ネアンデルタール人の骨が発見されたその周囲の土から大量の花粉が見つかったという話を読んだことがあります。
洞窟の奥深くで、花粉が風で運ばれたとは考えられなく、花で埋葬されたと考えるのが自然だという。
旧石器の時代から死者を悼み花で見送る習慣があったのなら、人間の本来持つ優しさを信じていいのではないか。国立民族博物館の元館長・佐原真さんは、考古学を通して現代人にアピールした。

佐原さんとは一度だけ、妙な場所でご一緒したことがある。自宅の近所にある、「おばちゃん」が一人で切り盛りしているお好み焼き屋さん。
娘とふたりで行くと先客はひとり。60代に見えるその人は、ふくらんだ重そうな黒い鞄を椅子に置いて、鉄板の上のお好み焼きを前に本を広げていた。店に置いてある単行本の漫画だった。

おばちゃんが、娘に言った。「博物館に行ったことある?このおじちゃん博物館のおじちゃん。むかしのお話をたくさんしてくれて、面白いのよ」「こんど遊びにいらっしゃいよ、楽しいよ」たまたま、佐原さんの本を通勤の行き帰りに読んでいたときで、写真も載っていたので、店に入ったときから氏と気付いていた。
「佐原先生でいらっしゃいますよね」いつまでも知らない振りをしているのもと思い、不躾ながら話しかけた。考古学の泰斗は、いたずらを見つかった子供のような顔で、手にしていたラムちゃんの漫画をテーブルの下に仕舞った。

子供がお好きらしく、隣り合わせた席から話しかけてこられた。
「お母さんは卵型のお顔?」「うーん、どっちかっていうと丸いよ」「目は一重まぶた?鼻は高い?」「ちがう、二重だよ。鼻は高くないよねぇ」「へぇ、不思議だなぁ。お父さんは僕といっしょで鼻が横にひろがってて、目が二重の典型的な縄文顔なのに、お嬢ちゃんは弥生顔でしょ。だから、お母さんは弥生顔だと思ったんだけどなぁ」


縄文・弥生談義に花が咲いた。今から5、6年前のことで、奈良の文化財研究所から佐倉の博物館に移られたばかりで、しばらく単身赴任されていた時代のご縁だった。

家族のあいだで顔のことを話題にするとき、いつも登場した「博物館のおじちゃん」は昨年の夏に亡くなった。しばらく足が遠ざかっていたお好み焼き屋さんからは、今月いっぱいで店をたたむという連絡が年明け早々に入った。お世話になったお礼に、花を持ってふらりと顔を出してみるつもりです。

馴染みになった人や場所やものと小さなお葬式を繰り返して、人は毎日生活しているのかもしれません。ネアンデルタール人は日々の生活でも、別れに花をやりとりしていたのでしょうか。洞窟で見つかった花粉は、タチアオイやノコギリソウのものだったそうです。



ある高齢の陶芸家が、お酒を相当召し上がったあとに話してくれた物語です。

若いときに縁のあった女性のお墓参りをすることになった。数年前に女性は亡くなり、遺品の整理をしたところ、たんすの奥の小箱の中に彼からの手紙が仕舞ってあったことから、連絡が入った。

お墓参りには、連絡をくれた彼女の長男が同行した。道すがら、母の思い出を話す長男の口ぶりから、生前の彼女の生活は裕福とは云えなくても、幸せと呼んでいいものだったことを知り安堵した。霊園の中の墓に持参した花を供え手を合わせた。

「華奢な身体でしたから、骨が少なかったんですよ」と、長男が云った。
「亡くなったら入れてくれといっていた骨壷がありましてね。ちょっと小ぶりの花瓶で、それじゃ小さすぎるよと僕らは云っていたんですが、母の骨はちょうどいい具合にその中に納まりました」

あの花瓶だと判った。女学校の卒業のお祝いに、彼が作って贈ったものだ。やがて時代は戦争へと向かい、出征した彼は大陸に送られた。戦争が終わり故郷に戻ったとき、彼女はすでに嫁いでいた。
約束をしたわけでもなく、指に触れたこともなかった。
未熟な時代に作った器の中は、はたして安らかだろうか。陶芸家は器に抱かれて眠る彼女を思ったという。

器の外側にばかり気を取られてきた人生でしたが、ほんとうに大事なのは内側です。
むしろ内側の何もないところを作るのが、我々の仕事です。
老陶芸家はそう話してくれた。