川棚川
川棚川(下村地区) 上小野の奥畑を源流とする川棚川の下流に位置し、昭和34年の大豪雨で上流が決壊、氾濫し平野が水没、大被害が出ました。その後河川改修により、川幅は広くなりましたがその分土手は狭くなり両岸はコンクリートで固められ、魚の棲むところが無くなりました。 昔、川は子供たちの恰好の遊び場で泳いだり魚を獲ったり時間の経つのも忘れて遊んでいました。 |
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昔から行われている土手焼き(2月) (現在は中止) |
待ってました!と、つくしんぼう |
毎年、8月に下村地区の川棚川河川敷において伝統行事の「柱松まつり」を開催しています。(現在中止)
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夏の夜の花火大会の花火は暑さを吹っ飛ばす清涼感と感動がありますが、滅多に見れない火祭りを見て太古の人々の営みに思いを馳せるのも良いでしょう。
時間:20:00〜22:00
場所:下村橋付近
○かき氷、ジュース、生ビールのバザーがあります。
<第一部>
柱松
平成12年より事情によりホーズキは中止し、松明行列のみとなりました。
<第二部>
演芸会
カラオケ、舞踊、民謡、など日ごろ活動されている皆さんが練習の成果を披露されます。
柱松(はしらまつ)について
柱松の由来は諸説あり、豊浦町史にも書いてありますがその昔英彦山から下った旅の僧から教わったという説が有力のようです。英彦山にも今はすたれていますが松会という火祭りがあったそうです。
昔の農村では大変大切だった田畑を耕す牛馬の無病息災と豊作を願い厄払いとして毎年行われていた火祭りです。
さて、下村地区(他地区にもあった)の柱松は本来、子供たちだけの行事で、大人は何も手伝わず必要材料(麦わら、萩の木、浜んぼう、松明の材料、かずら、松の芯柱、その他の部材等)の調達からホウズキ、松明等の製作から行事の実行、後始末まで全て男の子(小中学生)だけで行ってきました。期間は8月7日から7日間くらい毎晩行われていました。
しかし、昭和34年の洪水により川棚川が氾濫し、その後の河川改修工事で広い河川敷が無くなったことなどにより長い間中断していました。しかし昭和61年ころ、地元の有志の提案でやってみようということになりました。しかし時代は変わり、柱松の目的の意味合いの一つの「牛馬の安全」の牛馬が農業機械に置き換わりいなくなったこと。それに子供たちが外で遊ばなくなり、連帯感やたくましさが無くなりひ弱に成ったことなどで、もはや子供だけで出来る代物でなくなっているので、大人が中心となって行うことにしました。子供の役割は松明作りとそれを持って「柱松のうた」を歌いながら川端を行列して歩くことです。
また、当時は一晩に3ホウズキ位していましたが、一つだけとしました。日程も1日だけです。再開というより再現です。そして、それだけではあっけないので提灯などの飾りつけ、ビールやかき氷のバザーもとり入れました。また、演芸大会も行うことにしました。
ホウズキ −>芯柱の上に枠を作り、その中に麦わら、萩の木、浜んぼう、を交互に詰め(左上の写真)、垂直に立てる。それに下から小さい麦わらの束に火をつけ投げ上げ点火する。
松明行列 −>ホウズキの準備が出来るまで子供たちは松明を持って川端を一列になって「豊年満作牛馬のご祈祷・〜・・」と謳って歩く.。
クライマックスはホウズキに点火されると子供たちはホウズキのまわりに集まり、先輩(今は大人)が長い竹で下からつつく。それと同時に子供たちは「柱松打ち上げたー!!」「銀の星―!!」「恋の花ー!!」などのことばを大きな声で斉唱する。
夏の夜空に火の粉が飛び散る様は圧巻で大変きれいです。