Dなのである。 逆に、縛るという行為自体が楽しくてしかたがないというのがAである。他人が縛っているのを見ても、ちっともおもしろくない。48手くらいの縛り方をマスターし、さらにそのうえ研鑽を重ねようとしている人も多かろう。 もちろん、これらA〜Dはあくまで理念型であることに注意してもらいたい。実際には実践を志向しながらも、設備と相手が身近にないためにやむなく見学のみで済ませているファンもいるだろうし、一方で日々実践を繰り返しつつも、本音ではむしろ相手が縛られている状態を見学したいだけということもあるだろう。 縄という単純かつ素朴なものをアイデンティティのよりどころとしながら、縄ファンの世界は深く、そして繊細なのだ。 ところで、うっかりしていたが、よく考えたらこの文章は本のガイドである。縄ファンの分析に思わず熱くなってしまったのであるが、そろそろ本の紹介をせねばなるまい。 が、それがなかなか難しい。 なにしろ、縄目のマトリックスが指し示すように、縄ファンには少なくとも4種類あり、それぞれが大きく異なっている。 したがって、縄ファンのための本、といっても、1冊あげるだけで事足れりとするわけにはいかない。A〜Dそれぞれのファンのために1冊ずつ、計4冊あげねばならぬ。 しかし私は前にも述べたように残念ながら縄ファンではなく、縄ファン(A)〜縄ファン(D)の諸君がそれぞれ納得し満足するような本を1冊ずつ挙げられるほどの知識はないのだ。申し訳ない。 ということで今回は、表題にある通り、縄ファン(D)だけにすすめる本、ということにしたい。 A〜Cのファンの人は、いずれ、 (な)縄ファン(A)のために (な)縄ファン(B)のために (な)縄ファン(C)のために が書かれるまで、首を長くして待っていてもらいたい。(たぶん書かれないだろうが)。 さて、そんなわけで、縄ファン(D)のために私が自信をもっておすすめしたいのがこれである。 泉鏡花『夜叉ケ池』。 作中、美しい娘である百合は、雨乞いの犠牲に供されるのであるが、 《‥‥絶体絶命の旱(ひでり)の時には、村第一の美女を取って裸体(はだか)に剥き‥‥黒牛の背に、倉置かず、荒縄に縛める。》 というのである。 美女に黒牛。 裸体に荒縄。 ああ、まさに一幅の絵のごとき美しさではないか。 白と黒。 柔と剛。 縄を媒介にして巧みに配された素材が鮮やかなコントラストをなし、読む人を夢幻の境地に誘うかのようだ。 縄ファン(D)ならずとも、思わず手に汗握ってしまうのだから、真実の縄ファン(D)の人はあまりの夢見心地に卒倒してしまうかもしれない。ああ、ちょっと、あなた、ほら、しっかりして。 さすが泉鏡花。ここに描き出されたのは、縛りの美におけるひとつの極限なのではなかろうか。活字だからこそできる、現実を超越した美しさ。一本の荒縄が秘める無限の可能性に、われわれは驚嘆せざるをえない。 ところで、このヒロインの百合ちゃんであるが、 《 ‥‥百合遁げ迷う。 風呂助 埒あかんのう。私(わし)にまかせたが可うごんす。 とのさばり掛り、手もなく抱すくめて掴み行く。仕丁手伝い、牛の背に仰けざまに置く。 百合 ああれ。(と悶ゆる。) 胴にまわし、ぐるぐると縄を捲く。お百合背を捻じて面を伏す。黒髪颯と乱れて長く牛の鰭爪(ひづめ)に落つ。》 というピンチ(これはこれで、また大興奮であろう)は恋人の登場によって脱するが、結局は自ら死した挙げ句、鐘ケ淵の龍神となる。いわば、自然に回帰するのである。 このように、別に縛られるのが好きな縄ファン(B)でも何でもない彼女が母なる自然と一体化できたのだから、縛ったり縛られたりが好きな縄ファンが、自然と合体できないないわけがない。縄こそが、自然へ近づく第一歩なのだ。 読者の皆様の中に、エコロジーやら自然との共生やらに興味があるかたがいたら、これをきっかけに縄ファンになってみてはどうであろう。 母なる地球とともに生きるために真に必要なのは、田舎で農村生活を送ることでも、リサイクルに精を出すことでもない。縄、なのである。縛ること、縛られることなのだ。 まあ、もちろん、泥レスでもいいのだけれど。 |
(注1)その縄は天然素材ではなくてナイロンだったりするのではないか、などという無粋なことをいうものではない。私は縄ファンではないので、そんな細かいことまで知らないのだ。たぶん縄ファンの間でも、アレルギーやら何やらの問題から、合成繊維を使わないようにする運動が広まっているに違いない。 (注2)泥レスファンとは、文字通り泥レスのファンである。泥レスとは、私などにはどうもよくわからぬが、泥まみれになってくんぐほぐれつするレスリングのことであるが、ただし「グレコローマン級」などがあったりするわけではなく、どうやら若い娘がドロドロになりながら戦ったり転ばされたりするだけらしい。泥レスファンとは、そういうのを見学するのが好きな人のことである。 (注3)せせらぎ党に関しては、(ほ)放尿ファンのあなたに を読んでもらいたい。 |