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長江流域の初期文化


BC7000頃
長江中流域の彭頭山文化(ホウトウサン)。稲作栽培。最古の環壕集落。
6000頃
長江下流域の河姆渡遺跡。象や犀が生息。母系社会。断髪ないしは丸坊主。
住居は高床でホゾ組使用、現代の木組法と同じ手法。壁は板を縦に並べている。
大量の籾、インディカ系60〜70%、残りがジャポニカ系、その他が若干混じる。

穂摘み用の石包丁は存在しない。竹ないし木製で残っていない可能性あり。
中国最古の木製杵、臼は未発見。臼は地面を固めて穴をうがつ方法の可能性。
機織りの道具?あり。櫂はあるが舟はでていない。丸木船の一部らしきは出土。
漆を使用。養蚕の痕跡。中国最古の井戸あり。

狩猟用の骨製の鏃、骨製の槍。菱、蓮の実、ひょうたんなどあり。
鳥の骨で作った縦笛が大量に出土。穴があって音程を変えられる。用途不明。
彩文土器はないが漆を塗ったと見られる土器あり。
2羽の鳥が太陽ないし月の左右に合体した文様と、それをさらに象徴化した文様がある。

割られた猿の頭骨多数。現在の上海など脳味噌を食べる嗜好はここに始まっていると見られる。
食人習慣あり。釜の中に魚の骨といっしょに嬰児の骨がまじってでている。
中国古伝に、最初に生まれた子を食べると次々に子が産まれる、という風習の国ありとの記述に一致。

5000頃
馬家浜文化、長江下流域、後の良渚文化の前身とみられる。葛を使用する織物あり。
大渓文化、長江中流域、後の屈家嶺文化の前身とみられる。長江沿岸から平野部へ進出。彩文土器
稲作による豊穣で手工業、貿易、軍事など食料生産に関与しない人々が登場。
都市文明の黎明。各地で沿岸域が海没し人々が平野部へ移動した可能性あり。

3300頃
長江中流域に屈家嶺文化。黒陶。大渓文化を継承し職集団の分業化。城壁都市の出現。
周辺に同文化の中小城壁都市が散在し都市群の力関係による結合、国家原型の登場。
墓(甕棺カメカン)の副葬品から貧富の差あり。
城内に運河あり。

銅鉱石と銅片あり、最古の金属使用の可能性あり。
副葬品には玉器多く人頭、動物類など。良渚文化とはやや異なる。
BC2000頃に放棄消滅、洪水による可能性大。
夏成立の構成員になったと思われるが、独自行動で夏に対抗する「三苗」の1員ともなった可能性あり。

3300頃
長江下流南岸域に良渚文化。河姆渡と同時代に馬家浜文化があった地域。
河姆渡文化の継承ではないとされる。
父系社会に移行、階級制度と貧富の差のある都市国家を形成。
太陽、鳥、目玉信仰、自然崇拝、祖先崇拝。これらを祭る長老、祭祀者が「王」となった可能性大。
その象徴として玉鉞(軍事)、玉ソウ(祭祀)、玉壁(行政、経済)の三権が機能していた可能性あり。

稲、豆、ゴマ、落花生など多数の穀物あり。
各種手工業の発達が著しく、玉製品では後世の製品を上回る。世界最古の絹織物出土。
金属器は発見されていない。特有の石器が東南アジア一帯に伝播。
河姆渡に同じく稲収穫用の石包丁はない。鏃は石製。
仰韶文化と同じく粘土製の投擲用弾丸と見られる球体出土。

文字と思われる記号あり。
河姆渡の鳥と太陽を象徴化したと思える装飾文様がある。これらは殷の青銅器につながる可能性あり。
下駄がある。歯はなく近代までこの地方で使われていたものと同じ。

巨木列柱(直系45〜105cm)があり、穴の片側を傾斜して掘っている。
穴に斜めに柱を入れて押し上げて立てる工法が推測可能、斜め材で合掌作りにした可能性もあり。
(版築工法のみで礎石は使っていない)
柱の間隔が1.5m前後と狭く、列柱で支えて高所に祭殿などを作った可能性あり。

同時期の山東半島南部の大ブン口文化から良渚製の玉が出土し、その出土品は時代と共に増加。
大ブン口文化には争乱と破壊の跡が見られる。良渚文化が武力によって北へ侵入した可能性大。
良渚文化はBC2000頃に消滅。洪水層に埋まっている。
夏成立の構成員になったと思われるが、独自行動で夏に対抗する三苗の1員ともなった可能性あり。

2500頃
四川盆地に龍馬古城遺跡(BC2800?)と三星堆文化
調査は1984以降。発掘物はそれまで知られた中国文化とは異質。
崑崙山信仰や西王母信仰の起源がここにある可能性あり。

BC2000頃の沿岸域洪水の影響は受けていない。
玉製品は少なく黒曜石の実用品ないし祭祀用品が多い。
良諸文化との交流をうかがわせる玉ソウも出土しているが質は落ちる。
貝製品にはインド洋で取れるものが含まれる。
このころ雲南から通天河を経てチベット高原を横断し新彊ウイグルから西アジアへ抜ける遊牧回廊があった。
(後に昆明南方にハン王国あり)
このルートを通じての交流の可能性大。
文字は発見されていない。

BC1600頃の建造と見られる城壁に囲まれた都市は南北2キロ、東西1.6キロで殷虚と同等。
天府の国と俗称されており、このころの長江上流域の中心地の可能性大。
住居は柱を建て竹で編んだ壁に土を塗る手法。
屋根は藁葺きと推定。方形と円形の2種あり、円形のものは中心に柱がある。
青銅器はBC1600以降で殷以上の技術を持つ。
金を使った宝杖、青銅の神樹やマスクなどがある。祭祀の中心は太陽神の可能性大。

内部抗争でBC850頃に滅び、新たな勢力が盆地北部の成都に拠点を作る。
これが「蜀」の始まり、東部には隣接して「巴」という類似氏族の国ができる。
このころの巴蜀文字は200種以上でインダス文字(未解読)に類似し殷の甲骨文字系と異なる。
特に印章はインダス印章に酷似。

BC1400頃
洞庭湖やポーヤン湖周辺に青銅器王国登場。
良渚文化や屈家嶺文化に挟まれて衰退していたBC3000頃の山背文化(サンハイ)の地域で1989年に大量の青銅器。
殷周を上回るとも思える内容。
名称などはまだ未定で、出土品の内容は最先端のもので殷の形式と似た部分と異なる部分がある。
また周代初期の武器形式がここからもでているので、西方との関係があった可能性。

トンティン湖(洞庭湖)周辺から出土した青銅器には興味深い特徴がある。
わずかな例外を除き、青銅器が単体で周囲に遺跡などがない山頂、山麓、水辺に埋められている。
深さ1m程度で周囲には細砂や黒っぽい黄土を詰めている。
出土品のうちの多数を占める「銅鐃」(ニョウ:銅鐸類似で舌がなく取っ手がある)は開口部を上にして埋められている。
日本の銅鐸の発掘状況とよく似ているが、こちらも謎となっている。
これら青銅器を所有したであろう人物の遺跡は発見されていない。
この地から発した春秋戦国の「楚」はこの風習を引き継いでいるようで、山東省泰安(泰山南方)でも類似風習がある。

川上しのぶ (c)1999/04

参考文献:
中国文明の誕生/林巳奈夫、長江文明の発見/徐朝龍、古代中国社会/張光直
中国古代史を散歩する/李家正文、日中文化研究各号/勉誠社、史記、他
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