☆☆☆☆七宝の輝き☆☆☆

 

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『かざぐるま』 □田口綾子(たぐち・あやこ)

2018.6.15. 短歌研究社

 

美しい比喩が目立つ。

1首目は、おぼれず奢らず、といってしり込みもしない自己観察である。

第2は、知のぴくりと立つ抒情、「あめのかんむり」は高品質にして高品位、好ましい。

第3で見えてくるのは第1と打って変わった自己観察。レンズは替えられている。視線は一転鋭い。

みづくさのそやそや揺るる水槽のごときこころをたづさへてゆく

ひとどほりすくなきみちをゆくときのあをき傘とはあめのかんむり

片恋のをはりに砕く飴ひとつくちばし持たぬいきものとして

紆余曲折の「曲」のあたりの中庭に出逢ひしひとなれば手を振らむ

漢字は父、ひらがなは母に似る文字が縦に並びて短歌(たんか)(づら)せり

フタバスウキリュウとふ文字を追ふときに視界の中を横切るキュウリ

日ざかりのそらのやうなるいろ見せてほのほはおのれのほのほを焼けり

どうやら田口さんには知的な膂力がある。

第4の構成的な「がぶり寄り」は「読む楽しさ」を提供する。

わたくしは大いに享受した。

どうですかこの第5、縦横にして無尽、師の荒事師を彷彿させる。

とはいえこれは天稟、努力の外。

第6、第7はす水陸両フィールドを走破するビークルでありことを示している。

若い人にありがちな「チャンバラ風」は全くなく、小笠原流でもない。

頁主にはパワフルな自然児に見える。

田口綾子さんの第1歌集の切れ味はどうやら「まひる野」や「早稲田短歌会」との相関が高そうである。

 

新刊歌集/歌書Cores2011年〜2014

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新刊歌集から

蛇足ながら抄出歌は著者の得意分野を引いているとは限らない。むしろ、頁主との共感度に因っている。

活気ある歌集に関する情報を切望します。頁主までMAILください。

⇒2000〜2003年刊行歌集

⇒2004年刊行歌集

⇒2005年刊行歌集

⇒2006.7年刊行歌集

⇒2008年刊行歌集

⇒2009.10年刊行歌集

 

 

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『そらみみ』 □宇田川寛之(うだがわ・ひろゆき)

2017.12.15. いりの舎

 

身体活動の「動」のときは精神活動は「静」、精神活動の「動」のときは身体活動は「静」である。

宇田川寛之さんは歌においてその連関に敏感であるのだと判る。

1首目では「ばうばう」とは言いつつも心裡は「覚醒的」である。

鬱を、寧ろきっちりと受け容れている表情が見てとれる。

2首目にも実に鋭い感覚が見える。ちょうど「雲」も「君」も手に取っているという感覚である。

第3はさらに感覚が「突出して」本人の状況から逸脱している。

このあたりには、精神活動、つまり感覚が全身を占領し尽している。

同様に、第5は身体の脆弱、第6は感覚の優越が自覚されている。

このあたりに、まぎれもなくこの作家の持ち前・天分がある。

にくたいの疲弊の束をもてあます鬱の原野はばうばうとして

積乱雲の鼓動見ながら坂のぼる日傘の膜をまとへるきみと

待ち合はせ時間に遅れ焦る吾を背後から呼ぶこゑはそらみみ

死は前から我が物顔に来るものと父は弱音をひとつこぼしき

充電をすれども直ぐに切れやすき生かも知れず目をつむりおり

ゆふぐれの耳は敏感。知りたくもなきことばかり多い世界だ

われよりも花に詳しき子とともに春まだ遠き団地をあゆむ

身近な人の作も「エピソード」で語るとき、切れ味の深度が増す。

最後の一首は「未知のかたまり」のような「子」の中確乎と固まりつつある「既発達部分」に充たされているのだ。

第一歌集とは言え相当長期間にわたるのでそれぞれに円熟が香り立つ。

宇田川さんは「短歌人」のメンバー、本集はその第1歌集である。

なお、宇田川さんと鶴田伊津さんは相互にベターハーフの関係にある。

むろん、素材のオーバーラップは頁主の嗜好と関連が深い。

 

NEW

『夜のボート』 □鶴田伊津(つるた・いつ)

2017.12.15. 六花書林

 

本集からは鶴田伊津さんの内面の波動が見てとれる。

というよりも、おりおりの詩的自我が痕跡を鮮やかにとどめおかれている。

内面をも捉える自撮りだから、それだけにその彫りは深い。

1首目には名状し難い哀切さが見え、第2、第3には微笑ましい「自恃」が滲む。

かなりストレートであるがそこが本集の特色であり、魅力である。

第4第5では自省の中にしんとしたものを見いだしているのが好ましい。

 

極私的なかなしみのため泣きはせぬぞ日傘の影を移動させつつ

いちにちの記憶ぱらぱら話し終え必ず言えり「パパにはないしょ」

みお、みお、と猫鳴くように子を呼びし日のわれ母というよりけもの

子の生れて七度目の春わたくしは七たび老いてもうかえらない

夜の海に浮かぶ二隻のボートよりさびしき二人 漂うばかり

そらみみをよろこぶからだ世界中をふるわすようなアリアの響き

さびしくないことがさびしい 日の暮れにひとりちいさな円を描きつつ

第6の「そらみみをよろこぶからだ」というのは読者への呼びかけであろう。

むろん、この半製品を、この頁主はきちんと読み解いて「完成品」にしている。下句にヒントがあるのだから。

「そらみみ」とは内なる「短歌的啓示」であろう。

それは取りも直さず「世界中に感動をもたらすもの」であるという確信を持って表わされている。

そして、第7首目、ここでの一連は「極私」にはじまり「極私」で閉じられる。

思えば集名の「ボート」また「限定の器」、鶴田さんの所を得た居所なのである。

鶴田さんは「短歌人」のメンバー、本集は『百年の眠り』に続くその第2歌集である。

なお、鶴田さんと宇田川寛之さんとは相互にベターハーフの関係にある。

むろん、素材のオーバーラップは頁の嗜好と関連が深い。

 

 

()(せき)()』 □五十嵐順子(いがらし・じゅんこ)

2017.7.7. ながらみ書房

 

この歌集の読者には「スマッシュ」の連続攻撃を観るような楽しみが約束されている。

瞬時に歌をシャープに繰り出すのは五十嵐順子さんの鋭利な五官のなせる業である。

1首目の「舌」の感覚、第2首目の「つまさき」の感覚は、末端で捉える「生身感覚」、

共通の体験を思い起こさせられる。

紀行の歌も所載約500首の中にあふれる。

第3首目はどうだろう。滝の水量のリズムに「滝を打つ手」を発見し

次では、転倒した際の視点の転移の中で「真っ青な空」と捉える。

スマッシュという由縁がここにもある。

花わさびひと箸ほどのあさみどり冬のまどろみの舌驚かす

ブーツ履くつまさきじんじん冷たくてきょうの寂しさここで行き止まり

はっしはっし滝を打つ手があるようだ水の落下に見ゆる緩急

つまずいて転んだついでに仰ぎ見る北アルプスの空の真っ青

奇跡の木(Survivor Tree)と呼ばれ一本の梨の木残る 証言者として

おれの杭と言わんばかりに一本を占めたる川鵜が杭ごとにいる

雲割れて意外に明るく月のぞく頑張ってみれば掘り出せそうに

数多い紀行歌の中でも、グラウンド・ゼロを訪れての「奇跡の木」は

五十嵐さんその人も、自身もまた、証言者」となったという一体感を歌わずにはいられなかったのだろう。

第6は我が町我孫子は手賀沼の光景、ここにも「わたしの町」感覚が覗く。

「奇跡の木」にも「川鵜」にも「寄り添って詠う一体感」がある。

ボールの質量をラケットで確実に捉えているのだ。

ならばこそ、「月」もほぼ我が物となる、と納得。

五十嵐さんは「歌と観照」の人、本集はその第4歌集である。

 

 

 

『トオネラ』 □松平修文(まつだいら・しゅうぶん)

2017.6.23. ながらみ書房

 

松平修文さんに市川の歌会で会ってからはや38年。

それは措くとしても、同世代の作歌には争えないもので、視線にどうしても「同世代の絡み」が纏わる。

スクランブル発進して一首を飽くまで眺めることもしばしばだ。

1首目第2首目の作にはそれぞれにそれぞれの屈曲がある。

犬に魚に訪れた不幸を絞り込んでいる視線の高さにはよくよく同意できる

第3は松平さん描くところの絵画そのもの、ここには奥まった扉絵のたたずまい。

かつ、これらにはのっぴきならない現代の「負性」が著しく象られている。

街へ行きしや森へ行きしや 明け方に戻り(びつこ)(いぬ)傾きつつ水を飲む

意地悪さうな水甕なので蓋をされ、魚はいつまで生きられるのか

路地のおくに燈をともさざる石館(やかた)ありて、緑青を噴く()()の扉絵

向日葵は丈夫な茎で天辺の焦げた頭を支へ、乾涸らびた葉つぱをぶら下げて立つ

貴方様に差し上げることができるのは、拳骨ぐらゐで御座います

トウオネラの白鳥」を繰り返し繰り返し聴く 日輪は過ぎ、月輪は過ぎ

()()為し得ることあらばせむ 身を病むことは既に忘れつ

もうひとすじ、スクランブルで得た感想がある。

作品に連なる収斂、というよりも「帰一性」が著しい。

4の「向日葵」の描写、以降、異色の第5も含め全てに共通する。

6の思いは時の永久の周回を見詰め

第7は自己に「帰一」する。

ただ、その「帰一」に至るまでが「複合的に捩り合わされた歌心」がある。

読むほどにきわめて東洋的な味わいが深まる。

本集は松平修文さんの(ノヤ)に次ぐ第5歌集である。

 

 

『紅いしずく』 □光本恵子(みつもと・けいこ)

2017.6.4. 本阿弥書店

 

光本恵子さんの歌は、絶えず一首ごとにリズムを生み出す尽力と共にある。

音読するとその楽しさは即座に味わえる。

リズムの肌理という意味で定型短歌を寄せ付けない細かさがあるのを十分に味わわせる集である。

1首目は集題となる作であるが、ほぼ定型、三句目の字余りとさえ読める。

季節を通じてこの花が耐えたであろう苦節を担わせるのをこの韻律に託し

代表歌として位置づけた心ばえは、読者が立ち止まって音読を重ねるのを待ち受けるようだ。

2は亡くされた父君への追懐、みごとな凝縮である。

厳寒の季節を耐えて身をよじらせ紅いしずくは花を咲かせる

儲けも考えず笊のようにただ働いた父 戦死した友を想い

この宇宙に一粒にも満たない小さな命 何をじたばた

娘の結婚に招かれて向かう沖縄は台風の目 これって大当たり

古も今も夜空に慰められる 歩む頭上に赤い星ながれ

土浦、水戸と通過して初めて乗る常磐線しとしと雨降りつぐ

第3以降に共通するのは「自己の観照」である。

客観的に動画で自撮りするような視点、それぞれがレアな形で呈示されている。

いずれも「新鮮」なのだが、これはおそらく結句の功績なのである。

ともすれば下句七七、特に結句七音で「見得」を切る「伝統的決着」と無縁だからである。

第3第4の結句は感情のギャラリー、十分に「抒情」を果たしている。

第7は頁主の「お庭」ここの「初めて乗る」に一驚し敬意を捧げる次第です。

光本恵子さんは「未来山脈」の主宰、本集はその力動の第7歌集である。

 

 

 

『御供平佶歌集』 □御供平佶(みとも・へいきち)

2017.5.9 ながらみ書房

 

本欄で特に8首というのもこれは必然、本集は御供平佶さんの全4歌集の集大成、分厚い文庫本判である。

『河岸段丘』1974年、『車站』1982年、『冬の稲妻』1984年、『神流川』.1993年と並べば壮観である。

「戦後40年を日本に存在して昭和とともに消え去った〈鉄道公安〉」と御供さんは職場を紹介する。

集を開けばまさに「常在戦場」、頁主もいっぱしに道場を駆け、

職場消防団では演習隊長で「かしらア中ッ」を務めたがこれとは二桁はちがう。

御供さんとはン十年、立食パーティの温顔を主に見ていたばかりであったが。

つまづきて轢かれし君のなきがらを重く担ひて線路をまたぐ『河岸段丘』

新しき職場となりて厚き板筆ふとぶとと鉄道公安機動隊『河岸段丘』

「国鉄めこくてつめ」椅子を振りあぐる一人すべなく罵声が囲ふ『車站』

人をうつなき拳銃を眼のわきにかかげて次の号令を待つ『車站』

制服を敵と思はすいかほどの酒か面罵に白じらむかふ『冬の稲妻』

〈かしら・なか〉面々の帽ひるがへる師走週末朝のわが声『冬の稲妻』

一電車二電車ゆきてしづまらむホームに送る撤収の指示『神流川』

主任官わが名をしるす送検のあといくたびが痴漢をふたり『神流川』

1は殉職に際会しての実感、第2は職場を新たにしての感懐、若さが滲む。

第3は暴動との直面、第4は治安維持のための実射訓練。

第5は制服嫌悪の酔漢との対面、第6は歳末特別警戒を控えての訓練の指揮官の英姿。

第7、第8は管理者としての視線のうちに治安が確保されていることが詩的に実現されている。

御供さんは「国民文学」編集人、本編はこれぞ男の生涯禄、男の躍動そのものである。

 

 

 

『朝のメール』 □加藤和子(かとう・かずこ)

2017.5.9 ながらみ書房

 

この歌集は加藤和子さんの13年の蓄積、家族への思いと、

折折の発見の綯い交ぜにになった集大成である。

ご息女がたはヨーロッパ住まい、朝のメールで一日が始まる。

第2、第5首は往復の飛行機にまつわる物語。それぞれ少し切ない心境が滲み出ている。

石の家に降りゆく雪の淋しさを思えり朝のメールを閉ざす

赤いザックひとつ失くして駆けまわるいずこの国か夢の空港

列島の腰のあたりか突き出でて東京地方に冬晴れつづく

かかと・かかと己が言葉となりながら冬の並木の歩を拾いゆく

大いなる鳥の臓器となりし身か昏くぬくとき機中に眠る

乾きたる玉葱の皮か蝸牛の在所探しは空想に似て

若き日の写真小さく飾られて笑まえり故人という名の息子

本集の特質は、身辺の素材をよくよく眺めて、独自の「詩境」を切り開くところにある。

第4の「かかと」を思いながら「歩を拾う」散歩、第5の機中の自己観察、

第6は蝸牛探しのつれづれの作品である。

最後の歌はいつも心を離れないご子息の微笑。

加藤さんの「精魂の傾け」が香り立つ第4歌集はずっしりと重い。

 

 

 

■『連灯』 □佐藤通雅(さとう・みちまさ)

2017.3.11 短歌研究社

 

佐藤通雅さんに松島でお会いしてから43年が経つ。

仙台在住の佐藤さんが「震災」「核災」の跡を目の当たりにした作品に寄り添う死の影は限りなく濃い。

第1首目は自身といわば朋輩ともいうべき「書」がそれぞれ眠りに就く際の静かな充足感が見える。

第2、第3は人間の日常的な「さりげない姿勢」にそれぞれの人生が炙り出される図。

第2は後の策で正体がクレヨンと判ってほっとする。

栞紐の白をはさみて灯り消す書にも一夜の安寝あるべし

人の骨やも知れぬ白、砂にあり洋の聖者のごとくに屈む

道の脇にボンネット開けて覗きゐる人生つて感じの人の後ろ姿

遠つ世にもかかる連灯の坂ありや登り切るまで人の影見ず

還りこぬ人想ふとき道の上の丸き灯の色のやさしさ

思春期あり思秋期あれど思冬期なし冬こそ深くもの思へるを

生、まして死すらを知らざる一、二歳また三歳の碑名は並ぶ

第4、第5はまさに「連灯」の世界、この2首だけでも「人はつねに灯りと共にある」という主題が

しみじみとつたわってくる。

第6と第7では、老幼それぞれの状況を切実に提示されている。

総じて深い一巻である。

佐藤さんは個人編集誌「路上」編集人、

本編は2013年から2016年までの340首を所収する第11歌集である。

 

 

■『うはの空』 □西橋美保(にしはし・みほ)

2016.8.26 六花書林

 

てきぱきした「捌き」が随所に見える颯爽の一巻。

遠い海面を見ていると、ところどころに波の「きらり」とした部分が見える。

そんな感じで「てきぱき」が見えがくれする。

第1首目、2首目、.これを「てきぱき」と呼ばずに何と呼ぶ。

だた、第2には歴史の悲しみがたゆたう。

第3は「あなた」への情愛がさらりと健康的な「撓い」を見せている。

映り込んだ月を盥でざぶざぶと洗つてさつぱりきれいな月だ

出陣の化粧の紅に泣きてより千年たてど口紅が嫌ひ

月の指す方へと伸びてゆきませう わたしはあなたの歌をうたふ樹

日本刀を抱きて新幹線に乗るわが夫なれども知らざる両腕

われの住むマンション八階うはのそらまことにわれはうはの空に住む

朝に夕に(ゆめ)(さき)(がわ)を渡りつつわれはいづこに行くを夢見る

義仲は振り返りたるその刹那射貫かれしかな授業の最後に

ところどことろに頁主と親しいところがある。

わたくしもかつて、日本刀を背負って山手線で通勤したことがあり、「木曽殿最期」にも強く共感する。

このあたりにもそこはかとなく「浪漫」が香るが、それが著しいのは、第6、第7である。

マンションに住みつつそれを「うはの空」と朗らかに眺めなおし

実在する「夢前川」に託してさらに自身の夢を深めている。

西橋さんは「短歌人」の所属。

かくも軽やかに心の襞を歌いあげた本歌集は第一歌集『漂砂鉱床』以来17年ぶりの第二歌集である。

 

 

■『月に射されたままのからだで』 □勺禰子(しゃく・ねこ)

2017.7.24 六花書林

 

時機を捉えてスマッシュを決めるには、常に「機を待つ構え」が要る。

世の中には「機微」や「潮」が随所随時にあり、これがしばしば、勺禰子さんの「着眼」と化合する。

そういう生鮮な作品が本集の華である。

天球儀を並び見上げて手をつなぐこと易ければこそ 触れざりき

落ちたての花びらを轢く感触のなまなまと車輪伝ひ登り来

はふり・ふはり・はふり・ふはり と転がせば屠るとふ言の葉のやさしき

水玉色の水玉かなしピンク色の水玉いやらし水玉あはれ

ゆら、と夾竹桃揺れて大阪の午後二時半八月は混濁

はじめてのそして最後の夕日浴び解体家屋はからだを開く

ときどきは峠で耳を澄ますこと月に射されたままのからだで

第1は心の機微、結句の1字アケの呼吸に首肯する。

第2は自転車のジャリっというかん感触、言葉自体もなまなましくまとめ上げている。

第3第4は視覚を動員しての説得調でこれも効果的。

第5の読点は二分休符、下句の句またがりともども朗読にゆさぶりをかけている。

第6は都市部の入り組んだ家屋の解体をあるががまの実況詠。

集名となった第7は展翅板の蝶のよう、動き続ける人生は一瞬に代表刺せられるかも知れない、という報告と読める。

勺さんは奈良市在住、「短歌人」メンバー、本集は起伏ゆたかなその第1歌集である。

 

■『窓は閉めたままで』 □紺野裕子(こんの・ゆうこ)

2017.6.27 短歌研究社

 

紺野裕子さんは福島で生まれ育った。

福島には豊かな山川草木数数あろうに、当今はどうしても原発事故に思いが傾く。

集題は以下の掲出、第5から第7を含む連作から採られた。

「窓」は第6に見える。

ほんらい「気勢」に近しい「はためく」という表現もここでは寒寒しい光景を強く示すところとなる。

ふるさとの住宅除染説明会 父に代はりて出席をする

終末のケアのみに生くるけんめいの息の緒あらし肩が上下す

セシウム値高き乳ゆえ人間に見限られたる牛をこそおもへ

阿武隈は平らかにゆき低丘にちちははの死はつねにあたらし

ふくしまの止むことの無き喪失をわが身のうちにふかく下ろさむ

廃校の体育館の高窓に褪めたカーテンはためきてをり

誰がための帰還ならむか〈絆〉などゆめ持ち出すな為政者たちよ

掲出は歌集の発表順、第1首目の「代理出席」は、父君の高齢と残念な生活環境を冷静に表わし、

次の作ではまさに端的に父の苦悩をとどめる。

短歌の制作者としては苦境をも精確に留めることこそが「敬慕の証し」と心得ているのだろう。

さらに、不運としか言えない乳牛を見、あたらしく仏となった父母を故郷の山に思う。

ついで、被災後の現実。

この悲しみは当事者以外には判らない、きれい事は何事も解決しない。

震災の遺したものを着実に表わす著者の、また短歌そのものの力を思い知らされる。

紺野さんは「短歌人」のメンバー、本集は、『ガラスのむかう』マドリガーレ』に次ぐ第3歌集である。

 

■『インソムニア』 □高山邦男(たかやま・くにお)

2016.4.20 ながらみ書房

 

高山邦男さんはタクシードラーバーである。

感受性に富み、記銘力に秀でた、ドライバーである。

「動体視力」というが、高山さんは「動体記銘力」がはんぱではない。

フロントグラスが掻き分ける情景が瞬時にダイナミックに詩化されている。

嘘つきを「告発」ではなく「告白」というのは自省に読める。

「インソムニア」は不眠症の意、「不夜の巷・東京」とドライバーの織りなす世界の喩であろう。

君に似る髪形の娘の一瞬を凝視してまた遠くへ戻る

嘘つきを告白せよといふごとく工事現場の光過剰なり

木琴のリズムのやうに次々とヘッドライトが近づいて去る

母にまだ心の形ある時の言葉が銀器のごとく輝く

人相が変はつしまふ程瘦せて父は意外にハンサムな顔

平凡を身に着けるまでの生活は櫻井千鶴子といふ名の時間

悪人はへこへこへことやつてきてあなたの鍵を内から回す

後半は身近な人人への思い。

父母への敬意が滲む。晩年に寄せる「美化」は美しい。

第6首目、婚約者の残り少ない独身の時間への思い、何たる純情。

他方、末尾で「善人面した小悪党」は現代のこすっからさを暴いてみせている。

先日、さる会で、著者を遠望した。

遅ればせの本欄ご紹介は、じつは、そのスマイルに大いに励起されている。

高山さんは「心の花」のメンバー、これは、その「人肌の」第一歌集である。

 

 

■『みちひらき』 □武藤ゆかり(むとう・ゆかり)

2017.6.6南天工房

 

「みちひらき」の神とは猿田彦大神を指すという。

その心は、本集には偶然のように訪れた土地での作が多いということのようだ。

武藤ゆかりさんは相変わらず多作で本著所収は1105首。

この間、じつに3年間である。

甘きこと至福千年続くべし風に吹かれてかじる(だけ)きみ(たけ)温泉)

北国の雲は浮かぶというよりは飛んでくるもの晴れ曇り雪黒石(くろいし)の雪)

引き算の豊かさ満ちているところみちのく津軽らんぷの宿は(らんぷの宿)

曇の日の空はまぶしい真っ白に晴れの日よりもなぜかまぶしい(空と風)

脳内で実況中継しながらの散歩はいつか詩となりにけり(自画像)

書き留めた文字よりみみず這い出して母の寝顔に触れようとする(歳晩独語)

気の利いたことばも出ずにお別れす手向けの歌を胸におさめて(青い光)

第1から第4は旅の折折の描写、武藤さんのことだから必ずカメラは携行している筈で、

それゆえに、どの作品も静止画との「補完関係」がいっそう際立っている。

「嶽きみ」なるトウモロコシの味覚、「飛んでくる」という動=A「豊かさ」に集約される雰囲気、

第4では「生体の官能」ならではの切り口がしっかり表出されている。

第5から第7は、詩人としてのまさに「自我とその周辺」、たくいまれな「素直さ」がとても好ましい。

武藤さんは「短歌人」「利根歌会」のメンバー、

『とこはるの記』『北ときどき晴れ』など多くの歌集のほか『ついのすみか』なる3026pという頁主の書架には勿体ないような迫真写真集もある。

 

 

■『WAR IS OVER! 百首』南輝子(みなみ・てるこ)

2017.5.3ながらみ書房

 

以下に勝るイントロダクションはない。

集の後半の詩「イカニツナゲシヤ」から引く。

(略)

鉛筆で走り書きされた電文/シユツサンイカガイカニナヅケシヤ/

一九四五年八月十五日、旧王子製紙ジャワ(現インドネシア)ジャカルタ工場の責任者であった

父と部下53名の無防備な民間人が、大日本帝國内線をきっかけに蜂起した

地元住民によって、侵略の報復として、全員虐殺された

35年後の一九八〇年、アメリカ公文書公開で明らかになり、当時の目撃者の証言を得て、父達は発掘された。(略)

その嬰児は輝子と名づけられ、戦後72年に及んで歌集を上梓した。

ふめば肉体につたはるうおんうおん桜花ふみしむ父踏むやうに

悲しみをかなしみつづける父がゐる南十字星の心臓のあたり

父のため頭蓋のひびをそつとひらき南十字星の悲しみを聴く

はちぐわつは青空ばかり青空の底踏み抜いてもまたもや青空

あの時もきつと青空はちぐわつのジャワ・ジャカルタの父の青空

ジャワ・ジャカルタこんなに遠くで殺られけり南十字星が墜ちてきさう

しちじふねんの扉ひらけば戦火嗚呼生まれたばかりのわたくしもゐる

父に気遣われながら生を受け、その父の非業の死をおぼろに聞きながら生きてきた人生。

その死後70年を経て改めて歌い上げた百首。

父への思慕は永遠の海嘯であろう。

集中に飛び交うキーワードは独語も心を離れない。

南輝子さんは「玲瓏」所属、歌集沖縄(うちなー)耽溺者(ジャンキー)のほか、詩・絵画と多方面で創作活動をされている。

 

 

■『大阪ジュリエット』橘夏生(たちばな・なつお)

2016.7.15青磁社

                                

刊行後、ちょうど1年してふらりと届いた歌集は、天・地・小口が朱で染められていた。

「川本くん」は著者のパートナー、まっすぐに相手をみつめるその視線は頁主とも親しいものだった。

第1首目、第2目は「川本くん」の特質をさすがに「接写」している。

第3首目、どう詠っても切ない状況は浮き彫りになる。

刹那にはじけてこぼれる噴水 川本くんのあの一瞬の笑顔切り裂く

戒名に「(にう)」といふ文字ああさうだやはらかかつたねきみのかひなは

二十三階のバルコニーにて川本くんを待つわたしは大阪ジュリエット

ししむらを抜け出して風を浴びゐたり朱塗りの塔のいただきに来て

(はは)の名の母韻やさしもはるばると肥えはじめたる月をみつめる

固くなつたフランスパンをかじるとき涙を流したまぶたがきらひ

ものうげな春のあかんべ ベランダに色とりどりの布団ほされて

後半は橘さんの鋭敏な感覚世界から。

4首目以降はそれぞれ

皮膚感覚、聴覚、触覚、視覚から採ってみた。

それぞれの場に自身を据えて、そのときどきを確認している。

川本くんの残したかなしみは永遠に消えまいが

そのときどきの開花をひきつづき見守りたい。

橘さんは「短歌人」所属、本集は『天然の美』に続く21年ぶりの第2歌集である。

 

 

■『スーパーアメフラシ』 □山下一路(やました・いちろ)

2017.4.27青磁社

 

名づければ「コラージュ体」、

主張のくっきりしたパーツ群に意外性のスプレーを掛けて意味のある形に再構成している。

コラージュの主役のパートには個性的な小生物が配されている。

しかし作中での役務はさまざまである。

第1首目では「受動」、第2首目では「能動」、そして第3首目では「シテ」である。

これらの対象はここでは外的な描写のそれではい。

山下一路さんの「詩的自我」の派生物質にほかならない。

いちにちのはんぶんをかけ樹にのぼり鳥がくるのをまつ蝸牛

目蒲線沿線にスーパーアメフラシあらわれ青でぬりつぶす

下腹部に不在を孕み蟷螂が見まわしている夏の終わりを

生まれつきアゴから上を明るいほうへよじられている向日葵病

チェンソーを胸にあてるモクレンはたくさんのびていっぱい枯れる

ぬんぬんと膨らみながらかき進む夏雲を見るかつての少年

水面をあおいでみればきらきらと断念のような青空がある

第4首目、第5首目はいわに見られる植物となると一段と「自己同一視」が深まってくる。

自己と対象の境界を渾然とさせる不思議な視線である。

ようようここに引いた第6第7の作には一転、清明な自己がかたどられる。

山下一路さんには1976年の第一歌集『あふりか』があるという。

互いの作品を同じ誌上にならべたのはそれ以前のこと。

懐かしく初見の第2歌集に親しんだ次第である。

 

■『男歌男』 □奥田亡羊(おくだ・ぼうよう)

2017.4.17短歌研究社

 

「男歌男」、頁主の言うべくして言い得ない言辞がさらりと掲げられている。

頁を追えば巍巍たり才の連峰。

構成に秀でていて、集の冒頭、第1首目の役割は読者への「課題付与」にとどめられている。

第2首は絵に描いたような見得、

第3〜第5は、氏の標榜する男歌の神髄の提示。

この神髄をふたつのことばで示せば「大柄」と「鋭利」、他の追随は許さない。

男歌の系譜ここにて断たれたり人呼んでわれは男歌男(おとこうたおとこ)

女護島(にょごのしま)に俺が渡ればいっせいに白き日傘のばばばと開く

滝壺に刺さりたるまま二万年身じろぎもせず滝は驚く

舟底へ振り下ろす斧  炎天の光あつめてわが仕事あれ

八朔の落ちてとぷんと海は暮れまた朝は来てやがて百年

ふかぶかと霧に消えては歩み来るあれはたしかに男歌男

金色に緊まりて細く流れゆく俺はいつまで男歌男

この「男歌男」の正体は頁を追って明らかになる。

いうまでもない。それは、奥田亡羊さんの「詩的自我」に他ならない。

そして、上掲のそれぞれが、その「詩的自我」の明快な発露なのである。

奥田さんは「心の花」所属、本集は第一歌集『亡羊』に次ぐ第二歌集である。

 

 

 

■『晩夏の海』 □岩崎堯子(いわさき・たかこ)

2017.5.26六花書林

 

ときに回想、ときに洞察、ときに分析とその思考はさまざまであるけれど

それぞれことことくが、耳元でささかやれるように頁主の「排他的理解域」に入ってくる。

つまり、よくよく頷かされるのだ。

とくに第1首第2首など聴覚に関する作品は格別である。

誰にも少年期に、この時のことは忘れないだろうと思った記憶はあるだろうけれども

それにして第3、第4の記憶はあざやかである。

これら随所に見える「感想・感懐の挿入の才」はおそらく岩崎尭子さんの天分だろう。

 

朝床にぽんぽん蒸気の音ひびき女漁師になると決めた日

格闘のすゑ()()に折られし豹の首に その音はなほわが胸にひびく

むかしありしよ青空からのいつぽんの紐に吊られて飛べさうな日が

このときを一生忘れざらむと思ひつつひた澄む晩夏の海に浮きをり

石かげにひそみて()にもあらはれぬ鯉の恐怖をおもひみるべし

すっぽりと隣家は布に覆はれぬ変身を待つこの秘めやかさ

玉子もて洗ひきたりきわが髪はいまだに黒したまごは偉し

第5、第6の見えざる部分に思いを致す知性は本集のまさに「葉隠れの花」。

ここでの「恐怖」も「変身」も読み手に捨てがたい「深み」を配賦している。

じつは、岩崎さんは「短歌人」東京歌会2次会の隣組常連、よって健康上の教示もしばしばいただくところ。

なるがゆえにて、第7の作には「番外の輝き」を認めざるを得ない。

岩崎さんは「短歌人」所属、本集はその満を持した第一歌集である。

 

 

 

■『一心の青』 □寺島博子(てらじま・ひろこ)

2017.2.9角川書店

 

一巻を一色で言い切ることはおそらく無礼な行為なのだろうがこの一巻を流れるモードは「奥ゆかしさ」である。

それは、巻頭歌、第1首目と集題の歌、第6首目にそれぞれ見える「わづかに」であり「近づく」である。

「踏み込まない詩精神」は第2首目で薔薇に寄せた「美の瀰漫」をみちびき、

第3首目で「あなたのなかの(愛すべき)ワルガキを「奥ゆかしく」描く。

第4、第5は現代的不安を十分にカバーしている。

地のしづくとなりて跳ねたり鶺鴒はわづかにみどりの残る芝生に

零れゆく時間の粒子、黄の薔薇の咲きたるのちにさらにもひらき

野に出でて菫の花を探しゐむあなたのなかに棲む悪童子

水面にすうつと顔をつけるとき反目してゐるわたくしの消ゆ

鳥一羽(つぶて)となりゆく速さにて喪失感のおそふ水無月

駅頭をさつそうと行くをみなをりゆふべの空を首にし巻きて

草木染のストールまとひ草木の一心の青にわれは近づく.

前節で「カバー」と書いたのはいささかご無礼だったが、真意はこの第6、第7との対比にある。

「空を首にし巻く」、「一心の青」には、それぞれ詩的な「突き抜け」がある。

アフターファイブを目指すか明日への展開を目指すか、空だか雲だかを友とする

女性はこんにち現在の「明日の(じょ)お−」であろう。

おなじく私も草木の生気をストールを介してわがものとする、という。

誠実につつましく生きれば明日は相応に輝くという奥ゆかしい人生をまで言えば言いすぎか。

寺島さんは「朔日」の同人、

歌集に『未生』『白を着る』、評論集に『額という聖域―斎藤史の歌百首』がある。

 

 

■『サバンナを恋う』 □井上孝太郎(いのうえ・こうたろう)

2017.3.10砂子屋書房

 

ドライフルーツという奇妙な食品がある。

みずみずしかるべき果実を乾燥させ、変質させている。

井上孝太郎さんの歌の作歌の工程もそうなのだろう。

1首目.から3首目にそれは顕著だ。

蟻の出現に春の到来を見いだし、ガラス細工にその故郷を想起する。

ポイントはその後の処理の妙、頭の中に時空の尺度を埋め込んでいるかのようだ。

3首目は読者の頭をコツンと触れるよう、驕慢児の面目躍如もそのままだが、見るべきはかかる貴重な抒情だ。

かく、ドライフルーツとは乾いた抒情の謂である。

異常なし(ニヒツ・ノイエス)」蝶の死骸を巣に運ぶ蟻の一群春の前線

高原の町に挽歌の陽はあふれサバンナを恋うガラスのきりん

「皆自明」とのみ答案用紙に書き入れて数学試験の教室を出た

空耳と知りつつ聞き入る風の中童の歌う花いちもんめ

シェットランドに羊を追いしものの()()日向で惰眠むさぼる犬は

怒りの的絞りきれずに鬱々と二十世紀の除夜の鐘聞く

エントロピーは常にせつなく増大す湯を沸かす間も過去振り向くなと

4では「知りつつ」も、幻聴に童謡を思い、5では愛犬に牧羊犬の血統をかぶせ、

6〜7でも、時間時刻に自己を貼り付けている。

高度成長期からその後の期間、頁主と同じHITACHIに身を置いていた作者である。

研究職のエトスがどうにもこうにも見えてしまう。

井上さんは「短歌人」所属、本集はフィヨルドの海岸線をもつ第1歌集である。

 

■『同時代』 □福井有紀(ふくい・ゆき)

2016.9.10六花書林

 

読後に哀切感がかぎりなく尾を曳く歌集である。

最愛の夫君に先立たれ、孤独をなぐさめてくれた愛犬も去ってゆく。

そういう終章を控えながらも、しばしば、自己を見据える視線に鋭いものを見せる歌集である

()ぢからの癒しをもとめ濃密にドライブしたりはるのこゑごゑ

歯をみがき今あることに感謝する思考回路がはなはだうれし

カキ鍋をほのぼの食せる充足にああいつまでの夫の生命か

勤勉な人間力に寄り添ひて花火大会ふたり見にきし

花が咲き三年前の夫のゐるしろき祭壇と会話するなり

いくたびもなぐさめくるる犬とゐてさくらの開花にこころはさわぐ

安堵してイナバウアーをするルルがゐし後悔なけれどルルに逢ひたし

第1首の「女ぢから」といい、第4首の「人間力」といい、福井さんの社会や

その社会を構成するものの中に「力」を見出す視線には、本質を見抜こうとする強いものがある。

これは自己の思いを「思考回路」と客観視する視線と通底する。

そんな中で、夫の闘病を見守りやがて見送る日日。

かわって伴侶の役を務めた愛犬との別れ。

悲しい歌を続けて抄出したが第5、6、7首、いずれにも「外に開かれた自我」が見える。

これは、この節の冒頭に書いた「強いもの」と響きあう心の芯でもある。

福井さんは「短歌人」所属、『カウチポテト』『団塊の世代』に続く円熟の第4歌集である。

 

■『九年坂』 □田上起一郎(たがみ・きいちろう)

2016.7.27六花書林

 

ストレートが多い。半速球もコーナーワークも厳密。

本集は手練の9年間の集成。武道なら3段、心身充実の坂を上り詰めたところである。

風の吹く妖しき敷地に入りゆき命かぎりの青葉に会ふも

前席にすわりたる女いつしゆんをこの世の終はわりの顔したりけり

はからずも空はま青に塗られたりありありと立つ鉄塔ひとつ

山の上の白雲ひとつつかみとりたはむれなれどふところに入れむ

公園の時計の針は午後十時ふいと立ちたり 月が病んでゐる

満員のがまんがまんの山手線おれはいま神の右足ふんだ

名優のごと白鷺一羽立ちをりぬきまじめ夕日もの狂ひけり

『九年坂』の第一印象は、那須与一のごとき対象・的への精確な射出である。

ただし、すぐあとに、さらに条件をひとつ付加したい。

刀法には「抜き打ち」という、思い立った時点での決着を旨とする技術がある。

この射出はこれに等しい速射性がある。

例示する。

第1首目。青葉に会ったのが敷地に入ると「同時」なのだ。

決して「入り来て」から、時を経て、ことに気づいたのでなないのだ。

2首目、4首目、6首目はいずれも電車の中での即詠。

2首目では「動体視力」を見せるが、他の作もも「本質を瞬時に見抜けばこそ」の速射ではないか。

総じて「凝り」や「衒い」に力を費やさない「純情正統派」だが

本質に迫るときには「思うがまま」の喩をぐいと押し出すことに躊躇はない。

田上さんは「短歌人」メンバー、これはその9年に及ぶ仕事の集成たる第1歌集である。

 

 

■『砂時計』 □雅風子(がふうし)

2016.4.25飯塚書店

 

砂時計は常に見詰める対象となる時計だ。

現在という細いくびれを通じて未来が過去に変わるのを確認しながら見詰める時計、

ここに雅風子さんの社会観が厳とある。

これに関わる相として街////という4つが選ばれている。

対象に注がれる「目ぢから」は尋常ではなく、

個々の場面の「静」「動」「背景」を詩的に劇的に再構成する。

始発電車は朝焼けを窓にはめこみてわが家の前を軽々と過ぐ

厳かに身を反したる錦鯉花の筏の一瞬の乱

海風に髪なびかせて砂あそび児は総身に光をこぼす

青砂の一分計を飽きもせずリセットする児に未来は問はず

伸びあがり秀を巻き込みて雪を食ふ鈍色の海目路の果てまで

日本海の雪の刃は海となりつつまた海となりつつまた雪を呑む

昇りつめひらく花火の散り際に音始まりぬ闇を引き寄せ

1首目は爽やかな一日の出発点を「劇化」して呈示する。

2首目ではこの景を「乱」と総括する。

第3首目は幼な子の描写に徹しつつも、じつは温かい期待をすくい上げ

第4首目に登場する「砂時計」はと.「時間」をともども眺め

「無限反復」を切なく念ずる愛が読み手の胸をしたたかに打つ。

5〜第6のこの一連の海の描写は「動」を描ききっていて集中の白眉となっている。

多くの人が楽しむ花火も全体像として捉えるとこうなる。

短歌のちからを十分に示した傑作である。

雅風子さんは未来のメンバー、これはその第3歌集である。

 

■『ハガル=サラ・コンプレックス』 □渡部洋児(わたべ・ようじ)

2015.9.28短歌研究社

 

渡部洋児さんの創作意欲は多岐にわたるが一貫して「自我に忠実」な詩精神が明晰に見て取れる。

旧約聖書音上の女性がらみの家庭崩壊を彷彿させるタイトルを与えられた本著は

1章で自己の美学の極みを、第2章で日常の葛藤的抒情を、第3章で現在の家族状況を歌うが

三章が相互に放射する詩的質量は甚大である。

§1

放牧の牛に注意放埓の心に注意朝八時半にて

心臓の色は赤?黄?窓ごとに群咲けど汝がゼラニウムいずこ

平穏の街のあかしか緑碧の空ありて誰も脚はエンジェル

つきつめれば嗜好に至る愛ばかり身近にありて(まち)(じゅう)に雨

§2

まるで自分のことかも知れず数年の五色のこころいかばかりかや

梅はサラ桜はハガルならばわが前に咲く桃そしてなす()()

§3

子は帰り君が訪い来ぬ屋上に父から男の貌となりつつ

1首目は放埓を揚言する。

かつて、「自分が面白くない歌は他人が面白いわけがない」と喝破した人物の声である。

自己の心情の多彩を自任するも、他者の心に懐疑をもつ第2首目。

渡部さんの詩精神は、いつも「練り上げられる」ようだ。

3では、通行諸氏の脚から「街の平穏」を練り上げ、

自らの愛のあり方を「嗜好に至る愛」とまで第4は練り上げる。

自己に忠実、と規定するゆえんだ。

5は海岸の多彩な石を見て、第6は聖書を想起しての複雑な思い。

最後の歌は、見舞いに来た旧家族に対応する本日の自画像。よくよく、判る。

渡部さんは「短歌人」のメンバー、その第3歌集である。

 

■『髪を切りにゆく』 □藤田初枝(ふじた・はつえ)

2015.9.16六花書林

 

古典和歌を専攻かつ研究してきた藤田初枝さんの現代短歌だ、と、どうしてもそう読む。

無論、この点は、作るプロセスでも、いうまでもなく、大いに意識されている。

わたくしの抄出傾向とも関係するが、かなり意識的であることは

作品との対面に先立ち、意識されてよい。

たとえば、第4の「ヲトコ」にはその雰囲気が漂う。

この作は、歌集でも、集題となった第3の直後、つまり、意識せざるを得ない位置に置かれている。

やがて闇に包まれるまでの数分を燃えて燃やして沈む太陽

魂を振り絞るがに血の色を見せて楓は一世(いっせ)輝く

神のごと振る舞ひて人は神となり神が溢れてやがて混沌

春来るは儀式にも似て靖国の花咲く宵に髪を切りにゆく

満開の桜の下に立ちをればヲトコが欲しい年頃である

なよ竹のかぐや姫の罪状も罪状認否も明かされぬまま

江戸っ子の蚊が減ってゆくこの頃に話が及べば愁ひ顔なり

1、第2には強度の「思い入れ」が滲む。

「まけるな、わたし、ここにあり」と言わんばかりの。

有限の繁栄への全力のエールは、そのまま人生観を垣間見させてくれる。

3は一転して批評眼。しかも、先の掲出同様、純真清潔な視線。

56の、桜を縦糸に、断髪とヲトコを横糸に作る、この、2首連鎖は心に残る。

やたらと「人間」を思わせるのだ。ぽんと「女性」が飛び出す、そんなふう。

藤田さんが「思考の人」であることは読み手に親近感をもたらす。

6、考えて見れば、かぐや姫さんは、とんでもないお騒がせ女、

7の連題は「やぶれ蚊ぶれ」、これも決して見落としてはならない。

藤田さんは「短歌人」のメンバー。本著はその、ゆうらりと生真面目な第1歌集である

 

■『北ときどき晴れ』 □武藤ゆかり(むとう・ゆかり)

2015.9.10南天工房

 

武藤ゆかりさんは多作である。本著所収は1120首。

これは武藤さんが写真家であることと無縁ではない。

いや、写真家は誤りで撮影家とよぶべきだろう。

カメラを据えるあるいは構えるときは、すでに先行か並行して作品が胸中にあるのだろう。

逞しく憶測すれば、水晶体と右脳の供応動作が瞬時に短歌を制作するにちがいない。

熱意もち妻を研究したならばあなたもすごい論文書ける

羊水に洗髪剤は満ち満ちて香りとともに生まれるという

全国の避難住民その中に名前を書いたわたくしもいる

愛犬が散歩をねだる鳴き声が常と変わらぬ唯一のもの

大量に保存しておくわたくしの写っていない写真ばかりを

まだ立てぬ子鹿のようにへなへなと老犬ろびい倒れ伏したり

わかくさの女子と呼ばれる時過ぎて暴飲暴食少なし仁

重大なことをぽんぽんと発する歌がある。

「《深遠なこと》をほんと言い放って、微笑で残心を示す」そういう詩的態度である。

第1は、男どもへの「訓示」。「妻」への認識を促しつつ、武藤さんはさらり「本質」を突く。

2、出生のメカニズムを「誰も言わなかった」角度から書く。

隣にいる撮影家と違うカメラアイを求める才がかがやかしい。

3、第4は東日本大震災の被災現場から。東海村在住者として。

シャッターを切る眼は対象を一点でとらえている。

5、撮影家は自分を撮らない。陰画的にして因果的な自画像。

6はただ悲しく、第7はただほほえましい。

そういえばこの歌集に「巧言令色」の卑しさは皆無だ。

武藤さんは「短歌人」のメンバー。

『とこはるの記』『異界伝説』など多くの歌集のほか写真集もある。

 

■『モーヴ色のあめふる』 □佐藤弓生(さとう・ゆみお)

2015.6.30書肆侃侃房

 

佐藤弓生さんには“変な歌を作る佐藤さん”という異名があるらしい。即座に同意する。

この歌集はまちがいなく水でできている。巨大な水槽に見える。

密度高く、質量の大きい流体が満たされている。

水には魚が棲むが、不思議なことに、ここには淡水魚から深海魚まで放たれている。

わたくしが好んで深海魚を並べることも可能だが、あえて分散陳列する。

土くれのにおう廊下の暗闇にドアノブことごとくかたつむり

天は傘のやさしさにして傘の内いずこもモーヴ色のあめふる

青空 よくよく嵌めておかないとこのまま抜けてゆきそうな首

犬はすぐいなくなるからスコップや皿や写真でかざられた小屋

ひさかたの雲・オン・雲を分けてゆく秋のはじめの鋼のつばさ

体液を交わすことあり詩と歌といずれ孤城の月より暗き

みずからの指にふれえぬ脳髄のしろさにありぬありあけの月

言い切るならば、断言・断定のこころよさが心に健康な違和を植え付けるのだ。

なお、先の、「変な歌」の総括は宣しからず。「妙」が宜しい。

戻って、第1は直視的断定、第2は創作的断定だ。この言い切りは楽しい。

ともども、心にコツンと当たる。

3は心に当たらない、わたくしが決して思わない、つまり「居を突かれた共感」がある。

「虚をつかれた」というのは「脳」を含む頭部を作者が見ているという構図の奇抜さに、である。

4は切ない共感。ただ、適切にすぎ、端的すぎる。

5はコトバの楽しさの躍動、軽快に渓流を泳ぐようだ。「単語のオブジェ化」に奏功。

6、第7は深海魚モード、たましいに接近している。

「体液」「脳髄」なる「オブジェ語」の詩的操作に惹かれる。

佐藤さんは多数の詩集を持つ、「かばん」のメンバー。

本集は『世界が海におおわれるまで』『眼鏡屋はゆうぐれのため』『薄い街』

に次ぐ、第4歌集である。

 

■『アルゴン』 □斎藤寛(さいとう・ひろし)

2015.8.18! 六花書林

 

「アルゴンはおよそ何の役にも立たない気体」というに親近感を抱いたと著者は述べている。

ただ、斎藤寛さんは「考えるアルゴン」であり、稀に「叫ぶアルゴン」である。

「短歌の口」は確かに重い、が、重ければこそ、言紡ぐ糸の綾は変化に富むのだ。

第2は著者が自認する自分、抑え目な自画像、これは集中に多く見える。

第1と第4に見る「ぼかし画法による性愛の提示」には天分が覗く。抑え目の自己の別の発露だ。

善良な少年・中年の恥じらいを描くことは現代あまり例を見ない。

いつぽんの樹でありしころ真裸のひとに抱かれし たれにも言はず

挙手すべし挙手すべしとて胃の腑の辺()すものあれど挙手をせざりき

椅子と.椅子と椅子でありしが踏み台と椅子と積ん読台とはなりぬ

ナイフ以て切らむとすれば桃の言ふ「あたしを刺してあたたまつてね」

止揚なるご都合笑止と詠むうたの気つ風愛づれば春のいかづち

「ポエジーはユーフォリックなトポフォリア」だと?脅かさうつたつてさうはいかねえ!

声はいのち文字は死体とうそぶけばあまたの死体闇を行き交ふ

観察して、状況の中に「真理」を追うすがたも目立つ。

第3はその日常茶飯版、第7はその深層版。

第5、第6は読書感想の発露、前者については身に覚えあり、後者については「良くぞ言ったり!」

『アルゴン』の発する面白さの由来は明快だ。衒い、迎合、打算がない、さわやかさだ。

だが、錬金術・黒魔術と・量子力学と無縁であるとは保証しない。

斎藤さんは「短歌人」のメンバー、これはその、分類に困惑する第一歌集である。

 

■『ここからが空』 □春野りりん(はるの・りりん)

2015.7.20 本阿弥書店

 

《奇想》といおうか《得意技》がふたつ看取される。

「天体宇宙を身近に歌う」のがひとつ

「人体組織を機械的に見做す」のがもうひとつ。

3、第4はともすればケチくさい現代人の思考とは「少なくとも二線」を画する。

1の、自己の中心の骨格について、これは自らが作ったと見ている、と読む。

さらに、第2、目のシャターは自ら降ろす。

第6の、未生の自我は「痛点を持つたましい」周囲に宇宙が居てこれがこの両者の接点であると。

ガウディの仰ぎし空よ骨盤に背骨つみあげわれをこしらふ

本日の営業これにて終了と目蓋二枚をひきおろしたり

大神が弓手に投げし日輪を馬手に捕へてひと日は暮れぬ

待ち針のわれひとりきり立たしめて遊星は浮く涼しき闇に

芳一の双の耳たぶファン・ホッホの左みみたぶ春野にあそぶ

(おほ)(ぞら)を漂ひゐたる日のありき痛点をもつたましひとして

青草をのぼりつめたる天道虫ゆくりなく割れここからが空

5、自らの名に切り取られた耳どもを配し、第7、天道虫の旅立ちを「割れ」と呼ぶ。

大柄の人が歌えば短歌は大柄になる、という格好の例がひしめく。

ここに引かない日常の歌もこの土壌に咲く花花であると認識している。

春野さんは「短歌人」のメンバー、これはその、規格を逸脱する作品のこぼれる第一歌集である。

 

■『ビューティフルストレス』 □森典子(もり・のりこ)

2015.5.19 立花書林

 

「《変哲》の出し入れ」が強い魅力だ。

「脱皮して」と引っ張っておいて「つるんとなる」と受けながし、

他方、「ふわりと落ちて」を「二重丸」と。だがこれはまともに見えて尚フシギ。

これを称して「起承転結」ならぬ「起承転転」、知がこぼれて走る。

なお、全編に見え隠れする「軽微なメタモルフォーゼの暗示は、奥底ひそむ願望の呈示である。

指の先、鼻の先から脱皮して4月半ばにつるんとなるはず

ストレスの少ない卵フライパンにふわりと落ちて二重丸となる

朝食のサンドウィッチに挟みたる卵とハムとビューティフルストレス

のっぺらぼう そうなる前の唇に葡萄色したルージュを引こう

もう1枚衣服を纏っているようなもどかしい午後 光を捌く

校歌とう不思議な音符の組み合わせ動き始める口というもの

つま先が喜んでいるぬめり声、ライブハウスのずんどうの風

性急さがちょいちょい見えるが、これもひとつの、現代の典型的な《知》のありようと読む。

4首目は、「予見との淡い対峙」、5首目は「お天道様への軽微な反抗」。

ともども、予は大満足させられる。

さらに、第3、第6、第7首目に共通。

それぞれ、結句に登場する主役語は、後で知ればこれまた満足の「露払い語」に先導させている。

森さんは「短歌人」のメンバー、本編は意外にもその第一歌集であった。

 

■『〈理想語辞典〉』 □山中もとひ(やまなか・もとひ)

2015.5.1 現代短歌社

 

意趣を含んで喧嘩をするときには、その攻撃は徹底するだろう。

強い創作意志をもって、語の勢いを加速させる作品からは、読み手はヤケドを蒙るだろう

ときおり、この集を駆け抜ける歌にはブレーキ痕がないものがある。快いヤケドが起きる。

白昼のゆめのごとくに夜の夢まこと夜半には発光する猫

この器量ほとほと狭し敵さえも(いち)(にん)ずつしか受けとめられぬ

〈理想語辞典〉連想辞典をよみちがえしばしば思えり理想の単語

ああ夏は苔むす路地に温気みちカンナの赤がなまなまと咲く

寒鴉おまえも圭角捨てきれず尖ったものは一応きれい

ぽっちりと笑い顔した日本猫()が魂喰いて箱座りする

いをいをと警察車輛の哭き行きて霜月にわかに冬さびてくる

1首目は、猫という概念を、加速し、変形させて提示する。

この、猫が夜中には本領を発揮するのですよというレポートは十分に攻撃的である。

2首目は、5首目同様、「しか」や「一応」と条件を付しつつ、《世の常識》の逆を言い放つ。

4、6、7首目はそれぞれ《言い切りの妙》、フルスイングともタリプルパンチとも表現可能。

自在な表現は自在な詩精神に宿る。

第3首のみが戦略的事情からか、ひとり自粛的。

山中さんは「飈」「蓮」のメンバー、その第一歌集である。

 

 

■『噴水塔』 □加藤治郎(かとう・じろう)

2015.1.28 KADOKAWA

本サイトで、前集について、加藤さんの短歌に対する《馴致度》をとりあげたが

この指摘は我ながらなかなかの着想であると確認できた。

「口語」「定型」を扱いながら短歌への関わりを自らに問い、読者に問う。

もとより短歌を研究対象として自作する頁主の意識も共振する。

蟬の鳴くわが狭庭とはなりにけり完全口語を幻聴として

定型の器に音が注がれてかりょうびんがと鳴りひびきたり

ささやきのつぶつぶロシアン、ロシアン、野苺色のくちびるが来る

彼方よりかすかな羽音がちかづいて噴水塔に鴉はとまる

唇がかくしてる舌ひきだして玉藻のような時がはじまる

やりなおすことはできないどこからもどこからも鈍器のひかりあれ

墜落の男の宙にとどまるはくるしかるらん宙にとどまる

 

2首目3首目は「接近」の過程を扱う。接近は自我の相対移動。

紅茶のジャムであれ、鳥の接近であれ「接近」の中での自我の再確認。

5〜7首目は加藤さんの真骨頂。

本集は加藤さんの第9歌集。第8、第7もこの際チェックされたい。

「しんきろう」2012.4.29〔砂子屋書房〕

「環状線のモンスター」2006.7.25〔角川書店〕

 

■『金魚歌へば』 □西五辻芳子(にしいつつじ・よしこ)

2014.12.25 青磁社

金魚と作者は「直喩関係」らしい。「私が詠えば」と読み換えてもよいところ。

まるごと奔放な作歌姿勢はわたくしを楽しませる。

ストライクゾーンにこだわらず、多くの球種を繰り出すのだから。

わくらばを踏みし夜道の泥濘に月の子がほらつ舞ひ降りひかる

電線に(とつ)(とつ)の列椋鳥の六十羽ばかり淋しさもなく

「あらつ来たの?私は此処よ」ふりかへりマティスの金魚がひとりごといふ

桃五つおごそかにして卓の上またたきはじむ惑星(わくせい)のごと

はや夏日ペダル踏む脚やけるごと

白風車時計まはりの炎天下あふみのけふは深き藍なり

大空を樹状突起のやうにのぶ大樹に出会ひはればれとせり

 

1首目の「ほらつ」、2首目の「凸凸」、山葵が、作に染み込んで全体をコーディネートする。

3首目は「同族体面」の趣向、両魚がわたくしに片目を細めるサイン。

6は俳句との一連コーディネートの1ペア、炎暑下の隠しテーマは「回転」、やっておられる。

7は喩の「本卦還り」を堂堂の演出。

西五辻さんは、「短歌人」の所属、華麗の林の第1歌集である。

 

 

 

■『月と水差し』 □和田沙都子(わだ・さとこ)

2014.6.10 砂子屋書房

「体験の押し花」と呼ぼう。対象と時間を共にし、対象が心に沁みつくのを以て歌とする。

時間をなおざりにしない生活が留められている。

歌のひとつひとつに「経験」が住み着いている。

ゆずり葉にゆずり葉の影濃きまひる郵便受けにことり音する

イシククル湖の湖底に沈む水差しの幾千年は月が知るのみ

雨を見るときにはいつも犬となる二歳のこどもと犬語で話す

中空の竹あれば七つの穴をあけ笛つくるこころ昔も今も

もぎたての紅玉スカートでみがきあげシュワーッとかじる風がとびたつ

銃のまへに立ちはだかりし白熊は立ち上がりしままこの世に残る

一人机で大きな書物をひらくひと 誰もが独り神に真向かふ

 

「ゆずり葉」と短い時を共にし、「湖底」の「水差し」とは悠久を語る。

時空を超える「経験」は自在、「犬」となり、笛に「昔」を思う。

剥製から生前の姿を復刻する想像力は1冊を随所で豊かにしてくれる。

和田さんは、「短歌人」の所属、物語や音楽関係の著作は多い。

しかし、本著は第1歌集である。

 

 

■『風とマルス』 □花山周子(はなやま・しゅうこ)

2014.11.3 青磁社

自分の心の中にカッターナイフを忍ばせるか、

内面の眼から内面をカットする視線と仕草が新鮮である。

着眼は多様、細工はしばしば予測を裏切る。そこに作者の「美的好奇心」の果実がある。

如月の廊下にしんと日は射してうさぎは胸に毛をためている

妄想を閉ざせば白髪のような雨、胸に長く長く入りてくる

石膏像マルスを奪え 思い出が消え去る前に抱えて走れ

東京より一時間遅れの日没がほたるのひかり弱くしており

われと君二人がかりに青空の(はざま)にラワンの板を割りたり

皿を洗う時間は好きだとめどなく濡れながら手は働けり

だんだんに吊るされていく冬空の広さを咽喉をあげて見るとき

 

「うさぎ」の見方、「雨」の眺め方も独自。

「マルス」をラグビーボールのように抱え、どこにトライするのか。

4〜6番は「間」のとらえ方が三首三様、歌のポケットの豊かさを傍証する。

7番の特異な体感表現には「内面からのほとばしり」が見える。

花山周子さんは「塔」所属、その第二歌集である。

 

■『月光葬』 □鈴木英子(すずき・ひでこ)

2014.8.25 角川学芸出版

見えない圭角をこころの内に秘めているのだろう。

だが、そのおそらく反動だろう、慈愛に似た目配りが周囲に投げられている。

現代的抒情のリアリズムの彫りは深い。

何か割の合わない生だ ミニ薔薇は気合をつんと入れなおしたり

盛られたるサラダのような アスパラにたまごにトマトみな誰かの子

咲く花の辞世に肥えてゆく雨よだれもが誰かを悲しくさせて

かなしみのてっぺんに厚き雲かかりそこへそこへと(いざな)われゆく

目が違和をとらえてそれが解けるまで私はあなたを傷つけました

攻撃的筆致がわたしの持ち味でわたしが逃げたいわたしに挑む

殺されっぱなしが積まれどの道もイラクの夜の月光葬なり

 

「ミニ薔薇」も「アスパラ」も「咲く花」も自分も、みんな少し、不遇。

それでも、だれか他者との相互関係のなかで救われるような社会、と、社会を捉えている

自己分析も見え、ジンセイは正に佳境。

前歌集から、9年経っている。

鈴木英子歌集=実質は「油月」(鈴木英子)2005.8.10〔邑書林〕

 

☆☆☆

 

■『クラウド』 □井辻朱美(いつじ・あけみ)

2014.7.20 北冬舎

巻末に「詩の火力」というあとがきの形を踏んだ論文がある。

立脚点を明確にする歌集は稀有だ。

井辻さんは間違いなく《竜》だから《トカゲ》の追随はむずかしそうだ。

おそらく、孤独だろう。

全景、ぶちぬけているので、ここでは依田トカゲとの接点からピックアップする。

生まれてから水しか踏んだことのない透明な足の吸盤のかずかず

透明な冬陽が染めるジャコメッティのたましいのような都市の痩せ肩

紺青の風鬼・雷鬼を象嵌し冬空くまなく冷えているかな

探偵が世界に付箋をつけるように紅葉始まりジャムは煮えゆく

あんなにもとおくあるのにもたれてくるなみのかたちを慟哭と呼ぶ

いまもなお覇者たらんとして打ちあえる波のすがたをちひろと呼ぶか

非現実とこの世を接合したような薄さでかなたに立ちのぼる富士

おりおり、「静かな断定のツルギ」が躍る。

冒頭の主体は烏賊。

3首目に見える、風神・雷神の格下げと呼応する「かな」はいささか可憐。

生物、都市、山、海そしてクラウド、それぞれを独自に掘り下げ絶例に塗り替える。

誰の歌とも位相をともにしなしい。

前歌集『水晶散歩』から10年を経ている。

 

 

■『水上の往還』 □小林幸子(こばやし・ゆきこ)

2013.11.22 砂子屋書房

自然体での歩行は即時の抜き打ちを可能とする。

刻刻がいくさという次第。

以下の作品はことどとく、対象との間合いを見、斬るべきいやいや

捉えるべき機に対象を凍結している。

どこに接続したらいい、灰色のプラグをさげてゆく夢のなか

最終のバスを降りればぐらぐらと月をゆらして風吹いてをり

ひしひしと圧されながらにみつめたる阿修羅の背中そこだけ樹木

空蟬をみな吸ひあげてまつさをな空となりたり野分ののちを

しろいとりが落ちたわ、ときみのこゑして冬の始まりならむ

黄のはなのうすくかがやく岸辺よりはるけき水の上の往還

満月にうすい皮膚あるゆふべなり さびしい鳥はそこにゐよ

迷いを的確に取り込んだ1首目、降車の瞬間の自己の心身の投影を試みた2首目

以下、時間のすくい上げをみごとに成し遂げている。

さて、異色を末尾におく。

「うすい」「さびしい」のはざまに「われ」がにじみ出す。

小林さんはI塔のメンバー、本著はその堂堂たる第7歌集である。

 

☆☆☆

 

 

■『光る冬闇』 □相良峻(さがら・しゅん)

2014.2.4 行路文芸社

一首一首について明らかに歌に対峙する姿勢が見え、その結果、

あきらかに一首一首に相良さんの息吹が感じられる。

すべての歌に「生の断片」が投影されている。

白麻のジャケット着てゆく神無月少しばかりの反逆として

ぱつかんと雲ひらくゆけわたくしは袋小路の地べたに大の字

雪、雪、また雪 うす墨色に一筆刷かれて家 家 また家

切り株に初秋の夕べを眺めればまず地表から夜は立ち上がる

天空に触れんとするまで背を伸ばすあり ただの松だった松

わが腕にとりすがりつつ悦楽に浸れる藪蚊を連れてか帰りぬ

たなごころに立ちて明るきゆでたまご零の姿(なり)してぬくもりのあり

常時、自己の圏内のものを見据え、抽出し、歌に織りなす。

その目には「夜」は立ち上がるものであり、「松」はただものではなくなる。

相良さんは「韻」「HANI(埴)のメンバー、第一歌集『ゼロ地点』から5年を経ている。

 

☆☆☆

 

 

 

■『やがて秋茄子へと至る』 □堂園昌彦(どうぞの・まさひこ)

2013.9.23 港の人

 

綺麗な口語を駆使し、「死すべき存在」という枕に頭を乗せた歌人像が見える。

ゲヒンに評すればまぎれもなく「上品な思惟」で貫かれた歌集だ。

この制作年代の十台から二十台をつねに「武」と「闘」を頭に置いていたわが身とはあまりにも違い清く美しい。

秋茄子を両手に乗せて光らせてどうして死ぬんだろう僕たちは

完璧な白シャツを着て虹の日のあなたの猫にお触りなさい

折れた梅さえ心に挿して春先の真面目さは仇になりゆくばかり

色彩と涙の国で人は死ぬ 僕は震えるほどに間違う

想念が薄野原を越えるたび瞼の中に光がけぶる

夕暮れが日暮れに変わる一瞬のあなたの薔薇色のあばら骨

シロツメクサの花輪を解いた指先でいつかあなたの瞼を閉ざす

2首目の長い条件づき命令形、その後に居並ぶ読み手の期待を裏切る「ずらし」は巧妙。

すなわち、読み手の脳と将棋を差している。

これが堂園さんの「闘」だ。敬意を表する。

堂園さんは「pool」所属、「ガルマン歌会」運営とキャリアにある。

 


■『レトロポリス』 □原詩夏至(はら・しげし)

2014.2.4 コールサック社

 

句集2冊、詩集1冊を有する作者の第一歌集。「魅惑的な玩具」であろうかと帯文は語る。

同様に、いや逆にというべきか、頁主も詩集を出そうかとちらと思う。

自身で描く短歌の設計図に見える「自意識」は歌ばかにも見応えがある。

青虫は遂に眠りにシトラスの梢は更に緑深めて

FINの字も消えてシャーシャー言うだけの映画の恋の終わり春風

スイカ割りの目隠し取れば砂浜の白返るほどの太陽

絶海の胸裂くばかり美しい夕映えをモアイの馬面と

秋、風の野で少年と警官がたった二人でするマスゲーム

遂にヅラ取って海へと投げ捨てたバッハ重大なる二重顎

描写が鮮明をきわめる。べたつかない、さらさら短歌を噴霧・噴射する。

まだまだ、営営とこの道を歩くのだろう。

原さんは颯爽たる「日本短歌協会」の歌人である。

          


■『遊泳前夜の歌』 □辻井竜一(つじい・りゅういち)

2013.8.25 角川書店

 

自在性が身上、ロッカーの蠢動の精緻な喜怒と哀楽も充満している。

ここで表わされるのは「徹頭徹尾」の別形態。

が、目指すところは深い。

「行動」とだけ書きとめてあるノートこれだけ持ってどこかへ行こう

今だけを必死に生きていますので「昨日言った」と言われてもねえ

核心に触れないためにがんばってここまで逃げて来たのですから

明日の朝まで不確かな良い夢を見ていたとこで何になるんだ

辻井竜一だから仕方がないねまったく君のいうとおりです

全部その空間だけに注ぎ込む計画も回想も孤独も

今朝君に預けた僕の人生の優先順位表を返して

予測の浅はかさ、予想の虚しさを知った知性は自らを叱咤しない。

漂流とは知性の挙げ句の哲学的行為である。

 


■『まひまひつぶり』 □田中あさひ(たなか・あさひ)

2013.3.30 六花書林

 

険しさと和みの共生、修練の収斂ともいうべき一巻である。

観察は随所におよび、同時に素早く対象を評価している。

吾が辞書になき一語ありもしあらば草叢を行く蛇のごときか

芍薬をかかへて男たちあがり社内の視線をひきつれて行く

渦を巻く殻をひとよの形見としそこにころがるまひまひつぶり

吾が呼べば間なく来れるエレベーターその従順の胸をひらきて

いつせいにはつなつの空にあらはるる蜻蛉の湧く泉あるべし

しあはせを吹ひよせるやうに笑むひとの前よりわれのからだをずらす

先刻の雨の怒りを封じたる雪は八つ手に音もなく降る

一首一首にめりはりと面白さが秘蔵されている。

かたつむりの総括は示唆に富む。

田中さんは「短歌人」のメンバー、本集はその表現豊かな第1歌集である。

 

 


■『夢宿』 □小谷博泰(こたに・ひろやす)

2013.3.30 和泉書院

 

一期は夢よただ狂え。あるいは一語も夢ぞただ狂え、とや。

回顧はじょじょに不思議な色をまとい、不可思議な空位を帯びる。

 

遠き日の夢にてあれど線路わきの安アパートに女と暮らす(夢宿)

子を育ててゐたこふのとりはどこやらへ行つちまつた空の青さよ

国会前デモ隊に居て遠い日の思ひ出せない夜祭りおぼろ

あるじなるモンスターなれば人間のまる焼きをまづ刀でさばく(夢鏡)

トンネルの向うに町が見えてゐる行くなとうしろで言ふ声がする

病室という異界あり奥にさらに異界がありて待ちしならずや

爺さんが死んでしまつて婆さんが死んでしまつた遠き昭和や

遠めがねを「逆」に覗いたような回顧と、遠めがねを「順」に覗く異界展望。

とちらについても決まりが悪い、その境地を歌っている。

小谷さんは「白珠」のメンバー、本集はそのまさに圧巻の一集である。

 


 

■『北二十二条西七丁目』 □田村元(たむら・はじめ)

2012.7.14 本阿弥書店

 

油断も予断も許さない展開の歌集。知性の硬度が張り詰めた一巻である。

きっちり時系列編成ということから、集は著者の軌跡を明晰に彫りあげるところとなる。

下記の第1首目は素直な短歌的短歌として引いてみたが、これは北大生時代の、おそらくは試作品でいかにも青年らしい。

が、本領は2首目以降にある。

メビウスのうねる旅路を走らせよエールもルールもゴールもなしに

まるで世界の中の(くわう)(こん) 日輪は仏頂面のまま立ち止まる

東京に立たぬ蚊柱 憎むべきひとりさへわれに見当たらぬなり

海沿ひを山手線が行く夢を見たり真昼間、書類を下げて

蠟燭の灯が少しだけ濡れてゐて闇夜の奥に神棚が、ない

軍港へつづく電飾 あはれとはいかなる化学反応だらう

片肘をついたころから言の葉に蔦がからんでゆくバーの夜

2首目は現代詩の仁王立ちのような作りで、詩的対象とをガンを飛ばし合う対峙により、

現代の多くの短歌がカバーし得ない部分を十分に補っている。

主役となる主題をがしりと捉え、独自の詩的方法で襲いかかる、すぐれて猛禽的。

3首目〜5集目では、巧みに助詞・助動詞・旧かなを援用して現代詩の空に飛び立ちたがる詩的イメージを短歌につなぎ止めている。

一見生硬な「短歌的特徴」を《おもがい》として与え、あらためて、荒らぶる詩心を静かに飼い慣らした。

飼い慣らされた荒馬はここに現代短歌として立ち上がる。

末尾には田村式抒情を引いた。

田村さんは「りとむ」「太郎と花子」のメンバー、本集はその研究的足跡もみえる第1歌集である。


 

■『Largoラルゴ』 □梛野かおる(なぎの・かおる)

2012.9.3 ながらみ書房

 

集題となった《Largo》は「現代短歌研究会」の会場を病を押して訪れた

菱川善夫さんの姿をとどめたものであると梛野かおるさん書いている。

よくよく見つめつつ、作られる歌もまた、《ゆっくり、豊かに》を目ざしているということは集を読み進めるうちに知れる。

傷口はふさがぬままも良しとせん痛みすなわち生きいる証

ガラス細工の一角獣の(つの)(さき)につよく指おす 接点はさみし

木の間より洩れくる晩夏のひかり浴びいちにんが来る Largo(ゆっくり豊かに)

ゆっくりと底まで落ちてきたものを確かめ長い手紙書き出す

昨日より明度のぐっと上がる日にすこし大股で街に出かける

荒業はつかわずゆっくり忘れよう滅菌ガーゼの袋をやぶる

見ないふり気づかないふりしていれば忘れてしまうよ自分の顔を

随所に《生の確認》の結晶がある。

1首目は生傷を通じての確認、2首目は指の感覚の確認、

4首目以降には、心理的要素を描かれいている。

手紙の読後感か気持ちの整理か、心の動きを確認する時の流れを描き出している。

5首目、6首目では「契機と行動」を忠実に描いて見せている。

なかなか読みごたえのある一冊である。

梛野さんは「桜狩」の編集委員、本集はその第1歌集である。


 

■『ガラスのむかう』 □紺野裕子

2012.8.1 六花書林

 

紺野裕子さんは「母は私に多くの歌を残してくれた」と考えている。

2首目に見える、お袋さまの切ない心の理解のためにかけば、福島の両親を作者が訪れた際の別れの状況である。

この母の歌にかさねて愛犬の亡くなる前後の作品が多い。

ちちを置きははを置きひとりふるさとのホテルのへやに傘を広げぬ

押し車にからだあづけて母が立つ重き硝子のとびらのむかう

石段を抱へおろせる老い犬の薄氷(うすらひ)のごとき影をかなしむ

立たむとし足は空をきるわが犬をたすけおおせば震へつつ立つ

けいれんのつづくあかとき喉ぶえを切られしやうなこゑたつるなり

硬直するからだはかるし飼ひたいとかつて泣きし子が毛布にくるむ

酸素マスクをもるる息の緒よみがへる挽歌一首をわれは放さず

それぞれの描写が紺野さんの、そのときそのときの思いを克明に刻む。

悲しみのなかで、しっかりと歌を綿密に仕上げる歌ごころが美しい。

描写は真にせまりわたくしはなぞることができない。

かなしみ深い一巻を前に書く言葉もない。

重ねて詩心おみごとと思うばかりである。

紺野さんは「短歌人」のメンバー、本集は、マドリガーレ』に次ぐ第2歌集である。


 

■『湖をさがす』 □永田淳

2012.8.25 ふらんす堂

 

装丁にで一度、開いて二度瞠目した。

B6判、各頁1首、大活字で3行に均等な空間に配置されている。

下記ではその雰囲気は伝えきれていないが、

読むに思考と意識を動員される形式である。

そして歌は1日1首の365首。

初めての母な

元旦(あした)迎えたり(いとま)

る日は寂しきもの

ずいずいと朝の尖

のびてきて天頂

月たるんでしま

光なら届かんもの

言葉とは音であ

ゆえ届かず 月

日本の数詞は必ず

さきから数えるべ

と四、五個、二、三

典型を恐るるな

れその多く北向

にある日本の玄

痩せすぎて背骨の浮き

いるヤモリおり事務所

の門灯ともして帰

夜に入るにがてんがて

んとトタン打つ雨

雫をひとり聞きい

スタートは母すなわち河野裕子さんの歿後3か月の元旦である。

河野さんにはわたくしも第一歌集の栞をいただいたな、とは余談。

日々作る歌を積み上げることで永田さんは一貫性の軸を生活に近づけた観がある。

集題の「湖」は琵琶湖を指し、歌心に近いとの述懐もある。

想念に関する歌と家屋に関する歌の対比をここでは試みた。

永田さんは「塔」編集委員、これはその華麗な第二歌集である。


 

■『カッパドキアのかぼちゃ畑に』 □北神照美

2012.8.25 角川書店

 

北神照美さんのひさびさの歌集、

軽妙な意表をつくようなタイトルの表紙を煽るとそこからは才気煥発。

一覧の前に、感想の核を提示してしまえば、北神さんはかなり自己の《重心》のあり方に意識的なのである。

つまり。

樹に向かひ(かうべ)を垂るればわが背中空つぽとなり風が鳴り出す

神に尻尾あるかもしれず銀鼠の鏡餅の上の蜜柑ころがる

膨らみて水押しくる川原に葡萄食みつつ動けずにゐる

目瞑ると小さき魚が逃げてゆく わたしの視野に影だけ見せて

ホームドアと電車のドアの開く時びめうに美しわづかな時間差

熱気球われらを乗せて落ちたる日 カッパドキアのかぼちゃ畑に

水張り田、水張らぬ田をすり抜ける 緑を破り「のぞみ」は西へ

1首目;回帰して自己の存在・重心を見直す。

2首目;神に視点を移しながらもその神を身近な存在に引きもどすような間接的自己回帰。つまりは自己の重心の見直し。

3首目;前後の状況から津波の歌ではない。打ち寄せる自然の重みにさりげない自己の存在(重心)を認めるよう。

4・5・8首目;動きと自己の相対関係に眼が及んでいる。これを見るにつけても自己の重心(位置的存在)への関わりが透けて見えてくる。

そうなると、この、コミカルな「熱気球」のいたずら・小トラブルも重心の作用だとそのものであると取れる。

しかし、これら全てもまんざら「歌は読まれて完成するコラボ」と思うわたくしの引き寄せ過ぎでもあるまい。

北神さんは「塔」のメンバー、本集は、綾藺笠『蒼き水の匂ひ』につづく第3歌集である。

 


 

■『萩の散るころ』 □斎藤雅也

2012.7.30 青磁社

 

斎藤雅也さんは、ある日、「犬も飼わずに一生を終えてしまうのが惜しく思われ」突然に犬を求めるのである。

そうしてめぐりあった、ユナちゃん、10年を斎藤さんとともに生き、去っていった。

「供養」であり、「生きた証」の歌集であるとあとがきにある。

玻璃越しの一目惚れなりパピヨンの赤子ちひさくわれに笑ひき

犬ゆえに社宅追はれし日の夕べ頬をすり寄せユナの()を舐む

犬を連れ海を愛でしは去年のこと高田松原あとかたもなく

いつか来る別れをひとり思ひつつユナと眺める岸べのさくら

表情の豊かな子なり笑ふたびわれも誘はれ笑顔となりぬ

うちつけに折るるがごとき音たてて横にころりとユナは倒れぬ

遠慮して生くる子なりき最期まで世話をかけじと急逝したり

いつもいつも一緒。

わたくしも、犬を舐めたことがある。2首目の行為はさほど珍しくはないであろう。

ひとつひとつに評釈も口をはさむことも要らない。

ひとつの魂を書きとめたい衝動はよくわかるつもりだ。

付録は小アルバム。ほんとうによく笑う子が永遠の姿をとどめている。

斎藤さんは北上市在住、「塔」のメンバーその第一歌集である。


■『信濃の空』 □市川光男

2012.4.3 未来山脈社

 

市川光男さんは、農の人であり、作歌のなかでもそれに徹しきっている。

15歳のころから歌に親しんでいたが、口語短歌に転じて15年は超えるという。

生活・信念に密着した誠実な歌群である。

畝のマルチシート(マルチ)が春日にのんびり百姓は楽しい

言われてやる野良仕事は辛い 自分からやれば何と楽しいことか

草刈りの後のビールは旨い 信濃の空も輝いている

私が死んだら梅の根元で眠りたい今度は私が花を咲かせるんだ

山の畑の空気は旨い小川の水も澄んでいる そして私も

一生懸命先祖が開墾した畑がどんどん荒れていく 店には百円の野菜

へなへなだった稲もしっかりして風にそよぐ仙丈の雪も薄らいだ

随所に率直な仕事観、自然観がすぐれて健康的に提示されじつに清清しい。

シューマンの「楽しき農夫」を地で行くよう。

「マルチシート」のやわらかい情景は歌で見てはじめて気づかれた。

自然との一体感は文字通り、地に足がついており、4首目の読者への訴求は他者の追随を許さない。

市川さんは「未来山脈」のメンバー、これは、颯爽たるその第1歌集である。


■『銭の降る音』 □脇中範生

2012.6.20 短歌研究社

 

脇中範生さんは、職を退き、和歌山有田みかん栽培の専業になって十余年である。

作品もみかんが観察の対象となっていることは無論であるが、その視線はみかん山周辺の《生命体》に広く及ぶところとなり、

ついには《生そのもの》を凝視するものとなるのである。

今日剪りし樹々傷口いやすべしみかん畑の夕近き雪

ゆっくりと飛行機雲がほぐれゆく農の予定を変えてみようか

頬撫でる風に色あり香りありみかん花咲く谷に()れたり

銭の降る音と言いしは父なりき乾くみかんの葉を叩く雨

石垣の穴へ逃げ込む青大将あと十センチ 尾のあぶら照り

焼却炉が頭より棺を呑みこみて確かにひとりは向こう側なる

救急車が任を果たして戻りゆく日暮れの車列の一台として

1首目に見えるのは、まぎれもなく、みかんへの愛であり、

2首目では、農者としての生活そのもの思考そのものを描きつくして、かつ、さりげない。

次は、神経そのものからほとばしり出た「郷土愛」の歌で、幸福感充実感がただよう。

本集のピークをなす5首目は、「山で作るみかん栽培がいかに水を必要とするか」を父君の遺訓として抱く「専門家」の心が提示される。

続く3首は、わたくしが、それぞれの生命に対する詩人の目を紹介すべく、引いたのである。

脇中さんの詩心は決してのめりこまない。

それだけに、ホンモノとしてじわじわ皮膚から浸透してくる。

脇中さんは「林間」「桜狩」のメンバー、これは、そのすしりと重い第3歌集である。


■『遠く離れて』 □大島史洋

2012.6.17 ながらみ書房

 

つい、先の、中島裕介さんのときに「刃金玉」のことを書いたが

大島史洋さんの近作に触れると、正に大島さん固有の「言葉玉」が、こころなき身のわたくしにも、伝わる。

つまり、大島さんが、短歌に「凝集・収斂」という課題を与えていることが、よくよく見てとれる。

幸せな人たちの輪が幾重にもひろがって、そう欅のふところ

ケイタイに余念なき顔つくづくと日本の鼻のつましき形

人を待ち煙草を吸うもいくたびぞ故郷の事件に遠く離れて

理論嫌いと空想癖の関係を歌にさぐれど理屈ではいかぬ

死の前の球体の夢 人間の顔がゆがむと母は嘆けど

父と打つ碁は楽しけれあと幾回われらにあらむと思いつつ打つ

軍馬の碑軍馬忠魂塔並び立ちその前の一升瓶の林立

1首目に見えるのは、広場の空間をクロースアップする描写だが、

その結末が、「作者と欅との、すでに形成されている一体感へ、読者をいざなう」という収斂はあざやかそのもの。

3首目にたゆたうものは、本集のひとつのうねりである「望郷」、母校の後輩がひきおこした、事件に触発される過去と

ひとまずは、別個のくらしを営む自己の思いの交錯。

さらには、両親への思いの歌も多いが、思いを募らせればそれだけ、凝集され、収斂され、尖鋭な表現となってくる。

この素材となる言語連合は「大島鋼」と名付けるべき存在。

最後の歌、おしなべてあの世のひとびとに捧げる共通の物を酒とみなす人間の性の具象化の粋。

大島さんは「未来」のメンバー、これは、固有の言語文化を醸しつつある、その第11歌集である。


■『もしニーチェが短歌を詠んだら』 □中島裕介

2012..25 角川学芸出版

 

俵万智さんが光源氏の歌を歌で訳したものを詠んだことがあり、その、じつに面白い同一性が

俵さんの手腕によるのか短歌の「功徳」に由来するのか興味ぶかく迷った。

この書物はニーチェの哲学書の断章から中島裕介さんが、ニーチェに成り変って作歌するというものである。

本当に独創的な人間は面白い記憶で満たされている

ホンモノを求める気持ちが強ければ見栄ををはる必要なんてないはず

人々に深いと思われたい者は底が見えないようにふるまう

付き合いの浅い人にはわたくしのヒミツが秘密に見えてはいない

上昇も下降もせずにいつだって澄んだ空気のように生きろよ

沈黙の海を前にし人々は騒ぐ 出航前に一層

他人からよく聞くことばにごまかされご現実を見ることができない

往時のすぐれた刀工は、刃金そのものから自ら拵えたと伝えられる。炭素の含有度を勘案して刃金を調整し、その鉄を使って刀を鍛造したというのだ。

歌を作るにしても、通常、思想を扱う時には、理解十分、わが薬籠のものとしたうえで、その思いを歌に撚り込むものだ。

ここでの中島さんの発想の面白さは、全く自我を介在させず、《翻訳》に徹したことだ・。

くわえて、「思弁」を歌に落とし込んだことだ。

わたくしなぞは、「思弁はハナから歌にならない」と心得ている。が、このように扱うと、歌になっている。

このニーチェ内の思弁をあたかもニーチェの「心情」のように読み替えたところに、この作者の《才覚》がる。

新分野をひらいたと言える。

中島さんは「未来」のメンバー、その第2歌集である。

 


■『日本の中でたのしく暮らす』 □永井祐

2012.5.20 BookPark

 

永井祐さんは、このサイト《現代短歌クルージング》にも見えるように、短歌の伝統芸能的要素を継承していなし。

なにがしかの経緯があるのだろうが、ここでは、愉しく作物を賞味する。

 

なついた猫にやるものがない 垂直の日射しがまぶたに当たって熱い

日本の中でたのしく暮らす 道ばたでぐちゃぐちゃの雪に手をさし入れる

ゆるくスウィングしながら犬がこっちくる かみつかないでほしいと思う

マイブームの小さな波がぼくのなかよせては返すゆっくり歩く

君に会いたい君に会いたい 雪の満ち 聖書はいくらぐらいだろうか

歩いていくとだんだん月はマンションの裏側へもう見えなくなった

歩くことで市会視界が揺れる なんとなく手にとってみたいニューズウィーク

この集から伝わるものは《気の遠くなるような》世代差を埋める《詩ごころ》だ。

嘘、懐疑、猜疑、陰謀、などが全く欠落した、高山の中速度の風のような作品が林立する。

おりおりに意思を放射し、いりおりに感懐を確認する、日々の生の保存である。

永井さんには「上書き」の趣味はどうやらなさそうで、日々が別ファイル、かつ、フォルダは多彩だ。

1首目2首目の「体感直叙」はマブい。

5首目6首目は今ふう若人純情の日々のさりげない記銘。

3首目、7首目の《揺れ》はおそらく永井さんの《隠しキーワード》このとき、ちらりと《素顔》を覗かせる。

永井さんは『風通し』などのメンバー、その第一歌集である。

 


■『関係について』 □生沼義朗

2012.6.20 北冬舎

集名『関係について』は帯によれば「〈主体のありか/私性の根拠〉をさまざまな関係性において思索する」足跡を収める集である。

全編を見れば、きわめて目配りの利いた歌集であり、歴史、文化各方面への著者の探究や思惟が歌にちりばめられている。

これを、みじかく紹介するには、「広汎に」追随するか「究極的に」絞るか、のいずれかである。

四つほどの感情はいま縺れ合い放射冷却のごとき苛立ち

似たような化粧が多く初対面(女性ばかり)の顔を忘れる

突然に、だが真剣に、猛然と、いまこそ〈どくさいスイッチ〉が欲し

感情の暖流寒流入りまじり潮目となるは今朝のあたりか

言い直しに過ぎぬ言辞を遣り繰りし提案を結果に捩じこむ

水分を必要以上に吸っているフリースのような感情がある

尋常の尋とは何ぞ モノサシはおりおり他人よりもたらされ

絞り込んでみると、生沼義朗さんの魂の奮戦が浮き彫りになる。

〈文物・知識〉に託するよりも〈空拳〉で人と真向かうときに保存された自己には生身の美しさがある。

引用歌は大いに偏っているが、それぞれの場面で、

自らの未熟を暗示しつつ深層の思いを着実に読者に手渡している。

今日現在の抒情、すぐれて個性的な《現代の抒情》が明晰に創出されている。

生沼さんは「短歌人」のメンバー、本著は 水は襤褸に(生沼義朗)2002.9.13.〔ながらみ書房〕に次ぐ第2歌集、 

ほかに共著現代短歌最前線 新響十人(石川美南ほか)2007.3.22〔北溟社〕がある。

 


■『扉と鏡』 □小潟水脈

2012.5.28 ながらみ書房

集名『扉と鏡』は本集の二大小道具のようである。

扉は物理的な開口部であり、出入り口であるに対し、鏡は象徴的な開口部であり、出入口である。

記録に見えて単純な記録ではない彫のふかい一冊である。

蜘蛛の巣の軸糸一本額に受け地蔵が今日は困つた顔する

細き脚見えにほど速く動かして鶺鴒車道を端まで渡る

四角四角の空間ならぶヒトの巣の断面あらはに解体のビル

鱗のあはひを黒目地のごと際立たせバス一匹がどでんと死にをり

表情は一人で何と動くもの鏡前の机を半日使へば

爪先をぎりぎりにバス曲がり終へシュッと舌打ちして遠去かる

『上弦下弦』カバーはづして持ち歩く月の満ち欠け幾度か撫でみる

小潟水脈さんは、章題に「鏡前 狭然」というようなことを書く

その作品は4首目のものだが、これひとつとっても、言辞へのこだわりが十分につたわる。

「見たまま書き」は好まれぬようで、バスだっていつも「生きもの」なのだ。

お地蔵さまに表情をみつけ、お月さまを携帯する自在な詩精神に大いに惹かれた。

 小潟さんは大津市在住、「りとむ」会員、「日本短歌協会員」その第3歌集である。


■『(きん)()』 □萩岡良博

2012.5.25 角川書店

 

集名『禁野』は萩岡良博さんの居住地「宇陀」が太古に禁猟の地であったことに因む。

さらにこれを、「しめの」と呼ばす「きんや」と読ませるところに、萩岡さんの野趣好みがきわ立つ。

蒼き闇に夕顔咲けり死に(ぎは)に思ひ出づるか()がしろき胸

美とは何、いのちの()り 太陽の黒点のごとき強き磁場もつ

犬小舎に月射しをりぬ何か言へ、ここが痛いと言へ、撫づるのみ

樹を酔はす樹液もあらむ群星を(うれ)に揺すりて愉しげならむ

おお、われは風の王なり胸処(むなど)より木枯らし()たすふぶけことだま

いつの世の青鷺ならむやまざくらの(うれ)の炎えたつ空渉りゆく

たれも踏み入りしことなき禁野行くわれを見張れる野守はをらず

わたくしが「詩精神」と呼ぶところを萩岡さんは「詩魂」と呼ぶ。

《剛》と《優美》の交響はここに端を発する。

伝統に脚を置きつつもその固有の美意識というフィルターを経た語彙の構築する世界は神聖に接近する。

2首目の独断、4首目の強引な見立て、5首目の僭称的宣言、これらは、紛れもなく「詩魂」の発露。

これらに混じって立ちうごくものは、1首目、3首目のやさ心のそよぎ。

萩岡さんは「ヤママユ」のメンバー、本著は 木強(萩岡良博)2005.8.10〔北冬舎〕 に次ぐ第3歌集、

ほかに評論集 われはいかなる河か−前登志夫の歌の基層(萩岡良博)2007.7.11〔北冬舎〕 がある。

 


■『神倉』 □廣西昌也

2012.5.1 書肆侃々房

 

集名はゆかりの町・新宮市の神社の名にちなむという。

死の見え隠れは文学の常だが、それはさておいて、無条件に楽しめる歌集である。

ぼろぼろになった骨片無秩序な増殖による変形が見ゆ

僕が今あなたの耳に噛みつくといっぱい壊れてしまうだろうね

カルピスのグラスに露の湧き出でて融合し落つる午後とういう過去

低く飛ぶ猛禽類と眼が合うたつまり全部が嘘と言うてた

御神火がまた戻り来てたちまちに神倉の山まさに火の海

反射光散らばる場所に音楽のはじめのごとき風の口笛

速達はむらさき色に濡れていて忘れなさいとだけ書いてある

無条件で面白い、というのが率直な最終感想である。本編には率直無比のあとがきがつけられていて、

誰だれの真似、それそれの真似など人名列挙の挙句、「影響まるわかり」まで書いてある。

この馬鹿ッ正直さに呆れつつ、またそこがいたく気に入った。

そんなこたあない。何の衒いもないこの品ぞろえこそ、廣西昌也さんその人の結晶である。

この7首を含め、全集突起の集合体、じつにホロニックではないか。

現代短歌、わけても「短歌人」の無突起傾向を憂える頁主としてはひさびさの腹づつみ。

「神倉」の火祭り・火遊びは、読み手に「書き手の才覚を愉しませる」という、短歌の邪道を見せつけてくれる。

廣西さんは短歌人のメンバー、その第1歌集である。


■『しんきろう』 □加藤治郎

2012.4.29 砂子屋書房

 

加藤治郎さんの歌集の訴求範囲の広さにはいつもながら敬服する。短歌制作における訴求範囲の広さとは作家の《短歌という怪物の馴致度》だろう。

加藤さんの歌はしなやかな《ムチ》と質朴な《八角棒》の機能を短歌は併せ持つ。

あなたってぬいだばかりのブラウスを胸にあてあなた文語のようだ

秋の水しょろしょろんしょろしょろん私は何もできないのです

バスを待つ。空き缶ひとつバス停に括りつけられて他者は凶器なり

竹細工のこころであれば涼しかろうに、水の波紋のようにゆうやみ

しんきろう、特選、佳作、選外と応募葉書を分類すわれは

なかなかお湯にならないシャワー思い出は橙色(だいだいいろ)でいつか消え去る

だと思うだだっぴろい公園の(つち)の中には無数の瓦礫

1、2首目は「内面レポーrト」。歌と異性の同一視的発想、水と所論の限界についても同一視が見える。

これらは、内面深くぶらさがるが、一転、3、6、7首目では社会との太刀打ち。

4、5首目は、多くの皆様ご期待の「あんしん短歌」。

第8歌集は50台の序章までのもの、意気益益盛んとお見受けする。

「環状線のモンスター」2006.7.25〔角川書店〕

 


■『陸封魚』 □湊明子

2012.5.25 砂子屋書房

 

湊明子さんは創成期の「氷原」こはやばやと入会、しばらくのブランクを経て再出発という経歴をもつ。

「あとがき」で長野での「個人的なあまりに個人的な日常を詠んだ短歌」の歌集とあるが、

それだけに却って《静謐な凄み》を醸す。

一重こそ佳けれ真白き梅・椿 雪降る(とき)の木に咲く花は

玄関に生けたる桜夕さればそこのみ仄と丸きあかるみ

頭の芯の痛み透明になるほどに凍み極まりて夜の明け初む

年齢(とし)の無き獣湖底に棲みをるや寝息のごとき真夜の波音

ヒヨドリの去れば目白の一つがひハの字に並び林檎啄む

甘えかもしれぬ心の拒絶癖プライドといふ愛しき魔物

生命は海に生れしとふ海鳴りを身のうちに聴く吾は陸封魚

花の歌は確実に生命を浮かび上がらせている。鳥の歌もしかり。

こてらに見える特質は、生命体つまり自己を唄う時にさらに顕著となる。

3首目では自己の生理を見極め、4首目では湖水にも生理を見出す。

心の中に異体をみとめる発想、自己の内に生命の起源を見つめる目は普遍をきわめて親しい存在となっている。

湊さんは「氷原」のメンバー、本著は「楚」のうちに「勁」を内包するその第1歌集である。

 


■『水の花』 □雨宮雅子

2012.5.1 角川書店

 

この歌集は《ただならぬ雰囲気》が支配していて、そこここで、雨後のモグラ塚のような新鮮な黒をもたらす。

無論、ただならぬものを正面切ってそれを切り出す「ツヨ吟」と事物に託す「ヨワ吟」混在の妙が交錯する。

いっぽう、あとがきに50年籍をおいた基督襲を離れた、とあり、内面を見詰め続ける雨宮さんの視線は通貫くされている。

 

ぐつぐつとわが魔女鍋にもの煮えて冬至の夜はたちまち(くだ)

ときめきを()くせし者にあらなくにマーマレードは蜜月のいろ

政変を論ずる(よはひ)ならねども変といへるを好むかわれは

かたはらに人ゐるやうに林檎置く睦月ついたちしづけき真昼

亡き人を奪ひ返さむ(あら)(たま)も九年を経て鎮まりにける

丈高きうたよみたしと思ひゐつ水仙に袴つけさせながら

沢瀉(おもだか)は夏の水面の白き花 孤独死をなぜ人はあはれむ

「マーマレード」「林檎」「水仙」は所を得、存在感を得て、その本来の結界を乗り越えて読み手ににじり寄る。

だが、喪くされた夫君をめぐって神とも魔とも対峙しつぐけた、自身胸中のものを「荒魂」と呼ぶ心根は凄まじい。

集題は、頁主の裡なる兄者・小中英之の孤独死を思っての「沢瀉」からの命名とある。

雨宮さんは「雅歌」主宰、これはその第10歌集である。


■『立ち葵の譜』 □石川幸雄

2011.12.20 喜怒哀楽書房

 

母堂の逝去が620日、あとがきの日付が1120日とある。

「母は、東日本大震災のショックから脳梗塞を起こし、二月半眠り続けて死んでしまった」とある。

そして、「それを詠まずにはい居られなかったこ」との述懐が続いている。

 

倒れたと妹に聞く倒れていたと父に聞くわが母のこと

母と子が絹さやの筋取りし景 今日の日付の新聞ひろげて

妹に促されるままおふくろの手に触れてみる四十年ぶり

俯かず仰がず生きる立ち葵 濃き紫を母の花とす

立たなくてよい世界へと母親が行きしと思えば救われもせり

神妙に骨を拾えり母の名の妙子に神と仏を思ふ

われを産む以前の二十六年も以後の四十六年をも知らず

多言は要らない。

ここでも、悲報に接したおりのこと、少年時代の回想、病む母との接触がつづれれる。

母への敬慕を《立ち葵》の姿に収斂させるのは、葬儀のときである。

このたとえは、感極まった男の哀しみの結晶である。

人の多くが経験する日日時時の哀しみの譜であるが本集はひときわに鮮烈。

本著は限定72部のいわば私家版である。

石川さんは「開放区」のメンバー、これまでに『解体心書』『百年猶予』の両歌集がある。

 


■猫町 □高田流子

2011.11.15 青磁社

猫の足の変へたるテレビ画面なりキムタク消えて紳助映る

夕雲をくだりて来たる人かしら、少しさびしくふはりと笑ふ

机のあしテーブルのあし猫のあし寝転び手見る足のいろいろ

猫の歳十四はすでに大婆と言ひやればバタリ床にたふれる

さびしきひとが折りたる鶴か嘴と尾とぴんと尖りて空色の鶴

春の海のたゆたふ波を見て過ごすもうすぐ吾にしちじふがくる

三月の谷中の路地に咲くははの白沈丁花の呼ぶこゑがする

高田流子さんは相変わらず「根谷千」つまり、谷中・根津・千駄木界隈に猫を見つつ暮らす。

その高田さんに「しちじふ」が迫るとか。そうだろう、頁主にもいずれくる。

この欄は私的なことは殺してかいてきたつもりだが、今回は少し……。

「短歌人」で、ひところ、もっとも本心を語れた友人との思いがついこぼれてしまう。

持ち前のしなやかさは歌集全体にたゆたいつつ棚引く。

ユーモアも健在、美しいしちじふの日々がむしろ待たれる。

高田さんは「短歌人」のメンバー、本集は、高田流子(みふぁそら)2003.5.31〔ながらみ書房〕に次ぐ第4歌集である。

■覚えてゐるか □中地俊夫

11.11.9 角川書店

蜜蜂にカリンの輪切り五つ六つ浮かせて風邪を待つごとくゐる

木魚をたたく心力(こころ)は木魚をたたき続けて養ひしならん

新しき畳のうへに新しき「短歌人」誌の包みをひらく

嫌はれてゐるのだらうか猫が来て糞をして猫が来て糞をする

好きなものはと問はれてさーといふわれの思ひ浮かべてゐるカキフライ

朱き実を川に流しつづけたことぢいぢが死んでも覚えてゐるか

海賊に少しあこがれ海賊を退治にゆける船にあこがれ

中地俊夫さんの歌は徹底的に根底的である。

木魚の心力や短歌人は判りやすいほうであるが、その実そうではなくて、

猫の糞とか、カキフライの方に凄みがでるのである。

積年し修練の木刀の光沢と整理する。

頁主の初お目見えのころは青年後記、只今は貫録の「ぢいぢ」である。

中地さんは「短歌人」のメンバー、本集は、妻は温泉(中地俊夫)2001.9.4〔ながらみ書房〕に次ぐ第4歌集である。

 

 

■『金襴緞子』 □久保芳美

2011.11.9 六花書林

久保芳美さんは新興住宅地に、颯爽と住み、アコースティックギターをかき鳴らし、筋トレにはげみ、

本業は主婦でもある上にサイドワークもこなすという多彩な毎日の中で、多彩な歌を繰り出す。

その殆どの作にもろもろ工夫のスパイスが投入されていて、力戦奮戦の調理法は味をゆたかに歪曲している。

すごいんだ!お魚焼き焼きお洗濯化粧しながら歌を詠んでる

食パンにルサンチマンを挟み込みかぶりついたら意外にいける

あたくしの品質改善くわだててベビーリーフのサラダわしゃわしゃ

辛酸をいただくときは遠慮なくタライいっぱいやっつけましょう

ファッションで愛するフリをするならば金襴緞子でずっしりどっしり

ゆゆゆゆゆ由々しい比喩のドレス着た言葉が裾踏みおおお危ない

満面の笑みを湛えて匙投げるさらば木阿弥二度と拾わぬ

ケレンも闘争心も十分という《こわもて》の面もあるが基本的にはデリカシーも相当なもの。

久保さんは「かばん」のメンバー。

そして、頁主も所属する「現代短歌舟の会」のワークショップにも元気に顔を見せる。

言ってしまえば、仲間、これはその第一歌集である。

 

 

■『裏島 ura-shima』&『離れ島 hanare-shima』 □石川美南

2011.9.10 本阿弥書店

《双子の歌集》と石川美南さんは呼ぶ。

おおむかし、いわゆる一卵性双生児に被験者をお願いして心身発育の異同の調査をしたこともあるが

どちらかといえば《異》に焦点をあてた調査であった。無論ここでは措くが、やはり《異》が気にはなる。

この、両集を通じた魅力は、現代短歌的でありつつ《短歌短歌していない》という点にある。

つまり、石川さんの脳内でのひとひねりふたひねりを経た濃厚な文化的生産物なのである。

『裏島 ura-shima』から

異界より取り寄せたきは氷いちご氷いかづち氷よいづこ

こころこころこころ 私につながれた流量計がしきりに動く

鳥瞰図広げてみれば凹凸は我が顔となり我を見返す

むきだしの背中のカーブ清しくてカバーはおかけしないことにする

素描する手の速さかな 怒ったり笑ったりする日々は凹凸

絹よりも木綿豆腐が心地良し簡易ベッドとして使ふなら

記憶吸ひ取らるるやうな心地せり血圧計に腕を入れれば

氷いちごに端を発する幻想賦を読んで小躍した。

以下、意識の流れのいわば「見える化」にはじまる、主知主義的な作品が居ならぶ。

目と脳の協応動作が効いており、凹凸を再登場させるなど、すぐれて戦略的な構成も愉しい。

末尾2首にみえる今日的心情と肉体の接触感がなど、詩的感興を高めさせる「知」のあそびは精確である。

『離れ島 hanare-shima

あやとりの紐は数秒<電球>の形をなして寸劇の終はり

前髪は責任を取れ 後頭部一同白ばつくれなさい

うろこ雲のひとつひとつを裏返しこんがり焼いてゆく右手かな

さよなら春 短き手足ばたつかせ風に流されゆくを見送る

風切羽風にぞしなふ海鳥に晴れ晴れとある特権意識

エンジンの冷却のためこの星があるのですよと静かなるこゑ

光るゆびで海を指すから見つけたら指し返してと、遠い契約

テーマ性によりつよい意識をおいた前者に比して、こちらは「詩精神」の位置をストレートに定めた実作勝負の観が強い。

たとえるならば、心を心臓の位置に据えた作品群である。

とはいいながら、片手にカメラをもつごとく、自己と対象の距離計測、絞りを定めるなど周到なセットアップも検討されている。

ひろく共感されそうな主題もふくむが、春が自分の意思で去るのではないいう指摘など、託宣のような威力を感じさせるものが随所に。

かつ、意気揚々たる海鳥のすがたを強気に炙り出すなど、詩的要約詩的転換が息づいている。

二刀流では二刀それぞれに機能を分担させている。牽制の小刀、打ちとめの大刀であるのは空手の双拳と同様。

とまれ、2種を提示して、読み手を取り込むのはなかなかの頭脳的プレイだ。

おそらく様々の読み手が様々に読み解いたことであろう。

石川美南さんは「pool」「Sai」のメンバー、本集は歌集としては第2第3に当たるようである。なお、合同歌集に『新響十人がある。

 

 

 

 

 

 

■小さな俑 □森岡千賀子

2011.5.30 角川書店

覗き穴の向かうあは細き雨ばかり誰かチャイムを鳴らしてゆきぬ

春は茅花秋はすすきの銀の野を吹き止まぬ風揺れやまぬ野辺

曲がりざま逢うてしまひし人ならむ迷路岐路迂路右往左往

紀元前、兵馬俑に個の意識まざまざあると君は言いにき

微笑みをかすかに残し騎乗する小さな俑になりし貴婦人

大鷲はいづこをわたる湯舟にて脇窩に力こめて思ふも

小禽をめぐる血の嵩おもひつつこともなくしの骸をまたぐ

森岡さんは唐代の俑に強く惹かれる。

「全ての感情は浄化され、時間を超えた、ただ美しい形象」と捉えている、と自注がある。

その姿に喪くされた母堂の面影がかさなる。

具象から思いを遠くへ馳せる秀でた特質が随所に見えるのも読み手としてのわたくしの収穫である。

自己の腕の付け根から鷲の飛翔を思い、小鳥の亡骸からその在りし日の血流を思う。異才である。

森岡さんは「ヤママユ」の編集委員、本集は、その第3歌集である。

 

 

■雲の塔 □日高尭子

2011.5.30 角川書店

まんじゆさげ象形文字のごとく濃く秋の空気をかきみだしをり

肉厚の唇むすびかみそりのやうなる歌を少女はつくる

昏れなづむ六月の空のなまあかりメタリック(くわう)の鰹をおろす

八房(やつふさ)に懸想されたる伏姫の顔すでに犬、犬のさびしさ

真平らにい照る海あり凪なれば水脈くらぐらと沖はしる見ゆ

をちこちに木の実のやうにぶらさがるまだあたたかい声の亡骸

あふむけの海の面にうつすらと雨が降り雨は岬を越えてゆきにし

日高さんとは、かりに、3年ならんで坐っていても同じ短歌的感興を得ることなないだろう。

それほどに、いちいちが違う。わたくしより二層くらい上の空気をすっているのだろう。

あるいは、赤外線透過のメガネを通しての観察か。

「花」「人」「魚」「海」に独自の投影がある。そのトスを楽しく受けとめたのである。

日高さんは「かりん」のメンバー、本集は、その第7歌集である。

 

 

■入野早代子歌集(現代短歌文庫) □入野早代子

2011.9.1 砂子屋書房

この衢に愛染町といへるありひと()恋ふべくうまれ来われは

追熱といふを知りたる夜半にしてかにかくすもも熟れてゆくなり

熱高きわが目に乾きゆく椿やがて鋭き音にて散らむ

看取りゐる頭に一字とてなき夜を一身耳となりて(しづ)もる

葬りの花海へ放てばふり向かず帰る習慣(ならひ)にうから従ふ

ありつたけ淋しい顔して母の来るあれがわたしでなしとも言へず

われの名にあらぬ名を呼ぶ雄となりて他界の卵割りてゐるかも

入野さん4歌集の抄出版。ここでは嘗ての愛誦歌集『夢疲れ』からご紹介。

同著は1988年間このサイトに10年先行する。

「夢」「生」「死」「熱」をキーワードとする、清涼ならぬ芳醇飲料水であった。

何だろう、このあたたかい哀感。悲しみを超越するものがある。

入野さんは「潮音」「開放区」のメンバー、本集は、その第5歌集である

 

 

■はつ夏の長き夕暮れ □佐野督カ

2011.8.1 短歌研究社

沙羅の花ふたつみつよつ散る道を行けばはつ夏の長き夕暮れ

臨終の際に夕日がその顔に遊びてゐしと聞くも悲しき

段々に花咲く梨の丘あれば睡魔のごとく過去蘇る

歴史学徒の資料としての聖書ありき果たし得るかや(しもべ)たること

(しび)喰ひて酒飲みし父の穏やかに過ぎれば母の胸丸きかな

カラス二羽帰れる空の残響を聞けば泣きたきかの日々還る

東北を異国と詠める歌を見きさうよ独立の遺伝子を持つ

佐野督郎さんの第一歌集『馬神風騒』刊行は1980年とある。

昨日のようとはさすがに言い難いがおとといのようだ。

三分の一世紀、満を持しての刊行とも思われたが、10年ほど前、ミッションスクールに仕事の場を移したのを機に

歌へのかかわりが一変した、とある。

冒頭は『閑吟集』のたたずまいに心を寄せ、以下、日々の思いに懐旧が交わる熟年の詠風である。

友人との別れ、両親への追慕、幼ごころの呼び戻しなど共感が胸ふかく染みとおる。

最後の咲くには「東北人の自恃」がすっくと聳える。

佐野さんは「長風のメンバー、本集は、大震災の前日に入稿された、その第2歌集である。

 

 

■カンナよ またの夏に  □土橋妙子

2011.5.28 未来山脈社

水溜りに桜の花びらが雲と遊ぶ 小さな宇宙に吸い込まれる

「猫踏んじゃった」弾きたいと野良猫のようにピアノにこっそり寄る

師走にも新年にも親しかった人々がこの世を去った 南天の実が赤い

しんとした雪に抱かれた赤い実はルルルとかつて愛した小鳥を呼んだ

それほど不仕合わせではなかつたと追憶の日々は閉じて七十路

コトコト鍋ぶた鳴らし砂糖さとうと豆が呼ぶに春はすぐそこ

自由律を生かしたのびのびとした作風で一巻が纏められている。

小鳥、花、すべて身近な素材は完全に作者と一体になっている。

だからこそ、詠う心までが、浮き彫りになる。ルルル・コトコトのコールも飛び交う。

出るべくして整えられた生気。

土橋妙子さんは「未来山脈」の所属、本集はその生気みなぎる第一歌集である。

 

 

■朝北 □桜井健司

2011.6.30 砂子屋書房

卯月には決算額をしめやかに貸借対照表(バランスシート)の海に浮かべて

四十歳(よんじゅう)()に八月は眩しかり謙虚と卑屈の差異こそは海

晩年の「()」音すこしさびしけれ老樹となりし父の霜月

三枚に古歌を下ろして塩を振るあわれ俎上の晩秋昏し

朝北の出でこぬさきに出勤す悪路に車体震わすバスで

ないだろう乗船名簿に夏の名は 五月の海を波ぞ奔れる

毀れたる原子炉包む海辺(かいへん)の雨を思えばさぶし東国

40歳から48歳の作という。富み進んでも「男盛り」というぎらぎらはなく寧ろ、清澄である。

金融ビジネスに身を置く日々の心のありようは、自在だ・。

3首目・4首目に見える「独自過ぎる表現」は読んでいて愉しい。

傑作を読み込んでいたら、海の歌がぞくぞくと集まってきた。

歴史を意識的に遡る思考傾向と海への志向は決して偶然ではあるまい。

短歌を「現代の姿を表現する器」と規定する。

桜井健司さんは「音」「Es」のメンバー、本集は、大震災にも正対する、その第3歌集である。

 

 

■雨を見上げる □久我田鶴子歌集

2011.7.15 ながらみ書房

ねえ虹が出ると思ふと尋ねくるぽつぽつ降り出す雨を見上げて

ざつざつと踏みゆき五月の雪のした笹の矯めゐるちから踏み当つ

至仏山頂隣に見えて風つよし峠を越えゆく雲に羽根ある

山巓の気流とらふるよろこびの翼をひろげサシバか舞へる

「癒やし」とふひびき卑しき「鬱」といふ呼気なまぬるき おのれを立てよ

為すべきを連絡すべきをメモに書きつぎつぎこなせるシステムパーツ

たまたまのめぐりあはせもえにしにて地中海わが漕ぎわたる海

雨には虹への期待がある、久我さんがいうのに。なるほど大切な感覚、と頷く。

山の歌からは充実した力感を得る。

総じて勁さ≠にじませる歌集である。

山で自らとらえるならぬ「足ごたえ」はんもとより

さまざまの人生の「手ごたえ」を一首一首がわたくしに伝えてくる。

サシバにも生気は見えるのに、ヒトは少々情けない。

人生は刻むものなのだ、と教えるかのようである。

久我さんは「地中海」編集人、本集は最近4年間の作を収める。

 

 

■地天女 □内田令子歌集

2011.6.25 ミューズコーポレーション

 

然りとぞ天を仰ぎぬ産土はエン・チアシ(血塗られ城)と名を(もと)とせり

血塗られし城の故郷に帰らざるわれを祀れよ凶つ螢火

女その、もつとも悲しき貌なればいかなる相もわれは持たざり

芯ふかく熱かりきものあふるるになんぞつめたきひとつわが躬や

堪へるのみ 粛愼(みしはせ)の地の咒はふかし(いまし)の默も永遠か地天女

がけつぷち一本桜どつと咲き一世蕩尽をめいてゐるぞ

クローンはわれかもしれぬ鏡面の奥に潜みて笑みゐるきやつの

ヒトは一心不乱にはすぐになれても、自己陶酔までには間がある。

内田さんの境地は自己陶酔の「蹴込み」に片足を入れている。

際どさのギリギリで作歌する姿勢は貴重であり、大いに支持している。

《極限を志向する》作歌はいまや少なかろうから是非進んで欲しいと願っている。

実は、ナマミの内田さんは身近なのだ。

しかして、作風は北極星と南十字星!

みなさまご愛顧を!

内田さんは「開放区」「現代短歌舟の会」のメンバー、本集はその第1歌集である。

 

 

■あの日の海 □染野太朗歌集

2011.2.20 本阿弥書店

 

とんび浮く稲村ヶ崎船酔いのような未来が(たい)を離れず

教師らとエレベーターで(くだ)りつつここはゴジラの咽喉(のみど)と思う

ローリエが鼻腔を占拠したあげくあざ笑うなり 弱いねおまえは

奥さんになるヒトはわが胃に眠る肺魚を(つつ)く殺さぬほどに

やりすぎたとぼんやり思うあかときを何をやりすぎたかわからぬが

新聞をぺりぺりめくる妻の顔のナゴヤドームのような輪郭

雨音の遠く連なる日曜日隙間の多き身体を起こす

断乎断然の《印象派》。小細工を好まない太筆のタッチは好ましい。

《印象派》と呼ぶゆえんは《主役語》の気随な起用による。

「船酔いのような未来」「ゴジラ」「肺魚」「ナゴヤドーム」など。

これらの語をを浮かせない、結合組織を歌に潜ませている工夫がよい。

5首目の連綿体も印象派の名に背かない、統合力の効きも楽しめる。

染野さんは「まひる野」のメンバー、本集はその第1歌集である。

 

 

■佐波洋子歌集〔現代短歌文庫〕 □佐波洋子歌集

2011.2.7 砂子屋書房

 

置き去りにあいし真昼を売らいし白きはかなき鷺草の花

鯨骨の標本見たる少女期に胸病みてより寂し(うしお)

人に語ることばなければとりあえず禽のことばで禽と話そう

肩を前に落とせば女のあわれさは現身よりも羞しく匂う

樹から樹へ大鴉くろき幕を張り妙法蓮華経蓮池ちかし

幼子も気遣いするらし手毬そっとわれに渡してはなれてゆきぬ

蓄積ともちがう何かがわが裡石のごとくにやどりはじめぬ

既刊4歌集の集成版であるが、上記は『鳥の風景』『秋草冬草』を見詰めて引いた。

こうしてあらためてみると、佐波さんは人の世の中を

たとえば、水鏡に映してその水鏡の像を写し取というような卓抜な才がある。

濾過され、蒸留され、昇華され、世俗のなまなましさは変容する。

さなぎの羽化を見るようである。はかなげな、蝶のように自身を揺曳する作風といえよう。

佐波さんは「かりん」のメンバー、本集は『羽觴のつばさ』に次ぐその第5番目の歌集にあたる。

 

 

■船霊さま □岡村芳子歌集

2011.2.7 角川書店

 

大漁と航海安全を祈りつつ(ふな)(だま)さまを船に納むる

口紅と頬紅ひけば魂の入りたるごとくわれを見つめる

帆船は帆が命なるゆゑ帆の色に二人の意見は二つに割れる

数字など見たくない日は節ぶしの痛くなるまで船を磨きつ

降りかかる火の粉を払ふわたくしの芯の強さを知らなかったの

事務所より十度も低い仕事場に入ると(しん)から身の引き締まる

現場より走りきたりて鼻栓をしたまま受話器にとびついている

「船霊さま」とは船の進水の際に、航海の安全・大漁祈願の

ために祀られる、一対の手作りの人形であるという。

岡村さんは、西伊豆の造船所に嫁して以来、その仕事ひとすじに生きてきた。

作歌17年の集積もこの没頭ぶりが際立ち、ひつつひとつが出色、

他者を寄せ付けない境地になっている、

岡村さんは「朔日」のメンバー、本集はその第1歌集である。

 

 

■小林幸子歌集〔現代短歌文庫〕 □小林幸子歌集

2011.1.10 砂子屋書房

 

彼の日亡子()に浴びせしみづやきらきらと三月の野に降りつむひかり

胸に抱くわれのみどりご世の外のさへづりききて睡りゆきたり

石竹のしらしらめぐるそのうちは(わたくし)(やみ)と言ひ放つべし

星の限り童女の丈のひまはりがそよぎてをりぬ 太陽を()

ゆふひかりさやぐ菖蒲のいちばん湯ひつそりと湯をつかふ音する

眠りつつ母遡りゆく多摩川の岸辺ひそかに水位上れり

なにもないしづかな一日 水門がひらくのをまつてゐるやうな

中心に第2歌集『枇杷のひかり』を据え、そのほかの歌集の抄出からなる結集版。

静かに読み進めると小林さんの美しい足跡をあまさずたどることができる、

かなしみも静かさも家族への思いも、おりおりに触れてよくよく編み上げられている。

つづまるところ、多くの作、多くの境地は小林さん周囲も含めて《私闇》に収束されるようにみえる。

小林さんは「塔」のメンバー、本集はその7番目の歌集にあたる。

 

 

■季の約束 □冨田眞紀恵歌集

2011.2.2 短歌研究社

 

自動車の走り止まざる騒音が去年今年の音となりゆく

夕つ陽を木膚に滑らせ或るときは女体の艶を発する裸木

誰も居らぬわが家が遠く見えてをりわれのこころが詰まりしやうに

住む人は知らぬであらう屋根の上に夕陽の荘厳載せてゐること

こんなにも赤をさみしい色として夕べの畦に彼岸花咲く

どの家にも山茶花咲きをり人の世にさまざまの色の愛を見せつつ

水鳥が翔ちし波紋のつひに消ゆそしてびつしり冬のしづけさ

冨田さんの25年の集積である。たとえば、木犀の器物にぬぐいをかけ、

その木目を確認するような丁寧な作風がきわ立っている。

「女体の艶」、「心が詰ま」る、「夕陽の荘厳」は、いわばその拭われたあとに見える木目の表情である。

さりげないようで実は周到に日常がたたみ込まれているのがようく伝わってくる。

冨田さんは「冬雷」のメンバー、本集はその第1歌集である。