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闘2
 公開闘儀式の章

「何故拳を作る?」
 名誉あるそれは、彼らの信念である。
「何故闘いを求める?」
 力を求め、栄誉を称え、そして人々は、人々を喰らい尽くすためだけに。
「何故拳が疼く?」
 公開闘儀式と呼ばれるその儀式は、大陸の北『砦』と呼ばれる国家の首都において執り行われる。
「それを知らずにこんなくだらない事をしているというのか?」
 そして、今から3年前、全世界の人間が注目するこの闘いの儀式において重要な事件が発生した。

  それが、決勝戦における『訴え』だった。

 公開闘儀式は言うに及ばず、普段から行われている闘儀式は闘士をまとめているギルド、機甲会の重要な収入源となっている。
  これは何も不思議なことではない。運用資金を稼ぐ手段のない機関は存在せず、利益なしに大きな組織を動かすことはできない。
  時折それが暗い部分となるのは否定できない事実である。
  しかし彼らに逆らう事は不可能であり、それを実行したために追放された者がいた。
 

「お前がこんな闘いを続けるのは間違っている」
 跳ね起きる。
 大きな音を立ててまくれ上がった布団が、窓から差し込んだ日差しを横切ると床に大きく広がる。
 一度大きくしゃくるように息を吸い込むと、ベッドの上の女性は思い詰めたような表情を浮かべ、自分の片膝を抱きしめるようにする。
「ガレヴィ…」
 そこは女性らしさの感じられない石造りの部屋。
  簡素なベッドと机が一つ、ランプが壁に備えられているがまるで牢獄のようにも見える。
  女性だというのに彼女の身体はあちこちに傷跡があり、手足にはまるで包帯のように布をぐるぐる巻き付けている。
――だめだめ、まだ始まってもいないうちから…
 ここは公開闘儀式専用の控え室である。公開闘儀式は十三日で全て終了する。
 そして、全て勝ち抜きで勝敗を決める。最後の日には恐ろしい数の戦いをこなして決勝へと進む事になる。
 それだけに選手の健康管理は大変なものだ。もし病気などで倒れたりなどすれば大混乱が生じる。
 そんな中で機甲会の闘士は非常に強力な力を持っており、ここ北方では最強の代名詞とも言えるのである。
 公開闘儀式は、普段行われている闘士同士の闘儀式とは違う。
 『公開』の意味は、あらゆる戦闘能力を持った人間の参加を認めると言う事で、
 結果としていかに闘士が最強かを知らしめるためのものに過ぎない。
 無論、それを阻むために腕自慢の強豪が世界中から集まってくる。
 彼らとの『正々堂々とした』闘いを期するための機甲会の配慮が、決まり事として存在する。
 まず儀式は最低条件が存在する。過去何回か行われた中で数回その内容に変更があったが、大きく変わっていない。

1.十五歳以上の独身。性別は不問、親元を離れている事。

2.闘士にはハンデとして鎧を身につけさせない。

3.人であること。化物(けもの)は原則として認めない。

 そして、これらを満たした上で参加するのだが、さらに試合中に課せられるものとして、次の五つが上げられる。

1.選手の私闘の禁止。ただし、正当防衛を除く。

2.機甲会の闘士の退出禁止。指定の部屋にて生活する事。

3.時間の厳守。いかなる場合においても試合に間に合うように行動する事。

4.いかなる武器・武具の使用も禁止しないが、武人として最低限の礼儀を守る事。ただし闘士の鎧はこれを除く。

5.以上の点において、違反が認められた場合は即刻敗者としてここを去らねばならない。

  以前に、傭兵によって相手を足止めする事件があったが規則に書き加える事はなかった。
  発覚した時点で負けは決定し、『名を汚した』として次の日には闘士の暗殺者によって消されたからだ。
  それ以来、そんな度胸のある人間はいない。
 このように、参加する闘士は必ずこういった闘儀場の一角に設けられた控え室で生活しなければならないのだ。
 それは女性である彼女もまた同様なのだ。

 
  こんこん

 扉をノックする音が彼女を現実に引き戻す。返事を返すと、軋む音すらたてず、代わりに可愛らしい声と同時に扉が開く。
「失礼します。お食事を持って参りました」
 そう言って入ってきたのは彼女よりも幾つか年下に見える少女だった。
 簡素な制服に身を包み、手にした木の御盆にはパンと湯気のたつスープが乗っている。
「ありがとう。こんな格好で失礼するわ」
 少女は少し緊張した表情をして、頬を赤らめる。
「し、失礼しました」
 他に言葉が見つからなかったのか、彼女はうつむいて何とかそう絞り出した。
 その仕草に微笑みを返すと彼女の肩をぽんぽんと叩いてやる。
「別に、女同士でしょ?気にしない気にしない。それに、これからしばらくお世話になるのに、もう少しうち解けても良くないかしら?
 御名前は?」
 御盆を受け取って自分で机に置くと女闘士――ラ=ファル=スプモーニ――は言った。
「はい、ロゼリアともうします。伝令級です」
 伝令級とは闘士の――機甲会内部での呼び名だが――位である。
 修行中の者を除き、全ての闘士がそれぞれの部署に配属されているため、部署の名前がそのまま位になっていると思ってもらいたい。
 最も実力の低い、成長する見込みのないものが伝令級として通常任務に就く。彼らはさらに上の闘士との連絡員であり、従卒である。
 一方ファルは公開闘士級と呼ばれ、最も上級の闘士とされるのである。
 …のだが。本人はそうは思っていない。
「伝令級だからって堅くならないで。これからもよろしくね」
「はい」
 一礼して部屋を去った彼女の様子に、ファルは少しだけ懐かしい物を覚えた。
 つい数年前まで彼女も訓練を受けたばかりの伝令級の闘士だったからだ。
――あんな頃があったのにね…
 自分が公開闘士になるとは思っていなかっただけに一層そう感じるのだ。
 公開闘士に選ばれるのは僅かな一握りとはいえ、彼女はそれを名誉と感じていないのだ。
 彼女はどんな技でもそつなくこなし、よく言えば万能、悪く言えば得意な物のない退屈な技しか出せないと言える。
 さらに悪いことに、彼女は天然の『間抜け』で、肝腎な所で大きなミスをしてしまうせいで、傭兵や用心棒の仕事がかなり下手なのである。
『ファル君、君に一番あった仕事は『闘儀式』出場以外、何がある?
 暗殺させれば腕を折って命からがら帰ってくる。傭兵なら傭兵で、ほとんどど戦果も上げずに終わる。
 あまつさえ遺跡調査じゃ罠にことごとく引っ掛かって帰ってくるせいで雇い主が怒る始末。
 …偶然君の休暇明けに公開闘儀式があったから選手にした、これのどこに不自然な点がある?
 文句言わずに出て機甲会の名をあげてこいっ』
 上司からも言われる始末である。
 闘士同士の闘いでは取り柄――得意技がある方が勝ち目がある。
 彼女は戦績はそこそこで、闘士同士ではあまり成績は良くないが公開闘儀式での他流派乱立状態は、彼女のように何でもこなせる方が強いのだ。
 しかし、上司の言葉は彼女にとって嬉しい物ではない。
「よりにもよって…」
 彼女は呟きながらパンをかじった。儀式まであと二日と迫っていた。

 闘儀場のある北方の国サナタラキス首都、リグスタニア。
 ここは公開闘儀式のためにこの季節になると非常に多くの人々が訪れる。
 参加者だけではない。国が唯一認めた大きな賭博でもあり、最大の祭りだからだ。
 そのために首都は普段の人口の約3倍にまで膨れ上がり、普段は宿でもない癖に宿屋になる店まで出る始末である。
「はぁ…高速…なんですか?」
 リグスタニアは首都とはいえ国王が各地に築いた大都と比べれば見劣りする程の大きさしかない。
 賑やかと言ったって人口も大都の半分ぐらいしかない。
 理由は幾つもあるが、首都には機能性と強固な防護能力を求めたせいで小さくなったと言われている。
 しかし、ここの過密な建築は他には見られないぐらいひどく、小高い丘から見下ろせばまるで膨らんだように地面を埋め尽くしている。
 このぐらい巨大な都になると、多少遅い時間であっても人通りがある。
 もちろんそれは治安のよさを物語っている。まして、まだ日が暮れて間もない。それでもここには人々の目の届かない場所がある。
 あまりに過密化したこの大都では、無茶苦茶住宅が密集したりしている場所がある。そんな建物の裏側に、表通りとは違う路地が存在する。
 『陰影通り』と呼ぶぐらいそんな路地が多いこの場所では、所謂『裏通り』以外に犯罪の巣窟、そして単なるごみ捨て場となっている。
「もういい、スプラタスと書いておけ」
 それでもここは政治と、そして人間の中心である事には間違いない。
 傭兵ギルドとして名高い機甲会の公開闘儀場がある場所でもある。
 ほとんどの人間は首都としてよりもこの闘儀場のある都市として記憶にあるのだろう。
 闘い。名誉。金。地位。名声。
 あらゆるものがこの地に集結する。そして、真に力を望む者も、ここには現れる。
 既に参加者申し込みは始まっていた。
 予選など存在しない、額面どおり、参加者全員がこの闘場で最高の地位を求めて闘う。
 またそれがために公開闘儀式は二週間に渡って行われる。だからこの二週間は首都は選手、観客のあらゆる種類の人間でごった返すのだ。
「すぷらたす?ですか」
「それも書けないようなら受付を代われ。お前には重荷だ」
 男はふいっと背中を向ける。
「な、なによぉ、そのぐらいできますっ」
 受付が叫ぶが、既に彼の姿は小さくなっていた。
―─まぁ格闘高速呪法師なんて職をを知っている人間が何人いるだろうなぁ…
 先刻の受付の娘の慌てた顔を思い出して含み笑いをする。
─―しかしこれで勝ち上がればあらゆる人間が知る事になるさ。嫌でもな
 世界で初めての単音節格闘用高速呪法のみを体に刻んだ呪法師、アブドゥーグ=カルマは指抜きの革手に包まれた手を握り締めた。
 リグスタニアの街は、首都と言っても人間の住む都市。表側もあれば、汚らしい面だって─―それはもちろん多少の差はあるが―─ある。
 ここは比較的に治安がいいために隠れるように存在するが、光と陰は二つで一つ、たった一つで存在する事はできないのだ。
 アブドゥーグは今日からの宿を探して宿街を歩いていた。これからもし勝ち続ければ二週間も御世話になる宿である。
 完全後払いでもこの期間だけ選手は構わないのだが、二週間も泊まるからには下手な宿では困る。
「おっ、兄さんいい体してんね、大会でるんだろ、安くしとくぜ」
 しかし、言うまでもないが、この時期は書き入れ時だ。
 普段真面な宿でなくとも出張るのがでてくる。十分見回してからでなければ危険な目に会う。
「いや結構。もう予約している」
 そんな客引きを適当に追い払うとゆっくり歩いて回る。時折ぴくぴくと自分の腕に刻んだ紋が疼く。何かが同調しているようだ。
―─確か、腕は『障』…
 防衛本能が知らせる『殺気』が反応している。
 強く、近い。どうやらこの辺りにはそう言った類いの人間が多く集まるらしい。
 ただし、これは正しい『感覚』ではない。長年培った勘と言った方が正しい。。
─―ここか…
 彼はふと見上げた宿に入った。

  『城の壁亭』

 城壁を思わせる外観は、幾つもの傷が入った、戦いの跡のようだった。
「ちょっと待ってよ、冗談じゃないわよそんなの」
 入るなりそんな声が響いた。意外な声だけにしばしの間唖然と入り口でつったってしまう。

  くすくすくす…

 女の笑い声ではっと間抜け面を元に戻す。
「うるせえぞ、てめえ」
「あーっ、差別だ差別だぁっ、女だからって馬鹿にしたわねっ」
 声の主は少女と男、どうやら他人同士の言い争いといった所だろうか。
「親父、ありゃなんだ?」
 親父さんは困った様子だ。
「いいえね、御客人、特別私共とは関係ないんですよ。
 あの御客、止めても止めませんからね、皆呆れてんです。迷惑かと思いますが少々の辛抱です」
 ますます言い争いは激しくなる一方で、とても親父の言った『少々』の辛抱では収まりそうにないような気がする。
 のは、アブドゥーグだけだろうか。
──本当に、そうかねぇ…
 実際男も引き際を心得ないのか延々と続きそうな気配がする。
「やれやれ…ところで親父、今年の前評判を聞いて見たいんだが?」
 彼はカウンターの向こうで台帳に記載する手を休めて顔をあげ、にいっと嬉しそうにその人の好さそうな顔で笑いかけてくる。
「おっ、御客人は選手かい?それともここには観光で?ま、がたい見ればすぐに分かりますがねぇ」
 親父の態度が変わる。どうやら、彼もかなりここの儀式が好きらしい。
 嫌いな人間は珍しいが、好きな者になるとただそれだけの為にここに無理に引っ越したりする者もいるらしい。
「選手だ。ライバルがいないかどうか調べてるのさ」
 アブドゥーグは右手の親指を立てて見せる。
「そうかい。今一番人気はやっぱり三年前優勝のラ=ファル=スプモーニじゃないかい?
 彼女は毎年参加する訳じゃないからね、出る度に勝ちをかっさらってるけど」
 ラ=ファル=スプモーニはここ機甲会の闘士の中ではそれほど実力がある訳ではない。
 もちろん卑怯な手段を使うようなら即刻除名されているはずだ。それでなくとも機甲会の闘士が参加するには─―実は闘士全員が―─鎧を外さないといけないのだ。
 実力がなくて勝てるはずはないだろう。
 理由は簡単な事だ。
 機甲会の中ではやはり仕事の内容で評価される。彼女は致命的にも『優しすぎる』事が足を引っ張ってまともに仕事をこなした事がないのだ。
 しかし、闘士の間でも彼女は強いと言う噂はない。
 何故なら、彼女は完璧に全てをこなせるのだが、闘士どうしでの一騎打ちになれば、それが何もない素の試合場であれば尚の事、何か一つ恐ろしく強いものがあった方が実は勝ちやすいのだ。
 彼女はそれがない。『個性がない』という表現が正しいかどうか分からないが、理想的で完璧過ぎるのでこれという物はなく、自分の武器が持てず、彼女自身も困っているのではないだろうか。
 しかし他流試合ならば話は別だ。
 『どんな状況でもどんな相手でも変わらずに相手にできる』のは彼女しかいない。弱点のない彼女しかできないのだ。
「へえ…」
 アブドゥーグはにやりと笑みを浮かべる。
―─女かい…
「ありがとう。参考にするぜ」
 アブドゥーグは少しつまらなさそうにため息をついてロビーで騒ぐ『客』の方を見つめた。
 いつ果てるとも思った二人の闘いは、以外に早く決着をみた。
 何が原因で、何が終わったのかさえ分からなかったが、男は何か吐き捨てるように言い残し、少女はぺたんと床に座り込んだまま取り残された。
─―…終わったか…
 むすっとその場にあぐらを組んだまま動こうとしない彼女にゆっくり近づく。
 手を伸ばしてやると彼女は表情を変えずに顔を向ける。
 よく見なくてもかなり幼い体つきに丸い顔、やすく見積もっても十五を越えないだろう。
「ほら、立ちな。そんなところで座り込まれちゃ迷惑だぜ」
 彼女はアブドゥーグを睨みつけて手を払いのけると乱暴に立ち上がる。仕草や動きはその体つきにしてはやけに『子供』らしくない。
「ふんだ、まだあたいは迷惑かけたつもりはないやい」
 ふて腐れたように吐き捨てる彼女。だが、アブドゥーグは敵意ともつかぬ観察するような鋭い目をして口元をほころばせる。
「…こんな所には珍しいよな…」
 ぴくっ、と少女は反応して一段と強く睨みつけてくる。アブドゥーグはそれを受け流すように小声で続ける。
「ふふ、いや…少し『匂い』がね…分かるだろう?」
 少女は警戒しているように退く。宿の人間は我関せず、といった顔で彼らのやり取りなど眼中にないような雰囲気だ。
「な、何…」
 アブドゥーグはため息をついて吹き出す。彼女は目を丸くした。
「驚かしてすまない。ちょっと珍しい亜人に出会えて嬉しくてね。どうだいこれから。どうせ『闘儀式』に用事だろ?」
 まだ彼女は警戒している。嫌な物を見る目で―─でも観察しているようにじぃっと─―見つめている。
 アブドゥーグはため息をついた。
「…分かったよ。…キミに興味がある。一緒にきてくれるかい?」
 彼女はぱっと表情を明るくしてうなずいた。

 アブドゥーグは初めて見た時カンで『何か』を彼女に観た。だが、はっきりとそれと分からなかった。
「んー、あたいの本名?…もう忘れた 」
 元々数が少なく、普通の人間に交じっているためにとても見分けられない。時には自分は人間だと思っているものさえいるという。
「最近呼ばれてる名前だったら、イィエルね」
 こうして話していても彼女は少女と言ってもおかしくないぐらい幼く感じる。
「俺はアブドゥーグ。これでも術師でね、何とか君を見つけられたよ」
 イィエルはすっと目を細める。
「はぁん、それで。最近はただのガキにしか思ってくれない人間が多いってのにね」
 亜魔人は人間ではない。まして子供はおろか、普通今存在する彼女らは最低でもとうに百は越えている。
 彼女らにとっては人間など子供同然だろう。
 でも、精神水準は彼女らの方がずっと“若い”。ここで、彼女ら、と言ったのには理由がある。彼女達は普通、“女”だからだ。
「…でも、術師ならあたいに“興味”ったって、どうせ“あれ”でしょ」
 アブドゥーグは先刻の笑みを浮かべる。
「まぁね。…でも試合を見にきたんだろう?一人ぐらい応援してやれる人間がいてもバチはあたらないだろう」
 目を伏せがちに表情を曇らせる。

  ぽん

 アブドゥーグは彼女の背中を叩いて酒場を指さす。イィエルは立ち止まって彼を見上げる。
「…何?」
「ううん…試合が目的じゃないんだ。…闘儀式に用があるんだけど…」
 難しい顔をしてアブドゥーグを見る。こんな時の表情は本当に年齢不相応なものを感じさせる。
 酒場の入り口をくぐると、以外にも多い客に忙しげに回る女給がいた。
 このような酒場は普通酒だけだしてればいい、というような簡単なものではないのだ。
 店として成り立たせるには昼間は軽食屋でも夜は酒を出す、ぐらいの柔軟性が必要なのだ。
 そうでなくとも今は一年で一番人口が多い季節。少しでも稼がなければならない。
「人探しか」
 適当な物をいくらか頼むと彼は切り出した。
 人探しは別に不思議ではない。この国のほとんどの人間が集まるこの時期には生き別れた人々もまた集まるのだ。
 この季節独特の悩みであり、また恒例の行事である。
「…でも、ここに来ているのか、分からないんだ」
 イィエルはうつむいてしまう。
─―こういう仕草を見ると“小悪魔”だと思うな…
 胸に込み上げた想いに軽く舌打ちする。
「誰なんだ?よければ手伝おう」
 彼女は顔を上げる。
「多分よく知っている人よ。顔も、名前も。今から丁度二年前の選手『仮面の剣士イヴェルグ=キゥルアーキ』」
 

  こんこん

 再びノックに現実に引き戻されて立ち上がる。
 今度はきちんと服を着込み、いつでも闘いに出られる格好であるが、試合にはまだ早いはずだ。
「はい?」
 今度はきしむ音も気にならない程度に軽く扉が開く。
「よっ、今度の選手はやっぱりお前さんか」
 幼さの気になる顔に元気のいい笑顔を乗せて、彼は現れた。
「フェイ!今年もでるのね」
 『俊速の斧』のフェイ、フェアラルス=ベイ=クェイは闘技界の闘士で、機甲会と直接関係はないので一般扱いを受ける。
 でも鎧は着てはいけない。というか、鎧を着ることは恥であると考えられているのだ。ちなみに前年の優勝者である。
「ああ。でも、今回は勝てるかどうかわかりゃしねえや」
 それは言外にファルの存在を指しているのだ。
 ファルは出場する度に勝ちをさらうというので有名である。もし昨年フェイが出ていればどうなっただろうか。
「ふふっ、御世辞のつもり?」
「まーねぇ。でも昨年は残念だったぜ。俺が勝ち進んだ時には決まってお前さんはいない。今年こそ闘らせてもらうぜ」
 すっと手をだす。
「あら?言っときますけどそんなに早く当たりませんわよ」
 フェイはくっ、と顔を崩して笑う。
「相変わらずだな。…ところでガレヴィには会ったかい?今回、顔ぐらい出しにきてるはずだと思うんだが」
 ガレヴィの名前を聞いて悲しそうな顔をして目を伏せると首を横に振る。
「あれ以来…姿を見ないわ」
 フェイは髪の毛をくしゃくしゃにするようにして頭をかくと天井を見つめる。彼女の様子にすこし戸惑っているかのようだ。
「そ、そうか。…じゃ、伝えたい事があるんだ。
 奴からの伝言で、『もし悩んでいるんだったら、それを闘いにぶつけろ』ってさ。自分で何言ったか覚えてねーのかよ、あいつ」
 まるでせかされたように早口でそうまくし立てると扉の方に目を向ける。
 ファルはうなずくと立ち上がる。
「…ありがとう。わざわざあいさつに来てくれて」
「なぁに、事情は知ってるからな。もし、何か買ってきてほしけりゃ連絡しろよ。御礼は試合中にでも頼むわ。んじゃ」
 笑い声を残して彼は消えた。
─―悩みを…闘いに、ね。…それもまた、一つの解答なのかも…
 ため息をついてベッドに腰掛けると彼女は髪を編み始める。
 ガレヴィ=チャルウィック。
 元機甲会の闘士にして、反逆者の汚名を着た男。今から3年前にある事件をきっかけに彼は賞金をかけられるようになった。

 反逆事件。

 俗に、『闘儀崩壊事件』として知られる、ガレヴィの行為そのものだった。
 彼は3年前の闘儀式に、全く別の流派として『外部』参加者として参加した。そして決勝戦の舞台でこう叫んだ。

『お前達は何故闘う!』
 その時、化物の牙を模した仮面を大きく剥ぎ取って顔を露わにした。
――仮面の剣士、イヴェルグの正体。
『名誉のために闘う?違うだろう、だったら何故拳が疼く?何故闘っている感触を味わっていないと安心できない?
 …理由なんて物はもっと利己的だろう!第一…名誉なんてものはないんだよ』
 それが、ガレヴィだった。
 

 歓声があがる。闘儀場に広がる空気は闘いの前触れの興奮で痺れている。
 総勢五百余名の選手はこれからの闘いに思いを馳せ、開式の儀式を受けていた。
『それではこれから第一試合を執り行うっ』
 闘儀場のあちこちに仕掛けられた『振動機』が鳴る。

   どおおおおんんんんん…

 開始の合図のドラが鳴った。
―─やっぱりいないな…
 二度も参加するとは思えないし、また参加できるとも思えない。
 アブドゥーグは儀式の開式に出席した際以来探したが、らしい人はいなかった。
 仮面の剣士といえ、素性は知られているだけに参加はしていないようだ。
─―俺は…二日目…だよな
 別にイィエルには何の借りもないが、これも縁だろう。
 彼は別れ際にイィエルに言った。
 『俺も探してみよう。毎日この酒場に来てるから試合が終わったらここを覗いてみな』
 彼女はうなずいて去って行った。
―─はは、俺って結構お人よしらしいな
 初め彼女に近づいたのは、亜魔人が持っているという“石”が目当てだったのだ。
 彼女はどうか分からないが、姿を固定するために必要な大切なものだという話を聞いた事がある。
 別になくてもいいものらしいが、彼女達の変身体質は非常に不安定で、変身を保つのに使うという。
 その仕組みは非常に簡単で、石に強烈な波導を記憶させて、その波導を保たせるのだという。
 だから、術者が自分の使いたい術の波導を記憶させれば術の効果は数倍になると言われている。
─―ま、惜しくもないか。元々…俺の力じゃないからな
 試合は彼が最初に目をつけた十組の選手以外、見るつもりはない。
 研究と鍛練の時間が非常にもったいないから、らしい。
 だがその十組は厳選された、というよりも前評判のいい選手の試合ばかりだ。
 ちなみに今日の試合は午後の最後の試合だけを観戦するつもりらしい。
 その試合は、『俊速の斧』のフェイの試合だ。
 アブドゥーグが闘儀場入り口まで戻ってくると、発券場で争うような声が聞こえた。
「おいおい、もう試合は始まってんだ、規則で券は売れねえ」
 ここは賭を行うための施設。
 発券場とは、選手に賭けるチップを買う場所である。
 が、このチップは入場券の役割もある。
 試合の直前に締め切るのは規則なのだが、これでは試合中に入場したくてもできないと言うことになる。
「それは承知の上さ。でもまだ第一試合だろ?第二試合のやつならいいだろ?な?」
 声高に叫ぶ声。
「だったら試合が終わるのを待っても遅くないだろ」
「俺は今の試合が見てえんだ。頼むよ、寝過ごしちまって」
 ふっと顔が向いてしまうぐらい、大声をあげて言い争っている。
 発券場の親父が弁当片手にカウンターから乗り出すようにして、刈り上げた髪を後ろで短くまとめた青年に向かって叫んでいる。
 青年は両手を合わせて時折片目をつぶったりしている。
─―…ガキかな…
「にいちゃん、いい加減にしてくれ」

  ばぐぁっっ

 偶然目を向けていたのがよかったのか悪かったのかわからない。
 親父の弁当はカウンターを跳ねて足元へ無残に飛び散り、ここから親父がどうなったのかは見えない。
 が、青年の顔色が一瞬変わるとその右手はぶれるようにして消え去ったのだ。
――殴った?…手練れか?まさか選手じゃあるまい
 その速度は達人とも言える速度だった。
「誰が男だ。よく見るんだな」
 声も女性にしては低いし、格好だって男そのものだ。まさかそれで男装の麗人だとは言わせない。
 …しかし…肩幅に比べて胸部の大きさが小さいし、ほんとにおまけ程度に膨らみがある…ような気がする。にしては女っぽくない。
「…ったく…」
「おいおい、無茶はよくないぜ」
 言いながら、やはり俺はお人よしかな、と思うアブドゥーグだった。
「ぁ?…ああ…ふぅん?」
 彼―─いや、彼女はアブドゥーグを値踏みするように睨みつけ、目を細めて見つめる。
「…アブドゥーグ=カルマだったっけ。たしか賭け率二六倍の」
 その目付きはからかうような、悪戯好きな目だ。
 アブドゥーグはさすがにその言葉に反応して目を吊り上げると牙を剥いて、抑揚のない声で言う。
「貴様、それが人に対する態度か。…それとも、実力を見せて欲しいって言うのか」
 でも、本当は止めるためにはいったはずなのだ。
 何故ここまで興奮するのだろう。後から考えてもそれだけは思いつかなかった。普段ここまで起こる事は滅多にないと言うのに。
「おっと、やめてくれ。もしお前と当たる機会があったとすれば勿体ないだろ」
 それは遠回しにほめているのだろうか。
 いや。それにしても今の発言は。
「?まさか、お前選手なのか」
 にやりと笑って親指を立てるとぱぁんと掌を鳴らす。その嬉しそうな笑みは悪戯を見とがめられた少年のようだ。
「キール=インペリアル。一応一二倍、一般に知られちゃまずいんだけどさ。『血猟犬』の名前は知ってるだろう?」
 そう言って嬉しそうに笑う表情は、やはり可愛らしいものも見える。
「…選手だったら開式に出たんだろう。何も入場券買わなくとも第1試合は…」
 すると目を伏せるようにして視線を逸らして、恥ずかしそうに言う。
「寝坊しちまったんだって。仕方ねえからさ…」
 アブドゥーグは頭をかきながら少し呆れたようにため息をついた。
「なら俺が説明してやろう。入り口で俺が言えば多分通してもらえるさ」
 すると急に目を輝かせてアブドゥーグの肩を掴んだ。
「本当か?本当だな?頼む!」
 彼はやれやれといった風に笑って肩をすくめた。
 

  どよめきが一斉に沸き上がる。
  もし、殺気に満ちていなければ、この雰囲気に慣れていなければそれだけでも十分な強迫観念になる。
 しかしそんな中ででも平然と、いや、緊張感のかけらさえ感じさせずに舞台に上がる者がいた。
 彼が入場したとたんに場内は黒くなった。そう感じてしまうぐらい熱気と歓声が激しい。
 午後に入ってからも試合は白熱した物になっていた。様々な人間が様々な戦いを繰り広げる中でも、観客は一層疲れを見せずに騒いでいた。
 そう、彼は前年に優勝した今回の最有力候補の一人、『俊速の斧』のフェイだ。
「けっ、この間来た時にここのひび直せって言ったのに」
 彼は闘儀台の入り口のすぐ隣の壁に入ったひびを見て呟く。
「けちるなよなぁ」
 彼が愚痴っている間に一旦収まっていた歓声が再びあがる。
 どうやら相手も入場して来たらしい。彼も軽い足取りで舞台に上がる。
『第五試合。デシィゼネイク=シロ対俊速の斧、フェイ』
 歓声があがる。フェイは軽く舌打ちする。
─―賭け試合か…

  ぐんっ

  急に間合いを詰めて来た相手をさばくようにかわす。
「お、おい、まだ始めの合図が」
 ドラが鳴る。フェイは同時に相手がにやりと笑うのを見逃さなかった。
「これで満足かい?」
 二人は再び向かい合って間合いをはかる。
 相手は拳闘を得意とする格闘術『撲叩法』の使い手らしい。
 両手の拳にはめられた革のナックルはどす黒くなっている。
「いいか?戦場ってのは始めの合図も何もないんだぜ」
 見下したような相手の顔にあいつの顔がだぶる。
 あの、落ち込んでいた時に思いきり顔を殴られながら聞いた、あの言葉。
─―馬鹿野郎っ、戦に始めも終わりもねえっ、殺られたらそれで終わりだっ
 ふっ、と口を歪めて相手の顔を見る。
 現実にいるのは、奴とは比べ物にならないような小物。
「そうか、それは悪かった。ならそれ相応の覚悟をしようか」
 次の瞬間、フェイの顔には恐ろしい愉悦の表情が浮かんでいた。

  どどぉん…

 彼らのいた位置からおおよそ二十ヴァルは離れた壁に叩きつけられていた。
「…今までの戦場じゃ、少なくとも自分の身の守り方を知らない奴はいなかったぜ」
 彼はほんの少し間合いを踏みこみ、脹ら脛に当たる部分で大きく薙いだだけだった。
 だがそれは強力な一撃であり、彼の得意な初手(闘士が最初に教えてもらえる基本の技の事を指していう)の『裏脛脚』と呼ばれる物だった。
 フェイの一撃で奴は完全に白目を向いていた。フェイはため息をついて肩をすくめると闘儀台から降りた。もう試合は終わったのだ。
 すぐに駆けつけた治療師がデシィゼネイクを壁から引きはがすと韻のある旋律を唱え始める。フェイはすぐ彼の側へと歩み寄ると彼を睨みつけて言う。
「いいか、くだらねえ言い訳で不意打ちをして勝ったって惨めだぜ」
 デシィゼネイクは恨めしそうに見上げたが何も答えなかった。もちろん声も出なかったのかも知れないが。
「ああ、また壁にひびが入っちまったよ」
 

 アブドゥーグは感嘆の声を上げた。
―─かなりできるな…あれはただ者じゃない
 彼自身の見立てではないにせよ、満足できるものだった。ふっ、と吐き捨てるような笑みを浮かべて席を立つ。
 今日はこの試合ですべて終了だった。
 ぞろぞろと引き上げて行く人々の中には券を握り締めて捨てる奴、嬉しそうに券を眺める奴など、それこそ試合よりも自分の賭けの儲けの方が大事な奴らが多い。
―─…またか
 そんな連中の中には過激な奴が混ざっていたって不思議はない。
「貴様、自分からぶつかっておいてあやまりもしないのか」
 くだらない言い掛かりでの喧嘩。気がつけばやじ馬が取り囲んで簡単な舞台ができあがっていた。
 引くに引けなくなった相手の方も妙に強気になる。闘儀に刺激されたのだろう、もう血を見ずに終われそうにはない。
――嫌な見世物だ。
 アブドゥーグにはただの喧嘩は興味がない。別に今回闘儀式に参加しているのも闘いたくてではない。
 名誉と金のためだ。
 彼は今まで格闘用単音切高速呪文の開発に勤しんできた。
 今までに存在した呪文を全て研究し、いかに使いいかに効率よく格闘技として使用するか。それが彼の課題だった。
 そのため今でも身体を鍛える事と術の研究の時間を割く事を惜しまない。そして今回の公開闘儀式はその実践と宣伝のためだ。
─―自分の後継者を作り、後の世に最強と言わしめるため。
 闘いはあくまでその手段であり、彼には副産物に過ぎなかった。
 そう、つい先刻までそう思っていた。これからもきっとそうだと思っていた。
「…やめろ」

  びくっ

 彼はその声に強烈に反応した。
 やじ馬も急に静まり返って波打つ。
 だがまるで帆がはためいたような動きはその一瞬だけだった。
 普段は何があっても決して沈黙しない彼らが押し黙り、誰一人声を出そうとしなくなる。
 舞台の中の二人も惚けたようにその声の方を向く。
「そこまでにするんだ」
 ざあっと人の壁が開き、切っ先が中の二人に向けられる。
─―イヴェルグ=キゥルアーキ…いや…
 鼻から顎全体を覆う、金属製の化物の口のような仮面。牙と牙の間から覗く口元の笑みと鋭い目元にかけての大きな傷痕。
「鉄槌だ…」
 誰の耳にもとまらないぐらい小声で呟く。
 二年前、公開闘儀式をかき乱した張本人。
 二年前の実質の優勝者。
 そして、多くの闘士の最大の疑問と疑念を訴えた青年闘士ガレヴィ=チャルウイックの、身分と素性を隠した仮面のいで立ちそのものだった。
 あの時のように額には金属製の鉢金を巻き、仮面をはめているので本人の顔をよく知っている者でも簡単に正体は分からない。
 だからこそ自然に、堂々と公開闘儀式に参加できたのだ。
「へ、…へん、何が面白くてそんな格好してんだい」
 無理に喋ったせいか、声が震えている。声の震えは脚にまできている。
「そんなコスプレ、してたって誰も信じやしないさ」
「…なら、自分の身体で確かめて見るんだ。さあ」

  ひゅん

 ほんの一瞬の空気の揺れと閃き。
 しかし、男の手はぶれただけで全く動いた気配は無かった。
――居合いの剣。イヴェルグの得意技だ。
「…どうした」
 最初に言い掛かりをつけた男が限界に達したらしく、奇声をあげて人の壁にぶち当たり、走り去る。
 それに呼応したようにそこにいた人間全員が散って行く。
 急に広くなった闘儀場の出口付近。
 微風さえ吹かない沈黙した空間。
「イヴェルグ=キゥルアーキだな」
 ゆっくりと奴は顔を上げる。
「探したぞ」
 だが奴は返事をしない。アブドゥーグが続けようとするとざっときびすを返す。
「、おい」
 だが追おうとすると駆けて逃げる。
「待てよ、話ぐらい聞いて…」
 まるでネズミのように素早く背を見せて逃げ出した。かなり重武装しているはずなのに、アブドゥーグが全力で走るよりも速い。
――ど、どうなって…
 何度も人影に消えそうになるのを必死で追いかけて、路地裏に走りこむ所まで追いつめた。
 すぐに追いかけて路地に駆け込むが、袋小路のようになった狭い空間だというのに姿は既になかった。
「…消えた?」
 跡形もなかった。逃げられる様な場所などここにはないというのに。
「おい」
 彼は思わず身構えるようにして振り向いた。
 だが、そこにいたのは。甲高い聞き覚えのある声。
「あはは、やっぱりアブドゥーグだった」
 キールは街の明かりを背に、ゆっくり彼に近づいてきた。
「何やってんだよそんな所で」
「あ、…いや」
 答えて良い物かどうか戸惑っているうちに肩を掴まれて強引に引き寄せられる。
 鼻と鼻がくっつきそうな間合いで、キールはにかっと笑った。
「だったらつき合いな。丁度誰も相手がいなくて困ってたんだ」
 追いかけて夢中で追っているうちに宿の方まで来ていたらしい。すぐ側に城の壁亭があった。
「なんだ?」
 キールは彼の表情を敏感に察知して聞いた。
「…いや、もしかしてお前もここに泊まっていたのか?」
「へ?は、ははは。偶然だな?よし、だったら話は早いだろ?それとも、飲めない方か?」
 彼女は強引に肩を組んでくる。アブドゥーグはやれやれと肩を落とすとため息をついた。
――別に、イィエルに慌てて連絡する必要もない、か…
 

『第2試合』
 しかし結局イィエルには会えないまま次の日になった。
『白き刃ラ=ファル=スプモーニ対ディレイ=ヴィ』
――…どうしようか。一応、来てる事ぐらい言うべきか
 彼は舞台を見下ろした。何もない広い石造りの舞台の上に二人の人間が対峙している。
 一人は細身で綿の詰まった服を着込んだ機甲会の闘士。鎧を使えない代わりに支給されている稽古着だろう。
 しかしもうひとり――ディレイの方は彼女と比べても頭二つ分ぐらい背があるというだけでなく、大きく盛り上がった肩当てのある金属鎧を着ている。
 これではすでに勝負がついているかのようだ。
「あんたがラ=ファルだな」
 ディレイは口元に笑みを浮かべて言う。
「そうよ。私はあなたなんか知らないけど」

  きゅ

 革製の手袋が締まる音。
 ディレイは構えをとるファルを嘲って人差し指を振り挑発する。
「鎧のない闘士など、『対闘士』の敵ではないな」

  どおおおおん

   がしゃ

 開始の銅鑼とほぼ同時に奴の肩当てがバラバラになる。
 いや。
「死ねぃ」
 ファルが間合いを詰めるよりも速く、大きく肩当てが広がり、鏝が幾つも集まったような金属製の腕が伸びる。
 その姿は、幾つもの腕をはやした悪魔のようだった。
「く」
 その金属製の腕はまるで意志ある物のように次々に襲いかかる。
 何とか防御するファルだが、それは巨大なものが一つ、小さなものが二つ、その中間が一つ、各肩にあるので合計8本の腕が全て違うリズムで襲いかかってくるのだ。
 どれだけ達人と言える彼女であろうと全てを完全に防ぐことができない。
 焦って間合いを開けるファル。
 笑みを浮かべるディレイ。それは罠に過ぎなかった。
「教えてやるよ」

  ずん

 目の前が白くなる。地面に液体が当たる音が聞こえた。
 一番速く小さな腕がさらに一段伸び、ファルの鳩尾を真上にたたき上げた。
「俺の名は『蜘蛛神』だ」
 身動きの聞かない彼女を、残りの腕が次々に襲いかかる。
 いたぶるような打撃が次々に身体に突き刺さる。そのたびに身体が踊り、全ての腕を一度に引くと同時に舞台を転がった。

  ごとん

 頭を強く叩きつける感触で目が覚める。
 僅かに残った執着が、右腕を叩きつける。

  ずどん

 観客が一斉に沸いた。ファルが転がりながら舞台に腕を叩きつけると、舞台が大きく割れたのだ。その御陰で身体が止まる。
「ほお…」
 舞台から落ちた場合、勿論落ちなくても範囲から出ればだが、敗北となる。
 ディレイは自分の獲物が以外にしぶとい事に感心した。それも、余裕からくる『油断』だった。
 ファルは全身に走る痛みに顔をしかめながら、相手の方に顔を向ける。
――参ったわ、これは…
 勝ちたい。
 ほんの少しもその気持ちがないとは、感じなかった。
 しかしそれ以上に今の彼女を支配する感情。それは純粋な、ある種の高揚感。
「本当、『対闘士』と言うだけあって闘士には強いみたいね」
 相手の顔に浮かぶ愉悦――それは上位者の笑み――を読みとると口元をゆっくり引き上げる。
「可愛そうに」

  どくん

 何を言ったのか、理解できなかっただろう。ディレイの表情は一瞬呆気に取られた。
 いやそれだけではなかった。彼は、立ち上がるファルの額に急に現れたものに気を取られたのだ。
「何を」

  がくん

 動かそうとした彼の自慢の『蜘蛛』は、まるで壁に塗り込まれたようにぎしりときしんで音を立てるだけで、それからびくりともしなくなった。
「な、何をした!」
 ファルの額に浮かんだ文字のようなものは消え去っていた。
 だが、急に『堅くなった』空気から金属の腕を抜くことは既にままならなかった。
 ファルの表情は冷たい物に変わる。闘いを知っている者の、容赦のない表情。
「お馬鹿さん。何人闘士を壊してきたのか知らないけど、私に会ったのが運の尽きだったのね」

  ふぉん

 軽く振り抜かれる腕。それと同時に弾ける男の頭。大きく前後に首が振られて男は激痛と共に気を失った。
 しばらくして、空気中に固定されてぶら下がっていた男の身体が地面に転がった。
 彼は完全に肩が固定されていたせいで、今は脳震盪を起こして完全に気を失っている。
――お生憎様。もしかして死んだかもしれないけどね
 彼女が背を向けると、頬をなでる風を感じた。
「久しぶりね」
 それは笑ったような気がした。
 彼女には、笑っている『彼女達』が見えた。
 彼女は生粋の人間ではなく、『風』の魔導族に生まれ、一族を抜けた者だった。
 その類い希な精神力は闘士の素質としては確かに素晴らしいものだった。
 彼女が本来一部の技しか覚えられない所を全てマスターしている所以でもある。
 しかし精霊の技は、ほとんど使ったことはなかった。
――ガレヴィ、やっぱり闘いの意味は私には分からないのかしら
 精霊の技を使った後のむなしさは、不自然に彼女を空虚な気分にさせた。
 

  がっしゃあん

 やけに派手な音が響いた。
 アブドゥーグは眉を顰めてベッドから起きあがった。
 まだ宵の口にもなっていないせいか、下ではのんきな連中が酒盛りを行っている。
 それだけなら彼も眠る気になれただろう。しかし、やけに大きな声で大暴れしているらしい。眠れる物も眠れないだろう。
─―ちっ、明日は試合があるんだぜ
 折角寝入っていたというのに。彼は舌打ちして部屋を出た。
「俺は女だ。次男なんて言ってみやがえ、ぶっこほしてやる」
 またあの聞き覚えのある声だ。ふと階下を覗いて叫んでいる本人を探す。
 地面に這い蹲って、ここからでは良く聞こえない声で何事か呟く男、そしてその前には群青の濃く流れる髪が見えた。
――キールだな。全く、暇そうにして…
 呆れた表情を浮かべたアブドゥーグだが、相手の男を見て気になる物に気がついた。
「うるへー。やるこたぁやぁってやらあ。くだんね心配なんは、してんじゃなぁっての」
 キールはすっかり酔った調子で言う。相手の男は立ち上がって服を整えると睨むようにキールを見てから背を向けた。
 彼の首には金属製の剣の紋章をかたどった首飾りが見えた。開会式に出た時に見た紋章と同じ形をしている。
――機甲会の…連中だったな
 気にはなったが、取りあえず再びくだを巻くキールを取りあえず始末する事にした。
 階下に降りて、背中を見せるキールに近づく。
「静かにしてくれ。暴れるならどこかよそへ行ってくれないか」
 くるっとアブドゥーグの方を向いた顔はとろんとした目付きと半開きの口に真っ赤な頬、もう完全にできあがっていた。
「ああ、そんなかてへ事いふなほ、なあ」
 彼女は立ち上がるとばんばんと思いっきりアブドゥーグの肩を叩く。
「…騒いで欲しくないと言っているんだ。俺は明日試合なんだ」
 キールはにこにこと笑って肩を組みにくる。そして立ち上がるとアブドゥーグを引きずるようにして歩き始める。
「だったら俺が部屋に連れてってやるよ」
 言いながら完全に体重を預けてくる。自分で立つこともできないぐらい酔っているようだ。
―─ちっ、世話の焼ける…
「暇そうだな、毎日酒を飲めるなんざ」
 くっと肩をひいて持ち上げてやると恥ずかしそうに笑う。
「…そっち」
 彼女―─いや、彼はアブドゥーグの部屋と正反対の方向を指さした。
 ずるずる引きずられて自分の部屋に運んでもらいながら、沈黙に耐え兼ねたように呟く。
「…そんなに、試合が大事?」
 奇妙な質問だ。酔っぱらってるせいだろうか?前後の脈絡が分からない。
「じゃあ聞くが、お前は何のために闘っている?」
 キールは顔を背けてうつむく。
「試合は、俺にとって大事なんだ」
「…仕合はあまり好きじゃない…だから大事には思えない」
 彼女の口調は静かだが、いつもの元気はない。
 酔っているせいでもないだろう。昨晩一緒に――というか、一方的に呑まされたのだが――呑んだ時は終始いつもと変わらない様子だった。
「だったら、何故闘ってるんだ。仕方なしにか?」
 いや、まて。
 アブドゥーグは質問をしながら自分で答えられない事に気がついた。
 今自分が闘っているのは確固たる目的のためだ。
 決してそれが楽しいからのはずではない。
 しかし、闘っている最中に『仕方なしに』事務的にこなしているような事があっただろうか。
 血が騒ぐと表現するしかない昂ぶりがなかったと言い切れるだろうか。
「好きじゃない。喧嘩に勝ったって嬉ひくない。確かにさ、仕合は金がかかってんあ、日銭稼ぎするより儲へる。
 …だからって好きで闘えるはずないじゃん」
 どうやらかなり飲んだせいで理性のたがが外れているらしい。
「おりゃ、ひほを殺してはねを取ってんだほ…」
 何があったのか分からないが、先刻の騒動と関係があるのかもしれない。
 が、これ以上立ち入るのは自分の仕事ではない。
 深入りして抜けられなくなるのはよくある事だ、それがどれだけ無情な態度だとしてもここはふっ切った方がよい。
 アブドゥーグは酔っ払いの言葉だと自分に言い聞かせるとため息をついて背中をさすってやる。
「おいおい、全然舌がまわってないぜ。ちゃんと喋れなくなる程飲んでるじゃないか」
「ほんな事ないもん」
 ぷっと頬を膨らませる。
 部屋の扉を開けて、彼女をベッドに座らせる。だがキールをベッドに寝かせようとしても肩に回した腕が逆らう。
「おい、離せよ。もうお前の部屋だぜ」
 人の話を聞いていない。キールは睨むような三白眼でアブドゥーグを見つめている。
「お前、ひいのか?ひほを殺してもひいと思ってんあろ!…仕合なんか、どうでもいいじゃ…そもそも試合は勝たなきゃだめだへど…
 おでは機甲会のいう『神聖はひしき』なんかひ解できない」
 ぎゅっと首もとを握りしめる手。
 顔つきが、ふと女性に見えた。
「あんなの…嘘だ」
 そして最後の一言は非常に醒めた目で、突き刺さるようにアブドゥーグを捉えた。
─―嘘?…『神聖な儀式』が嘘…か…
 彼女は、そこでまるで力尽きたかのように腕を落とした。
 アブドゥーグは自分の部屋に帰ってからもなかなか寝付けなかった。
 陰鬱とした雲のような闇がいつまでも取り巻いているような気がした。
 

『第六試合』
 その日は、朝から憂鬱だった。
『アブドゥーグ=カルマ対クレイル=ヴィシュナ』
 放送が入っても全く闘う気力が沸かなかった。勝てる気がしなかった。
「どうしました、試合の前から」
 クレイルが唐突に微笑みかけてきた。もう舞台の上だというのに。
「何か悩みがあるのですか?…それで本気で仕掛けてこれますか?」
 柔和な顔をした男はとてもこれから闘いを行う戦士のようには見えない。
 布を巻いたような帽子ときらびやかな服装はむしろ吟遊詩人としか言いようのない姿だ。
「心配するな。お前が生まれて初めて覚える恐怖を俺が連れて来てやるよ」
 ぎゅっと右の革手を鳴らして彼は微笑んだ。

  どん

 すう、と奴の姿が揺らめく。そう、丁度陽炎のように。

  こめかみに走る鋭利な痛み

  爆発するような凄まじい吐息

 一瞬奴の姿を見失った彼は瞬時に態勢を整えようとして術を行使した。
「やりますね…」
 アブドゥーグは油断できない奴だ、と感じた。
 まだ危機は感じない。恐ろしいとも楽しいとも思えない。ただ自分がどう動くべきなのか、それだけが非常に気にかかる。
 奴は自分の視界に間合いの外でまるで見世物でも見るようにゆらりと立っている。まさに陽炎そのものだ。
 だが奴の攻撃は鋭い刃物よりも堅く、尖っている。
「言っただろう、俺がお前に初めての恐怖と言うものを与えてやると」
 何か満足感がある。充足される感覚に少しのめまいを覚える。
「いいでしょう。…どうやらその言葉に嘘はなさそうです」
 だが奴は構えを取らない。間合いの外でただ突っ立っているだけだ。
 先程と同じように。
―─行くぞ
 今度は自分で地面を蹴る。
 一気に加速して襲い掛かる。
  歪む姿
「障」

  ぎいん

    眉間の直前で止まる
  針 
  空を切る

「破」

   拳

 手ごたえがあった。一瞬見失いかけた奴を盾の呪文『障』により受け止め、カウンター気味に反撃を加えたのだ。
 だが、まだ直撃を与えた気はしない。

  鋭い

 一瞬に間合いをとる。
「…どうやら」
 ぼそ、とこぼした言葉が聞こえた。

  真後ろだ

 その時、真に驚愕したのはあろうことかアブドゥーグだった。
 間合いをとったつもりだったのに逆に真後ろを取られていたのだ。
 それも、何の意味もない呟きでそれに気がついたのだ。一切の攻撃を受けずに理解してしまったのだ。
 力量にかなりの格差がある。
 こういった格闘戦闘では、残念ながら通常考えているように格差は見当たらない。どんな人間も同じ程度にしか見えない。
 では達人との差はなんなのか。
 失敗が少ない事である。だから、あまりにも格差が広すぎる場合、まるで相手にならないぐらい掌の上でもてあそばれる。
 彼は今それを直感した。
 だが絶望ではなかった。それは希望、いやむしろもっと彼に勝利への執着のような感情を与えるだけだった。
 それが不思議なのだ。いま考えているように気を抜ける相手ではないのは分かっている。
 だが、自分の感情はまるで他人の視点から見ているようにそう思えた。
 再び現実の舞台の方へ戻す。
 アブドゥーグは一気に間合いを開いて構え直す。
「…どうやら恐怖を与えてくれそうですよ」
 奴の表情は分からない。あのにこにこした仮面を張り付けたままだ。いや、時々いる普段表情の分かりにくい微笑みを持った男なのだろうか。
 その笑顔に冷や汗が流れている。緊張した面持ちには笑顔の印象は少ない。
―─やはり、多少相手の能力に驚いているのだろう。
 そして、次の攻撃からは二人の本当の実力、必死になった時の過剰分込みの攻撃が始まる。これからが本番だ。
 奴の姿が間合いの外から陽炎のように歪んで見えた。
 そう。先刻までのように近距離で見失うような感じではない。
 恐ろしいまでの速さだ。
『躍』
  だが、同時にアブドゥーグの姿まで、一瞬で舞台から姿を消した。
「なっ」
  思わず彼は動きをやめた。それが命取りだった。

  どん

 地鳴りと共にきた衝撃は、彼を地面に叩きつけた。
 めり込んだ身体は引きはがす事もできず、ただ勝ちを伝える放送が聞こえてくるだけだった。
 多分、観客の方からはアブドゥーグがどこに消えたのか一目瞭然だっただろう。
 真上、数レヴンの所へ一瞬で跳躍したのだ。
 アブドゥーグは引きはがすように彼を地面から助け上げた。
「よお、せっかくの美形が台なしだな」
 彼は額と鼻を折って血まみれになっていた、が、死んでいる訳ではなかった。
 丈夫なものだ。
「そのとおりですよ。全く、私のいいひとが貴方のせいで半分に減っちゃうじゃないですか」
 アブドゥーグはその言い草に思いっきり笑って見せる。
「じゃ、その半分は俺がもらうか」
 クレイルは痛々しい顔に苦笑を浮かべる。
「…参りましたよ、貴方には。…次も頑張ってください、私に勝ったんですからね」
 アブドゥーグは笑みで答え、彼を治療師に預けた。
「じゃあな」
  彼は舞台に背を向けながら、奴に勝った快哉と寂しさにも似た感慨に自分の感情と行動原理との矛盾に気がついた。
  多分、昨日のキールの言葉のせいで敏感になっているのだろうが、
  意識したせいか闘っている最中に事務的にこなしているという感覚が途中で消えたのがはっきりと分かっていた。
  二人が本気にならざるを得なくなったあの時、嬉しかった。
  嬉しいはずがない。目的の達成にとって邪魔になるだけのはずなのに、余計に目的が遠のくのに、そんな感覚はなかった。
  好きで闘いをするはずがないという意識が思いっきり否定されたのだ。
 めまいがするようだった。
 

 ある宿場町。宿場と宿場をつなぐ交通手段には幾つかあるが、最もよく使われているのは馬車だろう。
 宿場には必ずと言って良い程馬車の駅がある。
 ぶるる、と馬が震える。
「…?あ、これは旦那」
 御者が気配に気づいて顔を上げると、すっぽりとマントを被り、顔に布を巻いた男が立っていた。
「久しぶりだな。すまんが、また貸してくれないか」
「へい、もちろんでやす。旦那なら世界の果てでさえ案内しますぜ」
 男は鋭い眼光をその深遠な瞳の中に隠したまま呟いた。
「…リグスタニアへ」
 

─―だから…だから俺は嫌いなんだ…
 キールはアブドゥーグの背中を見送りながら、唇を噛んだ。
 宿の窓にひじをかけてゆっくり街の日が暮れようとするのを見つめる少年。正確には少年ではなく、彼女だ。
─―だから嫌いなんだ…
 窓から体を引きはがすようにしてベッドに転がり込む。
 昨夜の記憶は酒のせいで曖昧だが、少なくともアブドゥーグに連れて来てもらったのは確かだ。
 何を言ったのか気になる。どう思われたのかが気になる。それに、これでもう。
 アブドゥーグが背中を見せた時の寂しいような気持ちは。
 ふと体を起こす。そう言えば彼の部屋はどこだろう。
─―仕事があるんだ。…やめておこう
 彼女は身支度を整えて部屋を出た。薄暗がりが街を覆う前に。
 

 場内ではまだ十試合目が始まったが、アブドゥーグには興味のない試合だった。
─―確か次はキールの試合だな
 呪紋書を片手にふと対戦表を見る。そこにはキールと対戦相手の名前が載っていた。
 発券場は、時間通りに閉鎖された。
 しかし、試合は時間通りには開催されなかった。
『先程の試合の賭け金はお返ししますので、各賞金受取所にてお受け取り下さい』
 振動器が伝えるアナウンスは場内を落胆させた。出場者が時間通りに闘儀場にいない場合、即刻負けが確定し、選手権は剥奪される。
 それは出場者全員が承知のはずだ。
――あの馬鹿、昨夜あれだけ呑むから…
 開会式の当日も確か寝坊して出場していなかったのもあり、彼はため息をついた。
 昨晩の騒ぎを思い出して眉を顰める。が、気になって宿の方へ向かった。どうせ同じ宿の違う部屋なのだから、手間でもない。
 酔っぱらった彼女を寝かせた部屋は分かっている。彼は自分の部屋には帰らずにまっすぐキールの部屋へ向かった。

  こんこん

 返事がない。
 もう一度ノックしても返事が返ってこないので扉に手をかけた。
 

    かんかんかんかん

  金属を叩きつけるように響きわたる靴音。
 闘儀場は閑散として静かに沈黙の嵐が吹き荒れ、あちこちから闇が染み出している。それが逆にフェイを追い立てている。
―─間に合わないか
 彼は唯一存在する階段で上へ向かっている。もし誰かが降りようとするならば分かる。
 それでも彼は静かなこの一帯の雰囲気に飲まれていた。

  ざん

 最上階。
 まだ間に合ったようだ。ちょうどそう思った時、彼女が飛び出して来た。
「フェイ…」
「どこへいくんだ?」
 ファルは明らかに彼の存在に動揺していた。
「脱走は重罪なんだろ。…どこへ行く気だ」
 彼女は返事をしない。その代わり、ゆっくり後ろへ下がるようにして構えを取る。
 フェイは応えて構える。
「機甲会正拳流、ラ=ファル=スプモーニ、参る」
「闘技界舞猿流、『俊速の斧』フェアラルス=ベイ=クェイ、参る」
 私闘は禁止である。もちろん、喧嘩両成敗、二人とも即刻この街を出なければならない。
 だが、今ここで彼らの闘いを見る人間は一人もいない。
「いやああああっ」
 多分、観客がいれば驚愕の声が聞こえただろう。フェイが残像を残しながら一息に間合いを詰めたのだ。
『斧旋脚』
『鉈刃脚』
 金属と金属が打ち合ったような不協和音が響き渡る。
 フェイのふくらはぎを打ち付けるような強烈なファルの臑だが、残念ながら大した打撃でもなかったようだ。
 これが闘士だ。彼らの身体は鍛え上げられた強力な武器である。
 二人はざっ、と間合いをあける。
「はっ」
 短い気合を発する。どん、と直接耳に響かない音が聞こえる。
「…何故、私の一撃を待って構えなかったの?」
 フェイは苦笑いを見せて呟く。
「そうか、そんな事すりゃ、正当防衛か」
 ゆらり、とファルから間合いをあけるように体を揺す。
 だがそれに反応する間もなく体を切り返して突きを繰り出す。
 ファルはカウンター気味にそれを返す。
「それじゃ、デートもできないだろ」
 すれ違いざま背後からの肘。
 すっとしゃがみこんでかわすと真後ろへの回し蹴り。

  ぱしっ

 小気味良い音を立てて彼女のつま先がフェイの体に届く前に止まる。
 彼女の足首にはフェイの掌が圧し当てられていた。
「…こんな超接近戦闘は俺の方が一枚上手だぜ。お前こそ自分の間合いを保ったらどうだ?」
「それじゃ、せっかく付き合ってくれているフェイに悪いじゃない 」
 ふっと彼女の脚の感覚が失せたと思った途端彼女の顔が目の前を横切る。
―─!
  水月
  村雨
  鴈下
  人中
  稲妻
  秘中
 意識する暇も無く体は次々に払いと受けを続けていた。
─―以外にちゃんと鍛練してるのか
 フェイは間合いを離そうと思いきり地面を蹴る。
 だがファルもまるでそれをよんでいるかのように同時に蹴りこむ。
 にやり。ファルはぞくっと背筋が冷たくなったのを覚えている。だが、もう。

  どさ。

「甘いって。だから、俺のほうが一枚上手だって」
 ファルは反応して動いたつもりだったが、それは“誘い”だった。
 彼は逆に体を入れ、肩と腰を打点にする特殊な当て身をカウンターで入れたのだ。
 フェイは彼女を助けるように手を差し伸べる。
 だが彼女は覆いかぶさるような彼から顔を背けるだけで、手を借りようとしない。
「…何故きたの」
「旧くからの友人が間違いを犯そうとしているのを、黙って見ていられなくてさ。お節介な性格でね」
 フェイはそれまできちんと笑みを浮かべていたのに、笑みの雰囲気を消し去った。
 まるで、能面の笑みのような堅い、そして冷たい『笑み』だ。
 つうっと彼女の頬を涙が伝う。が、フェイは一切動揺も躊躇も見せない。
「違うわよ。そんな、そんな事聞きたいんじゃない…何故私が…」
「出て行くのが分かったかって言うんだろ」
 ファルは目を閉じてぐったりと力を抜く。フェイは体を起こして彼女の側に膝をついて、少し顔を近づける。
「私の所には…試合の情報と食事以外何も運ばれて来ない事だって知っているんでしょ?何故…」
「そりゃ、お前。簡単な事だろ。“仮面の剣士”が現れたって話ぐらい食事を運ぶ係に聞けば分かるだろ?」
 えっ、と言った顔をフェイに向けて体を起こす。フェイはその様子を面白そうに眺めて続ける。
「おいおい、俺が気がつかなかったとでも思っていたのかよ」
 ファルは唖然として目を丸くしたまま彼を見つめる。
「ま、そう言う事さ。…だがな、俺との試合を放棄しちゃくれないでくれよ。俺はお前さんと闘れるのを首を長くして待ち望んでいたんだぜ」
 ぽん、と肩に手をのせる。
 何を思ったのか、それに合わせて彼女は抱き着いた。
「うわあっ、こ、こ、こらっ、やめやめやめろろっ」

  ごん

 フェイはそのまま床に頭を打ち付けられた。
 いくら闘士でも、頭は弱点である。強打すれば気を失って当然。それでなくても彼は女には非常に弱いのだ。
 普段全く気にならない程ファルが女でなくても十分に効果的だったようだ。
―─…ごめんね
 ファルは目をまわしている彼をそれでもいとおしそうに見つめて額に軽いキスをして立ち上がる。
 後日、これがきっかけで彼は二度とファルには勝てる事はなかったというのは、余談である。
 

 キールの欠場から半日もたった、その日の夕方。再び奴─―仮面の剣士が現れた。その頃、街の外に一台の馬車が停まった。
「旦那、日が沈むのには間に合いやしたよ」
 嬉しそうな言葉をあげる。馭者が振り向いたときには既に男は降りていた。
「ああ、いつも世話になる」
「へへへ、旦那。旦那にはいつもよくしてもらいやした。あっしにはこんな事ぐらいでしか感謝できないですがね」
 男は笑いかけて、馭者に袋に入った金貨を渡した。

  ざかっ

 男はマントを翻して闇の忍び寄る街を見つめた。
―─フン……
 月が天頂に昇ろうという時間なのに、静寂が包むはずの街並みにはまだ喧噪が残っている。
 この時期には大抵の店は終日営業になる。
 負けた奴らがやけ酒したり、観客のうちでも大勝ちした人間が毎日のようにお祝いするするからだ。
 男はマスクに指をかけると目元まで隠すように引き上げる。そして、ゆっくりと片隅の闇の中へと足を踏み入れた。

  ちゃきん

 しばらく歩いた頃だろうか。金属が立てる音が彼を遮った。
 気配は一つ。
 奴は暗闇の中で刃を構える。
「イヴェルグ=キウルアーキか」
 マスクの下からくぐもった声を出す。だが、剣を構えた姿には切っ先を向けることに何のためらいも見せなかった。
「それじゃ分かる奴にはすぐ偽物だって分かるぜ。奴の剣は抜き身じゃねえ、居合だ」
 だが返事はない。じりじりと間合いを測る奴に、闘いの気配すら見せないマントの青年。

  ぐん

 一気に間合いをつめ、刃は真っすぐ襲いかかった。

  きぃん からん

 だが、牙を模した仮面は音を立てて地面に転がった。マントを羽織った男の方はかすり傷すらついていない。
 月の滴に濡れた青い夜の中に、奴の顔がはっきりと現れた。
「……驚いたな」
 マスクに思わず指をかけて青年は言った。
「顔どころか頬の疵まで似せてやがる……」
 彼がそう呟いた途端、イヴェルグ─ガレヴィの表情は引きつってその場に凍りつく。
「なぁ、まるで鏡を見るようじゃねえか」

  がしゃ

 マスクの青年はマントの下から金属製の『手』を見せた。
 通常セストスと呼ばれる暗殺用に造られた暗器の一つで、握る部分から星のように5つの刃をもつナイフだ。
「さっさと拝ませてもらうぜ。その本当の顔をよ」
「まっ……まって…」
 青年に動揺が見られた。明らかに男だと思っていた所に、子供じみた少女の声が聞こえれば当然だろうか。
 ゆっくり、彼の見ている前でその姿が小さくなっていく。

  かしゃん

 大きさの合わなくなった鎧が音を立てて落ちた。
「…ガレヴィ、逃げて」

  ざわっ

 風がざわめいた。
 すっと身を沈めた男の上から、閃きが走る。
 後ろへ転がるようにして飛びのいた空間に闇が躍りかかった。
―─!
 影は着地と同時に腕を振った。軽い金属音と同時に指先に煌く物が見えるのがわかった。
「くっ」
 ぎりっと地面を咬む靴音。ガレヴィの右手は一気に引き絞られ真後ろで止まる。
「さっせるかぁっ」

  ずん

 地面を蹴りこんだ彼の体は一気に影との間合いを詰めた。
 既に奴の右手は前方に構えられていたが、それが振り抜かれる前にガレヴィの右手は背を向けた奴へと疾っていた。
『穿っ』
 右手が炸裂したように見えた。
 『何か』が命中した奴はつんのめるように前に転がって、そのまま倒れるように思えた。だが、ガレヴィは跳んだ。

  くんっ

 奴は地面に倒れるどころか、そのまま一瞬で目前から姿を消す。
―─くっ、かなりの使い手か
 宙に浮いた『空中戦』の場合、普通は後から浮いた者の攻撃の方、もしくは早く着地した方が有利になる。

  ひゅぅうん

 空を切る音が自分の背中から襲い掛かる。
「ガレヴィ!」
 転がって地面に体を打ち付けるようにして着地する。
 奴は、振り返ったガレヴィの目の前に沈む暗い闇の中に潜んでしまって、うっすらとした墨が漂わせる気配以外残していなかった。
―─あの体勢から俺を飛び越えて……足音も立てずに隠れるだと?
 つうと脚へ伝うものが耐え切れずに滴る。転がった拍子に刺さっていた物は抜けたようだが傷は大きくなったようだ。

  ぴしっ

 頬に一条の紅の筋が浮かび上がる。
─―これ以上は……
 一瞬、後ろにいる少女の事が脳裏をかすめる。
 間隙をぬってガレヴィの足元に黒子のような姿が滑り込んでくる。
 のけ反るガレヴィの顎をすれすれに閃きが走る。
 彼の右足は一瞬躊躇したような捻りを加えて、後ろに倒れざまに黒子の伸び上がった脇腹に突き刺さる。
─―?軽い?
 手ごたえがなかった訳ではない。が、彼は怯んで宙に体をさらす奴を確認せずにそのまま地面を蹴った。
 先程の、自分の名前を呼んだ少女を抱き抱えて。

  ぺっ

  壁にしたたかに叩きつけられた影のような奴は口に溜まった血を吐くと、逃げる影を見て肩をすくめる。
  そして再び影の中へと姿を消した。

 しばらく少女を抱き抱えたまま人気のない路地を走り、角を転がるようにして暗い中へと身を投じた。
─―気配は…ない…まいたか?
 背中に石の壁が冷たい。
 もう乾いたのか軋むような音を立て粉が落ちるのが分かる。指で自分の頬を撫でて、完全に出血が止まっているのを確かめる。
 『気』の流れに乱れもない、完全に治癒している。
 彼ら闘士は―─特に近距離型と呼ばれるガレヴィのような闘士は非常に簡単に傷がふさがる。
 もちろん止血と治癒は早いが、完全にふさがるにはかかる時間は普通と変わらない。
 しかし、傭兵として戦闘を続けるには、生き残るには不可欠な能力だった。これが彼らを最強足らしめるものだ。
「うっく…」
 きゅっと胸元を握り締められて改めて気がついた。少女―─イィエルがいる事に。
「ごめん…なさっ…」
 むせるように涙声を出す彼女。
「本当に……あた、あたい…」
 どうやら耐え切れなくなったのか顔を上げた途端に泣き崩れて続けられなくなる。
 ガレヴィは肩をそのまま抱き締めて、しばらく壁に身を預ける。
―─馬鹿な……
「イィエル」
 人の気配はしない。この辺の路地に住む人間さえも公開闘儀式の為に出払っているのかもしれない。
 そして、先刻の闇の気配も消えたままだ。
「…ありがとう」
 空にはまだ白い月が昇ろうとしていた。
 

「悪魔退治ですか」
 鉄槌の名前で呼ばれてから1年も経った頃の事だった。
 既に彼の正体は知れ渡っていたというのに、その強さのためか機甲会も手を出さなくなった。
 いや、多分彼一人にもう予算はさけないのかも知れない。
「そうなんです。困っているんですよ」
 御陰でこうして大手を振って仕事を貰えるようになった。イヴェルグ=キウルアーキ、『鉄槌』として。
 やけににやついた男を見下したように一瞥すると、悪魔が潜むと言う山へと足を進めた。
 その仕事は非常に簡単だった。
 はっきり見た人間は生きていないが、悪魔と呼ばれる存在が山に住み着いてしまって何度か被害を受けたというのだ。
 それを退治すればいいという訳だが、彼が最初ではなく、もう何度も腕利きが山へ登ったのだが、結局帰って来なかったらしい。
 結局悪魔がいるのには困り果て、彼を呼んだのだ。
 『かなりの腕前の闘士』として村人がかき集めたお金を使って。
 山は普通の小さな山で、特別奇妙な邪気を感じる訳でもなかった。
 邪気に沈んだ暗い森には何度か足を踏み入れたことがあるが、そんなものは微塵にも感じられなかった。
―─当然だ。
 彼は半信半疑で山を登り始めた刻、茂みを突っ切るようにして人影が転がり出てきた。
 あちこち引っ掻いた傷が浮いた痛々しい少女。
「た…助けて」

  おぉうん

 不気味な唸りを挙げて茂みの上に飛来したのは、老人の顔だけをやけに大きくして蛇のような体をおまけ程度にくっつけたもの。
―─悪魔?
 すぐに身構えた彼は真っすぐ向かってくる奴に得意な蹴りを一度入れてみた。

  ひゅうぅん

 確か、そんな音だったような気がした。衝撃とはまた違う妙な感触が腰の当たりから脳天へ突き抜けた。
 そしてほんの僅かな違和感と共に、奴はすれ違うように後ろへと擦り抜けた。
─―…?
 振り向いたガレヴィの目に一瞬映った奴の嘲笑う顔が、目の前の風景へと溶け込んでいった。
 だが、ガレヴィにはそれが元々あったもののようには思えなかった。
「…あ、ありがとう」
 少女は訳の分からない、と言った表情が混ざった顔をガレヴィに向けて礼を言うとペコリと頭を下げた。
「いや…先刻の奴は、知っているか?」
 少女は目を丸くして首を傾げる。
「知らなければ知らなくてもいいんだ。俺は後を追…」
 その時、背後に強烈な殺気を感じて振り向いた。
 奴だ。今先刻消えたはずの、あの『悪魔』だ。
「下がってろ」

  ざきっ

  彼は金属製の鎧を鳴らすと再び身構えた。
 空を裂くものがガレヴィの足元に直撃する。
 飛散する草の葉を飛び越えるようにして一息で間合いを詰めると鋭い拳足が悪魔の横っ面に突き刺さる。
 鋭い周転脚が悪魔を捉えたのは、今思えば偶然だったのかもしれない。
―─手ごたえっ
 勢いにのせた体をひねると拳をそのまま立て続けに繰り出した。
 が、それをかわした奴はすっと後ろへと下がり、またあの『何か』が空を切って次々に足元を裂いてゆく。
 すんででかわすように横へ滑るガレヴィは、下がりつつある奴との間合いを詰めていった。
 そして。
「りゃあっ」
 地面を蹴って、一気に間合いを詰めたガレヴィの体が一転し、勢いよく足刀が奴の額を一閃した。
 一瞬、奴が嘲りの笑いを浮かべていたように見えた。
 
    暗転

「ぐっ……」
 何が起こったのだろうか。
 急に感じた全身の衝撃、気がついた時の体全身にきた痛み。口の中に残る鉄の味。
 ゆっくり見回してみて、今どこにいるのか分からなかった。
 いや。元いた場所と、今の状況との自分の記憶が連続しないのが分からなかったのだ。
 暗くて鬱蒼と茂った山の中らしいが、先刻までいたはずの山の中だとして、どうなったのだろうか。
─―確か……悪魔を……

  がさっ

 人の─―獣かもしれない―─気配がした。
 幸いまだ体を動かしていない、気配を断てば十分隠れられるだろう。しかし、痛みのせいで相手の気配がはっきりつかめない。
―─まだまだ……修行が足りねえか
 すっと呼吸を抑え、自分を自然に風景に同化させる。薄暗いここでは死体のような彼を見つけるのは困難だろう。

  がさっ

―─やけに小さい……
 足音らしい。それも、人間のような直立歩行した2本足だ。
 先刻の悪魔とは違うだろう。それと同時に、彼はそれが真っすぐ近づいてくる事がわかった。
「…死んだ…?」

  ばしっ

 ここまで近づけば闘士の彼にとって、目をつぶっていても狙った場所へ手をもって行く事など朝飯前だ。
 ガレヴィは相手の首をつかんでそのまま持ち上げ、背中から落ちるように一転させると地面に叩きつけてそのまま組み伏せてやった。
「……」
 げふげふとむせて、自分の下で苦しそうにするのは、しかし先刻助けたはずの少女だった。
 いや……どう見ても先刻見た少女と変わらないが、少年のようにも見える。
「お前…」
 少女―─いや、少年はきっとガレヴィを睨みつけて頬を紅潮させて顔を背けた。
 彼は確かに『死んでいるの』とは、言わなかった。
 『死んだ?』と疑問形で呟いた。それは明らかに彼が『死んだ』と考えられる状態に陥るのを知っていたからだ。
「殺せよ」
 吐き捨てて、もう一度ガレヴィを睨んだ。彼もガレヴィの態度からそれを察したらしい。
「早く殺しなよ、あたいを。『悪魔』退治に来たんでしょ?」
 ガレヴィは表情に陰りが走ったが、怪訝そうに眉根を寄せて彼の顎を指で押さえる。
「先刻のは…幻覚か何かか」
 ヘン、と馬鹿にしたように顔を歪める。
「そうだよ。もうこの手で何人も殺して来たよ。断崖絶壁に誘い込んでさ。
 …正直、あたいもうあんたを殺す事なんかできやしない。見ての通りか弱いんだからさ」
 睨み付ける顔は完全に信用していないと言う貌だ。
 ガレヴィは彼女から左手を離すと立ち上がって背を向けた。
 少女は彼の態度を怪訝に思ったのか立ち上がって叫んだ。
「まっ…待ってよ、何のつもりだよ」
 ガレヴィは振り向こうともせずに肩をすくめた。
「馬鹿らしい。何で殺さなきゃいけねぇ。たかがガキの悪戯に…」
「ガキじゃないっ、少なくともあんたより年上だっ」
 ガレヴィは軽く首だけを後ろに向けた。
「あたいの首を持って行ってみな、そうすれば分かるはずさ。
 …ああ、あたいが悪魔だよ。何で嘘言ってまで殺されなきゃならない?
 殺さないっていうんだったらこのまま村までつけていってやる、そうすりゃお前の信用もがたがただぃっ」
「どうせ俺の信用何かねえよ。…嫌われ者には住みにくい世の中さ、ここはな」
 ガレヴィは薄笑いを一瞬だけ浮かべて振り向いた。
「…お前、『亜魔人』だな。一つだけ言っておくぜ。俺は無駄な殺しは好きじゃねえ。
 それも、無抵抗な人間…力のない人間を虐殺するような真似だけはできねえ」

  ぶちっ

 革紐をかけて止めていた腰の袋を引き千切って彼の前に投げる。

  ちゃきん

「何の真似だよ」
「…逃げな、西へ。すぐ近くに大都グラバルネイスがある。それだけの金があればこの世じゃ十分通用するはずだ」
「ふざけるなっ、あたいは恵んでもらう程…」
 ガレヴィは声を立てておかしそうに笑った。それを、一笑に付されたのが気に食わないのかぶすっと膨れた顔でガレヴィを睨みつけた。
「馬鹿野郎、それはお前の金だ。ただし、首にかかった賞金の約半分だがな」
 ガレヴィは再び踵を返して肩をすくめた。
「早くここから消えろ。さもないと俺様の分がふいになっちまう」
 

―─あれ以来…か
 先刻まで通りまで聞こえるぐらい大声で泣いていたイィエルも、落ち着いたのかもう震えていない。
「ガレヴィ」
 イィエルは顔をあげた。目を真っ赤に腫らして、紅潮した頬が膨らむように笑う。
―─噂には聞いていたけどな…
 亜魔人は長寿─―というよりも老いる事はない―─の為に、
 人間よりも精神が強固であり、普通の人間と比べると非常に子供っぽい純真さを持つ。
 さらに精神生命体と呼ばれる存在に極めて近いために波導や精神の動きに敏感で、非常に寂しがりやだと言われる。
 そして、それ故に悪人には近寄らないとも言われている。
―─ここまで簡単に信用されても良いものか…
 嬉しくない訳はない。
 彼らに好かれるには生粋の善人である証拠である。―─但し、根っこが善であって、その行動そのものとは結びつかない。
「落ち着いたか」
 彼女は─―イィエルは男ではない、と思う─―戸惑うように首を傾げてガレヴィの首に額をくっつける。
「何とか。…ずっと会いたかった。よかった、まだ生きてて」
 ガレヴィが思わず顔をしかめて言い返そうとするのを、顔をあげて遮る。
「ごめん…あたい、ガレヴィに会いたくて、会いたくてそれで」
「こんな無茶しやがって」
 肩を抱くように軽く背を叩く。今度はもう泣く気配はない。
「でも、会えてよかった。あたいね、御礼言いたかったんだ、あの時の」
「あの時?」
「そう。初めて会った時の村で、ぶん殴ったじゃない。ガレヴィが忘れてもあたいは忘れられないもの」
 あの後、ガレヴィは山を降りて賞金を受け取りに行った。
―─そうだ、そう言えば…
 ガレヴィも、忘れられるはずはなかった。
 

 賞金は悪く言えば十分なものではなかった。
 しかし、もし彼の言った事が本当ならば、村人は分かっていて彼を殺させようとした事になる。彼を。
─―残酷なものだ
 彼ら闘士にとって、殺す事は『悪』である。
 そのため傭兵としても決して気が抜けるはずはない―─殺さずして相手の動きを完全に封じる、それが理想なのだ。
 そして、実際の高位闘士にはそれを成す術を持つ。強さを振りかざして傷つける事は決して許されない。
 たとえそれが、どのような手段であろうとも。
「これが賞金の残りです」

  じゃきっ

 革紐のついた袋を受け取るガレヴィ。路銀にすればもう十分一週間で消える少ない量だ。
 最も、これだけの金なら半月は暮らせるだろうが。
「ところで、本当に悪魔を殺してくれたんですか。殺さないとまたここに戻って来ますよ」
 来た。多分、くるだろうと思っていた。
「ああ。…証拠が欲しいのか」
「普通は首とかを持ってくるでしょう」

  ぴくっ

 ガレヴィの額が引きつる。村人の表情は皮肉ったような笑みを浮かべている。
「是非、死体を見せていただきたいのですけれども」
 心底嬉しそうな─―その笑みの裏に隠れた物をほのめかすような―─昏い笑み。
 くすくすという嫌らしい笑い声が今にも聞こえて来そうな気がする。
「…そんなにみたいか」
「ええ、是非」
 次の瞬間、彼はのけ反りながら地面を転がった。
 耐え切れなくなったガレヴィが思わず拳を奴の顔にめり込ませたのだ。
「ぎゃ、ぎゃあっ」
 のたうちまわる彼につかつかと歩みよると、革紐を引き千切って中身を彼の頭から注ぐ。
「貴様のような奴らがいるからっ…」
 綺麗な音を立てて転がる金貨を見つめながらおろおろする彼に、空っぽの革袋を投げ付ける。
「安心しやがれ。奴はもう二度と貴様らには面ぁ見せやしねえさ」
 

「俺だって忘れられやしねえよ。できる訳ねえ」
 思わず拳を固める。
「傲慢な奴らだった。そのくせ自分じゃなにもできない、ずる賢い。…俺と同じ人間でも、自分のためになら蹴落として行ける奴らだ」

  めきり

  固めた拳が筋肉の圧力に音を立てる。
「そうだね。あたいもそう思う。あたい達って、嘘ついたり、騙したり、そんなのないもの。そんな、無駄な事」
 イィエルが耳をそばだてるように後ろの方を振り返ろうとする。
 気配に、ガレヴィも気がつく。無言のまま立ち上がるとイィエルを奥の闇の中へ促す。気配は確実に近づく。
 それはゆっくり姿を現した。
 人影が通りを横切るのを見てガレヴィは安堵した――暗殺者なら完全に気配を断つはずだからだ――が、通りに顔を見せたのは以外な人物だった。
――ファル?
 見間違うはずなかった。それでなくとも最も近い位置にいた闘士だ。
 気配の色で分かるはずだが、今は彼女の気配が違う者のように感じている。
――罠か?
「待ってろ、すぐ戻る」
 イィエルは頷いて壁に身体を預ける。それを見届けてゆっくり通りの方へ移動する。
 ファルはまだ路地の中を、何かを探すように歩いている。
「…ファル」
 意を決して声をかけた。彼女は足を止めた。
 急激に膨らむ『殺意』。
「今まで、どこをほっつき歩いてたのよ」
 呟くような声を出すが、振り向こうとしない。
 ガレヴィはさらに一歩踏みだそうとしたが彼の耳に細かな音が入って来た。普通聞こえるはずのないような小さな音。
――泣いて…いるのか?
 それが一度一際大きな音を立てた。
「無責任な言葉だけ残して。一体どれだけ心配かければすむって思ってるのよ!」
 ファルは振り向いて叫んでいた。何かを我慢するように両肩を大きく振るわせる。
――そのピアス、まだつけていたのか
 彼は声に出せなかったが、先刻から聞こえた音が、彼女の耳元から聞こえていた事に気がついた。
 ファルは以外にも泣いてはいなかった。
「…選手じゃなかったのか」
「そんなこと」
 顔が曇ったのを見逃さなかった。隠すようにうつむいた彼女に少し近づいて顎に指をかける。
「やめ」
 振り払おうとする彼女の口を無理矢理塞ぐと、ぶんと音を立てた彼女の掌がガレヴィの頬を打った。
 甲高い音が路地の中に意外に響いた。
「何をするのよ急に!私は」
「黙れ」
 きつい口調に、案の定彼女は黙り込んだ。それはガレヴィにとって肯定ともとれる物だった。
 が、口には出せなかった。
「…すまない。しかしお前も人に心配かけるのはやめてくれないか。公開闘儀式の際にこんな所にいるのを見つかりでもしたら」
 空を切る音。

  かきぃん

 振り向くように振り払った右手の甲に弾けた閃光が、舗装されていない地面に突き刺さる。
「言わんこっちゃない」
 見つかった。
 ガレヴィが、だが。しかし彼を追うのは機甲会の暗殺者だろう。ファルの姿を見られたりしたら無事のはずはない。
 しばらくしたが第2撃はなかった。
「…ガレヴィ。殺気は消えたよ。何か妙な気配が重なって」
 言葉通り、それ以上の攻撃はなかった。が、新たに気配が近づいてくるのは確かだ。
 ガレヴィが身構えると同時に、それは突如彼の目の前に姿を現した。
 実際には男の姿の黒さが、気配を伴わずに目の前に現れたからだろう。
 暗い路地裏では男の着ている光沢のない黒服は、人間の目には捉えがたい物だ。
「お前が、ガレヴィか」
 殺気は、気配同様感じられない。黒い髪に黒い皮の手袋、そして襟を立てた黒いマント。まさに黒ずくめと言う感じの男だ。
 彼が黒い瞳をガレヴィの向こうに向けた。
「信じられないことだな。そう思わないか?
 世界中の全ての人間がお前を嫌っているというのに、暗殺者以外の人間も…そうだな、ヒトがお前を熱心に探している」
 ガレヴィは身構えて間合いの外にいるこの男の事を考えあぐねている。
 知らない男だ。しかし、その身のこなしや気配は手練れの『戦士』のものだ。
 決して暗殺者の類ではない。暗殺にも色々あるが、暗殺者が目標に顔を見せるのは殺す直前でないかぎりない。
 まして、べらべら喋る物ではない。
「誰だお前は」
 男はにこりともせず自分の眼前に拳をつきだして握りしめる。
 革の軋む音が、ガレヴィの耳元にまで届く。相当な筋力があるようだ。
「まだ知られてもいないだろうな。これから有名になるはずの男だ。だがそれはお前を倒してではないんだ」
 そう言って始めて口元に笑みを浮かべた。
「俺の名はアブドゥーグ=カルマ。これからあんたの言葉に惑わされる事になる。
 教えちゃくれないか。あんたの言った、『何故闘うのか』の意味を」
 ガレヴィは少し苦笑めいた嘲笑を浮かべる。
「…この問いに取り憑かれた者は、二度と闘いの道から逃れる事はかなわない。闘いの道のどこかにこの問の答えがあるような気がして。
 …そのとおりだ。しかし残念だが、言葉でおいそれと伝えられるような容易い代物じゃない。
 闘いの中にあって、闘いを通してのみ手に入れられるものだ」
「名誉でも、愛でも、まして欲のためでもないというのか」
 ファルを下がらせてガレヴィは構えをとる。
「…違う。戦争じゃないんだ。闘って闘って、その果てには結局自分の世界しかない。
 他人に影響を与えるのはその付加価値だけであって、闘いの本質でも闘いの意味でもまして闘う理由でもない。
 そのぐらいの事には、もう気がついているんじゃないのか?」
 そして笑う。
「『理由なんて物はもっと利己的だろう』?お前にも拳の疼きが感じられるはずだ」
 アブドゥーグはにやりと笑うと同じように間合いを測って構えをとる。
「…ああ」
「不幸だな」
 ガレヴィはぽつりと呟いたが、それがアブドゥーグに聞こえたかどうか分からない。
 それが合図となって仕合が始まった。最後の仕合が。

 機甲会最大の行事にして最も神聖な儀式、公開闘儀式。あらゆる意味での賭け事でありあらゆる意味での最高の『名誉を与える』場所。
 しかし、それを揺さぶった男がいた。その名前は永遠に語り継がれる事だろう。
 彼の影響は世界中の闘士を目指す闘いの中に生きる者に与えられた。彼は、そんな彼らの事を『不幸な者』と呼んでいた。
 ガレヴィ=チャルウィックの優勝以来数年間公開闘儀式は混乱が続き、最終日までまともに試合できない事が当たり前のように続いた。
――しかしそれもこれで終わらせる
 キールが右手を振ると、その手の中には投げナイフが収まっていた。
 幾つも暗器を持つ彼女は、その中でも最も得意なものを選択して闇の中に身体を沈ませていた。
 目的を果たすためには―目標の暗殺のためにはどんな手段でも講じるその執念にも似た行動は、暗殺者として認められるための行動だった。
 今回の『闘儀式参加』も、機甲会の役人の企てたガレヴィ暗殺のためのシナリオだった。
『貴方のその手段を選ばないやり方には、闘士ではできないものもあるのですよ』
 役人の言葉遣いは非常に丁寧で、金払いも良かったが、その言外にある皮肉も彼女は感じていた。『卑怯』だ、と。
――分かるさ。…しかし、俺にはお前らの『神聖な儀式』は理解できないんだ
 思わず汗ばんでくるその掌を服で拭う。彼女は全身のバネを使い壁を蹴ると屋根まで登っていく。
――所詮、人殺しのための技術…なんだろう?
 いつも仕事の直前にもたげてくる疑問。
 彼女の本名が持つ意味と血は、彼女が『女』を捨てさせられた最大の理由。
 そして、こうして血刀を振らされている理由。
――いきるためには誰かを踏み台にしなければならないんだ
 そして、自分に言い聞かせる言葉。
 屋根の上から、ファルを見つめる。今回の仕事はやりやすいはずだった。
 闘儀式というイベントに、さらに『イヴェルグ』を使えば十分な餌になるはずだった。
『ガレヴィに会いたいんだろう』
 丁度亜魔人がガレヴィを探していて、手間も省けた。手練手管を使うのは苦手な方だけに、自分の得意な分野を利用してやったのだが。
「我ながら…」
 まさか彼女にしてやられるとは思っていなかった。
 いや勿論、襲われ慣れたガレヴィの強さもあるだろう。左肩は多分痣になっているはずだ。
 打点を僅かにずらしたはずだったが、ガレヴィの蹴りをよける事は叶わなかったのだ。
 よけられなければあのまま倒れていたかも知れない。それもこれもイィエルが幻影を使うと知らなかったためだ。
 イィエルの見せた幻影は、キールの追跡をも阻んだ。そのため、彼女は奥の手を出すことにした。それがファルだった。
 イヴェルグの噂の出所は言うまでもなく彼女である。その噂を尤もらしくファルに伝えて、ここにおびき出した。
 あとは、彼女につられてガレヴィが出てくるのを待つだけだ。そして、油断したガレヴィを真後ろから一撃すればよい。
 意識を集中させて、ファルの周囲を見つめていた。
 そのせいで、彼女は他の事に気がつかなかった。まさか屋根の上に誰かが現れるなど考えるよしもなかったのかも知れない。
「キール」
 自然に逆手に持ち替えたナイフを胸元へ引き寄せて、声のした方へ振り返る。
 一瞬で、決める。
「あっ」
 が、屋根に腰を下ろしたような格好のまま硬直する。
 相手の名前が喉を突いてでそうになっても、胸が詰まって声にならない。驚愕と背徳が一緒になったような感情。
 殺したく、ない。
 まず真っ先にそう感じたせいか縛り付けられたように動けない。
「昨晩、機甲会の人間と会っていた理由か?」
 夕闇に隠れそうな黒い服の男は言った。
 その声色は静かで、発券場で始めて出会った時を思い出させる。足音も立てず、服だけが揺れている。
 その知的な静けさが斬りつけるような感情を引き出すかも知れない。そう思うとどうしても声が出ない。
「目的は、ガレヴィの暗殺と言うところか?」
「そういえば、この間イヴェルグを追っている時にも会ったな。まるで偶然を装って」
「どうした?口が利けないのか」
 実際にはかなり沈黙を含めた間があった。が、今の彼女には矢継ぎ早に質問されているようだった。
「あ、アブドゥーグ…」
 何とか絞り出した声も、力のない情けない声にしかならない。断罪されているような気持ちになって早鐘のように胸が鳴る。
「お、俺は…」
「仕合は嫌いだってそう言ったよな」
「やめてくれっ」
 その言葉に呪縛を解かれて叫んだ。両手で頭を抱え、思い切り振る。
「やめてくれ…それ以上俺を」
 アブドゥーグの目が一瞬動いた。それに反応して彼女は彼の目線を追い、そしてその先にガレヴィがいるのを見た。

  ひゅうん

 考えるより早く手に握ったナイフが空を割く。狙いは誤ることなく綺麗にガレヴィの後頭部へ飛来した。
「ばっ馬鹿」
 だが、確認する事はできなかった。アブドゥーグが彼女を背中から羽交い締めにして屋根に押し倒したからだ。
「何をするっ、はなせっ」
 無理に身体を捻ろうとして痛みに思わず顔をしかめて唸る。左肩が動かせないのだ。アブドゥーグはそれに気づいて腕の力を緩めた。
「悪いが、お前の目的を果たさせる訳にはいかない」
 再び胸が痛む。思わず全てを吐露して泣き出したくなるのを何とか抑える。
「…頼む、これ以上俺を断罪しないでくれ」
 キールは涙声で訴えた。
 アブドゥーグの前ではどうも情緒不安定になりがちになる自分を感じながら、不覚にも目に涙がたまるのを抑えきれなかった。
「人を殺して金を貰う事しか俺にはできないんだ。だから」
 声にそれが混じるのだけは我慢した。弱さを見せたくなかった。
「暗殺者にしては、人殺しを嫌うんだな。そうやって自分を虐めて楽しいのか?」
「やめてくれっ」
 緩んだ腕を払うように転がって振り向く。アブドゥーグは少し驚いたような顔をしている。多分、キールの顔を見て驚いたのだろう。
 振り向いた時の彼女の顔は涙でぐしゃぐしゃになっていて、今にも叫んで声を上げて泣きだしそうだった。
「だったら。少しだけ力を貸そう。そのかわり、もう殺しはやめてくれ」
 そう言うとにやりと笑みを浮かべる。
「お人好しでね。自分を虐めている奴を見ていられなくなるんだ」
 彼は身体を起こしてキールに手を差し出した。
「『城の壁』亭で待ってな。お前の『闘い』が無駄だったかどうか、それを考えるには十分時間はあるさ」
 しばらくアブドゥーグの手を見つめて、腕で顔を拭う。
「一緒に…いてくれるのか」
 少しだけ期待のこもる声で聞いた。
「お前がそれでいいんならな」
 

  がしぃいいいん

 闘士の作る最大の力を干渉させた。
 アブドゥーグは笑みを浮かべて一歩退いた。
「これが再凶と言われた男の一撃とは」
 『気』の作る衝撃は気でしか止められないと言われている。
 それをも止めた彼の呪紋はむしろ、術よりも闘士の闘気に近いのかもしれない。
 既にファルの姿はなかった。逃げたのではない。ガレヴィが帰らせたのだ。
「ふん」
 間合いを広げる二人。
 ガレヴィはアブドゥーグという男の実力を計り間違ったのを確かに感じていた。
 まさか術を使って格闘する呪法師がいるなどとは思ってもいなかったからだ。
「お前こそ見たこともない事をしやがる」
 その言葉には思わず笑みを浮かべる。
「当然だ。覚えておけ、格闘高速呪法師の名を!」
 彼は呼吸をする速さで呪紋を唱え、闘う。
 その鍛え上げられた筋肉は闘士の攻撃能力を備え、体術は呪法が補助する事で人外の能力を引き出す。
 ガレヴィは思わず皮肉ったような笑みを浮かべた。
「ああ、お前の望み通り有名になるだろうな」

  ぐん

 間合いを詰めるガレヴィ。それを見越したかのようにさらに間合いを広げようと速やかに飛び退くアブドゥーグ。
 既に詠唱は終わっていた。
「破」
 それは、決して直接攻撃用の呪紋ではない。ガレヴィの目の前が急に歪んだかと思うと、それは力を持った槍のように彼を貫く。
 衝撃波が胸元から背中へ一気に抜ける。肺の中がかき回されるような衝撃だがガレヴィは敵を見失う事はなかった。
 多分、普通の人間が喰らったのであれば気を失ったかも知れない。
「はあっ」
 さらに一歩蹴り込むガレヴィ。
 だが、目の前で笑みを浮かべたアブドゥーグは姿を消した。
「逃さん」
 それは彼が試合の中で見せた跳の呪法だ。彼は背を曲げた見下ろす格好で宙に浮いたのだ。
 しかし、ガレヴィはほとんど瞬時に、それこそ直角に方向を変えて跳躍した。

  右

 油断はしていなかった。だが、その反応に呪紋を紡ぐ暇はない。韻が踏まれてから術が発動するまである程度の時間がある。
 それがほんの一呼吸より小さいとしても、だ。
「く」
 ガレヴィの左拳がアブドゥーグの右胸を叩く。
 呼吸が乱れ、一瞬息が詰まる。アブドゥーグの手に集中していた力は安定を失い発散する。
 空中での体勢が完全に入れ替わっていた。
 ガレヴィが完全に姿勢を整えた状態で、アブドゥーグが背中から地面に叩きつけられるのを見下ろしている。
「黒嘴鶴」
 ほんの一瞬の攻防。
 ガレヴィは自分の肩を中心にして一回転する。揃えられた両足の踵が落下するアブドゥーグの胸にほんのわずか触れる。

  ずん

 アブドゥーグは2度目の息を吐き出した。口の中に広がる鉄の味が意識を現実に引き戻す。
 長い時間のように感じた空中戦はしかし、実際の時間では非常に短い物だった。
 軽く触れただけのガレヴィの足は既に落下しかかっていたアブドゥーグの胸に触れたのではなく、そのまま地面に叩きつけたのだ。
「…もう終わりか?」
 アブドゥーグは身体をゆっくり起こした。
 ほんの一瞬だけ敗北を感じた。
「終わるものか」
 完全に身体を起こすまでガレヴィは動こうとしていない。この隙を狙えば十分相手を殺す事すら簡単だと言うのに。
 アブドゥーグの口元が笑みを作る。
――死ぬかも…知れないな
 今の一撃が、間違いなく即死させる技である事は気がついていた。
 それも承知の上で、立ち上がる。
 相手は手加減をしている。
 違う。
――力の差は歴然としている。
 手を抜いている訳ではない。油断をしているわけでもない。
「お前が壁なら乗り越えるまでだ」
 その言葉にガレヴィは冷たく、そして切れるような堅い笑みを浮かべた。
「闘士になれば良かったものを…来い。これで終わらせる」
 ガレヴィの言葉に抵抗すら感じなかった。
 アブドゥーグは再び呪紋を唱える構えを取った。ガレヴィも寸前の間合いで構える。
「跳」
 跳は瞬間移動の術ではない。
 ガレヴィの、手練れの闘士の間合いの詰める速度など比べ物にならない程早く間合いを詰める。
 呪紋を唱えている暇などない。既に右腕は突き出され、ガレヴィの体に突き刺さっている。
「破」
 続けざま、その体勢からの破の呪法。
 今の彼にできる、唯一にして最大の攻撃法だった。
 だが、甲高い干渉音が響いて拳に衝撃が戻ってきただけだった。
「な…」
 次の瞬間、真横からの衝撃に弾けて彼は地面に叩きつけられた。
 

  最強
 

 何故。
 何故、この響きに憧れるのだろう。

 何故、強くなければならないのだろう。

 俺は。
 殺すためか?

 殺される事を、いとわないためか?

 では何故闘う?

 もう、殺さなくても良いだろう?

 それ以上、罪を重ねても仕方ないだろう?

 勝つ事が、大切な事なのか?
 

 生きなければ…
 

死にたくない
 

 生き…
 
 

 アブドゥーグは目が覚めた。
 そこは、冷たい地面ではなく暖かい布団の中だった。手を伸ばすと頭には包帯が巻かれていて、左腕には添え木がつけられている。
「…ここは…」
 すぐに彼は自分が敗けた事を悟った。
 ガレヴィと闘っている所まで覚えている。最後に一撃だけの勝負をして、反撃を喰らって負けたのだ。
――そうだ、俺は…
 痛みはない。部屋を見回すと、そこが自分の部屋であることに気がついた。『城の壁』亭の自分の部屋だ。

  どたどたどた

 誰かの話し声と、近づいてくる乱暴な足音。
「だから、早く看てください…」
 扉を開けながら叫ぶ、聞き覚えのある声。
「キール」
 呆気にとられたような表情から、崩れるように笑みをこぼして走り寄って、アブドゥーグに抱きついた。
「目が覚めたんだ、良かった…」
 それ以上何も言わなかったが、アブドゥーグはこみ上げてくる安堵に嘲るように口元に笑みを作った。
「意識が戻ったようだね」
 キールの後ろにいたのは医者ではなく機甲会の治療師だった。
「もう傷の方もいいんじゃないかね?」
 キールはアブドゥーグから離れて、彼のすぐ側に椅子を持ってきて座った。
「はい…御陰様で。…貴方が助けてくれたのですか?」
 治療師は首を振った。
「いいや、あんたは路地裏で頭を地面に叩きつけられて倒れていたのを、自警団の青年が見つけたんだよ。
 金品をあさった形跡があったから、ごろつきにやられたんだな」
 アブドゥーグは眉を寄せて反論しようとしたが、その前に医者が笑いながら言う。
「なぁに、公開闘儀式に参加しているからと言っても人間だから、油断して後ろから殴られればみんな同じだ。
 これから気をつけた方がいいぞ」
 彼はそのまま扉の向こうに消えた。
「俺は…」
「帰ってきてくれなかった、て訳だ」
 キールは微笑みを浮かべてアブドゥーグを見つめている。
「帰ってこれなかったんだ。…危うく生死の境を見る所だったのに、なんて言いぐさだ」
 くたびれた物言いに、にこにこしたまま彼女は応える。
「意識が戻らないんで、機甲会に頭まで下げて治療師を引っぱり出してきたってのに、なーんていいぐさだ」
 彼は悪戯する少年の笑みを浮かべているキールの頭をこづくと、いつもの皮肉った笑みではなく、本当の笑顔を浮かべて言った。
「ありがとう」

 アブドゥーグ=カルマはその年の公開闘儀式参加を最後に、歴史からその名を消した。


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