三題話 『八幡様・猿田彦さん・天津彦根さん』

皆さん如何お暮らしですか。私この暑さに頭が沸騰ぐらぐら煮えたっています。

今窓は開け広げ扇風機を手元にパンツ一つでこの原稿を打ち込んでいます。年のせいかク−ラーは大嫌い。では表題の三題話に移ります。

1.三題話の目的

暑気払いのつもりで書き出したこの小論、さして目的と言う事もありません。強いて言えば八幡様と天津彦根さんに挟まれた猿田彦さんの実像を垣間見ようかと言う処です。

2.御三方の特性

2−1.八幡様

言うまでもなく九州 大分県宇佐市にある宇佐神宮の御祭神誉田別命、神功皇后、比売大神の三神を祭祀している神社の事であり其の始原は様々な伝承に彩られていますが、同神が源氏一統の守護神に成ってから爆発的に全国に展開致します。 しかし其の後神社、祭神等の合祀等が行われ神社名が失はれた祭祀地が多くあります。

そこで本稿では地名で八幡と表記した場所を採取いたしました。

2−2 天津彦根命

この神様は天照大神と須佐之男命の誓約により派生した神様で通称八柱の神様、或いは五男三女神とも呼ばれています。今五男神の神名を列記致しますと正勝吾勝勝速日天乃忍穂耳命、天乃菩卑能命(天穂日命)、天津日子根命、活津日子根命、熊野久須昆命であります。三女神は通称宗像三女神と言われ多紀理昆売命、市杵島比売命、多岐都比売命のお三方であります。この内天津日子根命さんと活津日子根命さんは古事記誓約の段で登場する以外全く其の事跡に触れられる事のない神様で有ります。しかし天津日子根命さんは古事記等により次の国造の遠祖とされています。茨城国造(常陸国茨城郡)、馬来田国造(千葉県望陀郡)、道尻岐閇国造(常陸国多賀郡の一部)、周防国造(周防国)、凡川内国造、額田部湯坐連、倭田中直(大和国生駒郡内)、山代国造(山城国)、倭淹知造(大和国山辺郡)、高市県主(大和国高市郡)、蒲生稲寸(近江国蒲生郡)。 この内、始めに記した三ヶ所の国造を見てください。何れも東北辺境の地に存在した国造であります。

彼等の境界は続縄文文化を持った人々と接して居たのであります。

今彼等の出目を考えますと土着の豪族が大和王権に組し後国造に任命された者とかんがえます。そうなりますと天津日子根命さんの神統譜上の立場に触れざるを得ません。

神統譜上この神様は極論を言えばどうでもいい神様です。後から付け足された神様と言っても通用する神様です。そう言う観点から天津日子根命さんは新たに帰順、国造に任命された豪族の権威付けの為神統譜に付加された神様だとかんがえます。

2−3 猿田彦命

様々な性格をお持ちの神様ですが此処では境の神様と言う捕え方に留めます。

 

まず第一に静岡県に於ける猿田彦命さん祭祀神社の展開をみてみます。

3 静岡県

静岡県内に於ける猿田彦命祭祀神社と弥生期水田遺構との相関地図 カシミール使用

凡例 猿田彦命祭祀神社 ○   弥生期水田遺構            

静岡県に於ける猿田彦命祭祀神社の展開を俯瞰しますと、弥生時代から古代活用された風待ち港的性格の強い大中級河川口にある潟を核として、順次外方に延伸して行ったものと考えます。例えば「弥生文化を各地に最初に伝えた人達は船や筏を利用して海路をたどったものと思われる。」新編静岡県史 通史 古代編p133 こう観点したに立って弥生時代の静岡県に於ける水田遺構の所在地を見ますと下記表の様になります。

有東遺跡

静岡市有東

目黒身遺跡

沼津市西椎路

登呂遺跡

静岡市敷地

長崎遺跡

清水市堀込

川合遺跡

静岡市川合町

小深田遺跡

焼津市小川

宮下遺跡

韮山町宮下

坂尻遺跡

袋井市国本

内荒遺跡

静岡市川合新田

下藪田遺跡

藤枝市下藪田

瀬名遺跡

静岡市瀬名

山木遺跡

田方郡韮山町

出典 奈良国立文化財研究所刊埋蔵文化財ニュース62 水田遺構集成

この水田遺構と猿田彦命祭祀神社の相関を地図で表現したのが上掲地図であります。

@              大田川流域は弥生文化が海路東進の際風待ち港的性格の潟が当時有った事が知られています。其処に弥生文化を継承した人々が定着同川を遡上、支流原野谷川沿いに坂尻遺跡が開花致しました。

A              瀬戸川流域は言う迄も無くヤマトタケル命の伝承に彩られた地域であり、同川河口を中心とした弥生文化の定着が順次東進藤枝市域で下藪田遺跡として開花いたします。

B              安倍川流域に付いては登呂遺跡、有東遺跡に代表される様に日本でも有数の弥生文化の開花した地域であります。そして時間の経緯と共に安倍川を遡上いたします。但し安倍川流域全体に遡上した訳では有りません。安倍川本流に付いてはフォサマグナ上に流域が位置し崩壊地形の存在が認められ、古代遺跡或いは神社等希薄となりさして認められません。藁科川、河内川流域に多く見る事ができます。

今一つ極めて特徴的な側面として「従来、三河以東の東日本で弥生時代人は何れも縄文人特有の形態的特有の形態的特徴を備えているとされて来たが瀬名遺跡の人骨は渡来系(非縄文系)の要素を持つ」人々の人骨が発見されたと言う記述であります。

私はヤマトタケル命さんの事跡が名古屋熱田神宮を出てより焼津伝承のある地点まで記述の無い事を知っています。之はヤマトタケル命さん伝承が渡来人文化の東進に裏打ちされた伝承ではとかんがえます。

大田川、瀬戸川流域に付いては東進の中継点的展開、安倍川流域に付いては拠点集落、そして展開と言う様にかんがえます。

その結果大田川、瀬戸川流域では猿田彦命さん祭祀神社の展開は川上へ遡上したと言っても夫々の拠点の周辺に点在し分水地点に迄は遡上しません。

一方安倍川流域に付いては其の河口(瀬名遺跡)に渡来人系人骨の出土に見られる様に、或いは登呂遺跡の出現に見られる様に本格的な弥生拠点集落が現れ、支流藁科川、河内川については遥か大井川との分水点にまで遡上致します。

 参考文献

 静岡県神社誌

 静岡県庵原郡誌 安倍郡誌 磐田郡誌 棒原郡誌 志太郡誌 小笠郡誌 他各郡誌

 新編静岡県史通史編 古代

 

前段で静岡県の有り様を俯瞰致しました。此処では対比する形で愛知県を俯瞰致します。

4 愛知県
愛知県の全体象に付いては前ページのマップが其の物であります。此処では重複を避ける為割愛いたします。

静岡県と愛知県を対比しますと次ぎの様な問題点が浮かびあがってまいります。

@     地図上の表現はしていませんが天竜川以西に付いて(特に浜松市域)は天津彦根命さん祭祀神社の非常に多い地域であります。即ち渥美半島太平洋岸と同一と考えて差支えありません。

A     猿田彦命さん祭祀神社の展開を対比しますとつぎの様になります。

静岡県の場合、多くが弥生文化基幹集落の展開した大・中河川沿いにその川上に遡上する形で展開しています。

他方愛知県の場合尾張平野に展開した弥生文化保持集団はやがて矢作川を越え三河山地舌状末端部に到達いたします。即ち此処で縄文集団と力と力の対自と言う事になります。現在の地名で申しますと次の郡域で相対する事になります。

1 愛知県西加茂郡、2 愛知県額田郡、3 愛知県宝飯郡と幡豆郡の郡境付近

4 渥美郡

今弥生時代の一大基幹集落で有った朝日遺跡より各郡域の大凡の中心域迄の沿面距離を計測してみます。

1 朝日遺跡〜猿投山山頂          29.319km

2 朝日遺跡〜岡崎市川合町(神明宮)    47.664km

3に付いては2の延長線上に有るものと考え省略いたしました。

4−1 西加茂郡 

西加茂郡を中心とした猿田彦命・天津彦根命祭祀神社&八幡と表記する地名分布地図  使用ソフト カシミール 

凡例 猿田彦命祭祀神社 ○  天津彦根命祭祀神社 ● 八幡と表記する地名                  

この西加茂郡は、尾張平野に於ける弥生時代の一大基幹集落である朝日遺跡より直線距離27kmと極めて近い距離にあります。

すでに記しましたが天津彦根命さんは辺境の地で王権側に組み入れられ、若しくは王権に従う事を許諾した豪族の遠祖とされた神様であります。之は言うまでも無く権威付けの為付与されたもので、この豪族の出目が隣接するまつろわざる豪族の出目と何等異なるものでありません。

 こうした点を踏まえて上記地図を俯瞰すると次の様な事が言えるのでは無いのでしょうか。「尾張平野朝日遺跡付近に定着した弥生文化を基幹文化とした人々は尾張平野を飲み込む勢いで東進していきました。そして猿投山西麓付近で動きをとめます。

之の理由は一つにはすでに此処が丘陵地帯で水利の極めて悪い環境下に有った事にあります。先住文化を此処まで駆逐し直轄支配地としてきた弥生人はこの地付近で方針の変化をとげます。先ず土地の選別であります。

A 彼等の生業展開上必要な土地。

B 左程必要としない土地。

C 全く必要としない土地。

この3種類にであります。

西加茂郡はB項に含まれ、この項に属する多くの辺境の国造が天津彦根命さんを遠祖として付与され懐柔された様に、之の地も又例外でなく祭祀権の自治を天津彦根命さんを奉祭する事により認め間接的支配地としたのではと考えます。

4−2 額田郡及び幡豆郡と宝飯郡の郡境に至る地域
この地域は現在の地勢で言えば岡崎市を中心とした矢作川下流域に当たります。

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