浅草神社  台東区浅草2丁目31−8

祭礼

御祭神:土師真中知命、桧前浜成命、桧前竹成命
合祀:徳川家康、大国主命
神紋は葵と三つ網。

推古天皇の時代に土師臣中知とその家臣の檜熊浜成と武成がゆえあってこの地に流浪していました。
ある朝、小舟で漁にでましたが魚は捕れず網に観音像がかかるばかりで、場所を変えても同じ観音像が網にかかるので不思議に思って持ち帰り、魚小屋に置いておきましたが後に祠を作って安置しました。


「童等が藜アカギで仮小屋を作って安置した」ともされており、その童を祀る十社権現が江戸名所図絵の浅草寺本堂裏手に描かれていますが、江戸名所図会では世にいういう話は縁起にはないともあります。


浅草寺縁起は複数あるようで、承応縁起(1654、土師保底)が古形とされ、ここでは檜熊浜成と武成の二人が漁に出て仏像を拾い、村オサの土師真土知に見せたところ聖観音像であることがわかって土師真土知が草堂を作ったが焼失し、645に勝海上人が再興した、とされています。

土師氏は野見宿禰の後裔とされ出雲臣系です(天穂日命→建比良鳥命→野見宿禰)。
続日本後紀に武蔵国の「桧前舎人」は土師氏と祖を同じくしとあり、檜熊浜成と武成も同族かもしれません。

江戸名所図会によれば浅草神社のご神体は慈覚大師(794‐864)の作で、浅草寺の護法神とするとあります。
拾われた観音像を祀っているのが浅草寺で、当初の祠は638〜645年の間に7回も火災にあったが、645年に勝海上人によって再建されこれをもって開山としています。
857年に慈覚大師(天台宗、円仁)が堂塔を増築し、これを中興の祖としています。

その後、安房守平公雅(930‐946頃)、(1041地震で大破、1051再建)、1070源義家、1146源頼朝、足利尊氏、1539北条氏、徳川家康、家光など時代の著名人の参拝や伽藍修復造営が続いています。
(五代綱吉の時、生類哀れみの令に関してトラブルがあったらしい)

家光造営の社殿は戦災で焼けましたが浅草神社社殿と二天門は焼け残って重要文化財となっています。
江戸名所図会と写真の社殿はおなじもの、というわけです(図会4)。
社宝に元久3年(1206)の銘のある古楽面「翁太夫」があります。


三社祭の三社とは土師真中知命、桧前浜成命、桧前竹成命で、神託によって1312年から浅草観音船祭りが隔年ではじめられました。
御輿を浅草寺本堂に移してここから浅草橋へ渡り、浅草橋から船に乗せて駒形橋から戻る漁師の祭りです。
1692に橋場付近から蔵前付近の隅田川は漁猟禁止となり、漁師が多摩川河口の大森〜六郷に移転させられたために三社祭にはその漁師が参加していたそうです。
(浅草海苔は安房守平公雅が945に浅草浦に黒赤青の海苔を得たのが事始めとされる)

江戸名所図会は事跡がたくさんあって書ききれないとあり、江戸庶民にとっての浅草の重要性がうかがえます。
以下は江戸名所図会に書かれる境内社です。

熊谷稲荷、銭塚弁財天、銭瓶弁財天、熊野権現、淡島明神
十社権現祠:縁起の10人の童を祀る
一の権現社(顕松院阿加牟堂):10人の童が最初に作った草堂(現在の花川戸1丁目)
西宮稲荷祠(上千束稲荷、隣接して蛭子祠):地主神


江戸名所図会の千束郷に「浅草寺の永徳四年(1387)の鐘の銘に武州豊島郡千束郷金竜山浅草寺」があるとあり、浅草が千束郷の一部であったことがわかります。
浅草の地名の初出は吾妻鏡の治承5年(1181)で、鶴ヶ岡八幡宮造営で武蔵国浅草の宮大工を呼ぶ記事があり、これが最古の浅草寺の登場文献です。
考古学的な出土物からは「瓦葺の浅草寺」が造営されたのは平安末期とされています。



縄文海退によって海が陸地化してゆく過程で古入間川や古隅田川の運んだ土砂のうちの砂利だけが周辺に堆積した台地が浅草で、北の石浜あたりは江戸時代での砂利の採取場になっています。
砂礫の台地であったためにまばらな草しかはえなかったための浅草の地名であろう、という説があります。
元浅草という地名が昭和39年にできていますが、なぜ西浅草のごとく南浅草とせずに元浅草としたのでしょうか。
なにか理由があったのかもしれません。

隣接の真土山は縄文海進時代でも海中から顔を出す島であった可能性があり、土が洗い流されることがなく関東ロームの丘?が残ってそれが真土の呼称につながっている可能性も考えられます。


隅田川以東には平安時代以前の遺跡は皆無ですが、浅草寺周辺から土師器が出土しており、古墳時代初期には集落が登場していたことを示しています。
土師器とそれに使える粘土、このあたりから真土の呼称が生じている可能性もありそうです。
浅草は今土焼きなど瓦生産の地でもあり、土師真土知の祖先は古墳時代以前にさかのぼる可能性もありそうです。

浅草寺に石枕伝承がありますがこれは石棺の可能性もあるようで、鳥居龍三は待乳山聖天(真土山)も古墳群のひとつと推定していたそうです(現時点では物証はない)。


江戸名所図会に「西宮稲荷の祠があり浅草の鎮守であり、上千束稲荷と称し地主神である。その傍らに蛭子祠がある。」とあります。
図会3仁王門の左下に「地主いなり」と「えびす」が描かれています。

また、下谷竜泉寺村にあるのを下千束稲荷というとあり、現在の浅草竜泉2丁目の千束稲荷です。
千束稲荷縁起では1661〜l679頃の創祀でそれ以前は不明とありますが、御祭神に素戔嗚尊があるのが浅草における出雲系譜の存在を示し興味深いです。

日本堤は真土山を取り崩しての築堤とされています(1620頃とされる)。
千束池の埋め立て終了はそれ以降のはずで、その埋立も浅草台地の土でしょう。
ここに稲荷が置かれるのは埋め立てが終わってからのはずで、浅草台地の地主神を埋め立て地に祀るのは自然でもあり、1661〜1679頃の創祀は正しいものと思われます。


下千束稲荷の素盞鳴尊と関連があるとすれば、浅草神社に合祀されている大国主命が当地(地主稲荷、上千束稲荷)の祭神ではなかったかと思われます。
大己貴命が素盞鳴尊に変化したと思われる例が素盞鳴神社(飛鳥社)にもあり、事代主命も祀られています。別項参照
三囲神社境内にも大国神と恵比寿神をペアとする摂社があります。

江戸名所図会は足立区の大鷲神社(御祭神は日本武尊)について「縁起と御祭神不明なれどかっては土師大明神であり浅草寺の奥の院とも世俗がいう・・」と書いています。

浅草では大己貴命→大国主命→地主いなり、事代主命→えびす、と変化していった。
(下千束稲荷では大己貴命→素盞鳴尊へ変化、おそらくは江戸中期)
神仏習合以前の当地で祀られていた神々は大己貴命と事代主命、加えて土師氏の祖の天穂日命であった可能性が高いと思われます。

南の須賀神社(別項参照)縁起ともからんで、古墳時代末期に出雲系の人々が海からやってきて、漁労を糧にして生活を始めていたのではないでしょうか。