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   きゅっ

 拳を握りしめる音が心地よく響く。
「参ります」
 ざっと足が地面を擦る音。それは耳慣れた闘いの合図にも感じる。
「機甲会正拳流、『青い牙』のヴァルキオル=レイジィア」

 第一章 追撃

 まだ人々の手に夢が託されていた時代。古き良き伝統が息づく世界。
 人間は闘争を繰り返しながら平和を模索し続けることが許されたこの国々では、
 北のサナタラキス、南のデュエルのきわどくもまた調和した平和の中で人々が暮らしていた。
 北の『砦』サナタラキスは王制国家である。
 何年も続いたこの王国は非常に安定した政治を行っていた。
 それは別に珍しいと褒め称える程の事ではなかった。それには非常に簡単でかつ見事な理由があった。
 国民が絶対的な王政に縛られている国家とは違い、ここは『砦』と呼ばれるにふさわしい力を、
 国家以外のものの手に委ねられているためなのだ。
 それがこの国家で最強と言われる傭兵、闘士のギルド『機甲会』だった。
 無論傭兵だが、下手な国家の正規軍を上回る戦力を誇り、闘士の戦闘能力は二人で歩兵一個小隊に匹敵する。
 彼らはギルドとして国家と離れた関係を持って存在するのにはいくつか理由がある。
 武道を究めんとするには政治など俗世の関係を持たない方がよいと言う事と、
 政治に関わった組織は必ず滅ぶという創始者の教えがあったからだった。
 無論彼らには一部彼らなりに国家を憂い、国民を護るという使命感を持っている者もいる。
 それが総てだとは言えないのだが。

  歓声

 石造りの闘儀場に響きわたる歓声の中で立ちつくすように拳を振り上げる青年。
 美しい蒼い髪に白い飾り布が一際映える。
『勝者、『蒼い牙』のヴァルキオル=レイジィア』
 闘儀場のあちこちに仕掛けられた、鎧を積み重ねたような呪法物品の『発振器』が司会の声を拡大して会場に結果を伝えた。
 青年――ヴァルは額に浮いた汗を軽く払いながら石畳の舞台から降りた。
 顔立ちは非常に整っていてその優男風の外見は美青年と呼んでも過言ではない。
 しかし、彼の発する闘気には『優しさ』の欠片をさえ消し去る程の迫力があった。
 いや、彼の場合、闘気ではなく鬼気と呼ぶべきなのだろうか。
「お疲れさん。相変わらずの最強ぶりだな」
 出口に控える青年が彼にタオルを差し出しながら笑った。
 ヴァルはそれに片手を挙げて答え、控え室まで向かう。
「大して疲れちゃいないようだな」
「はは、まさか。今回は相手が闘士だったからな。手加減せずにやったよ」
 相手は少し顔を引きつらせた。
――気の毒に
 それが偽らざる感想だった。
 ヴァルはこのギルドでは一、二を争う腕前を持つ。機甲会内部にはいくつかのランク分けがあり、彼は公開闘士級、傭兵級、伝令級、錬成級の中で最も強いと言われる公開闘士級である。
 これは公開闘儀式に出場する闘士の事で、機甲会の中ではほんの一握りがこれに指名される。
 闘儀式と呼ばれる彼らの闘いは、普段行われる内部の試合だけではない。年に1度、国中から参加者を募る世界規模の大会がある。
 これを公開闘儀式と呼び、他流では闘技を認めて貰うための最大規模のものであり、また機甲会にとって最大の宣伝でもある。
 そしてサナタラキスで唯一の公式な賭博なのだ。
「ヴァル。実は伝言を預かっている。厳重に封をされた奴だ」
 少し、形の良いその眉がつり上がった。
「……分かった」
 青年が差し出した茶色い封筒を受け取ると、ヴァルは手をひらひらさせた。
 ヴァルにとってこの封筒は二つの意味を示す。一つは『指名』の事、もう一つはある重要な指令だ。
 彼は封筒をくるくる回して眺めた。
――フン…
 しかし、どこにも差出人の名前も、国の名前も書いていなかった。そのかわりにたった一言、『元老会』と言う墨の印が押されてあった。
 もう一つの重要な指令のようだ。ヴァルにとって、弱い人間の次に嫌いな指令だった。
 控え室は個室になっている。
 ここは厳正な闘い――闘『儀式』はあくまで『儀式』であり、修行の成果を見せる機会であって野蛮なものではない、という思想である――
 を期するため個室になっているのだ。
 ヴァルはゆっくり封を開けた。中には数枚の羊皮紙と印が入っていた。
 この中で指令が書かれているのはたった一枚、それも半分も紙は使わないのだ。
――相変わらず無駄の多い……
 ちっと舌打ちをして悪態をつきながら肝心の書類を探す。そして、さっと目を通して顔色を変えた。
 まず目を疑ってもう一度見た。それでも信用できず声に出して読み始めた。
「……レイル=シャ=ナクラスの元老会への背信による強制除名を命じる」

 機甲会が巨大な戦闘能力を持っている理由を簡単に説明しておこう。
 彼らは戦闘能力を見せつけるだけではなく、規律の強化を行うことで強力な力を持った闘士の流出を防いでいるのだ。
 機甲会は本来ギルドとしての組織ではなかった。本来『師範』と呼ばれる人間が、彼らの技を護り受け継ぐための自衛組織だったのだ。
 しかし、闘士の数が増えるに従って、それは強大な権力集団と化した。
 それが経営組織『元老会』だ。
 彼らは闘儀式での収入や傭兵としての『商品価値』である闘士の流出を防ぐために、暗殺者集団としての機甲会を牛耳っている。
 だから、彼らからの指令というのは嫌な物が多い。
 暗殺、裏工作、そして刺客。
  ヴァルはもう一度口の中で繰り返した。
――レイルの強制除名…だと?
 強制除名。
 規律違反を犯したか、反乱の意思ありと見なされた場合、元老会は暗殺者を送りこれを葬り去る。
 しかし、こうして彼の元に指令が届いた事には理由がある。
「嘘だろ……」
 レイル=シャ=ナクラスは彼の組み手(ようするにパートナーである。機甲会で傭兵を雇う際に最小単位として二人一組の“組み手”を指定するのだ )だ。
 機甲会で最強の人間を葬るには、最強の人間を用意するより他ないのだ。
 レイルは彼と最強の座を争える実力を持つため、暗殺者ではなく彼を選んだのだろう。
――背信?背信って、一体レイルが何をしたっていうんだ……
 彼は右の拳を思い切り握りしめると立ち上がった。
 機甲会には幾つか区画があり、中央には簡易闘儀場があり、それを囲むようにして四つの修行場がある。
 さらに、その外側にあるやけに立派な建物が元老会の建物である。
 普段は誰も寄りつくことのない御偉いさんのお住まいになられる場所に、今彼は立っていた。
 彼自身一度もここにくることはないだろうと考えていた。
 とりあえずノックをしてみた。簡単な返事があって、彼は即座に名を名乗った。
「……入られよ」
 無愛想な老人の声が聞こえた、とすぐに扉は開き、彼の前へ立派な玄関が現れた。
 執事のような人間がいるが、彼らも修行用の道着を着ている。
「リュエル=サライ様がお待ちだ」
 やはり想像していたのだろう。彼は右拳を左の掌に当てて一礼すると彼の後ろへついて行った。
 執事は無言で廊下の先にある扉まで来ると、龍のレリーフにかかった鉄の輪を軽く摘んでノックする。
「ヴァルキオルが参りました」
 執事の言葉に、奥から低く、そして力強い声が聞こえた。
 その声はとても老人のものとは考えられない程強いものだった。執事はすっと扉を手前に開いた。
「闘士ヴァルキオル=レイジィア、参上いたしました」
 その先は少し広い部屋があり、人一人が使うにはやけに大きな机と、その机の持ち主たる黒髪の、彫りの深い顔立ちの男がいた。
「……はいりたまえ。多分来るだろうとは思っていたよ」
 ヴァルは驚きと戸惑いが顔に出ないように気を使った。
 意外すぎたのだ。
 若い。
 確かに自分よりは年寄りのようだが、彼、リュエルはどう見積もっても五十を越える事はあるまい。
「申し上げます。この度のレイルに対する処分は、いかな理由によりますものでしょうか」
 リュエルは少しも顔色を変えない。
――流石だな、感情を見せねえ
 それどころかヴァルをいぶかしがるように手元の書類を見て、ヴァルを睨み付ける。鋭い眼光は、傭兵のそれにも匹敵する。
 当然、彼らはヴァルの直接の上位に当たる人間ではないが、流派は同じ『正拳流』の人間。過去には何度も戦場を駆けめぐったのだろう。
「確かレイル=シャ=ナクラスとは組み手。そのような疑問もあろう。
……しかし、この度の件、断ればお主にも断固たる処分が下されるであろう。それに関してはどうだ」
 ヴァルはまるで闘儀を行っているような錯覚を覚えた。
 ただ二言三言言葉を交わしただけなのに、精神をごっそり持って行かれる。
――並の腕じゃねえな……分かっちゃいるが
 まさか自分が気圧されるような事があるとは、考えられなかった。
「いいえ。御座いませんが、その理由を教えていただけないのであれば私は動く事はかないません。
…それは御承知かと存じますが」
 組み手に関する規約の事である。組み手同士での仕合いは禁じられているのだ。
 通常組み手は『同じぐらいの腕』の者同士が組む。
 彼らが闘えばどちらかは必ず死ぬだろうし、生き残っても恐らく再起不能だろう。
 リュエルは顔に深いしわを作ると疑いの眼差しを向ける。
「我らは武人でありまた道を究めんとする者だ。肉体だけではなく精神の錬磨なくして我らの闘技は身に付く事あり得ない。
…それに反したからだ。いや、レイルにはその精神はおろか、我々に教えを請う事から間違っていたのだ。
我々はそれに今頃気がついただけに過ぎない。レイルとの組み手は既に我々の方で解消した。思う存分働いてくれ」
「し、しかし…」
「異論あらば、訊こうか」
 急に眼光が鋭くなる。ヴァルは下唇を噛む。
――畜生…
 何故直接答えを聞かせないのだ。
 ヴァルは叫びたくなる衝動を抑えた。何か理由があるに違いない。それにまずヴァル自身に疑いの眼差しを向ける理由も分からない。
――俺は裏切りゃしねえよ、この野郎が
「ありません」
「私も以上だ」
 ヴァルはくるっと踵を返すと苦虫を噛みつぶしたような顔をして部屋をでた。
 レイルの足取りを追う。
 こんな情報伝達の手段の発達しない世界では、離ればなれになった二人が出会う確率は少ないのだが、ある程度の情報が残されている。
 レイルは帰省していた。確か、故郷はここから南に二十日行った所にある大都グラバルネイス。何でも貴族の出らしい。
 ヴァルはとてもそうは思えないのだが、ナクラス家と言えばかなり有名な侯爵家だと言われている。
 最も、彼の先代――早い話が親父だ――が財産を食いつぶしてもう貴族とは言えないのだったが。
――前に会ったのは……もう一月以上前か
 いつものように家に帰ると言って出ていったのだ。別にこれと言っておかしな所はなく変わった様子もなかった。
 ということはこの一月の間に何かあったのだろうか。
 手続きを済ませて彼は機甲会を後にした。
 おもしろい事に機甲会の闘士は特別その行動に規制されたものはない。呼ばれた時に言うとおり帰ってくればそれでいいのだ。
 ただしこれには条件がある。伝令級の闘士による『見張り』があり、彼らと定期的に連絡を取らねばならないのだ。
 そして、彼らと連絡が途切れたとしても、何らかの手段で自分が生きている事と所在地を連絡する事だ。
 また年に一度納める金についても同様だ。これは彼らの自由な修行に決して規制の枠をはめないという考えかららしい。
――一月以上かかるだろうな
 大都グラバルネイスは首都に並ぶ巨大都市だ。
 ここヴォア=ラ=ダール大陸を南北に縦断する舗装された交易路にそって幾つか都市があり、最も北からリグスタニア、グラバルネイス、ファ=ソリアン、ケレニフェイスと続く。
 首都リグスタニアは静かな城下町で、グラバルネイスは交易都市、後は大都とは呼べる程も大きくはない。
 グラバルネイスの側には、平地に土を盛り上げたような奇妙な山がある。元来平原の続くこの大陸では山や山脈は北方ではほとんど見かけない。
 南の、中央部に位置する部分に巨大な山脈があるのだが、それ以外には山と呼ばれるような物はない。
 ヴァルはとりあえず門をくぐった。
 巨大なこの門には衛兵も、何の警護もつけていないのはここが交易中心の都市だからだろう。
 開放的な雰囲気はこの中にまで浸透している。事実独立都市と呼べる程自治の発達しているのはここぐらいなものだろう。
 自警団が商人達の間で結成されていてまずもって勝手な真似はできない。そして、彼らの力で護られた自由な商売を、この通りの中で実現している。
 この街の中であればどこの馬の骨とも分からない人間であれ店を開いて商売ができる。
 そして、それがどこの誰であろうと自警団の庇護化におかれ、また自警団に参加せねばならないのだ。
「よぉ、そこのおにーさん、おいしい果物いらない?」
「お肉がやすいよ。今日はすぐそこの森で取れた猪の肉がお買い得だよ」
「干し魚はいかがかな。こいつはこの辺じゃここしか売ってない一品さ」
 あちこちから聞こえる威勢のいい声。
 ヴァルはこんな雰囲気の中にいた事がなかったせいか、あまり好きではない。いや、むしろ嫌いな方だろうか。
――……思い出しちまうぜ、こんな所にいると
 彼は睨むように辺りを見回した。ここには多分ないだろう、あの場所を。
 ふと彼は自分の周囲に気配を感じた。
 闘士は体を鍛えるだけではなく、体の内部に深くしまい込まれた力を引き出す術を手に入れている。
 本来は人間は、体という邪魔な物がなければもっと自由な力、根元たる波導を引き出せると言われている。
 そのために体に穴を開けて力を引き出すのが俗に言う術者、呪法師であり、
 自分の肉体を鍛え上げ自由に操作できるようにする事で、それをある程度使いこなすのが闘士である。
 彼らはそのため、周囲に『気』という、呼吸によって生じる筋肉の『波導』に敏感なのだ。
――これは
「レイル」
 彼はふっと顔を向けた。そしてそこで、思わぬ物を見てしまった。

 絶対に名前を呼ばれても振り向くまい。そう堅く誓ったはずだった。
――ばれちゃまずい。できる限りばれないためには、ごまかすしかない
 しかし、懐かしい声に思わず振り向いて、目を合わせてしまった。
「……れ……れいる?」
 ヴァルは間抜けな声をあげた。
 そこにはあの少しきざっぽい表情を浮かべた、顔の右半分を長い前髪で覆った、童顔の青年
 ――まだ少年と言うべきかもしれない――はいなかった。
 代わりにそこにいたのは少年のように飾り気のない質素な服装の、少女だった。
「え?どこ?」

  すぱこーん

 ヴァルは思わず少女の頭を思いっきり殴った。
「ふざけるな」
 頭を抱えて目に涙を浮かべると、恨めしそうにヴァルを見つめながら彼女はゆっくり口を開いた。
「ふんだ。…でも、ま、お前を誤魔化せるとは思っちゃいなかったさ、ヴァル」
 そう言うと彼女――多分間違いなくあのレイルだろう――ははにかんだ笑みを浮かべる。
 ヴァルはまだいらついた表情を浮かべている。
「ふざけた格好しやがって、お前、一体何のつもりだよ」
 ヴァルの言葉に、髪をあげて後ろでまとめた少女は眉をつり上げる。
「……悪かったわね。僕はおんなだったんだよ」
 ヴァルはあんぐりと開いた口が塞がらなかった、いや、塞ごうとしても塞ぎきれなかったのだ。驚きの真実に直面した時、人は思わぬ行動に走るという。
 ヴァルも例外なくそうだった。かくんと外れた顎を両手で一生懸命戻して続けた。
「だって、お前、それじゃ、あの、だから、」
 彼はもう既に何を言っているのか自分でも理解できなかった。
 その様子にレイルは嬉しいのか可笑しいのか、笑いをこらえながら腰に手をあててため息をつく。
「なぁ、とりあえず久々に酒でも飲みながら話しねえか?ここの酒は結構美味いぞ」

 グラバルネイスには子供でも飲めるという桃から作られるメルゥヲ=シィル、木の実の香りが独特なギル=ドゥムという地酒がある。
「メルゥヲ=シィルは軽いし、女性に人気があるらしいがお前には向かないな。ギル、飲んでみるか?」
 ヴァルは肩をすくめる。
「濃いなら俺は構わねえ。強い酒じゃねえと酔えねえからな」
 レイルはにやっと笑うと給仕を呼んで、簡単に注文を済ませた。
「……まずお願いがあるんだ。……ここでは余りつっこんだ話はやめてよ。
重要な件は全部まとめて後で聞くから。せっかくの酒が不味くなる」
 ヴァルは軽く目を閉じると頷くように頭を垂れる。
「ああ。お前がいなかった間にも色々あったしな」
 レイルはぱっと表情を明るくした。
 酒を飲んでいる間、別に違和感はなかった。
 せいぜい、前髪がない事が不自然に感じるだけで(やけに額が広く感じる)、レイルはレイルだ。
 酒には弱いし(これはヴァルが強すぎるだけだが)、飲み過ぎると切れそうになるくせも変わっちゃいない。

「あぁあ?何だって?もう一度言ってみろやっ」

  ドン

 卓が揺れる。目が据わったレイルはグラス片手にヴァルの目の前にまで身を乗り出している。
「ちょ、ちょっとまて。な、俺は別に……」
「んぁ?んまぇ、まだ酔いがたりねぇんだよ。ぁかってんのあ!」
――こいつの絡み上戸、誰か何とかしてくれよ、もぉ……
 レイルが自分のグラスをヴァルに強引に手渡すと、自分の持っている瓶を傾けた。
 以外にもグラスの縁ぎりぎりに注ぐとにっこり笑って肘をつく。
 こんな表情をされれば飲むしかないだろう。
 ヴァルは少しの間ためらって口を付けた。そして、その香りに目を回す。
「おい、こいつはギル=ドゥムじゃねえか」
 確かつい先刻までメルゥヲ=シィルを飲んでいたはずなのに。
 レイルはぎらりと目つきを変えると思いっきりヴァルの頬をぶった。
「はっはははは、そんなこと言いっこなしだよ、大将」
 だめだ。こいつにこれ以上飲ませれば間違いなくここで大暴れして死人が出る。
 ひりひりする頬をさすって彼はそう思った。
 ヴァル一人ならばまだ何とかなるが、酒乱のレイルを普通の酒場で飲ませるのは危険だ。
 よく考えてみよう。何も考える事なく襲いかかる酔っぱらいに、もしナイフを持たせたとしたら。
 死人の一人や二人、絶対出るだろう?レイルはそれを上回る破壊者だ。
「あ、ああ。レイル、そろそろ出ないか?部屋でゆっくり飲もう」
 一瞬訝しがるように睨むが、すぐにころっと笑う。
「あ?んじゃ、そーしよーか。んぁ、僕の部屋、この宿じゃないんょ。出よ」
 椅子をがたんと転がしてふらりと立ち上がる。ヴァルは慌てて椅子を起こして、レイルを支える。どうせいつもの事だが。
「……あっち」
 力無く彼女は指を指した。
 彼女の指した方向にあった宿は簡易宿舎だった。
 彼女はすぐにここを引き払うつもりだったのだろう。宿の親父はにやにやしていたが、気にしなかった。
「こいつの部屋はどこだ」
「ひっひ、その先さね。ここは小さいからね、移った方がいいんじゃないかい?」
 ヴァルは親父を無視すると彼女の部屋に入った。
「むにゃぁ……ありがとお」
 手加減なく肩をぱんぱん叩かれてあまりいい気持ちになるはずない。
 ヴァルはむっとしてレイルを睨む。
「あはあは@ごめんね」
 彼女をベッドに降ろすと、部屋の端に置いてあった椅子をとって座る。
「ふう」
 ヴァルが一息つくと、レイルはベッドの横で何かごそごそ始めていた。
「レイル?」
「さて、続き続き」
 じゃん、とか言いながら瓶を見せた。ヴァルは思わず呆れ顔を作る。
「なんだ、お前まだ飲む気か?」
「何言ってんだ。僕ら二人で樽三つ開けた事があったろ?」
 事実である。無論、樽二つまではヴァルだが。
「……あの時のお前、再現するつもりか?」
 その時、代償として宿が一件崩壊した。
 親父の言うとおり、ここを出ないと恐ろしい被害が予想される。
「え?へへへ、だーいじょーぶ。ほんなにないもの。せいぜいこれ二本だよ」
 言いながら小さな卓にグラスを二つ並べて注ぎ始めた。
 それ程大きくない皿を出すとそれに木の実やらなにやら、つまみを並べる。
「……じゃ、いいよ。まず乾杯しよーか」
 すっと差し出したグラスに、ヴァルはグラスをとって軽くつける。ちん、と小さな音が部屋の中に響く。
 二人とも軽く口を付けて、酒を口に含む。
 しばらく二人とも無言だった。
「レイル…」
 ヴァルが口を開くのを見て、レイルは手を挙げて制する。
「まず僕から、言うよ。……どうせ上の方から聞いてんだろ?」
 先刻までの雰囲気が一変していた。レイルの目が落ち着いた光を灯し、その内側まで見えそうな程澄んだ。
 まだ顔は赤いが、酔いが急にさめたみたいだった。
「ああ」
 ヴァルは頷いてグラスを軽く傾ける。レイルは目を伏せてグラスの中の液体を揺らしている。
「……僕は、強制除名だろ?」
 ヴァルは無言で頷く。
「何をしたんだ?……いや、違うな」
 機甲会に背信、こう書かれていなかったはずだ。確か元老会に背信とあった。
――そうだ。……レイルの奴…
 彼女は頷いた。
「多分、ね。…僕、この間伝令級の闘士を殺っちまったんだ。それも、仕合いじゃないんだ。個人的な理由だけでね」
 無論、仕合いでの死亡は何も問題ない。
 それが私闘であったとしても、互いが望み互いが仕掛けた物ならば良いのだ。
 ただし、卑怯な殺し方やただ殺すための行為は非常に重い罪を与えられる。
 機甲会の、果ては闘士の志を汚した、として。
 それも強制除名の対象になる。レイルはグラスを一気に傾けた。
「……でも、我慢ならなかったんだ。…我慢できなかった。それに、怖かったんだ。あいつに…僕が女性である事がバレて、ね」
 無言。再び沈黙が部屋の中に満ちた。薄暗いランプの光がゆらゆらと揺れて、複雑な陰影は二人の間で踊る。
「…でもさ、遅かったのかな」
「何が」
「奴…伝令を殺した事さ。……僕の強制除名、どういう理由だった?」
 ヴァルは首を振った。聞きに行ってもはぐらかされたような返事しかもらえなかったからだ。
 しかし、今の彼女の言葉を聞いてつながるものはあった。
「多分、性別を偽った事だろうな。きちんとした理由は聞けなかった。…よく分からねえけどよ。
もし殺しが内容だったら教えてくれるはずだしな」
 レイルは頷いた。
「元老会直々の、除名命令だった。俺に、お前を殺せと言う」
 はん、と半ば馬鹿にしたような、ため息ともとれる笑い声を上げた。
「名誉ある殺され方を選べない訳ね、僕は。……別に……それじゃ、わざわざこうしていてもばれる時はばれるんだ。折角…」
 レイルはまた黙り込んだ。ヴァルはかける言葉が思いつかなくて、しばらく口をつぐんでいたが我慢できなくなって言う。
「なあ。どうしてわざわざ男として機甲会に入った。女だったら女として入ったって変わりゃしねえだろ?」
「僕が無理してるみたいに見えたのかい?」
 レイルは顔を上げて寂しそうな笑みを浮かべた。
「僕は根っからこういう奴さ。親父のせいで貴族にはなれなかったし、借金がたまってたから、自分の身を守るには女じゃだめだったんだ。
たとえ子供だとしても、僕は自分の身を守るには女である事を隠さなきゃいけなかったんだ」
 ヴァルが割り込む暇もない。次々に彼女は言葉を紡いだ。
「でも機甲会に入る時は確かに迷ったよ。あの時はまだ十二だったけれどね、ばれたらどうなるか分からなかった。
でも世の中の男女の差を見て見ろよ、な?女性の騎士がいるか?女性が王に仕えるのはどうしたらいいか知っているのか?」
 段々言葉に怒気が混じり、声が震えてくる。
「僕は、僕は……だから、僕は男の道を選んだ。…子供だったのにね」
 伏せた目を少しだけ上目に上げると、口元に笑みを浮かべヴァルを見返すようにする。
「…実はさ。あのね、ヴァル。僕が女だって事、ヴァルには言うつもりだったんだ、近いうちに」
「どうして?」
 レイルは少しだけ笑うと肩をすくめて見せる。
「ふふふっ、機甲会をやめようと思ったのさ」
 空になったグラスを卓に置く。レイルはそれにさらに酒を注ぐ。
 ヴァルは無言でグラスを受け取ると、それを一気に開けた。
「…ヴァル。これ以上は会わない方がいいね。僕は元の格好に戻るよ。それから、また来てくれ。
 レイルは自分の両の手を顔の前で合わせて指を絡める。
「……今日は楽しかった。ありがとう」
 そう言って彼女もグラスに残した酒を開けた。それを見届けるとヴァルは立ち上がった。
「送っていこうか?」
「俺はまだ宿をとってないからな。まだ開いてそうな所を探すさ」
 レイルの表情に寂しさが浮いた、と思ったのはつかの間、すぐに彼女の顔は視界の外へ消えた。
 そのままヴァルはノブに手をかけると扉を開こうとした。

  とん 

 両肩に重みを感じてヴァルは立ち止まった。背中にあった気配が急に背中の温もりに変わる。
 彼の背に、レイルが抱きついていた。
「……一人で怖かったんだ…ありがとう、こうして会えて良かった」
 今にも大声を上げて泣きじゃくりそうな気配に、ヴァルは自分の胸に回された手をつかむ。
「……明日にはお前を殺すかも知れない奴だぜ、俺は」
 以外にもくすくすという笑い声が聞こえた。少し彼女が動くのが分かった。
「そうだったな。でも、“かも知れない”だからどうなるか分からないよな」
「…俺も自信がねえのさ」
 レイルが背中から離れる。ヴァルはもう一度振り向いた。レイルは恥ずかしいのか背を向けていた。
「じゃぁな」
 ヴァルは手を振って部屋を出た。もう一度振り返る気にはなれなかった。

 宿の天井は低い。見つめていると段々気分が悪くなってくるぐらいに。
――元老会…の意向、か
 酒が今頃回りだした。頭の中をこねくり回しているような変な気分だ。
――俺は…
 元老会が暗殺をし向けるに十分な理由がある。もうレイルとは敵同士で考えなければならない。
「レイル……」

 複雑な気分だった。つい最近まで何も考えなくても、自分の行動になんら疑問はわかなかったと言うのに。
 “男”を演じる事になんの疑問も抵抗もなかったはずなのに、あれ以来。
――どうしてこんなに……大人になるって事なのかな
 それは不安でもあり、期待でもあるような気がした。
 ヴァルに一ヶ月ぶりに会って、もう戻れないのだろうと想像できた。
 しかし納得できない部分はあった。
 自分に自分を護る以上の力を持っていると信じる事はできても、自分が今までに歩んできた道を簡単に否定はできない。
 彼女は、『彼』だったのだ。
「どこまで行っても、おんなは女でしかないのかな」
 いや。
 性別を言う前に、女である前に人間だ。
 人間である前に、命を持ったものだ。
 それがどれだけ正しいことだとしても、生まれて初めて感じた感情には戸惑いしかなかった。
 それが自分を意識させる事になると理解できた。
 させられたのだ。彼女はまだ十六、それも仕方のないことだった。
 死ぬのは簡単だ。自分の力であればほんの少し力を加えて喉をかっ切ればいいのだから。
「どうしたらいいんだろう」
 部屋の中には煤の匂いが充満し、薄い暗がりという布きれを引き裂く星灯りが窓から差し込んでいた。
 白い月と黄色い月は仲良く並んで東の空から光を放っていた。

 空を切り裂く音が彼女の耳元を深く抉る。
 頬に赤い筋が走り、耐えきれなくなって溢れ出し、頬に涙のような紅い跡を残す。
「いりゃああっ」
 気合い。
 相手の拳を寸前でかわし、同時に攻撃を叩き込む。
 これは常套手段だ。闘士の場合その速度と反応が尋常ではないだけで、結局普通の格闘と大差ない。
 特に闘士同士ではそれが言える。
 ただ、レイルが中距離型闘士、ヴァルは接近戦型闘士でタイプはかなり変わったスタイルになるのではあるが。

 ヴァルは都市の中央通りに面した公園にいた。
 ただぽつんと座って、じっと空を見上げていた。
 蒼い髪が風に揺られ、ゆっくりとなびくのを感じながら、彼は果てのない碧を瞳の中に封じ込めていた。
 レイルがそれを見つけるのは簡単だった。宿から出て、ほんの少しだけ歩けば良かった。
――ヴァルの気配がする
 彼は気配を断っていなかった。
 ヴァル以上に気配に強いレイルは、それを敏感に感じ取っていた。
 昨日のように、ふいをつかれはしない。
「播っ」
 上段周転脚。だがヴァルはそれを悠々とよける。
 当然。
 レイルは凄みのある笑みを浮かべた。切れるような刃の輝きにもにた鋭い口元。
「ぐっ」
 レイルは素早く腕を引き込み、一気に体を捻ってあげた足を、そのまま軌道を変えてヴァルに叩き込む。
 ヴァルが反応する前に素早く後ろへ、背中から回転して飛び退く。

 レイルが現れても彼は背を向けたままだった。
「来たな」
 悠然と振り向いて、笑みすら浮かべずに彼は言った。
――ヴァル…
 レイルの表情も決して仲間に対して見せる表情ではなかった。
 長い前髪を顔前面右半分に垂らして、細めた目には威圧させるものを感じるような“力”を見せていた。
「……ここでやるのか」
 その声も、既にいつもの声に戻っていた。
「元老会からのお達しだ。機甲会正拳流『蒼い牙』ヴァルキオル=レイジィアの名において、お前を強制除名する」
 彼はそう告げると、何かをレイルに向けて投げつけた。
 張りつめる気の膨れ上がる感覚がする。
 レイルがそう思った時には既に、体を丸めて着地したレイルの真上にそれが移動する。

  炸裂

 怒号と波導の干渉が全身に駆けめぐる。
 それは全身が悲鳴をあげているようにも思えた。レイルがその気の塊に対して練り上げた気をぶつける時、ヴァルの技も同時に繰り出されたのだ。
 それはレイルの知らない大技だった。
 再び間合いを開ける二人。
 しかし、決して遠くなく近くなく適度な間合いを保つ。
 これ以上離れればレイルの方が先に攻撃を与えられるが、これ以上近づくとヴァルの踏み込みの方が早い。
――やっぱり本気で殺るつもり……か
 レイルは両手のしびれを感じながら、ヴァルの『殺気』のない攻撃にも手抜きがない事を確信した。先刻の攻撃は組み手のレイルにすら隠していた大技だ。
――出すしかないな
 さもなくば、自分が殺られる。

 それは、籠手だった。自分の鎧の一部である、機甲会の専属闘士が身につける、黒い青緑鉄でできた籠手。籠手を叩きつけるという決闘を申し込む儀礼もあるにはある。が、その籠手は左手の籠手で、それを隠すように白い布が巻き付けてあった。
 それも血で一部が真っ赤に染まっている
――これはヴァルの…頭に巻いてある飾り布か…
 それは闘士が行う儀礼の中でも、親愛を込めた別れの儀礼だった。通常、遠征に行く時に恋人や家族に渡すもので、師範や弟子には決して行わないものだ。
 何故ならば師範や弟子には『必ず帰ってくる』と言うのが普通なのだから。
「分かった。挑戦状は確かに受け取った」
 レイルはそう答えた。

 彼が本気なのは理解できる。もう別れは済ませたのだ。しかし、レイルの手には力が入らない。気を練り込めてもそれが霧散するように、実体をなくしていく。
――勝てない
 その隙をついたヴァル。
 一気に間合いを詰められた。既に彼の掌には目に映る程の歪みが浮かんでいる。
「咆吼拳っ」
 だが彼の技が炸裂した時には、レイルは真後ろにいた。
 真横から感じた衝撃に、弾けるように体を捻るヴァル。
「ぃあああああああああああっ」
 レイルの左手が空を裂く。
――念影功か
 念影。これは意識を高める事でその空間に気を残し、残像として気配を残す技である。
 これ自身は相手の気配を読んで体に攻撃させる、戦闘本能を使って闘っている高位の闘士同士でなければ用いる必要のない技だ。
 と、同時に気配を背後に現したレイルから衝撃が来た。次いで左側の肩胛骨の下に痛み。
「くっ」
 ヴァルは最初の衝撃に身を任せて体を流して再び間合いを取り直そうとした。
 が。
 正面を向いた彼の目の前にレイルがいた。それも、両手を引き絞り、既に技を撃つ体制になっていた。
「があああああああっ」
 咆吼。
 しかし防ぐ術はなかった。
 体の中を貫いていく気の拳が、痛みとは別のものを与え、そして食らっていくのを確認しながら彼は後ろへ弾けた。

  ずど

 肺の中に入っていた空気が思いっきり吐き出されるのが分かる。
 背中に走った痛みは、直撃した部分から頭と足の先へと電流が流れるように伝わる。
 彼は血反吐を吐いた。

  ざくざく

 草を踏む足音。ヴァルはそれに気がついて顔を上げる。
 レイルが眉尻を下げてヴァルを見下ろしている。
 ヴァルは大木に背を預けて座っているような格好になっていた。
「……もうやめよう」
 レイルは苦しそうに呟いて彼の真正面に立っていた。
「やめよう、か。それは勝者の傲慢か?それとも、敗者の命乞いか?」
 呟くとヴァルは体を無理矢理引き起こした。
 めきめきと木肌が音を立て、ヴァルの背中からだらりと黒い血が流れる。
 ヴァルとレイルは拳一つも離れないほどの近くで、顔をつきあわせた。
「お前と俺は共に最強を名乗れる力を持っていたよな。…いつお前の方が強くなったんだ。ふざけるなよ」
 裏拳を横っ面に叩き込む。無言で地面を転がるとレイルは急いで立ち上がった。
 ヴァルの表情は怒りこそなかったが、厳しい表情を崩さない。
「俺達は組み手同士さ。実力は伯仲、だからこそ組み手同士の仕合いは禁止されているはずじゃねえか。違うか?」
 レイルは複雑な表情を隠そうともしないでヴァルを見つめている。
「……だけど」
「話し合いは無用だ」

  ぶうん

 大木を振り回すような音に、レイルは慌てて左腕で受けを取る。

  金属と金属の打ち合う音と干渉音

 同時にレイルは間合いを取ろうとして後ろに下がる。が、ヴァルはすぐさま間合いを詰め直す。
「吻っ」
 ヴァルの打ち上げるような突きを繰り出す。が、それを体を沈み込ませて紙一重でかわすレイル。
「りゃあっ」
 レイルが反撃に反応する前にヴァルの二撃目がレイルの横っ腹に直撃する。
 初手(初めに習う技の種類で、普通基本技を指していう)の技では大技に分類される鉈刃脚が入ったのだ。
 鉈刃脚は臑当てのある部分で蹴り込むのでかなり打撃力がある。レイルは体をくの字に折り曲げてよろめくと地面に転がった。

  ひゅう

 地面を駆け上がって来る風がレイルをなでる。
 近くに崖がある、そう確信した彼女は慌てて両手を踏ん張ってそれ以上転がるのを防ごうとして、立木に何とかつかまる。
 ヴァルは容赦なくさらに踏み込んで、今度は左足で崩れたレイルの頭を狙って繰り出した。

  ばし

 砕け散る音。湿った音がレイルの耳元に届いて、彼女は目を上げた。
「…貴様」
 ヴァルは睨み付けていた。蔑むような目ではなく、強い光を宿した瞳で。
「今の一撃は受けられたはずだ。手を抜くんじゃねえ」
 怒号ではなかった。
 やはり力強い声。
 それは自信と信念の裏付けがあって初めて感じさせる事のできるもの。
 レイルは頬を少しだけ緩めて呟く。
「…死合いはもう始まってたんだったな。…悪い。やっと目が覚めたよ。もう一度仕切り直そう」
 そう言って立ち上がった彼女、いや、彼はいつものあの笑みを浮かべていた。
 二人は街を出ると山の上へと登った。以外に険しい山の頂上付近で、彼らは向かい合って構えた。
 そして今再び、彼らは構えを取ると叫んだ。前よりも決意の籠もった声が、再び。
「機甲会正拳流、『蒼い牙』ヴァルキオル=レイジィア」
「機甲会正拳流、『漆黒の悪魔』レイル=シャ=ナクラス」
 二人の構えはちょうど鏡を映したようにそっくりな型だ。顎の型牙の構え。
 これは接近戦を主にする闘士が使うものでレイルには本来向かない型なのだが、彼らの師匠であるガズ=アが最も得意とした構えだったのだ。
 それでレイルはこの構えで最も得意とする闘いを覚えたのだ。そのせいか中距離型の割に殴り合いを好む珍しい高位闘士と言われている。
 ヴァルも、自分とは闘いの質が違う事には気がついていたが、元々人について文句を言わない性格で考えたことがなかった。
 しかし今思えばレイルの負けず嫌いが、ヴァルと同じスタイルを望んだのだろう。
「参るっ」
 二人は同時に叫んだ。
 二つの牙が、真っ向から衝突する。 
「りゃあっ」
 レイルの右拳を左の掌で外へ弾く。
 それを読んでいたかのようにまっすぐに襲いかかる右足を体を捻ってかわす。
「吻っ」
 と同時に右足で周転脚。だがレイルは右踵でヴァルの足元を狙いながら見切る。ヴァルは転がるより他なかった。
 体勢を立て直すヴァルの目に構えを取るレイルが映る。
――ちっ
 舌打ちをしながら彼は内心ほくそ笑んだ。
 強引に体を捻るヴァル。レイルの脚がヴァルの耳元をかすめる。

  気合い

 ヴァルの右の掌が歪んだ。衝撃波がレイルに襲いかかる。
 咆吼拳は彼の必殺技で、掌の中央に気を収斂させて、炸裂させるものだ。鍛えていない人間だったら上半身を消し飛ばす程の威力を秘めている。
 しかしもちろん、レイルにはそれ程もダメージは与えられない。軽くのけぞる程で、体勢を崩す程ではない。
 その隙に体を起こすヴァルだが、まだレイルの猛攻は続く。
 右
 左
 次々に襲いかかってくる脚を掌で弾くように流すと体を半回転させて横に振る。
 体軸が地面に水平になると、レイルの頭の真上からヴァルの左足が襲いかかる。
 体を半身にさせてすんででかわすレイル。
 ヴァルに脚で反撃を試みるが、ヴァルは伸びてくる脚を右手で受けると、それを利用して逆に体を引き起こしながらその脚を引き込む。
――正拳流組術、『疾風』。
 正拳流は打撃主体の武術だが、初手において強力な投げ技と間接技を持っている。
 これは正拳流だけではなくこの『闘士』という存在が最強であるために、総合武術として発展している証拠である。
 ヴァルは左の肘でレイルの太股を押さえるようにして地面に崩し、勢いをつけて彼の喉元めがけ手刀を突き込む。
 即座にレイルは右手で弾き、今度は彼が左手で手首をつかんで、右掌で肘へ一撃。
 ヴァルはレイルの上に折り重なるように倒れ込む。

  どん

 レイルは彼の腹部に置いておくように膝を立てて入れる。
「これでどうだっ」
 レイルはさらに彼の首を抱き込むようにして右足で腰を蹴り上げる。組技でも危険で、かける条件の限られる技『巴折り』である。
 投げや間接技と言うよりその親戚に近い。首を抱きしめるようにして、密着状態から腰を蹴り上げて首を折るのだ。
 しかし、これは本来立ち技。寝た状態では蹴った後に体重をかけて首折りに繋ぐ事はできない。

  づん

 そして、正拳流において初手にしか投げ技の類がないのだが、その理由は明らかだった。
 レイルの鳩尾にヴァルの掌底が沈んでいる。
 二人はさっと間合いを切り直した。
 高位闘士には投げ技や間接技に持ち込んだ途端、致命的な打撃力を持つ最接近攻撃を打ち込む事ができる。
 投げる暇さえ与えないのだ。
 肩で息をしながら出方を伺う。ヴァルはもう構えを取っていない。『無構え』が彼の基本形なのだ。
――そろそろ…限界だな
 ヴァルは思った。かなり出血したせいで体力がすり減っている。
 これ以上続けられるかどうか分からない。相手は今までに仕合った連中より遙かに強い。
 レイルは構えを崩さずに間合いを切った。
 ヴァルが動く。
 レイルの体が一転して後ろへと仰け反るように跳んだ。と、刃がヴァルめがけて走った。
 レイルの必殺技、斬刃脚。
 中距離間合いに、呼吸と筋肉の躍動から生まれる波導を伝え、破壊力に変える。
「やあっ」
 ヴァルがそれをうち消そうとして右手を引く。
――今だ
 レイルは両足で着地すると、一気に間合いを詰めて両手を引き絞った。
「吻」
 しかし、ヴァルの姿はなかった。その気合いは、上方から聞こえてきた。
「しまっ…」
 斬刃脚を防ぐために念を込めたように感じたのは、ヴァルの念影巧だったらしい。
 ヴァルは既に膨大な気を抱えて構えたまま宙に舞っていた。もうレイルには防ぐ手段はない。
「龍戟咆吼爆裂衝」
 衝撃。
 レイルは先刻来た技が、全くの干渉なしに襲いかかったことに気がついた。
 全身の骨がきしみをあげていく。
 全身の気を一気に反発させるが、咆吼拳とは比べものにならない衝撃に感覚が失せていく。
 耐えきれない。
 地面から足が浮いている。
「え」
 体が後ろへと流れる。足を動かすと、何かが引っかかったような気がした。
 が、すぐに何の感触もなくなる。背中から風が吹き付けてくる。
――ああ、落ちるのか
 何の感慨もなくただ理解した。
 無意識に手が伸びる。
 空をつかんでさらに体は引き込まれていく。
 実際には体が漂っている感覚があったのはほんの少しだった。
 ヴァルが着地する前に、技が地面さえ飲み込んでレイルを襲ったのは分かった。
 自分の目の前でコマ送りのようにゆっくりと地面を失った体が浮くのを見て、さらに地面を蹴っていた。
「レイル」
 崖がレイルを飲み込もうとしていた。
 レイルの体を抱き留めたところで、自分の足下も崩れた。
「くっ」
 ヴァルは左手を伸ばして崖につかまろうとしたが、もう手の届くところには何もなかった。
 ただ眼下に広がる緑が見えるだけだった。
 後悔はない。

  きゅっ

 レイルが服の背中を握りしめるのが分かった。ヴァルはレイルの頭と肩を護るように腕できつく抱きしめる。
 長い間、何もない空中に浮いているような気分だった。だんだん大木が近づいてくるのがまるで嘘のような気分だった。

  ざっ ざざざ

 ヴァルは全身に力を込めて、腕の中のレイルを護るように自分から幹に体をぶつけた。
 一度衝撃を吸収したようにも感じられたが、不安定な彼らはそのまま枝をへし折りながら下へと落下を続ける。
「ぐっ」
 太い枝が折れずにヴァルの横っ腹を打ち付ける。
 腕の力が緩んで、レイルが投げ出される
「れっ」
 その枝を滑るように回ると、ヴァルは背を地面に向けてさらに落下を続ける。

   どさ

 泥と落ち葉を跳ね上げて、彼は山肌へ打ち付けられた。
――レイルっっっっ
 しばらく勢いに任せて転がると、近くの木にぶつかって止まった。
 レイルの姿は、あっという間に見えなくなった。

 レイルは体の感触があるのを確かめて、顔を上げた。
「ヴァル」
 だが、彼女の周囲に気配はない。
「ヴァル」
 立ち上がって林の中を見回す。昼尚暗いこの林の中にいるはずなのだ。
 つい先刻まで自分を抱きしめていた感触が残っている。
「ヴァルっ!」
 叫んで、自分の頭上を見上げる。
 もしかして、途中でどこかに木に引っかかったのかも知れない。
 だが、彼の姿はどこにもなかった。
「ヴァルーっっ」

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