動 物 裁 判

池上俊一 (講談社現代新書、1990)

 

ちょうど本書発行の少し前に、米国やカナダの環境保護団体が企業や行政機関を告訴するに際して、森や湖や河川(当然そこに存在している動植物を含む)などを原告とする試みをはじめたことが、伝えられました。また、ピーター・シンガーの『動物の権利』も良く知られています。しかし、本書はそのような動物のための裁判の話ではありません。

ヨーロッパの中世後期から近世にかけて(12世紀頃〜17世紀)、動物を被告とする裁判がいくつも行われました。最も資料が多いのはフランスですが、イタリア、スイスにもかなりあり、ドイツ、フランドル、ネーデルラント、スコットランドにもあります。被告となったのは、ブタ、ウシ、さらにはイヌ、ネコ、ロバ。これらの動物は主に人間を殺したり大怪我をさせたりした罪で世俗裁判にかけられ、たいていは死刑を宣告されて「処刑」されました。一方、農作物に多大の被害を与えたなどの罪で、ネズミ、モグラなどの小動物や、バッタ、ミミズ、毛虫などが宗教裁判にかけられ、呪いの言葉を浴びせられたりした挙げ句、最終的には「破門」されました。

子供騙しのおとぎ話としか思えませんが、これは歴史学者達がそろって認める、歴史の事実なのです。これらの「裁判」は決して茶番やパロディではなく、人間に対する裁判と全く同様の手続きを踏んで、被告には弁護人も付き、真剣に尋問が行われ、判決後も正規の手続きに則って刑が執行され、刑執行人にはちゃんと手当が支払われました。

近代以降の常識では、ペットや家畜が人に危害を加えた場合、被害者に対してはペット・家畜の所有者が相当の補償をするのが普通です(被害者が子供の場合はその子の親の監督責任が問題になることもあるでしょう)。理性を持たない動物には責任能力がないと考えられているので、加害動物の「行為」自体が不問に付されるのは当然です。しかしかつてのヨーロッパ人は、まずその動物を裁いたのです。

もちろん一部の知的エリート達は、このような裁判の愚かしさを説き、やめるべきだと主張しましたが、逆に積極的に支持し正当性を主張する者もいました。しかし、知的エリートの大部分と聖俗の最高権力者達はおおむね黙認していたようです。そして裁判の当事者達、すなわち庶民と末端司法機関の関係者達は、裁判の正当性を露ほども疑っていなかったようです。

動物裁判が中世後期のヨーロッパに誕生し、数世紀にわたって存続した理由について、ヨーロッパの学者達はさまざまな説を提示していますが、著者はそれらのいずれにも納得せず、歴史と社会と文化をより広く深く探索し、人間と自然の関係の変遷を跡付ける作業に取り組んでいます。そして、人間が自然を支配しようとする強烈な欲求と、それに基づく絶え間ない努力が続けられたこの時代のヨーロッパ精神が、動物裁判を生み出しそれを支えたというのが、著者の見解です。必ずしも明快な論理展開とはいえないかもしれませんが、他の学説がいずれも、動物裁判がまさにこの時代に栄えたこと(そして18世紀に急速に衰え消滅したこと)を説明し得ていないのに比べると、はるかに説得力があります。できれば、とくにフランスに資料が多いことが説明されると、なおいいのですが。

 

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