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放尿ファンのあなたには | 『無限抱擁』 瀧井孝作 岩波文庫、¥460 |
などと言いつつ、しかし実際に「放尿ファン」などという言葉があるとは思えぬ。 たぶん、そっちの方面のマニアのかたを表現する、もっと適切で、もっと耳に心地よいような、たとえば、 「せせらぎ党」 みたいな感じの正しい通称があるのだろうけれども、不幸にしてワタクシそちらの方面は詳しくないのだ。 まあとにかく、いわんとすることは多分わかってもらえるだろうから、「放尿ファン」とはそちらの方面が好きなかたたちと理解してもらいたい。 それにしても、足フェチや年上のお姉さんならともかく、このあたりまでくると、さすがに書いている私としてもなんだか情けない気分になってくるような気がしないでもないが、しかしこの企画は個別趣味別嗜好別、懇切丁寧に本のガイドをするものであるからしかたがないのだ。 さて、そんなわけで放尿ファン(やっぱり恥ずかしい言葉だなあ)であるが、明治大正のころの小説を読んでいると、ステッキを持った立派な紳士なんぞが、平気な顔をして傲然と立ち小便をしたりしている場面に出くわすことがある。 まだまだ日本も古きよき日々というか、未開というか、まあそんな時代だったわけである。 しかしまあだからといって、桃割に結った良家の娘さんなどがそこらへんの野辺でいたしてしまったりするわけではないので、そのあたり、放尿ファンがいまひとつこのあたりの文学に興味を示さないゆえんでもあったわけである。 が、まあ待たれよ。 これが桃割の娘さんでないとしても、たとえばかつて吉原で娼婦をしていた25、6歳の人妻であったとしたらどうか。 髪は島田髷、色白で、眉毛濃く、目元美しく、厚く赤い唇を持った、おとなしくて淑やかで口数の少ない、娼婦あがりといってもすれたところのない、はかなげなようすの女だったとしたらどうか。 あ、そこで、キラリーン!と目を光らせたあなた、ふふふ、隠さなくてもいいですよ。好きですなあ。 そんなあなたにおすすめしたいのが、これ。 瀧井孝作『無限抱擁』である。 大正10年から13年にかけて発表された、純然たる私小説にして近代日本の代表的な恋愛小説のひとつであるこの作品、放尿ファンにとっては看過できないものといってよい。 なにしろ、深夜、湯島の崖下の道でふと立ち止まって、信一はそれが習慣となっている小用をしたあと、そばに佇んでいる妻・松子に向かってその夜はなぜか、 《「ね、お前さんも為ない?」》 と《野蛮に》強いてしまうのである。 どうだろうか、そちらの方面が好きなあなたは、一瞬息を呑んだのではないか。 でもって松子のほうは、 《「可笑しいわ、殿方と違って」》 と拒むのだが、ついに押し切られて、 《「厭な方あつち向いて、ねえ」》 などと言いつつ、《左うしてから蹲ん》でしまうのである。 このあたりで、そちらの方面に目のないあなたは、はあはあと息を荒らげてしまうに違いない。 さらに追い打ちをかけるように、その次の一文がふるっている。 《煉瓦壁の夜空の稍(やや)高い辛夷(こぶし)の梢は、ぬれ紙の塩梅の花が漂ふのであった。》 なんだかよくわからぬが香気漂うようなこの一文にいたって、あなたは興奮のあまり卒倒してしまうかもしれない。むふう、たまらぬ。 「大日本せせらぎ党大会」 などが開催される際には、ぜひとも演壇の背後などにこの言葉を大書しておくことをおすすめしたい。 ということで、そっちの方面のファンのかたはぜひともこの『無限抱擁』をチェックする必要があるかと思うのだが、しかしこの作品にもひとつだけ難がある。残念ながら、そんな興奮するシーンは、ここに紹介したこの一場面だけなのである。全編にわたって息もつかせず放尿シーンが繰り広げられているわけではないのである。 あ、あなた、そんなにガックリ肩を落とさないで。 そんなあなたには、会田誠『青春と変態』あたりをおすすめしておきます。心おきなくそちらのほうで興奮していてくださいね。 |
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