『イエスという男』とキリスト教

 

● はじめに

「無人島へ持っていく一冊の本」といった類の企画は昔からよくあるが、今日のように書物の氾濫する時代でも、座右の書となるといわゆる古典名著が選ばれることが多い。しかし、筆者にとっての「一冊の本」は『イエスという男』(田川建三著、三一書房、1980年、第二版:作品社、2004年)である。これは驚くべき書物だ。ひとりの人間が西洋二千年の歴史と格闘した結果生まれた著作だ。われわれもこれを読むことによって、その格闘の意味を知ることができる。

「イエス」とはもちろん、「キリスト」と呼ばれたナザレのイエスのことだ。「キリスト」は、ヘブライ語で「救い主」を意味する称号であった「メシア」のギリシャ語訳(クリストス)に由来するのだから、「イエス・キリスト」は「救い主であるイエス」という意味。したがって、この男の名前は単に「イエス」と呼ぶのが正しい。

本書の発行後にいくつかの書評が現れたが、それらはたいてい本書を「イエスの歴史的実像に迫る試み」として評価するものであった。この評価自体は間違っているとはいえないが、しかしコトはそれほど単純ではない。鍵となるのは本書の冒頭の句、「イエスはキリスト教の先駆者ではない」の解釈である。この言葉が含意する広く深い歴史的背景は、本書を読んだだけではよくわからないし、キリスト教の入門書を何十冊読んでもやはりわからないだろう。書評者たちがこの点に言及していないのは、多分かれらも知らないからだ。

● キリスト教とは何か

キリスト教については、キリスト教徒でないふつうの日本人はほとんど何も知らない。経験的に知らないだけではなく、単なる知識としても何も知らないといってよい。たとえば「キリスト教の教祖は誰か」という問いに、正しく答えられる人がどれほどいるだろうか。あるいはもっと端的に「キリスト教とは何か」と問うてみてもよい。

イエスは自ら新しい宗教を創始したわけではない。そういうことは新約聖書のどこにも書いてない。キリスト教はイエスの死後しばらくして、「イエスの弟子」たちにより、イエスを救い主(キリスト)と信じる信仰を核として成立した宗教である。イエスは救い主であって、ふつうの意味での教祖(=開祖)ではない。それで、「イエス教」ではなく「キリスト教」という。

では、救い主とは何か。当初はさまざまな意味でいわれていたのだろう。しかしやがてパウロという男が現れ、後に新約聖書に収められた数通の書簡の中に、そのもっとも重要な解釈を書き残した。それによると――神は堕落した人類を救うため、愛するひとり息子をこの世に遣わし、その息子を十字架に架けることによって、人類の罪の贖い(=つぐない)とした。この事実を受け入れて信じる者は救われる――これだけでは何とも理解に苦しむ話かもしれないが、驚いてはいけない。イエスの十字架上の死は、本質的に罪人である人間が、それにもかかわらず神の無限の愛によって赦されるための身代りであるというこの思想は、「贖罪論」と呼ばれるが、実はこれこそがキリスト教の教義の核心なのである。事実、洋の東西を問わずキリスト教思想や文学において、罪とその赦しは常に最も重要なテーマであった。

ここで注意を要するのは、人間が神に赦されるのは、イエスを救い主と信じる信仰によってのみであり、その人の行いや心の正しさにはよらないということである。このことは、いわゆる正統派のキリスト教徒なら誰でも当り前のこととして知っている。われわれ日本人はキリスト教といえば、ほとんど反射的に「隣人愛」や「ヒューマニズム」を連想するが、これらは「救い」とは何の関係もない。

それでは、なぜイエスが神の子だといえるのか。その証拠は、イエスが死後に復活し、弟子たちの前に顕現したという「事実」だ。こうして十字架と復活信仰は、キリスト教の象徴となった。

● キリスト教批判の射程

少なくとも現代のキリスト教徒はまさかこんなことを本気で信じているわけではあるまい、などと勝手な想像をしてはいけない。キリスト教だって宗教なのだ。これぐらいのことを信じていても不思議ではない。だいいち、信じがたいことを信じるのでなければ宗教としての有り難みもなかろう。もちろんキリスト教徒は昔も今も、このことだけを信じているわけではない。だから知らない者は騙される。

それにこの思想は、古代の迷信の残滓だなどとバカにしてすませられるようなものでは決してない。この世界で二千年の歴史を生き延びた思想が他にどれだけあるか。人間の救済は人事の及ばぬ神の絶対的恩寵なのであって、人間自身の努力や業績に対する報酬ではないという考えは、通俗的な倫理主義を放棄したところに成立するいわば逆説の倫理であり、キリスト教が他の諸々の宗教と一線を画する所以である。だがしかし、人間の本性についての鋭い洞察を含んだこの思想によってヨーロッパは世界を征服し、偉大な文学や芸術の数々を生んだ同じ思想のために星の数ほどの人間が死んでいったのである。日本人がそのことを知らないのは誰の責任か。愛とヒューマニズムを売り物にするキリスト教作家ばかりをもてはやすメディアも問題だが、宗教団体としてのキリスト教が日本ではきわめて小さな勢力でしかないことにも原因があろう。旧社会主義圏や一部のイスラム文化圏などを除けば、西洋文明の影響をある程度受けた国のなかでは例外的に人口に対する信者の割合が小さいし、キリスト教自体もそれで満足しているのか、あるいはもう諦めたのか、ほとんど宣伝もしない。それでマスメディアは勝手な思い入れからキリスト教を美化し、大衆に売り込む。これではキリスト教信仰の本質が知られないのも当然で、知らないから誰も批判もしない。

もっとも、批判しないのは欧米人も同じだ。かれらがキリスト教を批判するのは、キリスト教の頑迷さが科学の進歩を妨げてきたとか、教会は社会の矛盾や不正に目をつむっているとか、教会指導層にも腐敗堕落した部分があるとか、すべてそういった社会現象としての側面(さもなければ神や霊魂の存在の否定という無意味な「宗教批判」に陥るか)であって、(それらの社会悪の根源であるはずの)贖罪信仰を批判するなど思いもよらない。かれらにとってキリスト教は、たとえ自分自身では信じていなくても、やはり必要なものなのだ。何のために?――それは、また別の話である。

さて、それでは『イエスという男』の著者、 田川建三氏は、このような思想(キリスト教教義の核心としての贖罪論)と格闘したのだろうか。あわててはいけない。話はもう少し先がある。

● キリスト教の自己矛盾

「新約聖書」の中で人々に最も親しまれているのは、おそらく「マタイ」をはじめとする四つの福音書だろう。イエスの誕生にまつわる神話的物語、洗礼者ヨハネとの出会いと荒野での試練に始まり、イエスが語ったとされる多くのたとえ話や教訓話、ユダヤ教指導者たちとの論争物語、病気治しをはじめとするさまざまな奇跡物語、そして逮捕から十字架刑に至るまでの受難物語などからなる福音書は、たしかに読んで面白い。イエスに出会った人々の率直な驚きや生き生きとした喜びが、読む者に伝わってくる。

福音書はいずれも、イエスの死後、イエスの言動に関するさまざまな口伝伝承が次第に文書に定着し、おそらく同種のものが集められていくつかの言行録として存在していたものを、一人または数人の「著者」が収集し編纂したものである。古代の伝承の例に漏れず荒唐無稽な語り口が目立つし、福音書によって、またその写本によって同じ話の細部が食い違っていることも少なくない。しかしともかく、イエスの周囲の人々やそれに続く時代の人々はこのような話を「事実」として信じていたに違いない。ここには、時にイエスの言葉や振舞いに驚き戸惑いながらも、イエスを人生の師として、あるいは奇跡の治療行為者として信じ、つき従った人々の素朴なイエス信仰が色濃く影を落としている。もちろん今日の多くのキリスト教徒も(奇跡の話を別にすれば)同じように信じているはずだ。これはこれで、教会指導者たちも昔から信徒の教化に大いに利用してきたのである。実際、「イエス・キリストの教えに従って生きる」などという言い方を、キリスト教徒はよくする。

ところが、贖罪論を確立したパウロはといえば、自身の書簡の中で、イエスの生前の言動には一言も触れていない。パウロの書簡はおそらくすべて福音書よりも先に書かれたので、パウロはイエス言行録の存在を知らなかった可能性もあるが、ともかく、かれは生前のイエスへの関心を自らきっぱりと否定している。一方、福音書には贖罪論が、主題としてはでてこない。イエス自身がそれを口にしないのは当然だが、不思議なことに(贖罪論にとって最も重要な伝承であるはずの)受難物語にさえ、贖罪信仰の影響はほとんどみられないのである。福音書編纂の目的は、パウロにつながる贖罪論の宣伝普及とは全く別のところにあり、また受難物語そのものも贖罪信仰とは無関係に伝承されていたのだ。

新約聖書には実は、このように明確に異なる二種類の思想的産物が同居しているのである。イエス信仰と贖罪信仰は、内容的に無関係なのだ。これは、よく考えてみれば重大なことではないか。イエスがわれわれの罪の身代りであることと、われわれの人生の導き手であることとの間には、必然的関係がない?!

いや、実際は関係がないどころではない。むしろ、大いに関係があるといったほうがいいだろう。パウロ書簡と福音書の成立は原始キリスト教内における厳しい思想的相克を反映しているのだ。(救われるためには律法を守らなければならないという)倫理主義の桎梏を断ち切ることに救いを見出したパウロにとっては、十字架上のイエスの死とその後の復活こそが救済の根拠、すなわち唯一の信仰の対象であって、福音書にみられるように生前のイエスについて語ることは「イエスの教え」を絶対化する教条的倫理主義に陥る危険を孕むがゆえに、厳に戒めなければならないのだ。それに対して、イエスを主人公にした物語を著すという行為は、十字架贖罪論に包摂されえないイエスという人間の生の現実に救いの根拠を求めることを意味する。両者の立場は根本的に相容れないのだ。

ここにキリスト教の本質的自己矛盾がある。信ずるべきは人間イエスか、それとも十字架のキリストか――この抜き差しならない難問に、キリスト教は答えをだす必要があった。

● イエス研究の到達点

初期のキリスト教徒たちがこの対立と緊張をどこまで深刻に意識していたかはわからないが、やがて迫害と熱狂の嵐が過ぎて、冷静な思考による教義の確立が求められる時代になると、キリスト教の独自性の根拠として贖罪論が重視されるようになり、それとともにイエスは次第に神格化されていった。やがてこれが三位一体論へと進展する。一方、新約聖書「正典」の冒頭におかれた福音書はもっぱら絵画の題材や説教の素材として断片的に利用されることが多くなり、イエス個人に対する人間的関心はしだいに薄れていった。この状況は、いわゆる「宗教改革」後においても基本的に変わらない。

しかし近世以降、科学的合理主義や歴史主義の台頭とともに、キリスト教の絶対的権威もさまざまな批判にさらされる。19世紀になると、ついにキリスト教界内部でも、一部の神学者たちが、煩瑣で硬直した教義体系を排して純粋素朴で自由な「イエスの宗教」に立ち帰ろうとする「自由主義神学」を唱えるようになる。かれらは、福音書から教義学的粉飾を取り払ってイエスの真の姿を甦らせようと、「イエス伝運動」を興した。ところがそうして書かれた数多の「イエス伝」は、それぞれの著者の個人的関心や思想傾向を反映して、多種多様なイエス像を提示するという、皮肉な事態を招いた。いったいどの「イエス像」が真のイエスなのか? そして20世紀に入ると、贖罪信仰を徹底させたカール・バルトの、観念論の極致ともいうべき「弁証法神学」による強烈な揺り戻しを受けることになる。

しかしこの間にも、近代的な文献学の方法を取り入れた資料研究により、先に触れたような福音書の成立事情がしだいに明らかにされていった。なかでも重要なのは、今日にいたるまでほぼすべてのキリスト教関係者が受け入れている、いわゆる「二資料説」の確立である。すなわち、「Q資料」と呼ばれるイエス語録集(現存しない)と「マルコ福音書」が最古の文書であり、他の福音書(マタイ、ルカ、ヨハネ)はこの両者を主な資料として用いたとするものである。そこでこれを手がかりに、福音書の文言の中から信頼すべき資料を確定し、それにもとづいて学問的客観性のある「イエス伝」を構築しようとする、大いなる努力が始まったのである。

ところが、この努力は思わぬ結果をもたらした。膨大な数の写本にあたってそれらの異同と影響関係を考慮しながら、個々の伝承単位の構造を詳細に分析し、同一起源の伝承や類似の伝承と一字一句厳密に比較しつつ、それぞれの成立過程を跡づけるという気の遠くなるような作業が続けられた結果、現存する資料(四つの福音書)はすべて、伝承の各過程で教団内でのさまざまな神学的関心により大幅な改変を受けており、さらに最後に福音書にまとめられる段階でも、各福音書に固有の神学的理念に則った意図的な編集作業が一貫して加えられていることが明らかになったのである。具体的には、イエスの行動全体の地理的・時間的枠組みはもとより、イエスの言動をめぐる状況設定や発言の順序、さらにはイエスの発言の相当な部分が伝承と編集の各段階での付加、変更、創作であり、ほぼ確実に歴史的事実とみなしうるのはごく一部のイエスの発言に限られてしまう。こうして学問的客観的「イエス伝」の望みは完全に断たれたのだ。

しかしそれでも、たとえわずかとはいえ、イエスの言葉のいくつか――実際にイエスがこのとおりの言葉を口にしたと考えられる――は確実に残る。これこそまさしくイエス自身の思想の表現に他ならないではないか。イエスの生涯を再構成することは不可能だとしても、それらの断片的な言葉の背後にあるイエスの思想の本質をとらえることは可能だろう。そして、それが可能ならば、そうして復元されたイエスの思想と原始キリスト教の思想形成との関係を明らかにすることもできるかもしれない。こうして再び大いなる努力が続けられた。その結果はどうであったか。

イエスは「悔い改めよ、神の国は近づいた」と説いた。これは、律法にとらわれない(すなわち、倫理主義を排した)神と人間の新しい関係の宣言である。イエスが問題にしたのは、神の絶対的支配の下における個人の心のあり方であり、かれは人々に、人間存在の根底にあって人を人として生かしている宗教的原理への覚醒を促し、これを受け入れることへの決断を呼び掛けたのだ。

イエスの生前にはイエスを理解しえなかった弟子たちは、イエスの死はイエスを見捨てた自分たちの責任であると考えざるをえなかった。しかし同時に、自分たちの罪を一身に引き受けることによってイエスが死んだのだと理解したとき、かれらは古い自己が死に、神の前に正しい人間として生まれ変わったことを見出した。かれらはこの事態を、イエスがかれらの内に「復活」したと解釈したわけだが、まさにそのとおり、イエスが死を賭して訴えたことがいまや弟子たちの間に実現したのだ。事実、原始教団の思想を仔細に分析してみると、その表面的な多様性にもかかわらず、根底においてイエスのそれと同一の実存理解に貫かれていることがわかる。イエスの「復活」を受け入れることへの決断を呼び掛けたかれらの宣教活動は、結果的にイエス自身の呼び掛けに応え、かつそれを継承するものだった。だからイエスは、キリスト教の創始者ではないが「先駆者」なのであり、それゆえにこそ救い主と呼ばれたのだ。かくして、イエスの思想と原始教団の思想は本質において連続していることの理解を通じて、イエス信仰(福音書)と贖罪信仰(パウロ書簡)の対立は止揚された。

イエスはキリスト教の先駆者である――これが、20世紀の欧米と日本の先進的なキリスト教神学が到達した結論なのだ。

● イエスは真理の使者ではない

以上のような背景を知って初めて、「イエスはキリスト教の先駆者ではない」というこの本の冒頭の句の意味を正しく理解することができる。つまり田川氏は、キリスト教専門書店に並んでいる聖書注解書(説教の種本)にみられるような、福音書の記述を何の疑いもなく歴史的事実の記録と前提したうえでの浅薄で牽強付会のイエス理解を「非学問的だ」と批判しているのではなく、まさにそのような批判的作業の結果として学者たちが何十年もかかって苦心の末にたどりついた「学問的で客観的なイエス像」を批判し、かれらの緻密で精力的な「学問」の不毛を告発しているのである。それはこういうことだ。

文献学的方法の有効性と、それにより確定された「イエスの言葉」の歴史的信憑性は疑いえない。しかし、それらの「言葉」を取捨選択しつつ(つまり都合のよいものだけを利用し)抽象的な論理操作によって導きだした「イエスの思想の本質」なるものは、もはや歴史的現実から遊離した観念世界の虚構にすぎない。そもそもかれら学者たちは、イエスは宗教思想家であると頭から決めてかかっているので、イエスの言葉は何でもすべて無条件に宗教的真理の表現とみなしてしまう。

だが、イエスはこの世に真理を伝えるために訪れた使者ではない。だいたい、古代社会の片隅で忙しく働いて三十代半ばで死んだ一介の大工職人に、人生の意味についての哲学的思索を期待するのは見当違いというものだ。イエスはソクラテスやパスカルではない。イエスはただ、かれを取り巻く日常的空間の中で起こる出来事の一つひとつ、多くの場合実に些細で陳腐でそれ自体どうでもいいような事柄の一つひとつに、いささか愚直なまでにこだわっただけなのだ。

ただし、それを些細で陳腐でしたがってどうでもよいことと感じるのは、後世のわれわれが勝手にイエスを永遠不変の真理の権化に仕立て上げ、かれの言葉や振舞いの中に何か深い「意味」を探ろうとしたり、人生の指針となる英知を求めたりするからなのであって、イエス自身にとってはそれらは決してどうでもよいことではなかったはずだし、本当はわれわれにとってもまたそうなのである。なぜなら、いつの時代でも一見些細で陳腐な日常的現実が積もり積もって、いつの間にか人間を抑圧し収奪する強大な力となるのだから。このことに気づかない者には、イエスの言動の真意を理解することはついにできないだろう。ここに、イエスが殺された、そしていまだに殺され続けている理由がある――というのが著者田川氏の主張である。

● イエスはなぜ殺されたのか

そう、イエスは殺されたのだ。イエスはローマの官憲により、ローマ皇帝に対する反逆者として、ローマ法に則り十字架刑に処せられた。これはキリスト教にとって最大の謎である。なぜイエスはローマ帝国に対する政治犯として処刑されたのか。(当時のユダヤ地方はローマ帝国の直轄領で、ローマ人の総督が支配していたが、その下でいちおう自治が認められていた)

独特な話術と奇跡的な治療行為により、民衆の間に絶大な人気があったイエスは、当時のユダヤ教支配層の腐敗堕落を厳しく批判した。そして、そんなイエスを救世主と担ぐ民衆の動きは次第に高まり、これを危険視するローマ当局が今にも介入するのではという情勢であったが、ローマの介入は同時にユダヤの自治権剥奪を招きかねなかった。そこでユダヤの宗教指導層(かれらは政治的支配層でもあった)は、姦計を弄してイエスを逮捕し、涜神罪による死刑を宣告したのだが、かれらは死刑執行権を持たなかったのでイエスをローマ当局に引き渡し、総督ピラトは不本意ながらも、イエスを十字架刑にせよとのユダヤ人の執拗な要求に屈した。これが古くからある学界の通説である。イエス処刑の責任は全面的にユダヤの宗教的支配層にあるというわけだ。しかし、福音書の受難物語の構成・記述におおむね忠実なこの見解は、ローマ帝国統治下において保身のために反ユダヤ・親ローマ的立場を装った、初期キリスト教徒たちの護教的意図を斟酌していない。

これに対し、イエスは初めからローマ帝国に対する政治犯とみなされていたと主張し、先の通説を批判する学者も多い。イエスはユダヤ民族独立運動の指導者だった。いや、虐げられた貧しい人々との連帯を志向した革命家だった、云々。しかし、紀元一世紀のパレスチナの片田舎に社会変革のシナリオを読み込むのは、時代錯誤というものだ。イエスはガンジーや毛沢東ではない。

いずれにしても、通説とその批判がともに全面的に依拠する福音書の受難物語は、文献学的研究により細部の記述の歴史的信憑性がほとんどすべて否定されている。そこで進歩的な学者たちは、イエスの死の理由を「イエスの思想」に求めなければならない。しかしかれらといえども、イエスの死をその思想の必然的結果(つまり、イエスは悔い改めの決断を呼び掛けたがゆえに殺された)とするのはどうしても無理なので、結局、それはイエスの思想に対する周囲の無理解と誤解の結果だったと説明する。誤解されたのは必然だった!

しかし、イエスは決して誤解されたのではない。民衆には正しく理解されなかった面もあっただろうが、少なくともユダヤとローマの支配権力には、きわめて正確に理解されていた。だから殺されたのだ。そうして権力がイエスの肉体を抹殺したあとに、「弟子」たちはイエスを「救い主」とすることによりイエスの精神を抹殺し、現代の神学者たちはイエスを「先駆者」とすることによって、その精神的抹殺を継承している――これが田川氏の主張の核心である。

さて、「食い意地のはった大酒飲み」といわれたイエスとは、いったい何者だったのか。なぜ殺され、しかもいまだに殺され続けているのか。その答えがこの著作の内容そのものであり、結論は例の冒頭の句に続けて書かれている。

(1998年4月1日)

【参考】 田川建三氏の著作を紹介しているページ

Jaga's PAGE」の中の「田川建三を読む」
カトリック系学校に奉職する苣木勝氏による、ほぼすべての著書と訳書の紹介
Toma's Place」の中の「私の本棚」
大阪コレギウム・ムジクムを主宰する当間修一氏による『書物としての新約聖書』の紹介
I 教授の家」の中の「新・私のおすすめコーナー」
音楽学者でバッハ研究家の礒山雅氏による『書物としての新約聖書』の詳しい紹介
インタラクティブ読書ノート・別館」の「イントロダクション95・96年の収穫」
社会学者の稲葉振一郎氏による書評(1997.4.25)
思考する惑星」の中の「旅する読書日記」(掲載は1997.10.1610.2811.26
社会学者の加藤秀一氏による書評
草莽工房」の中の「本を読んで考える/宗教」
「自然と人間との共生をめざす」草莽氏の名著紹介コーナー
かーりーINN」の中の「本のフロアー/宗教・思想関係の本の部屋」
「市井の片隅でつつましく思索する」カーリー氏の書評コーナー
npg」の中の「地下読書者の手記其の六」
ニーチェを愛読するO'氏による哲学・思想関係の書評集
書評とおすすめ」の中の「本の寸評」(1998) 以降の各ページ
映画・音楽・温泉などに関する寸評を多く集めた紺野裕幸氏の書評コーナー
KOBYSH/TLK」の中の「本棚(その1)―田川建三」
デジタル文化研究家の小林龍生氏による紹介とエピソード
水燿通信」の「139号」「177号」
個人誌を発行し続けている根本啓子氏による『書物としての新約聖書』と『イエスという男』の長文の書評
読書猿」の「第15号」と「第44号
『思想的行動への接近−イエスと現代−』と『書物としての新約聖書』
匠 研究室」の「本を読む
建築家であり、家族論研究者でもある匠雅音氏による『イエスという男』の書評
Kunimi Yaichi's ROOM」の「死海文書と陰謀説と田川建三著『書物としての新約聖書』に窘められる
国見弥一氏による『イエスのミステリー』に関連したエッセイ
蒼穹の回廊」の「イエスという男」と「キリスト教思想への招待
Abraxas氏による書評
映画瓦版」の「読書日誌 200410
服部弘一郎氏による『キリスト教思想への招待』と『イエスという男』の書評

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田川建三氏のホームページ「田川建三からのお知らせ

田川建三氏へのインタビュー記事(asahi.com より)「9・11と「黙示録」─田川建三さんに聞く