榊神社  台東区蔵前1−4



工事中

国常立尊から数えて第六代目の天つ神で天神第六代坐皇大御神(第六天神、伊弉諾伊弉冉尊は次の第七代の天神です)を祀っています。
日本武尊が東征のおりこの地に斎庭(まつりのにわ)を定めて面足尊と惶根尊の夫婦神を祀り、白銅の宝鏡を納めて東国の平安と国家鎮護を願ったことを縁起としています。
御鎮座1900年に大祭が催されるとのことで、平成22年(2010)がその年だそうです。
(御鎮座はAD110ということになりますがこれは日本書紀による年代、持論による実年代換算はAD325になります)

境内社:
七福稲荷神社、倉稲魂神
繁盛稲荷神社、倉稲魂神
事比羅神社、大己貴神
豊受神社、豊受姫神

鎌倉〜戦国時代の鳥越周辺

当地は武蔵野台地の東端にあってはるか昔に白鳥が去来する地であったことから白鳥の丘と呼ばれるようになりました(後に鳥越の丘となります)。

現在の鳥越周辺は平坦ですが、江戸初期に江戸市街の土木工事用に丘が取り崩されて平坦になったとされています(鳥越神社の項参照)。

旧社地は森田町(現:蔵前2丁目付近)にありましたが、元和六年(1630)に江戸幕府が付近に米倉を作り、それが拡張されたために享保四年(1719)に浅草榊町(現:柳橋1、江戸末期で浅草茅町)に移転し、浅草御蔵の鎮守として第六天神あるいは第六天神宮と称されていました。

榊神社の名称は明治6年からで、大正12年の関東大震災によって現在地に移転し、全国の第六天を祀る社の総本社となっています。
第六天榊神社 柳浅敬神会ホームページ



江戸名所図会によれば「榊神社」は鳥越(現、鳥越二丁目)にあった「鳥越三所明神」のひとつでした。
正保2年(1645)にこの地が公用となったためにわずかな地に鳥越神社を残して、1社は熱田神社として山谷掘(清川一丁目、現:今戸二丁目)に移転。
もう1社は第六天社として浅草大蔵前森田町に移転、その後、享保4年(1719)に火災により「浅草御門外」に移転したとあります。
江戸名所図会の絵は浅草御門外の図と思われます。


面足尊を祀る社の分布は関東に密集していますが、全国に散在もしていてます。
全国の面足尊を祀る現存の社(神社庁平成祭りデータCDによる)
(伊弉諾伊弉冉神までの天神七代を祀ってその中に面足尊が含まれている社を含む、調査中)

新編武蔵風土記稿によれば武蔵における第六天社は各村に1社あるといえるほど多数存在しています。
隅田川東岸から江戸川の間は江戸時代初期に利根川の治水によって生まれた農地で、この一帯にも第六天社が多数あります。(トップ頁の「利根川東遷概史」参照)

その多くは江戸初期の農民(開拓者)が祀ったものと思われます。
徳川家康の江戸開府によって諸国の武士が帰農して新開拓地に居住し、幕府はそれを指導者として開拓を推進しています(代官見立新田)。

大阪落城の落ち武者である堀田図書も江東区深川に居住し、家康は深川開拓を堀田図書に任せて天領としています(田島図書と名を変え名主屋敷が残っています)。
第六天神を奉斎する人物が開拓地にあって、それが江戸以降?の「新しい第六天社」の登場になっていることも考えられます。

墨田区押上に高木神社(別項参照)があり、現在は高御産巣日神を祀りますが、明治以前では第六天社であったと思われ、江戸時代では稲荷社に匹敵する社があった可能性もあります。


戦国時代の利根川下流域は千葉氏〜上杉氏〜北条氏の領土です。
榊神社も神紋は七曜星と三つ巴で、ごくおおざっぱには三つ巴には出雲との関連のあることを見てよいと思います。
戦国時代あたりから千葉氏の領地となって七曜星が登場していることが考えられます。


関東平野北部の山岳地と接する地域と千葉県には近津と称する社が多く、これらにも面足神を祀る場合が少なくありません。
近津社の源流がなにかはむずかしいですが、佐久市の近津神社の旧名が千鹿頭神社であったことから、関東北部では諏訪の千鹿頭神社(建御名方命の御子を祀る)との関連もみえてきます。
楡山神社のうぶすな研究室参照


日本武尊が木更津〜船橋あたりに上陸して武蔵に入るとき、干潟や湿地帯であっただろう利根川の河口(現在の隅田川など)をようやっとで横断してたどりついた丘が鳥越の丘で、無事に難所を越えたことを感謝してその地に祀った神、それが「最古の第六天社」の原形だったのではないかと考えています。


もちろんその当時には第六天神という概念どころか日本書紀にいう伊弉冉伊弉諾神の概念もなかったはずで、当地で古来から祀られていた神を祀ったのだと思います。
隅田川流域には日本武尊と出雲神の関連の社がありますが、出雲神は日本武尊を助けており戦った痕跡がありません。
日本武尊は武だけではなく、先住者の神を尊んでいたと思われます。


関東北部では諏訪系の千鹿頭神社と第六天神(の原形)が結合して近津社となった可能性があります。
北部と南部では性格が千鹿頭に近いか面足尊に近いかの差が生じた可能性もありそうです。

利根川の呼称を「戸根川=集落の源となる川」と解するなら、津はその川の船着き場ということで近津の名も自然となります。
同系の社で近戸の名もあるようですが、隅田川の今戸が江戸以前では今津の地名であったことから、近戸ももとは近津だったのかもしれません。
胡録神社(胡禄、コロク)と称して第六天神を祀る社も江戸時代の関東の開拓地に少なからずあります。
(胡録の由来は胡禄神社参照)

また、関東に多い氷川神社との関連も考える必要がありそうです。
氷川神社の起源は男体社と女体社と簸王子社の複合によるとされるのが一般のようです。
氷川神社縁起では出雲の杵築大社(出雲大社)を孝昭天皇時代に勧請した、とありますが出雲大社には女神の存在はありません。

古来から面足尊と惶根尊の夫婦神を祭っていたところに出雲神が重ねられ、後に夫婦神は出雲神の背後に隠れていったのが氷川社であると考えることもできると思います。


千葉県船橋市の意富日神社(元宮は入日神社と考えられる)の江戸名所図会の記述から、日本武尊自身の奉斎する神は伊勢大神(天照大神の原形)であったと思われます。
それでは日本武尊にとって第六天神(の原形)はどういう存在だったのでしょうか。

第六天神の別名は多数あって、ここからいろいろの推定ができますがそれは別項にて。
第六天社は熟考を要する容易ならざる社ではないかと考えています。


江戸末期の国学者の平田篤胤は天神6代を祀ることはありえないとして神産巣日神や高御産巣日神(高木神)のこととしているようです(前出の高木神社などはこれに従ったものと思われる)。
江戸時代末期では国学者にも「わからない社」になっていたとみえます。

なお、神楽に「八幡」という演目があって、第六天魔王が八幡神に退治されています。
第六天魔王は仏教における六天界のうちの最上位にある天界の王、自在天(ヒンズーではシバ神)です。
太平記や謡曲などでも登場するこれらの第六天魔王は「仏教諸派の考え方」から登場したもので、第六天神と名が似ているところから混同されることもあるようですがまったく無関係です。