西洋の楽器は一般に、18世紀半ばまでは比較的素朴なものでした。ヴァイオリンのようにそれ以上「改良」の余地がないほどに「完成」された楽器や、チェンバロ(ハープシコード)のように精巧な仕掛けの楽器もありましたが、それらを含めてもなお、奏者と発音体を隔てるもの、その間に介在するものが、比較的少なかった。 ところが、この状況は18世紀後半から19世紀前半にかけて、急速に変わります。楽器に新しい機械仕掛けが次々と持ち込まれ、さまざまな「実験」が繰り返されます。この傾向は特にピアノと管楽器に顕著で、本書の前半はピアノと木管楽器をめぐってこの変化の具体例を示しながら、そこにどのような原理が働き、当時の音楽家たちが何を目指していたのかを明らかにします。それは単に楽器の「改良」の問題ではなく、音楽と機械、「精神」と「技術」、「表現」と「技巧」の相克の歴史であり、今日の私たちがごく自然に西洋古典音楽の演奏のスタンダードと考えているものが、実は当時の実態とかなり異なる可能性を示してくれます。 後半は19世紀末から20世紀前半にかけての自動演奏ピアノや蓄音器、ラジオ、映画などを通じた複製音楽の台頭を、当時の音楽家や聴衆がどのように捉えていたのかということが論じられます。そこで明らかにされたのは、たとえば音楽の「純粋性」の追求であり、それが「機械」によって可能になったと考えられていたこと。しかし、「純粋性」はもともと20世紀のではなく、19世紀の音楽理念の一つ――ここに大きな矛盾があります。しかし、それを矛盾と感じる現代の感性に普遍性はあるのか。同じような矛盾を、現代の我々はやっていないと、はたしていえるのか。 本書は西洋音楽史の教科書ではほとんど語られることのない「はずれもの」ばかりを取り上げ、そこから従来の通念をひっくり返す独創的な視点を提示しています。
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