『ちびくろサンボ』絶版を考える

径書房 (径書房、1990)

 

多くの大人たちが、かつて子どもの頃に胸躍らせながら読んだり読み聞かされたりした、懐かしい物語。そして今でも子どもたちが夢中になっているその物語が、あるとき突然、「人種差別を助長する」として糾弾され、あっという間に世の中から消えてしまったら・・・。

19世紀末にインド(植民地!)在住の英国女性が書いた『ちびくろサンボ』(The Story of Little Black Sambo, Helen Bannerman, 1899)は、英国と米国で多くの異版・海賊版を生み、日本でも1953年以来、22社から50点近くも出版され続けてきましたが、一市民の抗議(改善要求)がきっかけで、1988年の後半、一斉に絶版になりました。多くの公共図書館がこの本を廃棄処分にしたり公開書架から引き揚げたりしたことが、事態を複雑にしました。

マスメディアには多くの意見・主張が飛び交い、至る所で議論の輪が起こり、それらを通じてさまざまな問題点が明らかになりましたが、しかし議論はなかなか噛み合いません。

問題はいくつかの段階に分けて考えることができます。まず、『ちびくろサンボ』の原典そのものが明確に人種差別主義に基づく作品なのかどうか。仮にそうではないとしても、著者の人種差別的意識や感情が無意識のうちにもにじみ出ていて、誰が読んでも差別的だと感じるのかどうか。仮に原典はそうではないとしても、世界中に流布している様々なエディションは人種差別主義の影響を受けているのかどうか。仮にそうではないとしても、これを読んで差別だと感じる人がいる限り、やはり好ましくないのか。仮にそうだとして、実際に多くの子どもたちがこの物語に夢中になる事実をどう説明するのか。差別的表現を含むことは、文学的価値を下げるのか。

これらの議論を踏まえて、この作品を出版することは表現の自由として許されるべきか否か。仮に法的には問題ないとしても、差別を助長する可能性があるのなら出版するべきではないのか。仮に出版は適切ではないとしたら、図書館はどう対処するべきか。『ちびくろサンボ』以外にも問題がありそうな多くの物語、童話、昔話などをどう考えるのか。これらもある種の「文学」なのだから、差別的表現を含んでいるというだけで抹殺してもいいものなのか。

そしてこれらの作品を離れて、そもそも「差別」とは何か、なぜ差別があるのか、差別をなくすにはどうすればよいのか、言論の自由と差別の克服をどう調整するべきか。

本書はこれらの問題について、この事件の関係者を初め多くの研究者や活動家などによる概説、報告、記録、資料、それぞれの立場から意見を述べた文章、談話、座談会、さらに市井の人々の声などを集めたものです。径書房編集部の企画力、取材力、そして熱意に頭が下がります。巻頭には原典の絵と文章を載せ、翻訳もつけています(原典は日本では一度も翻訳されたことがありませんでした)。

それにしても、実に多くの、様々な考え方があり、同じ立場と思えても全く正反対の意見を述べる人もいて、深く考えさせられます。それほどに奥の深い問題であり、自説に固執したり性急に結論を出したりするべきではないということでもあります。少なくとも、現実社会の差別と、言論や表現の領域における差別(これは「侮蔑」あるいは「誹謗」というべきだと思いますが)や心の中での差別(これは「偏見」あるいは「蔑視」というべきだと思いますが)とを、明確に区別した上で、両者の関係を考えることが重要でしょう。

ところで、20年以上前になりますが、新聞の社会面に載った記事。それは、ある身体障害者が、ハンディキャップを乗り越えて、何か学問の世界に貢献するような仕事を成し遂げて、それが高く評価されたということの紹介でした。その本人の「体に障害はあっても、心は健全であることが認められて、うれしい」という言葉には、差別(というよりも偏見)の根の深さをまざまざと見せつけられた思いがしました。この言葉を、精神障害者や精神病患者が聞いたら、どう思うでしょうか。