Title: subterranean flow
Author: kujoshi
Rating: NC-17
Disclaimer: This is a work of fiction. I own nothing but the story line.



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川地省吾の後ろを歩いていた成沢光夫は、急に止まった主人の体にぶつかりそうになり、慌てて体を引いた。
還暦を過ぎても足腰に衰えをみせず、そこらの若い衆などよりよほど機敏に歩く川地がだしぬけに止まるなどということはめったにないことで、石にでも躓きかけたのかと成沢は足元を見た。
だが、川地の草履の下に見えるものは、自分の足元と変わらぬ、白い玉砂利の中に続いている平らな敷石である。障害物などあろうはずもない寺の境内だ。
そこでやっと成沢は目線を上げ、川地が前方の、少し斜めの方角に気を取られているようだということに気がついた。

成沢にとって川地は雇い主である。役柄は表向きは「秘書」という呼び名だが、実際のところは番頭、いやせいぜい丁稚程度の使用人か、とにかく相手は「ご主人様」であって、めったにその顎より上に目線を当てるということはない。
成沢は今の男としては平均の身長であるが、川地は成沢よりも頭一つ分ほど低いので、成沢は自然と普段から身をこごめ、目を落として歩くようになっている。
身分柄というだけではなく、川地の顔のことがある。
醜い、というのは酷であるが、言葉にしろと言われればそうである。
全体に肉厚で大作りで、飛び出した眉根、落ち窪んではいるが大きな眼窩、天狗のような鼻、分厚い唇。人々が陰で言う言葉を借りれば、「南蛮のような」あるいは「露助のような」である。

それだけならまだしも、これこそ本人の責任ではないので気の毒としか言いようがないのだが、顔の左半分くらいが赤剥けのようになっている。
幼い頃、女中が誤って薬罐を取り落とし、沸騰した湯を浴びたのだという。
生き延びたのが奇跡というほどの火傷で、顔だけでなく体にも跡が残っているそうだ。
もちろん成沢は見たことがない。
そんな大怪我のせいで発育が損なわれたのか、大きな顔に比べて体はみすぼらしい程に小柄で、手足は細い。
またその上、中年を過ぎてからは、腹だけが丸くなってきている。
その辺にあるような醜さならいざしらず、ここまで来ると逆に、成沢に限らず誰もがその容貌をしっかりと見るということは憚られた。
気の毒でというより今では、下手にこの政財界の「怪物」の怒りを買ってはという、祟り神に対する畏れのようなものであった。
その川地が今、何かをまじまじと凝視している。
魂を奪われたようにと言ってもよいほどの放心に見える。
つられて、成沢も久々に、というよりは初めてかもしれなかったが、主人の顔を、後ろ斜めからではあるがじっくりと目にすることになった。

川地の視線の先にあったものは、とりたてて変わった風景ではない。
今日の葬儀に参列していた人々が三々五々連れ立って境内を歩いたり、立ち止まって知り合いと話したりしている。
大きな寺で出入り口も四方八方にあるので、人々はそれぞれ自分の帰り道の都合のよい方向へとバラバラに動いている。
故人が政財界の大物であった関係で、帝都でも有数の大きな寺で催され、参列者も多く、そのほとんどが個人的な縁は薄い。
そういう人間達は、死んだ仏よりも、仏の関係者達と顔を繋ぐために挨拶に来ていると言う方が正しい。
川地自身がそうであって、向こうにしてみれば「川地さんにおいでいただいて」と感謝する間であっても、やはりこうして顔を出しておくのは、いずれこちらの利益に繋がると考えてのことである。
その川地の目を捉えていたのは、どうやら若い男の二人連れらしいと成沢は見てとった。
なるほど、どちらも背が高く整った顔立ちで、洋装で姿勢もよい。
特に意識せずともなんとなく目立つ雰囲気がある。
だが、それだけのことで、片方は若いといっても実際成沢といくつも違わないだろう。
洋髪か天然かは知らぬが、編んだ毛糸をほどいたような髪とその上に乗ったダービーハット、板に付いた三つ揃いのスーツの着こなし、なぞで年齢より若く見えるようだ。
もう片方は学生帽にマントの書生姿で、これはまあ大学生か高等師範あたり。
年の離れた兄弟とも見えず、血の繋がらない叔父と甥あたりが相応しそうである。
一応厳粛な顔はしているが、悲しみというようなものは見えない。
故人の事業の関連会社の末端のどこかにかろうじて関わりがあって参列し、香典、記帳、焼香、と義理を果たした後は銀座町にでも出てカフェーで息抜きでもするのだろう。

「誰だ」
前方に目を向けたまま川地が尋ねる、というよりも独り言のように言う。
常のことである。
成沢は、未知の相手である、という印に軽く首を振って、もうそちらへ歩を進めつつ、
「こちらの名前は」
と聞くのに、川地は、
「出すな」とだけ言って、もうよそへ体を向けている。
それでも鋭い目線が二人連れに当てられていることが、成沢にだけはわかる。
「失礼ですが、某所でお目にかかりませんでしたか」
と、適当な口実で相手を探っている間も川地の強い視線が感じられる。
上手く会話を進めて、「それではまたいずれ…」と、川地のいる方とは逆の方に歩き、二人が完全に去ったのを見届けてから戻るその間も、川地のイライラした心持が伝わってくるようだった。

「探偵だとかで。書生は助手らしいですな」
成沢は貰った名刺を川地に渡した。
そういう商売を営んでいる相手だったおかげで、顔見知りを装って近づいても怪しまれず、簡単に名刺を貰うことも出来たのは幸運だった。
「ふむ」
川地は名刺を財布にしまうついでに、数枚の札を成沢に渡した。
つい驚いて顔を上げる成沢に、
「とっておけ」
と言い捨てて、もういつもと変わりなく歩いている。
その額の大きさは、川地の満足の大きさであろうが、それにしてもこれはまた望外の、と成沢は少し恐ろしいように思った。

 ***

空に白いものがちらつき、足裏にじかに触る石の表が冷たい。
春とは名のみの寒さか、と、業斗童子は呟いた。
もっともその呟きは、限られた人間以外には、猫の小さな唸り声にしか聞こえない。
その限られた人間の一人である書生姿の少年は、神社へと向かう細い参道の、少し前を歩いていたが、気遣うようにふり向いた。
「よいからさっさと歩け。ヤタガラスが事務所に使いを出してまで我らを呼ぶとは、よほど喫緊の案件であろう」
事務所とは、少年が書生として住み込んでいる、ここからは少し離れた町の探偵事務所である。
少年と業斗はかなり頻繁にこの神社を訪れる習慣がある。
異常時にはもちろんのこと、何事もなくとも、ヤタガラスという特殊な組織の一員として、定期的な連絡は義務ともいえる。
それを待てず、特殊な者たちにしかわからない方法で彼らを呼び出したということは、相当に面倒な事態が生じているとしか思えない。
(現在抱えている案件にはそれほど大きな魔を感じてはおらぬのだが…感度が鈍くなったのか?)
そんな不安もある。
少年の方は常日頃と変わらない、能面のような表情である。
感情がないわけではないようだが、それを顔に出すということに慣れていない風である。半分、獣に近いようなところもあるので、その感情もごく単純なようだ、と、数ヶ月この少年を見てきた業斗は感じていた。
口数も少ない。
何か尋ねられて、それが仕事や勉学に関することであれば的確に答えるが、自分から話を持ち出すというようなことはほとんどないし、自分がどう感じ、何を思っているかというようなことを語るのも苦手のようだった。
(まあ、十代後半の男ならそんなものだろう。まして少し前までは、本当に限られた人間としか関わることのなかった生活だ。それもほとんどが自分より目上の指導者。親といえどもその前に先達であるという、甘えが許されない暮らし…)
はるか昔の、自分自身のことも思い出しつつ、業斗は歩を速めた。

不安を抱えているのは業斗一人ではないようだった。
「わざわざおいでを戴き、ご足労様です」
いつも通りの丁寧な挨拶の後、使者は二人を奥へと誘った。
めったにないことである。いや、はじめてだったかもしれない。
襲名をすませた少年を業斗が最初にここへ案内した時も、使者との挨拶はこの、ほとんど人の訪れることのない神社の鈴鐘の前で行われた。
(誰か、他にも「客」がいるのか?)
しかし座敷にも、次の部屋にも彼らを迎える者は誰もいないようだった。
なぜわざわざ、と訝る業斗に、
「どこで話しても、誰にも聞かれはしませんし、聞く耳を持つ者には同じことなのですが、私自身が落ち着きませんので」
薄縁に座った使者は珍しく内心の動揺を明らかにした。

いつもはこちらから作法に従って呼び出すことで現れる使者は、常時黒ずくめの着物と頭巾で、その白い肌は、藤色の唇から下の顔と、細い手先しか見えない。
普通に見れば若い女だが、真の姿はどんなものだかわかりはしない。
それは、今は黒猫に身をやつしている自分も含め、この機関に関わるもの達の多くに共通していることであるが、
(しかし、この感情の動きは)
女性的なものが強いように、業斗は感じた。

話は簡単なことである。
「ここ」に援助をしようと申し出ている人間がいる。
名の知れた政財界の権力者で、上の人間ともつきあいがある。
金額は大きなもので、しかも恒常的な形にしてもよいということで、機関としては願ってもない話である。
だが世の常で、そこには条件がある。
生贄が必要になる。
もちろん命を取るというわけではない。

「その、御前とやらが、こいつをどこかで見初めて、稚児遊びをしたいというわけか」
言葉を捜して言いあぐねている使者に代わり、業斗は要約して言った。
本人を目の前に言い難い気持ちもわかるが、遠回しに言っていたらこの世間知らずの少年にはいつまでたっても通じない。
(稚児遊び、と言う言葉でも、わかっているのかどうか。「そのこと」自体は里で一応の「仕込み」はされているはずだが)
「…そういうことですが…断っても、まったく構わないのです。その裁断は許されています」
「しかし、そのせいで上からの覚えが悪くなるということでは困るが」
「そのようなこと。今の帝都の治安が護られているのはこの十四代目の力量のお陰ということは、『うち』の誰もが知る事実。どんな財力や権力をもってしても、悪魔を倒すことは出来ぬのですから」
使者は、どちらかといえば少年の拒否を待っているように思えた。だが少年は知ってか知らずか、翳りのない目を使者に向け、
「自分が行くことで機関に益するところがあるのでしたら、参ります」
よどみなく応える。
表情からは相変わらず本心がわからない。
だが単純に、言った通りのことしか考えていないようにも思える。
(実際、それが正解のようではあるしな)
「本人がそう言うのだから、そのように進めたらいい」
「……」
使者はかすかに溜息をつき、算段を説明し始めた。

 ***

その時まで川地はその機関のことを耳にすることはあったが、詳しい知識はなかった。もっとも、今でもそう理解を深めたというわけでもない。
幽霊だの、妖怪だのは信じぬ方である。しかしこの国で力を持つようになると、政府だの貴族だのとは一段階違うところに、人目に触れぬ部分を担当する一族のようなものが色々と存在するということは、なんとなくわかってくる。
天皇の棺を担ぐ一族なども、その類である。
その諸々の事情などは、川地にはどうでもいいことであった。
とにかく組織があれば、人がいるということで、人が存在すれば金が必要になる。
それはどんな組織でも同じである。
組織に対して金を与える側に立てば、組織に属する人間を自由に使える。
別に、犯罪行為に使おうというわけではない。
(少々、お灸をすえてやるだけだ)
川地は、そんな風に、これから自分のしようとしていることを捉えようとしていた。

あの葬儀の日、寺の境内で川地が見たのは、一つの傲慢であった。
美という衣装を保護色のようにまとって、それは正体を隠していたが、川地には明瞭に見てとれた。
若く、美しい少年の屈託のない横顔。
世界のすべてが自分のために存在し自分のために動くと信じ、いや、信じる疑うそれ以前の無意識としてそういう観念を体に持っていて、そういう自分の幸福さに気づいていない貌。
その思い上がりを打ち砕いてやるのだ、と川地は思った。
それが本人のためであり、ひいては社会のためにもなる。
探偵とやらの名刺から身元を調べさせるうちに、ますますその思いは強まった。

何やらの一族の何代目とやら。
優秀な成績でその名を継いで以来、それに相応しい活躍をして、機関の懐刀として将来を嘱望されているという。
川地のような成金とは違う、世間から隠れた里で古く続いた血が生み出した至宝の果実である。
住み込みの書生で、探偵事務所の助手で、と苦学生のような話にしているが、実のところはその何代目とやらを怪しまれず置くための舞台にすぎぬ。
上司と言いながら、三十がらみの男を体のいい世話係にしているのだ。
いくら生まれや出来がよくても、子供は子供である。十代の小僧を甘やかしてほっておけば、どこまでも増長するものだ。
特殊な力や見目の良さを賞賛されるばかりでは、人間としての成長が止まる。それでは陰から帝都の人々を護るという、縁の下の力持ち的なお役目は勤まらないだろう。
今のうちに誰かがそれを正してやらねばならぬ。
それは、老人である自分に相応しい役目だ、と川地は思った。

静かな昼間の料亭街に車の音が響き、庭の玉砂利を踏む足音が川地のいる離れへ近づいてきた。
仲居が案内してきたのだろう。「こちらです、では…」というようなことを言って戻る足音、玄関を開ける音が聞こえる。
川地はもちろん帝都の高台に屋敷を構えているが、近年はずっとこの気の知れた料亭の離れで寝起きしていて、住んでいると言ってもよいほどになっている。
長男夫婦と孫は老妻と一緒に山の手の家にいるが、他の息子、娘達はとうに独立したり嫁いだりしていて安心ではあるし、特に仲睦まじいというわけでもない家庭にいるよりは、一人で男やもめのように気楽にしているのが、性に合っているらしかった。
仕事の話もそこに人を呼んでするし、気が向けば夕食の後、芸者を呼んで軽く遊んだりすることもある。
用事で何日か家に戻ったり、夏などは何週間かまとめて別荘に行ったりもするが、そういう時でもいるのと同じように金を払って、荷物も置きぱなしで、専用にしてある。
そんな具合だから、例の少年が礼儀正しく挨拶をして障子を開けた時も、川地の方は浴衣の上にどてらを羽織っただけの姿であぐらをかいている格好だった。
詰襟の学生服姿の少年は、学生帽を取らないことだけが礼儀に反していたが、それだけは「一族の伝統ゆえ」ご寛恕願いたいとの申し入れが先だって来ていた。
川地にとっては、どうでもいいことである。
迷信のようなことでも、破って害があると信じるものには、守らせておけばよい。

「来たか。まあ入れ」
少年は作法にのっとった所作で障子を閉め、川地の少し手前に膝をついたが、ふと目を上げた拍子に、はっとしたような表情が浮かんだ。
川地の顔の、火傷の跡に目が留まったと見える。あるいは同時に、間近で接した川地の醜さにもすくんだのであろう。
「驚いたか」
「はい、少し」
少年の答えに、川地は一瞬とまどった。
今ではそのような反応もほとんどないといってよいが、昔はよく、同じような表情をする人間がいて、川地がこう聞くと、顔を真っ赤にして左右にふり、「いえ、とんでもございません」などとあせり声で言ったものだ。
だがこの少年は気負いもなく「はい」と答え、
「ご不快に感じられましたら、申し訳ございません」
真摯な口調で、頭を下げるのだった。

「まあ、いい。来い」
川地は次の間へ立って行った。
部屋を空けるのが面倒で、敷きっぱなしになっている布団が広がっている。
女将に言われて仲居などが時々「掃除をさせて下さいよ」と言ってくるが、「埃で死ぬわけでもなし」と延ばし延ばしにしてしまう。
川地が家に戻った時などに、素早くハタキをかけたり、布団ごと取り替えたりしているようだ。
しかしこのところは、もう一週間ほどもそのままだった。
川地は構わず掛け布団の上に座り込んだ。
少年は素直についてきて、先刻と同じように膝をつく。
「向こうを向け」と命じると、言われるままに体の向きを変える。
川地がその腕を取った時には一瞬体がこわばるのを感じたが、
「手を使う必要はない。そのままにしていろ」と言うと、また素直に力を抜く。
あまりに抵抗がないので、川地の方が饒舌になった。
「この部屋は今結界で護られているそうだし、おまえも魔を退ける工夫をしてきているそうだから、おまえが動けない間でも、変なものに襲われたりする心配はない。だから武器やら防具やらも持ってきていない、そうだな」
「はい」
それだけ答えて、後は川地が両の腕を後ろ手に、浴衣の紐で縛るのに任せている。

(慣れているのか?いや、何をさせられるのか見当もついていないのだろう)
「こっちを向いて、しゃぶれ」
川地はあぐらに座っていた足を開き気味にし、浴衣の前をはだけた。
褌はつけたままである。
少年はまず言われた通りにこちらへ向き直ったが、その後は、呆けたように動きがない。
「どうした」
屈辱を感じ、抵抗しているかと川地は嗤うような気分になった。
「おまえは洋服を着ているな。下穿きもそうなのか」
「は、いいえ」
「褌か。それならどうやって外すかはわかるな。手を使わずとも出来るだろう」
「あ、はい」
少年は得心の返事をすると、膝の位置を少し直し、
「失礼致します」
と、川地の前にかがみこんだ。
口で前布を横にずらし、結び目をほどくその動作は、巧みとはいえぬが躊躇はないようだった。だが結び目が解けて布が下に落ち、川地のものが露わになると、少年の動きは一瞬止まった。

(臭うだろう)
川地は内心ほくそえんだ。
川地はここ二、三日風呂へ入っていなかった。
湯殿は、この次の間の奥にあって、いつでも入れるようになっているが、無精な川地は週に二度くらいしか使わなかった。
老人にとっては湯を使うのはかえって疲れる、ということもあったし、今回はもちろんわざと控えたのである。
嫌がる様子を見せたら厭味の一つも言ってやろうと待ってみたが、その逡巡は一時のことで、じきに温かい鼻息が皮膚を撫で、乾いた両の唇が、まだ柔らかい川地のものをそっとくるんで持ち上げるようにするのが感じられた。
学帽の庇に隠れて眉は見えぬが、横から覗いた限り、別にひそめているようでもない。

(その手の茶屋に行って蔭間にやらせると、大体顔をしかめて逃げ出しそうにしたな。それが札を出してみせると、表情が変わってすり寄って来るのだ。一番の売れっ子とかいう奴は、誇りがどうのと最後まで突っ張っていたが、所詮売色の身で、お笑いというものだ)
この少年の場合は、逃げたくともそうは行かない事情がある上、
(嫌なことでも、表情に出さない訓練をしているかもしれぬ)
同時に、言われたことを一心に努める訓練も出来ているようで、技巧はほとんどないが、とにかく舌を動かし、川地の息も荒くなってきた。
「そのくらいで、よい」
川地は言って起き上がり、少年の後ろへ回ってそのズボンを下ろした。
褌を解く手間もかけず横にずらしただけで尻を出させ、つっぷすように背中を押さえつけてやる。
布団の上で横向けになっている顔には、特に嫌がる表情は出ていないが、それでもかすかに耐えるような思い入れが見え、川地は満足した。

慣れている様子ではなかったが、まったく初めてというわけでもなさそうだった。
軽く閉じたまぶたの上の額に、汗がにじむ。
わずかばかり開いた唇から、鼓動のように吐息がもれる。
白かった頬がわずかに桜色に上気する。
川地は、もう結構以前のことではあるが、最後に女を抱いた時と比べ、自分の昂ぶりが早いということを感じずにはいられなかった。
(女のような顔というわけではないが、そこらの女よりは綺麗な顔をしているからな)
引き延ばそうと少し体を引くと、少年のものも張りを見せているのに気づいた。
布と腹の間で窮屈そうに上を向いている。
「なんだ、よいのか」
川地は声に笑いを含ませ、横からじかに握ってみた。
「あっ」
驚いたような声が洩れ、同時に指の中のものは大きさを増した。

「だらしのない声を出すな」
「…はい…あ」
言いながらも川地が指を動かすのをやめないので、抑えきれない声が出る。
川地が更に自分の腰を回すようにしてやると、また声が洩れる。
「情けないな、こんなことで」
「は…申し訳…ありません」
切れ切れに答える。
見えなかった眉も、今はひそめられて、鼻の近くに眉根を作っている。
やはり若さというものか、限界が来るのは少年の方が早く、
「ご勘弁を…どうか…自分はもう…」
苦しそうな目を川地に向けた。

売色の人間は同じような科白に媚びを忍ばせて口にする。それは客を喜ばせるためだったり、早く仕事を終えたいからであったり、両方であったりするのだが、さほど抑揚の聞かれない少年の懇願は、そのまま言葉どおりの意味しか持たぬようだった。
(媚びなどせずとも、頼めば人は言うことを聞くものと思っているか)
そんな風に川地には思えて、
「少しは、我慢しろ」
手と腰の動きが荒くなった。
それが予想外の刺激だったらしく、
「あっ」
今までより少しだけ大きな声が出て、同時に、不自然な肉の震えと、ほとばしりがあった。
それまで乾いていた皮膚に、一気に汗が出るのが不思議だった。
「す…申し訳、ございません」
弾む息の間に、どうにか声にしている。
「ふん」

川地は、あるいは自分の方が先に達するかと少々怖れていたのが体面を保てた形になって内心は安堵していたが、かえって怒ったようにみせかけて、荒々しくことを済ませた。
終わると、膝を付いている少年の横に仰向けに体を投げ出し、
「汚れた。綺麗にしろ」
と命じた。
少年はまた一瞬、呆けたような顔になったが、今度はすぐに了解したらしく、顔を上げて川地の下腹部に近づけた。
先程の、それを起こそうとしていた時とほとんど変わらない舌の動きがいかにも素人である。
(蔭間のような具合にはいくまい)
自分がもう老人であるから、すぐにまたということにはならないが、壮年までの男なら、こんな拭い方では呼び水になるだけだろう。
蔭間達は、金と体が大事であるから、そんなへまなやり方はしないものだ。

少年は、自分の重みを川地にかけぬよう、自分の着ている服が川地に触ることすらないようにと筋肉を張っているようだったが、血の火照りがまだ落ち着かぬらしい体の熱さがごく近くから伝わった。
そのほどよい温もりのせいか、川地はしばらく眠ってしまったらしい--
らしいというのは、意識を取り戻してから気づいたことである。
川地は一瞬、血の気が引くのを感じた。
他人がいるところで意識を失うなど、自分のような身分の者にあってはならぬことである。
何もわからずにいる間にどんなことをされるものやらしれぬ。
この部屋には目ぼしいものは置いていないが、財布から素早く札を抜いて逃げる頭くらいは子供にもあるだろう。
目が開くか開かないうちにそれだけのことを考え、身を起こそうとした時に目に入ったのは、少年の丸い学帽だった。
腹に重さがある。
なんのことはない、少年も体の熱で眠気をもよおし、寝入ってしまったようである。
犬猫か、幼児のように、人に重みを預けている。
落ち着いた寝息が腹にかかる。
川地の筋肉の動きで目覚めたらしい少年が、数秒まだ頭が働かず、目をしばたきながら呆けた顔を見せ、それからはっと目を開いて頬を染め、頭を下げて詫びの言葉を繰り返すのを、わざと苦虫を噛み潰したような顔をして眺めながら、川地はもうひと時ほど長く、この少年の赤子の眠りを見ていたかったように感じていた。

 ***

「それで、どうなのだ」
「どう…とは」
「だから…実際、どうだったかというのだ」

業斗は焦れた。
少年が、迎えに来たのと同じ車で神社の入り口まで戻り、身を清め、預けておいた武器などを再び身に付けた後、奥の部屋で使者に簡単な報告を済ませ、ねぎらいの言葉と、いくばくかの褒賞を貰って帰る参道である。
少年の報告は本当に簡単であって、使者が色々問い質さなければ、
「行って参りました」
で終わるところだっただろう。
その応答によれば、特に妙な遊び方もされていないようだし、嫌がることを無理強いされるということもなかったようだが、
(肉体は頑丈に鍛えられているし、頭は動物に近いのだから、本当の死の危険でもない限り、嫌だの妙だのを感じるかどうか。危険がなくとも野生の獣であれば本能で嫌がることでも、下手に訓練されているから、かえって堪えてしまうかもしれぬ)
使者は自分が若い女性の形を取っている以上、その口から若い男に性的な事柄を細かに聞くわけにはゆかぬと決めているようだ。
その辺は業斗に任せておきたいのだろう。
大体、変なことはなかったと言っても、それは少年の判断だけのことで、渡された金の話が他から見れば既に変である。

話の途中で少年がふと、
「あ、これを」
と、数枚の札を制服のポケットから出した。
額は大きいが、しわだらけの札である。
不審気な様子の使者に、
「いただいたので、預かって参りました。報酬だと…」
使者が息を呑み、普段からも白い肌が一層血の気の引いたような色になったのは、業斗と同じにすぐさまその場面が目に浮かんだからだろう。
財布か、懐からかはわからぬが、無造作に札をつかみ、平伏している少年の膝の前の畳にぽいと投げ出す。
売色の稚児に与える「小遣い」だ。
「…むき出しで、渡されたのですか」
使者が怒りを抑えた声で聞くのにも、少年は意味を取りかねる風情で、
「はい」
とだけ答える。
「…機関への報酬は、もう援助という形でいただいてあるのですから、それは浄財にさせていただくのが適切でしょうね。業斗童子、いかがでしょう」
「うむ、それがいいだろう」
使者は内心では触るのも汚らわしいと思っているのだろうが、少年の前では、「侮辱された」ということを明らかにすまいと決意しているようだ。
「本当にご苦労様でした、十四代目。それでは…」
うやうやしく札を押し頂いて、奥へ去った。

今回の件は、探偵事務所の所長である鳴海には詳しいことを教えていない。
時折ある、機関の方から依頼の別件ということにしてある。
鳴海を信用していないというわけではなく、単にこういう話はなるべく知る人間を最小限に止めたいという、気分のようなものである。
そうであるから、事務所へ戻る前にとりあえず、大まかにでも事の次第を頭に入れておきたいというのが業斗の心持ちなのだが、婉曲な尋ね方では一向に埒が明かない。
「ちょっと、そこに座れ」
参道の脇の手頃な岩を示して、少年がそこに腰をかけると、
「入れられただけか」
直截に尋ねる。
「…最初に、口で濡らして」
言いよどんでいるというよりは、思い出しながら口にしているという風だ。
「自分は、出したのか」
「我慢がきかなくて」
「若いのだから、仕方あるまい」
「……」
「何か、あったか」
「終わった後で、寝てしまって」
「叱責されたか」
「特には…でもお怒りが顔に」
「それも、若いのだから猶予してもらわねば。そのくらいか」
「はい」
「それでは行くか。今日のことは忘れろ。大学芋でも買って帰ればいい」
「はい」
僅かに嬉しそうにする顔が、子供だった。




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