楽園・味覚・理性

―嗜好品の歴史―

ヴォルフガング・シヴェルブシュ
(福本義憲 訳、法政大学出版局、1988)

 

ヨーロッパ近世の幕開けとなった大航海時代が、インド産の香辛料をアラビア半島やエジプトを介さずに直接ヨーロッパへ運ぶ海路の開拓を動機として始まったことは、広く知られています。これはトルコのマムルーク王朝(エジプト)が関税を引き上げたからですが、理由はこれだけではありません。なによりも、急速に増大した香辛料の需要に、従来の通商ルートでは供給が追いつかなくなったのです。なぜ需要が増大したのかというと、豊かになった市民階級(といってもまだ一部の裕福な市民ですが)が、貴族達の贅沢志向を真似し始めたからです。

ヨーロッパでは11世紀以来、支配階級の贅沢品はほとんどすべて異国(オリエント)の産品でしたが、中でも香辛料には特別の地位が与えられていました。コショウ、ナツメグ、サフラン、シナモン、ジンジャー、チョウジなどの香辛料は単に贅沢の象徴であったばかりでなく、その消費量においても、莫大なものでした。中世後期の支配階級が食した料理は、今日の私たちにはきっと鼻をつまんでも食べられないような代物だったことでしょう。

しかし、香辛料を産するオリエントの楽園世界への道の探索が新大陸発見へとつながったのは、歴史の皮肉でした。つまり、大航海時代の熱狂が終わり、地上に未知の楽園がなくなった17世紀初頭には、楽園の香りを運んできた香辛料への嗜好も急速に下火になったのです。代わって新しい嗜好品がヨーロッパを席巻しました。それは、コーヒー、紅茶、チョコレート(飲料)、そしてタバコ(もっとも、これらもすべてオリエント起源ですが)。さらに19世紀には、それまでのビールに取って代わった火酒(蒸留酒)、最後に阿片などの麻薬(またもオリエント起源!)。これらの嗜好品はすべて、香辛料と同じように、ある文化的社会的な機能を託されていたのです。そのような機能が実際にどれほどの力を発揮したかはともかく、何らかの象徴的な価値と結びついた機能を持っているとみなされるかどうかが、それらの嗜好品が大流行するかどうか、そして人々がそれをどのような流儀で嗜むかを決めるのです。

今日の私たちは個人主義的思考に毒されているせいか、嗜好品といえば全く個人的な好みと選択の対象と考えがちですが、少なくともかつてのヨーロッパでは、嗜好品はたとえば階級や職業や信仰やイデオロギーや性などと、密接に結びついていました。コーヒー・紅茶は資本主義の担い手となったプロテスタントの市民階級の(男性の)飲み物でした。彼らにとってコーヒー・紅茶はぜひとも必要な飲み物だったのです。コーヒーや紅茶がなかったら、産業革命の成立はもっと遅れていたかもしれません。

もちろんこのような関係は、時代とともに変わります。かつて香辛料が社会全体に広く行き渡ったと同時に新鮮味を失ったように、今日では1日にコーヒーや紅茶を何杯も飲む人やヘビースモーカーは少数派であり、同時に過去にコーヒー、紅茶、タバコが担っていた社会的意味は完全に忘れられました。しかし、意識の上では忘れられても、例えば飲酒に伴う様々な儀式的行為などのように、人々の無意識の世界を通じて、形だけはかろうじて生き残っている「意味」もあります。

本書はこのような嗜好品にまつわる数多くの社会的「意味」を、豊富な図版資料を交えながら解き明かしてくれます。