幕末・維新期の開明的な思想家である福沢諭吉(1835-1901)は、教育者、ジャーナリストとしても大きな足跡を残しました。かつては政治家ばかりだったお札(日本銀行券)の肖像に、前回(1984年)初めて文化人が選ばれましたが、その第一号の1万円札に選ばれたのが福沢諭吉です。 ところが、以前から知られていることですが、福沢はアジアの一部の国では、日本の大陸侵略を正当化し鼓舞する論陣を張った人物として、評判が悪いのです。前回のお札デザイン変更時に、せっかく伊藤博文をはずしたのに、アジアでの評判という点では同様に問題のある福沢を選んだのは、なぜだったのでしょうか。そして今回(2004年)、20年ぶりのデザイン変更で、千円札と5千円札は肖像の人物が新しくなるというのに、1万円札だけは福沢のまま! 戦後の福沢諭吉研究は丸山真男によって始められ、西洋的な個人の独立に基づく市民的自由主義と普遍的国家平等主義を説いた啓蒙思想家という福沢像がうち立てられました。これに対し、1950年代に遠山茂樹ほかの歴史家達は、主に福沢が創刊した「時事新報」の論説記事(社説)、いわゆる「脱亜論」や石河幹明『福沢諭吉伝』(1932)を根拠に、特に晩年の福沢を国家主義的侵略主義者と批判しました。以後、アジアに対する日本の戦争責任を追及する「進歩的」左翼陣営のほとんどが福沢批判派にまわったため、福沢擁護派は分が悪かったのです。 批判者達によれば福沢は、表向きはリベラルな立場を装いながら、無署名の社説では大陸侵略を煽った時局迎合主義者、「二枚舌の思想家」です。このような言論界の主流の見解を、一気に国民的共通理解にまで広めたのが、2000年に出版された、安川寿之輔『福沢諭吉のアジア認識』(高文研)でした。その主な内容は同名のウェブページで読むことが出来ます。 しかし、福沢は本当に「二枚舌の思想家」だったのでしょうか。そんな器用な思想の「使い分け」が、はたして本当に出来るものなのでしょうか。 「脱亜論」をはじめとする「時事新報」の社説をすべて福沢一人が書いたのではないことは、はっきりしています。これらの社説の一部(約1500編)は、福沢の弟子である石河幹明(『福沢諭吉伝』の著者)が編纂し、福沢の死後四半世紀を経て刊行された『福沢全集』(1925-26)と『続福沢全集』(1933-34)に収められました(石河の忠実な助手であった富田正文が編纂した現行版『福沢諭吉全集』(岩波書店、1956-64)にもそのまま収録されている)。ところが、ここに問題があったのです。それは、直弟子の一人であった石河が、師の筆になるものとして選んだこれらの社説は、本当に福沢自身が書いた、あるいは福沢の見解が正しく反映された文章といえるのかどうか、ということです。 本書はこの疑問を追求し、批判派による福沢批判の根拠となった社説のほとんどすべてが、実は石河幹明によるものであるとしています。そして、社説を含めて、「時事新報」中で福沢自身が書いたことがはっきりしている記事はすべて、『西洋事情』『文明論之概略』『学問のすゝめ』などの著作からうかがわれる市民的自由主義者・国家平等主義者としての福沢像を裏切らないものであることを、明らかにしています。批判派は石河の虚偽に気づかず、また「脱亜論」のように(おそらく)福沢自身による論説に対しても、石河の策略にはまって解釈を誤ったのです。 なぜ、全集に収録された社説の多くが石河によるものであるとわかるのか。なぜ、石河はそのようなことをしたのか。あるいは、何が石河にそのようなことをさせたのか。そして、なぜ、その後の研究者達は真実を見抜けなかったのか。著者による緻密な謎解きの論理に、おそらく慶応義塾関係者は皆、胸のすく思いがすることでしょう。 それにしても、なぜ、福沢は自ら創刊した新聞に自説とは正反対の社説が掲載されるのを阻止できなかったのか。本書はこの謎にも挑戦していますが、現時点では推測の域を出ないようです(そもそも戦前の新聞を現在の基準で評価することに無理があるのかもしれません)。そして、この一点において、福沢諭吉はなお、結果的にアジア侵略に荷担することになったとしてその責任を問われ続けるのか。今後の研究に待ちたいと思います。 【補 足】 本書の著者である平山洋氏から、Eメールをいただきました。そのメッセージの一部を、平山氏のご了解を得て、ご紹介します。
【補足2】 平山氏から、「AERA」2005年2月7日号に「偽札だけでない福沢諭吉の受難」という記事が載っていることを教えていただきました。「日本の近代化に貢献した幕末・明治期の思想家、福沢諭吉。その先覚者が、全集に混入した他人の言説などを元に批判されている。混迷深い今こそ諭吉を評価し直す時だ。」というリードで、平山説を紹介する内容です。現行版全集の発行元である岩波書店の担当者の、「次のどういう機会にどうするかを考えないと。このままでこの『全集』を新たに出すことはできない」というコメントも紹介されています。そして、福沢の持論と正反対の石河による社説が紙面を牛耳った経緯について、記者(長谷川煕)は次のように考察しています。
なるほど。現代風にいえば「(経営に対する)編集権の独立」ということでしょうか。福沢が本当にこのように考えていたのだとすると、報道機関のあり方についても彼はきわめて進歩的な立場をとっていたといえます。しかし、福沢も自分の死後にまさか石河があのような「全集」を捏造するとは、想像もしなかったでしょう。
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