魔王の世界征服日記
第4部 おしまいとはじまり


 いつもの魔王執務室。
 長らくの魔王不在が続いたものの、常に維持してきたアクセラとシエンタの努力が、ここを清潔且つ魔王の居城へと仕立てている。
 いつのまにか仕入れた、冷風扇もひよひよと周りながら冷たそうな空気をまき散らしている。
 そして、やっぱりマジェストが直立不動で、魔王の執務机の後ろに立っているという、極めて日常的な風景の中。
「……あのさー」
 執務机の前に、めいどさんがいた。
 そりゃーもう何というか他に表現のしようがない程、完璧で非の打ち所のない程それはメイドだった。
 メイドさんと言えばこれ、と言う紺色のエプロンドレスに、髪飾りと眼鏡。
 そしてしゃきっと背筋を伸ばして指示を待つ姿は非の打ち所がない。
「帰ってきて早々なんだけど、これ、なに?」
「は」
 『これ』と呼ばれたメイドはぺこりとお辞儀して応える。
「私はコルト=プラスともうします。以後お見知り置きを」
 にこり。
 ちなみに随分昔にちょいと名前だけでてたはずの人間のコルトさんとは別人。向こうはコルト=ガヴァメントさん(27)独身男だ。
 海外製品とは違うのだよ海外製品とは!
「だいじょーぶなの?これなんなのよ」
「申しあげ難いことなのですが陛下。……以前にウィッシュとヴィッツを地下牢から出したことがあったと思うのですが」
 うん、と頷くまお。
 一緒に旅をした仲間になっちゃったし、一応なりとも助けられたのだから。
「かんしゃしてるよー」
「いえ。彼女らを解放する代わりに封印された魔物がいるのです」
 地下牢、もしくは土牢というものは名前だけで実際には管理が大変な魔物である。
 魔王が「永久封印」といえば永久に封印してくれる優れものだが、『永久封印』されていたはずのウィッシュとヴィッツを解放するには代償が必要だった。
 それが、代わりに封印される同じような魔物だった。
「ストリーム=アブソリュートとこのコルト=プラスです。コルトは私の娘なのですけれども」
「えっと。……つまり?」
「はい。ウィッシュとヴィッツを封印するかわり解放されたのです」
 …………。
 言葉は正しい。間違っていない。何故コルトなる魔物が解放されたかは判った。
「あのさ。……私こんな魔物みたことないんだけど」
「当然で御座います陛下。箱入りですから」
「はこいりかっ!」
 と言うことは当然気になるのが。
「……ストリームってのは」
「ああ、混乱するのではこいりにしてます」
「どこでどうやってはこいりなんだっっ!てか、ウィッシュとヴィッツ、何でまた戻したのよ」
 こんなへんてこりんな奴よりまし、というよりは何も執務室でこんな恰好でこんな事させる理由はあるのだろうか。
 まおは――以前思いっきり嫌っていたはずの二人に何処か同情的に言う。
 マジェストはちらりと彼女の顔を眺めると眼鏡を光らせて顔を隠す。
 本心を隠すときの、彼の癖だ。便利な眼鏡である。
「二人の任務は終了しました。バランスが崩れるので普段は封印させるぐらいで丁度良いのです」
 ちらりとめいどさんをみる。
 確かに、バランスがとれるかも知れない。
「じゃあこのコスプレ娘外に出しちゃって」
「……本当に良いんですか?ここで箱入りにすることをオススメしますが」
「何処まで出す気だ。部屋の中にいれておくなーって言ってるの」
 そう言ってまおはきっとメイドを睨む。
 メイドはぺこりとお辞儀する。
「なんでございますか魔王陛下」
「コルトは扉の外で待機ね」
「……嫌です。ここがいいです」
 ずべしゃ。
 まおは器用に執務机でずっこけて顔面殴打している。
 両腕を突っ張らせて、ひくひく痙攣させている。
「こらーっ!まーじーぃー!なんとかしろーっ」

 ひよひよひよ。
 冷風扇が一生懸命回っている。
「魔王陛下。長らくのお留守、ご苦労様で御座いました」
 取りあえず扉前待機に任務変更したコルトを放置して、執務室は静かな雰囲気が戻ってきた。
 マジェストの挨拶にも、しかしまおはあまり反応しない。
「ん……」
 つい先程、まおと『天使』の内部記憶を転写して、どうにか再生したばかりだ。
 ちなみにその時の余波でまお型天使は崩壊している。もう戻らない。
「あのさ、その」
 こうして、大きな魔王専用の椅子に深々と座って。
 執務机越しに彼女がちょこんと座ってるだけの姿をみると、酷く頼りなく感じる。
 それぐらい小さい。彼女は、自分が三倍の体型であったとしても使用にたる調度品に囲まれているようにも見える。
「私、やっぱりまおうなんだよね」
「何を今更」
 まおは、足を伸ばして自分の爪先をじーっと見つめる。
 ぱたぱた、足を動かしてみる。
「じゃあさ」
 なんで。
「勇者って。まおうを倒しに来るのかな」
「それも今更」
 まおはいすのへりに手をかけて、そのまま体を上下させて、椅子毎飛び跳ねる。
 ごんごんと椅子は前進して、良い位置になるとまおは執務机によじ登るようにして、両肘で頬杖を付く。
「魔王軍って、本当に世界を征服しなきゃいけないの?」
「そう言う設定で御座いますからな」
 まおは肘を滑らせるようにしてぺたー、と体を机の上に投げ出す。
「やっぱり人の敵なんだ」
「敵で御座います」
 今更。本当に今更ながら、まおは魔王を大きく重くのしかかってくるものだと認識し始めていた。
 記憶を失った事が、一時的にでも魔王である事を忘れると言うことが、まおにとっては大きな経験になってしまった。
――何故、こんな女の子なんだろう、私は
 答えはでなかった。
「今、ゆうしゃっているの?」
 まおの問いに、しばらく沈黙し。
「いいえ。まだ居ませんな。いい加減待たされているものです」
「そ、か」
 がたん、と椅子を蹴って立ち上がる。
「テラスに行く」
「お供します」
 魔城テラスは、勿論魔城最上階にある。
 魔王の執務室は最下層・最奥に存在する。
 さらに付け加えて、魔城は内部がいつも変化しているので、まともな神経の持ち主では最奥に向かうどころか、でるのも難しい。
 テラスに向かうまで、まおは一切喋らなかった。
 マジェストもその様子をただ眺めるだけで、何も言わなかった。
 魔城のテラスは、ここ魔城の存在するシズオカでは最も高い場所に位置し、見下ろす城下には人間の町並みが広がっている。
 一度アルバイトをした案並=ラージュもこの街にあるのだ。尤も、今ではレストラン『昼間に必要とされる者たち』に代わっている。
 なお略称はDay=needersである。
「何かこう……」
 テラスのてすりから町並みを見下ろしながら、彼女は大きく両腕を開いて。
「世界って、小さく見えるよね」
 マジェストは何も言わず、彼女の背中を見つめている。
 あの日、逃亡を企てた彼女は旅の中で何を見たのか。
 天使が思わぬ機能を発揮していたために、まおそのものの人格も危うかったのだから、或る意味。
――ご無事でよかった。私の不徳の致すところが魔王陛下を亡き者にするところでした
 全くだ。
「陛下。この世界は非常に狭く小さいもので御座います」
 何百年も成長しなかった、まおの人格も、何かの切っ掛けで動き始めたようだった。
 マジェストもそれは判った。
 勇者が現れるのは物語の始まり、そして出会いは物語の終わりを表す。
 その勇者は讃えられるのか、命を引き替えにして物語を白紙にするのか。
「酷く軽く、単純な物で御座います。陛下は、その小さな世界におられるのです」
「そだよね」
「人間というのはさらに小さく、取るに足りな」
「人間は」
 まおは珍しくマジェストの言葉を遮った。
 マジェストも彼女の剣幕に、すぐ口を閉じて彼女の言葉を待つ。
 くるん。
 まおは全身を半回転させて、テラスの手すりに背中を預けて、マジェストと向かい合う。
「人間は凄いよ。長く生きられる訳でもないのに、なんだか必死だし、その」
 んー、と言葉を探す。でも、あんまり良い言葉が見つからなくて小首を傾げてしまう。
「……とるにたらなくなんかない」
「そうでございますか」
 彼女はもう一度テラスから見下ろして、胡麻粒以下にしか見えない人の姿を探す。
 勿論、目を懲らそうが望遠鏡でも使わない限り絶対に見えない。
「うらやましいよ」
 手すりから乗り越えるような恰好で、両手を一杯に伸ばして、彼女は言う。
「……何で、魔王になっちゃったんだろ」
「魔王として生まれたからで御座います」
 きゅ、と口を噤んで、彼女は体を起こして。
 今度は穹を見上げる。遠く広く深く澄んだ蒼い穹。
 すじ雲が走り、何処までも蒼く遠くまで広く伸びた穹。
 そして彼女はきっと顔をマジェストに向けた。
「もう一度ウィッシュとヴィッツを出しなさい」
「陛下」
 マジェストは驚いて思わず言葉をかけたが、まおは真剣な表情で続ける。
「必要なら封印するのは別の、四天王でも構わないから」
 それはまおの初めての命令。命令口調でしっかりと彼にそう指示を出した。
 まおが生まれて初めて、だだばかりこねて、魔王としての命令は一度たりとも無かったが。
 マジェストはその場に跪いて頭を垂れる。
「御意」
 そして、すっと姿を消した。

 数分後、謁見の間に姿を現した二人と、連れてきたマジェストはそこにまおの姿がない事に気づき。
「あ。そう言えば魔王陛下をテラスに放置してしまいましたな。はっはっは」
 魔城最上階テラスから、どうやっても出られなくなって吹きさらしの中でびーびー泣いているまおの姿があった。
「うーわー、まじーのばかーっ!」


 長旅を終えたユーカとミチノリは、サッポロ対魔軍司令部司令官室で報告をしていた。
「みーちゃん、こけ茶お代わり」
 四人分のソファと、こけ茶と、山盛りのクッキーで。
 多分誰が見たってただのお茶会にしか見えなかっただろう。
 事実、ミチノリは嬉しそうにぱくぱくクッキーを食べているだけだ。
 誰もミチノリが報告することを期待していなかったりするのだが。
「ともかく長旅ご苦労様。それじゃ、キリエを除き大きなケガをした者はなし、ね」
 両手で分厚い陶器のカップを抱えて、こけ茶の香りを楽しみながらアキは言う。
 ユーカは小さく頷いてこけ茶を傾ける。
 ちなみにこのクッキーもアキ特製で、桃の実が欠片で入っている。
 不思議な甘さがある。
「結構大変だった。ただ予算も殆ど、食費以外消費していないので財政には直撃させていないかと思うが」
 にこにこ。
 フユがポットを持って、対照的な貌のアキの隣に現れる。
「細かいことです」
 ことりと音を立ててポットを置くと相変わらずの無表情でついとユーカを見やる。
 ふと。
――そう言えば、似ていた
 フユの仕草や雰囲気がヴィッツに似ている事に気づき、思い出した。
「言うべきかどうか迷うところだが」
 一応念を押すと、ユーカはちらっとミチノリを見る。
 何も考えてなさそうなのを確認してから、フユとアキを見やって続ける。
「人型の魔物に遭遇した。別れ際にはフユ将軍の名を言い、『恨まれてるはずなのでよろしく』と」

  ぱきん

 フユの手元で、カップが取っ手を砕いた。
 こけ茶はこぼれていない。
 見事に取っ手だけ砕けて折れた。
 フユは無言で顔色も変えていないが、両肩がわなわなと震えている。
「……どこで……?」
「シコクだったな」
 今度は筆舌にしがたい、しゃりしゃりというガラスの破片をすりあわせたような音が響いた。
 フユの左手から粉がはらはらと床へと落ちる。
「人を……虚仮にしてくれましたね……あの魔物めが……」
「今別れ際と」
 アキは不思議そうに小首を傾げながら聞く。
 ユーカは頷くと僅かに苦笑してみせる。
「彼女らは、自らを人間と偽って、シコクに一緒に向かったよ。意外にも助けられて、な」
 フユは僅かに目を丸く見開いて、アキも何も言わず、しばらく沈黙が続く。
「目的は判らない。キールとの接触後は関わりもない」
 アキはずず、とこけ茶をすすって、大きくため息を付く。
「ともかく、単独で行動しているような節はなさそうね。何らかの、そう、命令でも受けているのでしょ」
 ふむ、とユーカは頷くと思い出した。
 敵ではない――それはやはり彼女という存在その物の話ではなく、彼女の保持する任務のことだったのだろうか。
 言葉を返せば、今は敵ではないが、次は判らないと言うことになる。
「そう言えば、そう言う雰囲気はあった。成る程な……」
「……何が成る程なんですか」
 む、と一度フユは黙り込んで上目で睨むようにユーカを見つめ、沈黙に耐えきれないようなタイミングで切り出す。
 フユの、身内以外に対する態度は大体こんなもので、別段機嫌が悪かったりするわけではない。
 冷血だの鉄面皮だの言われる原因である。
「キールから得た情報で、勇者というものが存在する理由に対する仮説があったのだよ」

 バグが案内したキールの居城は、そこから程なくしての場所にあった。
 彼は短く刈り込んだ金髪に、明るい青色の瞳を持った男だった。
 キールから物資を受け取り、ミチノリとユーカを招き入れると世間話の後、唐突に切り出して始めた。
「用事は何だ?」
「勇者とは何だ。――何故ここに存在し、それが為にバランスが崩れるのだ。既にその歪みは発生しているが」
 ユーカも端的な質問を浴びせた。
 彼女が探しているものは、世界の歪みの原因――バランスが崩れた事だけは既に判っている。
「先日の『あの』ことか」
 キールも元魔術師だけあって、そして違うアプローチを手探りで辿った一人だけあって、ユーカの行動が今の言葉だけで理解できたのかも知れない。
 こくりとユーカが頷くと、彼は困った貌で腕組みをして、椅子に背を預けて「ううん」と唸る。
「――じゃあユーカ。神話に含まれる事実に関しては興味があるか?」
「無いと言えば嘘だろう」
 神話と言ったって完全な作り話ではない。作者が見たまま聞いたままとは言い難い、解釈が含まれた虚を含むといえども、全くの無からそれは想像されたわけではないはずだ。
 ヒトが、その存在を現してから向こう、大きく本質が変化している訳ではないのだから。
「魔王を倒すという事実が定められたある一定の周期に関わる事、だとしたらどうだ?」
「一定の周期?」
 確かに、そんな風に見える事がある。
「しかし」
 逆ではないのか。勇者が魔王を倒すことで、周期性がそこに生まれるように見えるだけで。
 キールはまじめな顔で続ける。
「ある一定の周期というのは期間のことだが、あくまで純粋な時間の話ではない。たとえば桶に水をためる時、水をくむ量を変えれば時間も変わるだろう?そんな感じだ」
 つまり。
「つまりどういうことだ」
「勇者という存在が魔王を倒すのではないと言うことだよ。但し、これはあくまで仮定で」
 あるものの周期の終わりに、勇者は魔王を倒して世界から魔物を一掃する。
「この仮定が正しければ、魔王は絶対に世界を征服したり人間を滅ぼすことはない。――だろう」
 あるものの、その周期が始まるのは魔王が復活するまでの平和の期間を終えてからだ。
 魔王が復活し、そのある周期を経て時間になれば魔王は勇者と呼ばれるものにより滅びる。
 何故ならば魔王は不老であり、放置しておけばそのまま存在してしまうからだ。
「恐らく平和と呼ばれる魔王復活までの期間が短いのではなくて、そもそも何らかの周期を支えるために魔王という存在が必要で、『居なくなる』訳にはいかないのではないかとも考えている」
 キールは両手を組み合わせて両肘を机におく。
 乗り出したような彼の恰好。ユーカは眉を寄せて言う。
「魔物という存在は不自然だ。生物としてみても、我々よりも上、食物連鎖があるなら頂点に位置するはず。だがほとんど生殖機能を持たず、自らで増えることはなく『捕食行為』ですらまともではない」
 中にはエネルギー摂取そのものがない謎の魔物もいる。
 骨格も、筋肉も、大きさや重量ですら物理法則を無視した様な巫山戯た生命体が存在する。
 だからこそ魔物、だが。
「――なら理由は?明らかに何者かが人間、いや、人間種に対して影響を与えるために作ったとしか考えられない」

 黙々とクッキーを食べ続けるミチノリ。
 それを見ながらお茶をすすり、ユーカの話を聞くアキ。
「第三者の介在ですか」
 フユはじっとユーカの顔を見つめている。
「そうだ。魔王は勇者に倒される。それ自身が重要なのであり、勇者はそれを終わらせる為だけのファクターだ、と彼は言っていた」
 ぽりり。
 ちょっと堅めのクッキーは、ほどよい甘さが命取りなおいしさを奏でていて、思わずユーカはそこで話を止めてしまう。
 同時に左手は拳を作って、隣でむさぼるミチノリの後頭部目掛けて振り回す。
「ふぎゃ」
「みっともないからもう止めろ」
 くすくす笑ってアキは立ち上がる。
「おいしいでしょう?」
 と言いながら自分の執務机に戻り、引き出しを開いて――もう一皿山盛りのクッキーを出した。
 ユーカの目が丸くなる。
「わたし特製なのよ♪たーんと召し上がってね、ゆーかも」
「あ、ああ……」
 司令の仕事って暇なのかな。と一瞬思ったユーカだった。
――そしてもう一つ
 これは報告する必要のない、彼女自身の知りたい事――彼女が魔術を志した理由、この世の理の一つ。

――そのためにも、多分私は

「大事なことは」
 キールは言葉を継いだ。
「これが繰り返される事だ。それが何の周期なのか今調べている最中だが、これで勇者の発生、つまり魔王の死の預言ができるようになる」
 それはあくまでも、ただそれが『実験』という名前で呼ばれ『結論』として導かれるだけで。
 事実その物に意味があるわけでも、彼自身それを望んでいるわけでもない。
 ただ純粋に知りたいだけ。
 ユーカが黙り込んでいるのに気づいて、キールは笑みを浮かべた。
「変わらないな」
 その落ち着いた、どこか信頼を感じさせる近い音にユーカが笑み、ミチノリはむっと口を歪める。
「キール。お前も、結局そこに落ち着いた訳だ」
 同じ方向を見て全く違う方法を選び、結局――知りたい何かに辿り着こうとした、本当にたどり着けたのかどうかは判らないけど。
「ユーカ。お前は、私が思っていたよりも意外な場所に落ち着いたな」
「一応私も女だったと言うことかも知れない」
 くすりと笑うと、隣でうなりそうなミチノリを抱きしめて頬を寄せる。
「はっはっは。それじゃ、どっちが女か判らないぞ」
 膝を叩いて笑い、キールは背中を反らして言う。
 ユーカはミチノリの髪の毛をくしゃくしゃとかき混ぜるように撫で、キールに言う。
「私が何かを見届けよう。お前の話しぶりであれば――『勇者』は『魔王』が呼ぶんだろう?」
 ミチノリの髪の毛は、やっぱり男の子にするには惜しい柔らかい細い髪で、肌も妙につるつるできめが細かい。
 料理もできるし、ユーカのような女性には多分丁度いいのだろう。
 それと同じ。
 必ず役割のように当てはまる何かが有るに違いない。目的が。それが――運命と言う名前で語られるので有れば。
「ああ、その通り。勇者が発生して世界が歪んだのではなく、世界が歪む――バランスが崩れると同時に、勇者が発生するのだからな」
 それが判る人間、即ち魔術を志し、高みに上り詰めて力を手に入れた人間が。
「既におかしな魔物が動きを始めているかも知れない。その辺にいる、普通の魔物とは違う魔物が、な」
 ユーカは頷いた。
 つい先刻まで、『おかしな』魔物に何かを狙われていたのだから。
 だから。
「もうすぐ、この魔王の時代も終わる。勇者が、世界を終わらせるんだ」


 テラスに到着したマジェストに、真っ赤な顔で泣きながら怒鳴り散らしたまおは、そのまま彼に手を引かれて執務室へと向かった。
 おかしな話だが。
 魔王はこの魔城で自由な行き来がまともにできる場所が限定されている上、外にでる事が出来ない。
 実際には脱出した訳だが――アレはイレギュラーな出来事だった。
 だからこそ、マジェストの行動が遅れた訳だし、発見も遅れてしまったのだ。
「まじー。消えて」
 そして、執務室に着いた途端彼女は言った。
「え?!」
「席をはずしてほしいの。ウィッシュとヴィッツはこの部屋に直接呼んで。覗いちゃダメだからね」
 きっと睨み付けるまお。
 勿論マジェストという魔物にそんな事は無駄な事なのだが。
 マジェストにも何だか妙なスイッチが入っている。
「しかし、陛下……」
 困った貌を浮かべ、そして意を決するように口を結び、その場に跪いて項垂れる。
「陛下。一つだけお約束下さい」
 僅かに頭を上げるが、顔は床とほぼ並行に、目線は床の石の隙間に潜む謎のだんごむしに。
「シエンタにすぐに掃除の準備を。それと」
 そして顔を上げて、真剣な表情で続ける。
「もう、ここからでていくなんて真似は、考えないでください」
 掃除と聞いて眉を寄せたまおは、彼の言葉に澄まし顔をして見せて、にっこりと笑った。
 やさしい、嬉しそうな笑み。
「何のためにウィッシュとヴィッツを呼んだと思ってる?私の代わりに魔城の外で働いて貰う為だよ。まじー」
 でもね。
 まおは口の中だけで続けた。
 でも、まじーには教えてあげない。教えられない。
 マジェストは魔王の配下の軍団に指示を飛ばす事ができる、魔王軍団参謀という立場にいる。
 司令はまおだ。当然である。
 尤も、まおにやる気がない場合はまおはただ印鑑を押すだけのはんこましーんに過ぎないのだが。
「はっ」
 今のまおには、何故か『魔王』らしさを、マジェストは感じていた。
 目的。
 何らかの目的を持って魔王が動く。
 マジェストは、その瞬間から教育係ではなく、一介の参謀、手足に過ぎない存在となる。
 命令は絶対だ。
 彼はそのまま立ち上がり、無言で執務室を退出する。
 数秒と待たず、ウィッシュとヴィッツが入ってきた。
 外で会った時のような恰好ではなく、いつもの、ラフな普段着――ウィッシュが左足が膝までしかない破れジーンズに、革製のジャケット、黒い、肩のラインを浮きだたせるノースリーブにハイネックのシャツ。
 ヴィッツはノースリーブシャツに半ズボン。
 これは彼女達が人間の中にとけ込む際には、そこの土地に合う最適な服装へと『変化』する。
 変形させるのはウィッシュの錬金術らしい。便利な物だ。
「ウィッシュ=ニーオ、ヴィッツ=アレス。お呼びにより参上いたしました」
 ざっ、とその場に片膝をついて項垂れる臣下の礼。
 一糸乱れぬ、息のあった礼にまおは思わず吹き出した。
「ちょっと、何のつもりー。そんな真似できたんだー♪」
 幾らまおと言っても、そんな事を言われれば少しは苛立つ物だろう。
 しかし、あんまり楽しそうに言っておなかを抱えている彼女を見れば、苦笑したくなる。
「まお様。酷いですね」
「まお様と言えども今のは許し難いです。望姉、抹殺の許可を」
「まてまてまてっ!私が魔王でヴィッツは部下っ!何を誰にきいてるのっ!」
 つい、と馬鹿にしたような半眼でまおを流し見るヴィッツ。
「まお様抹殺を、望姉に」
 ずべ。
 執務机で思いっきりずっこける。
 器用にこけて器用に立ち直り、頬杖をついて苦い顔をしながら頬をかくまお。
「あー……んー……」
 そして、何か思いついたのかウィッシュはヴィッツの肩をぽんぽんと叩くと言った。
「ごめんねヴィッツ。ちょっと、呼ぶまで外で待っててくれない?」
「え?」
 思わぬウィッシュの言葉に、でも訝しがるどころか心配そうなすがるような目をして彼女を見返す。
 でも、にこにこのまま言葉を覆そうとしない彼女に、哀しそうな顔で諦める。
「判りました」
 そう言って、つかつかと出口に向かう。ぱたん、と小さな音を立てて彼女が消えるのを見送ると、ウィッシュは執務机を回り込む。
 思ってなかった彼女の行動に、まおはぽかんと口を開けて、彼女を見つめる。
「わざわざあの地下牢から呼び出すなんて、まお様、気が触れたのかと思ったけど」
 ちなみに代わりに地下牢行きしたのは、ストリームとやっぱりコルトだった。
 座っているまおの視線だと、ウィッシュの顔はかなり高い位置にある。
 首が痛くなりそうなので立ち上がる。
 同時に、ウィッシュは彼女の視線にまで、顔を近づける。
「何か、あるんですか?」
 できる限り柔らかい口調で、音に気を付けて話しかける。
 まおは緊張した面もちで、心なしか真剣な顔になる。
「……助けてくれたから」
 それは理由になるだろうか。そう思いながら、しかし彼女の能力を考えれば、頼れるのは彼女しかいない。
「まず教えて。勇者。魔物って、人間でも倒せるんでしょ」
「ええ、倒せますよ」
 数で統制して押せば別だ。あのトマコマイのような事になる――勿論一匹一匹を倒せないわけではないが。
「……それは私も、かな?」
 一瞬言葉をどう選ぶべきか迷った。が、選んでも仕方ない事に気づいて、声色だけ注意する事にした。
「まお様だって魔物だから」
 右手で拳を握って、とん、と彼女の胸を叩く。
「ここを剣で貫かれれば死にますよ」
「ウィッシュもだよね」
「あー……私は、あはは。私は、死なないよ。消えて無くなるだけ。元々陛下の魔物じゃないから」
 まおが驚いて目を丸くして、言葉を継げないうちに彼女は続けた。
「魔王陛下の命により、マジェスト様が作った『天使』のバリエーションって言えばいいのかな?」
 天使は、魔王軍団ではなく、魔王軍団でいう『いぬむすめ』や『ねこかぶと』に相当する雑魚魔物であり、無くなった分だけ補充されるタイプの魔物。
 大量生産された人形のような存在だ。
「私は死んだら消えちゃいます。元々危なっかしいから使い捨てで作られたんだし」
 まおの記憶を抱えていた天使も砕けて消えた。無くなってしまった。使い捨ての魔物。
「陛下は、陛下の魔物は、みんな陛下だから。陛下が死んだらみんな死ぬし、陛下が蘇れば復活する。そうでしょ?」
 喩え、それがどんな死であったとしても。
「……ねこかぶとはむりだけど」
 ここで言っているよみがえる魔物というのは、マジェスト以下幹部級の魔物である。
 なおマジェストは魔王のために『魔王より早く』蘇るよう義務づけられているらしい。
「そう。ボクらはそんな感じの魔物です。マジェスト様が、陛下の欠片を使ったって言ってたけどね」
 天使は姿形を自由に変える事のできる、器のような魔物だ。
「幾らソフトが優秀でも、ハードの限界は超えられない。だから、死なないように保存されてるのかも知れないけど」
 保存。彼女はわざとその言葉を使ったのかも知れない。
「……ウィッシュ……」
 ぽふ。
「あ、まお様」
 慌てて体を起こすウィッシュ。
 まおは彼女に抱きついていた。
「ごめんね」
 まおはそれだけ言って、ぎゅっと腕に力を込めた。
 どう見ても姉に――ウィッシュの見た目が若いものだから、だが――甘える妹の図だ。
 ウィッシュはくすりと小さく笑って、彼女を抱きかえす。
「どうしたんですか?」
 まおは小刻みに体を震わせていた。
 色んな想いが彼女の中で交錯しているのかも知れない。
「だって」
 まおの脳裏に蘇る、E.X.を振るうグザイの姿。
 怖いと思った。でも、彼が怖かったわけではない。
 そこにいた『猟犬』が怖かったのでもない。

『人間じゃない』

 残響する言葉。
 当たり前な、今思えば当然な言葉が、何故か怖ろしく聞こえる。
「……いなくなっちゃうのに。……人間に殺されたらいなくなっちゃうのに……」
「そう言うものとして作られましたからねー。それでも人と生活するのは問題なんですが」
 がば。
「え」
 あ、と思わず苦笑いで口元に手を当てるウィッシュ。
「いまのなし、ノーカン」
「ダメ」
 がるる、と小さな犬のようにうなるまお。
「答えてくれなきゃ赦さない。今の言葉どう言うこと?」
「あ、はははー。いやだって、そりゃ、ほらまお様、言ったじゃないですか。『勇者を始末』したら、ねぇ?」
 ぽりぽり。
 頬をかいて、どうにかこの場を切り抜けたいウィッシュ。
 がるる、と唸っていたまおが、突然顔を真っ赤にして惚ける。
「あ、あ、も、もしか、してその」
 ぽりぽり。
「あ、でもボクは殆ど経験ないよ?ボクよりヴィッツだよ。生まれてからこの方、実は色んなお」
「わーわーわーわーっっ!わー!」
 顔を振りながら両手を交叉するように何度も振るまお。
「いいっ!もういい!その話はもういーからっ!」
 はあはあ。
 にやり、と笑うウィッシュ。
「さて、どこまで嘘でしょう」
「嘘かっ!うそなのかっ!」
 きー。
 ぶちきれモードに入ったまおを放置するように、ウィッシュは優雅に身を翻して執務机の前に立つ。
「それで。まお様。任務、おしえてください」
 にっこり笑うウィッシュ、まおは苦い顔で沈黙する。
 震える口を、ゆっくりと開きながら。
 きゅ、と口を閉じて真面目な顔をする。
「ウィッシュの本当の任務ってなによ。私はまじーに命令しただけだから」
「勇者に対する直接手段を実行する事」
 勇者が相応しくない場合、さくりと殺す。もしくは、彼を成長させる。
「物語を延命、つまりまお様を保護すること」
 勇者を籠絡して、ぶっちゃけ囲っちゃう。魔王に準備が整わない場合、そうする。
「それって矛盾してるでしょ。言ってて判るよね。ホントは何なの?ホントはまだあるんでしょ?」
 まおが強くきつく言うと、ウィッシュはぺろっと舌を出して片目をつぶる。
「全部、マジェスト様には口止めされてるから、言っちゃダメなんだけどね」
 まおは彼女の冗談のような芝居っけたっぷりの仕草にも顔色を変えず言う。
「それだけのはずがない。ウィッシュ、あなたはともかくヴィッツを『バランスが崩れる』だけの理由で土牢に封じる理由がないんじゃない?」
 マジェストは、まおのことを良く考えている。いつも思っている。常に彼女のために。
 まおは、最初に勇者予定の子供を殺してしまってから――百年以上のこの空白を今不自然に感じている。
 両者を結ぶものはないが――ウィッシュと、マジェストには何かがある。
 マジェストに聞いても絶対判らない、だから――まおは、ウィッシュとヴィッツを呼んだ。
 ウィッシュは、顔に笑みを張り付けたまま、ただ笑っている。
 だがそれも、ほんの数呼吸の間だけ。
「……魔王陛下。『キーワードは二つ。『嘘』と『真実』。回答に至るパスワードは『あなたの意志』。故に問う』」
――これも定められた事なのかな
 ウィッシュは指定された文章を読み上げた。
 既にかけられた暗示のような、設えた口調で。
 しかし問わねばならない。彼女にはまおの内面も内情も、何も判らないのだから。
 そのために作られたと言え、彼女には罪悪感がしこりのように残る。
 そして疑う。マジェストの真意を。自分を作った『意味』を。
「目的は何か――真意は何か、陛下が私に求めるものは何か」
 戸惑いなく、顔色の変化もなく。ただ静かに、淡々と。まおは、彼女の問いに答えた。
 だからウィッシュは、内心で微笑んだ。この上なく楽しそうに。終わりが来たのだと。
「『道化の願い』。狂言回しは狂言回しらしく、物語を終わらせたらどうなの」
 そしてまおの答えに小さく頷くと彼女は呟いた。
「結構ですまお様。こんな言葉はご存じですか?過去の、遙か過去の詩人の残した言葉」
 まおの顔が強ばっている。その様子に、少しだけ悪戯したくなる気持ちも浮かんできた。
「英雄の居ない時代は不幸だが、英雄を必要とする時代はもっと不幸だ。……では英雄が必要ではないが英雄の居る時代は幸福なんでしょうか?」
 そう言うと、まおに背を向けて執務室を出た。


 対魔軍では、決して訓練を欠かさない。
 休みの日でも、やることがなければ他の日には出来ない事をやる。今日は特に自主的な訓練が重視されていた。
 休みたければ休めるのだが、ナオとキリエは、道場で組み手を繰り返していた。
 キリエは結局帰ってきてきちんと治療を受けるまでもなく、完全に傷はふさがっていた。
「へっへー、今日は俺の勝ち越しっ」
 で、あたいは辞めていた。というより付け焼き刃且つ恥ずかしさには勝てなかったようだ。
「五月蠅い」
 むす、としてナオは後頭部を掻きむしる。
 ナオは逆に調子が悪かった。帰ってきてからと言うもの、何故かキリエ相手に調子が出ない。
 今日の組手にしても、完全に押し負けていた。
 精確にはもしかするとキリエが強くなったと言うべきなのかも知れない。
 今だって組み手に負けて、ナオは地面に座り込んでいた。
「久し振りにジュースおごれよっ!しょ・う・しゃ・の・け・ん・り♪」
 にかっと笑みを見せて、両手を腰に当ててずいっと顔を寄せるキリエ。
 もう殆ど完全に万全、体調ももすこぶるつきで快調ときたもんだ。
 逆にその態度に押されて、不機嫌な顔で彼女を見返す。
 背丈はさほど変わらない。
 そんな彼女が彼女が、腰を折って覗き込むような恰好をする。顔はすぐ側にある
 呼吸が触れるほど近い。
「わーった、わあったから」
 そう言って彼女の両肩を掴み、ぐいと押し返すと彼は地面に転がした斬魔木刀を指さす。
「木刀、かたしてくれ。着替えて来るから」
「ほーい♪」
 ぶつぶつ言いながらナオは道場の入口を抜けた。
 隣にある更衣室に着替えが置いている。基本的に訓練道着は普段の恰好なのだが、そりゃ汗もかくし着替えは必要だ。
 ちなみに、寒いのでシャワーはない。
 代わりに湯沸かしのような暖炉と、その上にある大きな洗面器というかたらいに張ったお湯を、水と混ぜて手ぬぐいにとって体を拭く。
 飲まないので直接手ぬぐいを付ける奴もいる。ナオは半分ほどお湯につけこんで、水を張ったおけに入れて冷やしながら体を拭く。
 外気は結構冷えるので、体を拭いたらすぐに熱も奪われてしまう。
 汗もすぐ引くので楽だが、すぐに着替えないと体には良くない。
 着替えたところで、そんな厚手でもないのだが。
 どうせ袖もないし。
――まあ元気になったんだし
 シコクから帰ってきて、キリエは以前の通りになったような気がした。
 でも、彼はそれが気に入らなかった。何故か。
 理由は自分でも判らない。ただ、原因はキリエではないことは確かだった。
 シコクから帰ってきて一週間、別段何事もなく平和な日々が続いた。
 それこそ――元通りの生活だ。
 でも何か違う。おかしい。どこかで何かがそう呟き、彼の奥底にささやきかける。
――何だか納得できないけどな
 耳を貸してはいけない語りかけ。
 おかしい物などない。だがどこか不自然な物をしくりと感じる。
 何だろう。
 納得できないんじゃない――これは違和感だ。
 自分の中に生まれた何かの違和感。何かに対する感情。
 天使。そしてあの戦い。ユーカは、元から判らない奴だから信頼以前に問いただせない。
 久々に看護に来たミチノリは、勿論聞く耳など有るはずもない。
 ナオはどこか釈然としないまま、いつもの恰好に着替え終わると、洗い物を袋に詰めて更衣室をでる。

  ざわり

 風が、木々を揺らして葉擦れの音を奏でる。

  ざざ ざあ

 それだけだと、まるで雨音のような響きだと彼は感じた。
「ナオ」
 名前を呼ばれて、不意に彼は現実に引き戻される。
 真後ろ?いや、後ろからには違いないが、どうやら更衣室の影にでも居たのだろう。
「キリエ、お前」
 案の定、振り返ると更衣室の右側にある茂みに彼女がいた。
 あの位置だとでる時には気づかない。
「へっへー」
 駆け寄るように近づくと、彼女はそのままナオの左腕をとって、自分の右腕に絡めて顔を寄せる。
「ちょ、なんだよ。言っとくけどジュースだけだぞ」
「えーなんだよー」
 すぐにぷっと口を尖らせると、眉根も寄せてしかめ面を見せる。
「……ま、いいけど」
 でもすぐに顔に笑みを湛えると、彼を強引に引っ張って、訓練施設の出口に向かう。
 他にも訓練をしてる連中はいるが、まだ時間的には早い。
 周囲には他に誰もいない。
「お、おい」
「……ジュースもイイや、今度で」
 そう言って腕を解くと、とんとん、と彼の方を向いたままバックステップの要領で彼から離れる。
 ちょっと上目遣いで。
 ナオは思わず眉根を寄せて少し首を傾げてみせる。
「なんだよお前。そう言や最近、何だかおかしくないか?いや、おかしいってったって、まあ元気過ぎるっていうか」
 本当は自分の方がおかしいのだが、彼はそれを自覚していない。
 キリエはへへ、と笑って、むんと胸を張る。……平らだけど。
「あ、あのさ」
 そして、視線を逸らせて鼻の頭をかく。
「あー、あとでさ、宿舎の裏に来てよ。話したい、事があるんだ」
 ちらちらとナオを見ながら、えへへっと笑う。
「え。って、お前」
 普段こんな顔で笑わないし、こんな事を言われたことがない。
 ナオは彼女の不自然な様子に気になって質問しようと声をかけるが、まるで逃げるようにキリエは走り出す。
「いい、絶対夕食後に待ってるからっ」
 一瞬振り返って叫ぶ彼女に伸ばした手が、何もない宙を掴んで拳を作る。
 そして、降ろす。
――なん、何だろ……
 首を傾げる。
 と、言ったってキリエが突拍子もないことを始めるのはいつものことだ。
――……帰るか、仕方ない
 別に一人でも訓練できるが、かといって彼もそこまで真面目じゃない。
 勝負する相手がいないのは張り合いがないとも言えるだろう。
 大きくため息を付くと、彼は自分の部屋に向かうことにした。
――別に、ここで話せばいいだろうに
 彼はもう一度首を傾げる。
 あのシコクでのサバイバルは、良い経験だったがそれ以上ではなかった。
 天使との戦いは、嫌になるものだった。
 勝てない。そして、海に投げ出されてからのこと。
 そして、あのウィッシュとヴィッツ、まお。
――この辺にいる、ってことはないだろうけど……また会えるかな
 何故か胸騒ぎがする。どこか不安な物がしこりのように残っている。
――ああ
 多分あの三人とは、結局あれ以上何もなく、まるで自然消滅のように別れたから気になっているのかも知れない。
 ナオは、そう納得することに決めた。
 他に方法もない。
 取りあえず荷物をおいて、彼はベッドに横になった。
 夕食は、基本的に給食になっていて、食事を選択できるわけではない。
 しかし食べたいものが食べられないというのは流石に問題がある、ということで、一応希望制で、食べたくない(自前で食べる)場合はそう言う風に寮長に申請する。
 特に理由はいらない。
 どんどん、という激しいノックの音で彼は目を覚ました。
 周囲は暗い。一瞬寝過ごした、と思って慌てて部屋の入口に向かい――扉の向こうに、タカヤが居た。
「おい、ナオ」
 寮長であるタカヤだが、普通無断で食事をとらないと怒られる。だが、呼びに来ることはない。
――しまった
 ナオはしかめっ面をして額を押さえた。
「あちゃあ、ごめん兄ぃ、ちょっと横になるつもりだったからさ」
「そんな話じゃない」
 食事の事を怒りに来たわけではなかったようだ。彼は真剣な顔でナオを睨み付けている。
「ど、どうしたの」
「キリエ知らないか?いや」
 彼が何を言おうとしているのか、判らない。
 だが、いつもののんびりした雰囲気はどこかに払拭されてしまい。
「悪いが、ナオ。お前の目撃証言がある。キリエは何処にいる」
「は?」
 何を言っているのか理解できなかった。
 寝起きの頭では、何が起きているのか想像も出来ない。
――心当たりは、あるけど
 雰囲気からすると夕食時を過ぎたか、終わる頃だと思った彼はキリエとの約束を思い出して首を捻る。
「目撃って、ちょ、キリエがどうかしたのかよ」
「訓練後部屋に戻っていない。途中までナオと一緒にいたという話を聞いたが」
 意味が判らない。ナオは彼の言葉を否定しようとしたが、要領を得ないナオの腕を引っ張って彼は無言で歩き出した。
「ちょ、兄ぃ」
「良いから来い」
 妙な感覚だった。寮をでるとそのまま寮の周りを回り、裏側へと向かう。
 知っているはずない。しかしそれ以上に言葉の意味が矛盾している。
 寝ぼけた頭がゆっくりと醒めていき、眠気の代わりに澱んだ悪意が脳裏にまとわりつき始める。
 悪寒。
「ぐ」
 鼻を押さえる。
 薄暗がりになった寮の裏側は、妙に冷たい気配が漂っている。
 そんな中に、何人もの人影がうろうろと歩いているのは奇妙な気がした。
 そして、嗅ぎたくない臭い――血臭がどんよりとその場に漂っている。
 戦場でもこんな臭いはしない。嗅いだことはない。
「兄ぃ」
 不安になって、無言のタカヤに声をかけるが、返事はない。
 ややあって、何人か見覚えのない人間が集まっている場所にでた。
 そこは奇妙な場所だった。
 ナオの目の前で、二人が座り、二人が立って何か話をしている。
 先刻から、何事か忙しそうに走り回っているのは誰なのか。
「訓練後、お前ら、一体何をやっていたのか知らないが」
 足を止めたナオに気づいたのか、タカヤは振り向いた。
 その顔は見たことがないほど厳しい表情をしている。
 『ぼんやり』という言葉から想像できる彼の人となり、それが別人のように。
 鋭くナオを睨み付けている。
「……」
 どう言うことだ。
 何があった。
 今、座り込んだ人間が二人に気づいたようにこちらを向いた。
 向いた、その瞬間、彼の陰に隠れていた物が見えた。
 人。
 血。
 足。
 そして、見覚えのある――
「うわあああああああっ」
 彼は叫んだ。


 その日、フユは司令室で書類仕事をしていた。
 そろそろ慣れた物で、彼女の仕掛けた『魔術痕』レーダも随分精度が上がった。
 まだ彼女は司令室に閉じこもっているのだ。
 今では、距離・包囲・規模、それら総てを判別することすら可能。
 或る意味凄まじい執念と言うべきだろう。普通なら、その負荷だけで発狂する。
 それとも、それを操るのが楽しいのかも知れない。
――ん
 簡単な『影』のようなものが引っかかった。
 別段気にしなくても大丈夫な程度だが。
 それは街の外で笑っている様な気がした。
「アキ姉さん」
「あ、作ってくれるの?!嬉しいわぁ」
 不用意に声をかけただろうか。妙に明るい声に、フユはジト目を作るとくるりと振り向いてみた。
 そこにはにこにこと上機嫌なアキが、両手を合わせて小首を傾げている。
 何故か、彼女の机の上には大盛りのクッキーがある。
「……何をですか、アキ姉さん」
「え?そりゃあゴーレムよゴーレム。前お願いしたじゃない、ガリ版刷りゴーレム」
 馬鹿でっかいプールのようなインク貯めに、コンダラもびっくりなローラーでべたべたと。
 確かに、彼女の妄想をそのままフユに伝えたことがあるが、それがお願いだとは気づかなかった。
「そんなもの作りません。何にするんですか」
「ガリ版刷り」
 フユは眉根を揉みながらぶちぶちと怒りまーくを頭の上に飛ばす。
「あの、姉さん。いい加減に怒りますよ」
「わ、やだーみーちゃん。怒らないでぇ」
 ぶりっこぶりっこ。
 思うに、本当に司令官なんだろうか。
 一瞬過ぎった考えに頭を振ると、大きくため息を付いて、もう相手にするより報告する方が大事、と語り始める。
「姉さん。今妙な影みたいなのが引っかかりました」
 秋は一瞬目を丸くした。が、すぐについと目を細めると、口元だけで笑う。
「あ、そう?でもみーちゃん。まだ動いちゃダメよ」
 実際何度もこういう引っかかり方はしている。
 そのたびに出撃していたら、兵力はすぐに疲弊する。それに――でるのは、彼女だ。
 アキはそのことを熟知しているからこそ、簡単に飛び出さないようにしているのだ。
――でも、なんだか笑ってたみたいだし
 フユはその『笑い』が妙に気になった。
「……そうですね」
 でももしこの時動いていたら、少しは事情が変わったかも知れない。
 いや。
 結論は同じ。
 既に起きてしまった事を、変える事ができないのは全くもって同じ事。
 何故なら、彼女が見張っているであろうことは既に承知済みの事なのだから――

  だんだん

 しばらくして激しくノックする音が聞こえて、二人は仕事を中断せざるを得なくなった。
「司令!緊急事態です!」
「入りなさい」
 扉を開けて入ってきたのは、伝令兵だった。
 伝令は各所に設けられた専用の伝令がいる。勿論伝令専門と言うわけではないから、各所から出しているのだが。
 駆け込んできたのは生活区の伝令だ。司令ともなれば顔で判るようになるのだ。
「食中毒でもあったの?」
 のんびりした口調で訪ねるが、目は笑っていない。
 事実、刺すような視線を伝令に突きつけている。
「いえ。その……殺人です」
 がたん。
 一瞬フユの脳裏に先程の影が過ぎった。
 アキの方を素早く振り向くと、一瞬視線が絡んだが、それだけでアキは伝令の方を向いた。
「調査は」
「既に、憲兵が始めております」
 アキは苦虫を噛みつぶしたような顔になった。憲兵は司令の下に付く位置にありながら、その身分は自由である。
 実際の指揮官は、アキより階級が下であろうと――憲兵は憲兵の権力でもって動けるように組織されているからだ。
 隠し通せるものではないが、勿論そう言うつもりではない。
「……誰が殺されたのか、は判るの?」
「は。一兵卒カキツバタ=キリエです」

『あー、あとでさ、宿舎の裏に来てよ。話したい、事があるんだ』
 ナオは叫んでいた。
 慌てたタカヤが取り押さえて、両肩を揺さぶって。
 気が付いたら涙が流れていた。
 それに驚いて、自分で気が付かないうちに呆然とそこに立ちつくした。
――キリエ
 最後だったのかも知れない。
 何を言いたかったのか。
「落ち着いたか?大丈夫か?」
 ようやくタカヤの声が聞こえてきて、ナオは目をぱちくりとさせた。
 目の前に、眼前一杯に彼の顔がある。
「タカヤ兄ぃ」
「そうだ。落ち着いたか?」
 だがタカヤに返事をする暇は、なかった。
 すぐに彼の隣から男が顔を出した。ひげ面で、この辺で見覚えのない男だ。
 見覚えがあるはず無かった。彼は通常は殆ど顔を見せないで、与えられた控え室で書類仕事しかしていないのだから。
「落ち着いたなら早速来て貰おうか。そのために呼んで貰ったんだしな」
 やたらと横柄な態度で、人を見下して言うその男は、ナオのかんに無性に触った。
「な、なんだよ」
「事情聴取だ。人が、一人死んでんだ。しかも何もないはずのこの訓練場内でな。……話を聞かれる覚えはあるだろう」
 ごくん、と喉が鳴った。
 判っている。
 判ってる。でも、目で見たものが信じられない。
 だから、彼は繰り返した。
「お、覚えって」
 男はめんどくさそうにため息を付くと、後頭部をかく。
「一応、立場上俺の方が上の階級なんだがな」
 階級は百人隊長。確かに上のようだ。
 だがそれはどうでもいい。そんな事を聞きたいわけでもない。
「みみかっぽじって良く聞いてくださいよ?あんたの、良く知ってる、カキツバタ=キリエさんが殺された。最後に会ったのは証言によればあんただ」
「ちょっと」
 流石に、躙り寄る彼に、タカヤが非難の声を上げる。
「あんたも黙ってな」
「酷いな。見てのとおり、仲が良かったからショックを受けてるんだ。言い方考えて話さないと」
 話し方も知らないのか、とタカヤは言外に言い残すとナオと彼の間に入る。
「話さないとなんだ」
 ぐい、と彼の肩を掴んで、男が睨みを聞かせる。
 それに、タカヤは僅かに糸目を開いて冷ややかに視線を返す。
「本来協力してくれる人も、協力してくれないっていう事ですよ」
 やれやれ、と目を閉じて肩をすくめる。
「ナオ」
 瞳を覗き込むようにして、タカヤが囁く。
「話が終わったら、俺の部屋に来い。な。……じゃ、行って来い」
 ぽん、と両肩を押すタカヤ。
 一瞬抱きしめられたような錯覚を受けて、ナオは少しだけ安心した。
 だからゆっくり頷いて、ひげ面の男を睨んだ。
「ああ、じゃあ知ってるだけ言うからな」
 男は一瞬むっとしたが、無言で手招きして背を向けた。
 そして、ナオは結局タカヤの部屋に向かうことは出来なかった。

「憲兵」
 フユは不穏当な響きを憶えて復唱した。
「それに被害者がキリエ。……妙に憲兵の動きが良くないですか、アキ姉さん」
 アキは頷く。
 憲兵が動くと言うことは、それは事故でないことが明白、つまり、犯人が明らかの時、もしくは見当が付いている時だ。
 こんな戦争がある時代に、そもそも人殺しなどという事があるだろうか。
 ……起こりうるからこその憲兵なんだが。
「早すぎるわね。幾ら何でも私の耳に届くより早いというのはどう言うこと?」
 それは確かに腑に落ちない事だった。
「待ってください姉さん。と言うことは既に憲兵は犯人の目星があって、初めから捕らえようとして来てるんじゃないですか」
「行きましょう」
 アキは伝令に指示をして、場所を確認するとさっと上着を着こむ。
 フユは――そう、あの時からだが――既に戦闘用の言霊師の恰好だから、そのまま出るつもりだ。
 フユにとってはこれが制服のようなものだから。
「アキ姉さん、キリエが、ということは」
「多分想像してるとおりじゃないかしらね」
 当たって欲しくない嫌な予感。
 憲兵隊の隊長も既に出張っている。場所は――男子専用寮、一階の一室。
 寮の入口には一人憲兵が立っていた。周囲でばたばたとそれらしい騒々しさがあり、時折彼女らに視線をよこす者もいる。
「これはこれは司令殿」
 多分、駆け回っている何人かが連絡したのだろう、入口から小太りの男が出てきた。
 憲兵隊長だ。残念ながら名前は今回与えていない。
 何故なら、これっきりの出番だからだ。
「わざわざおこし戴けるとは」
「前置きは良いです。何事ですか。説明いただけますか」
「もちろんですとも」
 男はにこやかに笑うと、すっと身を引いて入り口を左手で指し示す。
 そして、自ら先頭に立って入り口をくぐった。
 続いて二人がくぐる。
「殺人……とは思いたくありませんが、証言を総合するとそうなります」
 そしてちらとアキの顔を振り返り、一室の扉を開く。
 そこは簡素ながら使い込まれたソファが並ぶ部屋だった。
 この寮で生活する人間が、ここで団らんでもするのだろう。実際アキもこの部屋のことは良く知っている。
 尤も、こうして取り調べに使われる事があるとは思わなかったが。
 男は手前の二つの椅子を差し、二人に勧めると自分は向かい側のソファに腰を下ろした。
 めり、と嫌な音がして、クッションは勢いよく沈み込む。
「さて」
 男は気にした風もなく、両手を組むと二人が座るのを待った。
「被害者はカキツバタ=キリエ、容疑者は同行していたミマオウ=ナオです」
 一瞬男に笑みが浮かんだように錯覚した。
 憲兵隊は、一応ここにも施設を持っている。
 本隊ではないし、実際に活動をしている(のだが、数少なかったり細かい事だ)状況から、比較的小さい。
 彼は冷たい石畳と、自分の目の前にある鉄格子を見比べて、あまりに小さなその独房に大きくため息を付いた。
 元気などでるはずもなかった。
 キリエは死んでいた。
 それはもう、完璧に、完膚無きまでに、彼女らしき肉片と化していた。
 殺害方法は残忍、真正面からの一撃。
 さらに数回、倒れている彼女に――凶器は恐らく斬魔刀――たたき込まれた痕があったそうだ。
 夕食後に会う。
 彼女の約束は憶えている。でも、結局、夕食が終わる前に彼女は死んでしまっていたようだった。
 第一発見者は彼女の隣部屋の少女。言うまでもないが同じ対魔軍一兵卒だ。
 ぶっちゃけて書くと彼女のファンだったそうだが。
 夕食を一緒に、と思ったが部屋に居ない。
 仕方なく探していると、噂を聞いた。男子専用寮に、噂の男ナオと一緒に居たらしいと。
 それもつい先刻――色んな意味で少女が向かうと、そこは既に血の海だったという。
「あ、嘘はついてないかね?」
 男のかんに障るしゃべり方に、いい加減苛々した。
 まだ耳に残る、その語尾を甲高く上げる嫌らしいしゃべり方。
 何を言っても疑うそぶりを隠そうともしない顔。
 どれをとっても。
 総てが嫌だ。
 思い出して彼は首を振った。
「君の話はあからさまに食い違いがある。おかしい。第一君の証言の証明がどこにもない。証拠がないんだよ」
 それを言うなら。
 キリエと一緒にいるところを見たと証言したのは誰だ。
 ありもしないはずの事実を語ったそいつが犯人じゃないのか。
 苛々――した。
 有り得ないから。
――キリエを……
  殺す?
  俺が?
  何故!
 だん。
 石畳を叩いても、拳に痛みが走るだけで、返事があるわけではない。
 でも、彼は我慢できずにもう一度。もう一度。
――赦せない
 手が痺れる。
 今の状況で何も出来ない自分が悔しい。
 だん。
 何故あの時眠ってしまったのか、苛立つ。
 だん。
 もう一度、時間は巻き戻せないのか。
 だん。だん。だん。
「畜生っ」
 声が枯れる。
 出したい声が出ない。まるで喉が詰まってしまったかのように、まともな声が出ない。
 叫びたいのに、喉が潰れてしまったように、動かない。
 胸が苦しい。声と、そのために貯めた息が胸に詰まってしまって、出てくれない。
「あぐっ」
 無理して声にしたら、聞いたことのない声が出た。
 同時に、視界が熱くて。
 ぼやけて。
 初めて。多分、自覚できずにこうして号泣するのは、初めてだったから。
 そのまま床に突っ伏してしまうまで、自分がどんな状況なのか理解できなかった。

 静寂。
 いい加減、泣き疲れた彼は、床に突っ伏した恰好で倒れている。
 先刻まで自分の嗚咽が五月蠅かったが、今は虫の足音も聞こえない。
 キリエはずっと彼の側にいた。もう何年になるか判らない。
 戦いを憶えて、軍に入って、彼女は程なく近くにいた。
 多分、身内以外で――身内以上に側に居続けたから――一番、彼を良く知っている者だろう。
 手を伸ばせば届く場所にいる、それが当たり前にまでなっていた、まるで呼吸でもするかのような存在感。
 意識しなくても居るはずのものが、もう二度と有り得ない。
 伸ばした右手が深く手応えのない闇の中に引きずり込まれたような感覚。
 悲哀?恐怖?絶望?これは喪失感というのか?
 今の彼の状況を、彼はどう表現して良いのか判らない。
 まず最初にできたのは、そんなはずはないという現実逃避。
 だが、それを否応なしに現実に変えるのが、今の彼の容疑。
 独房の中に居る自分。
 誰も来るはずのない、憲兵隊の施設の一部。
 やがて、彼が深くて暗い思考の渦に飲み込まれそうになった時、音が聞こえた。
 それまで何の物音もなかったから、彼は体を起こした。
 蝶番の軋む音。硬質な足音。それも複数だ。
 何も出来るわけではないから、彼はあぐらを組んで音を待ち受けた。
 音が、どこか軽く甲高く聞こえたと思った途端。
「アキ姉」
 彼は目を丸くした。
「こら。司令殿と呼びなさい」
「殿は余計でしょう」
 いつもの正装をしたアキと、そしてそのすぐ後からフユが姿を現した。
 アキはにこにこと柔らかい笑みを浮かべ、フユはいつもの憮然とした顔つきで。
 そして、まるで自分の家に入るかのように、何の躊躇いもなくフユが独房の鍵に手を伸ばし――開ける。
「え?」
 まるで鍵がかかっていなかったかのように。
 彼は眉を顰めるが、それより早く二人が独房に入ってきた。
 それで、流石に慌てて立ち上がる。
「もう、なんて顔して」
 すっと彼の頬に右手が伸びる、と思った次の瞬間に全身が温かいものに包まれたような錯覚がして、暗転する。
「ちょ」
「いいから。もう充分泣いたみたいだけど」
 有無を言わさない姉の言葉。ナオはどんな魔物よりも素早く捕獲されて、アキに抱きしめられていた。
 彼女は彼の後頭部をゆっくり、髪の毛をすきながら撫でる。
 母親代わりと言うと、母が居ないように聞こえるがそうではない。
 しかし、子供の頃から一番母親らしい事をしてくれたのは彼女だった。
 こうして、久し振りに抱きしめられた時にそれを思い出して、やっと体の力が抜ける。
「でるから。……私と一緒に」
 そしてもう一人の姉が、いつもの冷たい声で下達する。
 一瞬聞こえなかった。でる。そう、『出撃る』と彼女は言った。
 それに気づいてアキから離れる。
 自分より背の低い彼女が、まるで拗ねたような貌をしていることに気づいて。
 でも彼より先にアキが口を開いた。確信的だったから。
「あ、ごめんねー。これってばみーちゃんの役だったかな?」
「ねえさん」
 たらり。
 流石に不謹慎だったかも知れない、とアキは剣幕に押されて体を引く。
「でも」
 と、再び瞬速のアキハッグ。
 今度はフユだった。やっぱり反応も出来ずに捉えられてしまう。
「あ、アキ姉」
「んー、みーちゃんってばやっぱり柔らかいわぁ。こんな小さい体で、こんなに女の子らしい子を戦場に送り出すなんて」
 きゅと力がさらに込められた事に気づいて、フユはもう何も言わなかった。
――悪いのは、私
「止めても無駄だと思うし」
「……アレは間違いなく、私の敵です」
 アキに解放されて、フユは彼女を見上げる。
 そしてもう一度ナオを見つめる。
「あ、あの、姉ちゃん」
 事態が急速に動いている事を理解して、困惑した貌になったナオに、アキは優しく言う。
「みーちゃんがついてきてくれるって」
「姉さん。根本的に説明してください」
 あら、と驚いた貌をする。
「みーちゃん、いいの?あ、そうか、わたし一応司令なのよね。よし」
 彼女が可愛らしく右手を握りしめて気合いらしきものを入れると、すっと彼女はいつものおちゃらけた雰囲気を一掃した。
 ロングヘアの似合う、綺麗な長身の女性――それだけなら、司令の軍服も映えて、独特のカリスマのようなものを漂わせる。
 『指揮官』としての彼女の姿。
「フユは、今回のナオの事件の犯人を知っています」
 ナオの眉が一気に吊り上がる。
「精確には、これが仕掛けられた罠であるということを、分析した訳です、ナオ」
 ぎりと歯ぎしりして、ナオは頷く。
「何故かその理由は判りませんが。どうしてこんな回りくどい方法をしたのかも。しかし」
 つい、とアキは目を細めて薄ら笑いを浮かべる。
「我々は反撃をせねばなりません。ハムラ=ビケン法によれば目には目を埴輪はにわ」
「歯には歯を、です」
 頭の上にくしゃくしゃの線を飛ばしながらフユが額を押さえる。
 まじめモードのアキは三分ももたないのだ。
「そそ、それね。ハムラさんってばすぐ難しいこと決めるから」
「別にハムラさんのせいではありません姉さん。時間がないから早くしてください」
 ついでに全く難しいことではないのだが。
「あー、もういいっ!取りあえずナオ、証拠がないから犯人のままだけど出撃しなさい」
「し、しなさいって」
 今度こそアキはにっこりと笑みを浮かべた。
「敵は、人型の魔物。どうやら変身能力と魔術を使うことのできる二人組。強敵よ。必ず生きて帰りなさい」
 そして、アキはふーっとなにやら思いっきり草臥れたような、大役をこなしたような吐息を吐くとにへらっといつもの笑みを浮かべる。
「みーちゃん、こんな感じでどう?大分司令らしくなった?」
「……アキ姉さんをここに一人で放置する事がどれだけ危険な事かは良く理解できました」
 フユはまだ眉根を揉んでいる。
 こんな姉で、と思っているに違いない。
「一人で放っておくのが心配、じゃないのね」
「当たり前でしょう、心配するだけ無駄です」
 言うまでもないと言いたげに即答すると、フユはいつもの顔つきで彼女を見上げる。
「司令としての仕事の半分は私の仕事のようなものです。でも、それは表向きの顔の事ですから」
 そう言って肩をすくめて見せて、わずかに頬をゆるめて笑みを浮かべた。
「ナオ一人に行かせられないって絶対言うと思ってたから、少し頑張るわよ。あんまり馬鹿にしないこと」
「少しじゃなくて、これからしっかりして下さい。或る意味今回は良い薬じゃないですか?」
 そう言って二人ともくすくすと笑う。
「じゃ、政治的なお話はおまかせします、姉さん」
 そう言ってナオの手を取ると、先に独房から出る。
「ええ、行ってらっしゃい」
 フユの手に牽かれて出ていくナオを、右手を振って見送ると彼女はよいしょ、と独房をくぐる。
「あとは憲兵のひとと少しおはなししていかないといけないわね」
 性格に難のある女性だが、決してその手腕は悪いとは言えない。伊達にサッポロ防衛軍最大の勢力を抱える対魔軍の司令官を務めていない。
 それがミマオウ=アキ、その人だった。


 その連絡は、あらかじめ定められた通りに届いた。
「ん」
 ベッドから体を起こして、彼女は隣のミチノリを揺さぶった。
「起きろ、ミチノリ」
 彼の髪の毛は、枕からベッドの頭の方へ流れていて、それがもし女の子なら凄く絵になってるなあと思いながら。
 ぱちり。
「なあにぃ」
「早く起きて服を着ろ。連絡があった」
 ふぇ?と不思議そうな顔をする彼を放置して、ユーカはベッドから降りるとクローゼットを開く。
 特殊な戦闘衣、それも相当に呪詛を織り込んだ強烈な奴。
 開発した直後は絶対に必要ないと考えていた、純粋に戦闘的なものだ。
 尤も必要になってしまった限りは、使うのが一番だが。
――魔王級の魔物との決戦に立ち会えるとは、或る意味光栄なのか、運が悪いのか
 くすり、と笑いながらそれを身につけ始める。
 何カ所もベルトを縛りながら、幾つかのアクセサリをじゃらじゃらと、手慣れた手つきで次々に装備していく。
「うにゃ?」
 一方、まだミチノリは上半身をベッドの上で起こしたままだった。
「早く着替えろ!」
 ひゃん、と驚いた声を上げるとそのままベッドからくるんと回転して落ちる。
 どて、と激しい音がして彼は無惨な声を上げた。
「……まったく……」
 自分で起きる時はどんなに早くても起きるが、起こされてまともに起きる事がないのがミチノリ。
 だがそんな彼を思いっきり無視して準備を進められるのもユーカだ。
 言葉は反応するが、頭はクローゼットと言う名前の『武器庫』から欲しいものを次々に選び出していく。
 任せる時は任せる。でも、今日はそうはいかない。
「いい加減にしないと放って……」
 と、顔を向けるとシーツにくるまった半裸の彼が、床でぺたんと座ってにへらーと笑っていた。
「……おまえなぁ」
 結局寝ぼけた彼をたたき起こして着替えさせるしかなかった。

 報告を済ませると、ユーカはアキにボタンを手渡した。
 恐らく、今までになかった魔物が動きを見せたら、彼らの目的は間違いなく『勇者』と関わりがある、と。
 だから何かあったらこれで呼んで欲しいと言い含めて。
 どうやら先刻そのボタンが押されたらしい。場所はアキの自室、つまり司令室だ。
「夕刻に襲撃とは、やけに古典的な魔物だな」
『あら?人間には夜襲が最も効果的だと思いますけど?』
 聞き覚えのある猫かぶりな声が聞こえた気がした。
 間違いなく、彼女ならそう言うだろう。
「早かったな……半月しか過ぎてないぞ」
 ばたばたと後ろで準備をするミチノリの足音を聞きながら、ユーカはシコクでの出来事を思い出しながら、『終わり』が来た事を悟った。
 それは人生の終わりではない。
 世界の終わり。勿論、その後も世界は続くから、むしろ節目というべきだろうか。
――楽しみだな
 だがまだ彼女も、キリエが死んだ事は知らない。
 魔物の本当の目的は判らない、からこそ。
――本当に、楽しみだ。再会できる事を祈ろう
 敵対するであろう彼女の姿を思い浮かべ、にやりと笑みを浮かべた。

 フユに引っ張られて建物を出ると、憲兵が驚いて剣を突きつけようとする、が。
 フユはあくまでも将軍、幾ら職務とはいえ『鉄面皮』こと冷血将軍のフユに逆らいたくない。
「き、貴様」
 しかしまあ、中には無謀で任務に忠実、忠誠心の高い優秀な人材も居る。
「私はフユ。准将たる私に暴言を吐くのは貴方ですか」
 きり。
 ただでさえやぶにらみな彼女の鋭い視線が、ぎりと絞り込まれる。
「アキ司令より特命、その戦力として最適な一兵卒ナオを、その容疑と言え出撃させる事に反論が?」
「あ〜、あ、当たり前だ、お前、その許可証はあるのか?」
 どうやら相当優秀な人材らしい。
 可愛そうに――フユは一瞬、聞こえないほどの小さな声で呟き、口元に笑みを湛えた。
『見えませんの』
 びしり。
 一瞬音を立てたのかと思った。
 男の視界が、隅から隅へ一気に白い何かが、まるで亀裂のように走り。
 次の瞬間、暗転する。
「が、ががっ、な、なんだっ」
 くすくす。
 彼の耳に耳障りな笑い声が届く。
 何も見えない闇の中で、まるで取り囲まれるように笑い声が聞こえる。
 先刻まで何かが見えていたはずなのに。
 彼の視界は、まるで光のない闇に突き落とされたように完全に消失していた。
「そう、見えないんですか。それはお気の毒に。行きましょう、ナオ」
 頭を抱えてわめき始める男を、彼女に手を引かれながら、脂汗を垂らして見つめるナオ。
――この投げっぱなしなところはアキ姉ちゃんと似てるんだけど
 良いのかなぁ。
 そう思いながら、彼はそのまま引きずられていった。
 取りあえず自室で、或る程度装備を整えるように言われて男子専用寮に戻る。
 ナオは、何処に行くのか理解して思わず足を止めた。
「私と一緒にいなさい。だったら大丈夫だから」
 握る手に僅かに力を入れて、振り向く。
「うん」
 迷っていたのは一瞬。すぐに再び走り始める。
――キリエの仇……
「姉ちゃん、手、もういいから」
 言われてフユはナオの手を離す。
「大丈夫?」
「大丈夫。もう子供じゃないから」
 こくん、とフユは無言で頷く。
 男子寮まわりにはまだ憲兵達がうろうろしているが、その間をくぐり抜けるようにしてナオは自分の部屋へと戻った。
 勿論、フユと一緒に。
 或る程度の装備や服は自分の部屋の中に有る。
 即座に戦闘できるように装備を調えるのは少なくともこの部屋で充分だ。
「今回の戦闘は、かなり厳しいものになるから、鎧は持って行きなさい」
「持っていくよ」
「できれば斬魔刀は新しい刃付けのものにしなさい。刃こぼれしてたら予備を」
「判ってるって姉ちゃん」
 流石に五月蠅くなって振り向くと、フユは一歩ついと彼に近寄った。
 ナオはちょっとびっくりしたが、フユの貌を見て逆にばつが悪くなった。
 今回のこんなことがなかったら、多分今日なんかには会えなかっただろうから。
「……忙しくてまだ、挨拶もしてなかったでしょ」
 そして先刻、アキが彼を抱きしめた時に激しく拗ねた貌をした理由に思い当たった。
「おかえり。成果は……一緒に行くから、この目で見させてもらいます」
 言葉に反して、次のフユの顔は決して優しい物とは言えなかった。何処か厳しい、いつもの強気な顔つき。
 戦場のパートナーとしての顔。精確に、もう少し精確に言うと、フユの手足としての、術の器としてのナオに対する時の貌。
「判ったよ姉ちゃん。まあ見てなって」
 だから、力強く(彼自身そう思う仕草で)頷いた。
 がたがたと荷物をひっくり返すナオを見つめながら、フユは滅多に人に見せない貌をしていた。
 つい、と目を細めて、優しそうな貌で笑っている。
 ほんのわずかな、でも間違いなく成長した弟の背中。
 死線を少なくともくぐった人間の持つしたたかさ。
 それが、その背中から感じられて、彼女にとって誇らしく感じられたのかも知れない。
「あ、ナオ、余計な物は持てないから」
「もういいって!判ってるから姉ちゃん!」

 ぶぅん。
 ナオは使い慣れた斬魔小刀を手首をスナップさせて回転させる。
 柄に取り付けられた大きな、柄と同じ太さの輪を支点にして回転させる事で、他の武器とは一線を画した性能を誇るのが特徴。
 キリエはこの輪を、両手持ちのために使って大きく振り回していた。
 その御陰で(だけでもないが)体の割に大きな斬魔刀を使っていた彼女。
「姉ちゃん。新しい斬魔刀あるかな」
「それじゃ不足?」
「あ」
 ゆっくり彼は首を振った。
「大きな奴があれば、それを使いたい」
 彼の言葉に僅かに眉を寄せて非難する。
「使い慣れない武器は、負担にしかならないでしょう」
「使いたいんだ」
 真剣なナオの貌と、フユの睨みあい。
「駄目だっていっても」
「……実は、私の権限で今扱える武器庫で、出せる新品は……キリエのしかないから」
 フユの言葉に、一瞬ナオは後悔した。
 一つは彼女の武器は大きく重い事。普通のサイズではない特注品だ。
 一応サイズ差はあるので、ナオのは普通のサイズ(小)だ。
 だがキリエのは、実は普通(大)よりさらに一回り大きい。
 勿論重い――実は重さはさほど増えていない。
 回転させて扱う斬魔刀は、非常にバランスが良く作られている。
 実は投げる事もできる程である。
 しかし。
 フユに連れられて、司令部の武器庫に入る。ここは様々な武器が納められているが、殆どが斬魔刀だ。
 人数分の斬魔刀が、立てかけるように並べられている。ここにあるのはそれぞれの予備品だ。
 そのうち、フユはキリエの名が入った台座から、彼女の予備の斬魔刀を取り上げると、柄をナオに向けて差し出した。
 握ってみるまで判らなかった。
 僅かに、ほんの僅かな違和感が剣全体に漂っている。これは――そう。
 キリエの斬魔刀は重心が刃先に集中するような作りになっている。
 その分切っ先の先端の速度が上がり、重量に比して打撃力が上がる設計だろう。
 だが扱いはその分難しい。斧なんかと同じだと思って貰って間違いない。
 これを強引に扱っていたキリエ。
――そうか
 恐らく、小柄で女性であるというハンデを隠す為の方法だったのだろう。
 バランスを考えて作られた剣は、そのバランス故に重量による『叩き斬る』能力に劣る。
 これが斧と剣の差だが、それ故に剣は重心を利用した『速度』による切断を主とする攻撃ができる。
「これ……」
 この斬魔刀、見た目以上にパワータイプにカスタマイズされていた。
 切り裂くタイプの扱いをするナオにとって、これほど違う武器はない――まさに見た目だけ似ている武器だ。
「見た目は同じでも、スタイルを変えざるを得ない。そんな武器は、デメリットはあってもメリットはない」
 たとえば移動しながらこの剣を振り上げようとしよう。
 モーメントを剣先に与えて手元でくりんと回転させれば良かった動作が、大きさも相まって柄に円運動を与える必要性がある。
 切っ先と呼ぶべき部分がなく、鉈状の斬魔刀では、重い重心を振り下ろして叩く必要のあるこのキリエの斬魔刀は、人間ではない魔物と相対する時には不利だ。
 何故なら、どんな打撃も重心点で打撃せねばならないから、動きが単調にならざるを得ないからだ。
「だから勧めないと言ったでしょう。扱える?」
「扱えなくても。……キリエに使えて俺に使えないわけがない」
 それは彼の最後の矜持なのかもしれない。
「好きになさい」
 フユはできればそれを認めたくなかった。喩え、それがナオのパートナーだったキリエの持ち物だとしても。
 フユとナオは、以前のように二人で魔物を倒しに行くように、二人で並んで施設を出た。
 サッポロの荒野が広がっていて、何度も何度も歩いた道の先に、トマコマイがある。
 この道を二人で歩くのは本当に久々だった。
 でも、今こうして横に並んで歩いていて、違和感がないことに気づいた。
「変わらないね、姉ちゃん」
 だがフユは苛々していた。別にナオが悪い訳じゃない。
 今の状況がゆるせない。説明は受けている。あの、気まぐれ魔術師がもたらした情報によるなら。
 フユも理解していたから、アキも送り出したのだ。
 『勇者』ナオ。魔王を倒すために動くべき人間。
 何故。
 でもそれは疑問であってはならないらしい――と、聞いた。
 現象。高熱に晒された紙が燃え上がるのと同じ。
 魔王が終わる前に、人の中から勇者が選別さて現れる。それだけのこと。
――そんな危ない真似、ナオになんかさせられない
 自分はかなりナオの命に関わるようなことをやってきてるのだが、自分のことは棚上げのようだった。
 このあいだのゴーレムしかり。フユの側にいてまだ生きている方が実はすごいことかもしれない。
「ナオは、変わった。シコクに行く前と今、私はナオが違うと思う」
 フユが彼に向けた視線は、やさしい、柔らかい、羨望のような何かが混ざった色を見せる。
「男らしくなった」
 そして、きゅっと目を細めた。
「そんな、姉ちゃん」
 ふっと彼女の表情が緩む。
 相変わらずやぶにらみの、怒ってるのか怒っていないのか判らない微妙な貌つきだが。
「もしかしたら、私は守って貰えるかも知れない」
 どきん。
――え……
 フユがそう言った瞬間、ナオは何故か酷く心配になった。
 彼女の言葉の通りなら、別に悪いことはないはずなのに。
――……姉ちゃんがらしくないのか
 ナオにとってのフユは、常に『正しい』とナオを彼女の正しさで引っ張る強さがあるのだ。
 自分勝手、なのに逆らえないそんな強い優しさ。
――護られてきたんだ
 急にそれ無くなるような錯覚を受けたからかもしれない。
 目の前にいるのに、妙に存在感を失うような、姉らしくないところを見せているから。
――もしかしたら、本当にそう見えているのかな
 強くなった、男らしくなったとフユは言う。
 そう見えると彼女が言った限り多分撤回しないだろう。
「あのさ」
 フユはそれだけ自分勝手だ。
 ナオの気持ちなんかこれっぽっちも考えない。
「姉ちゃんがそう思うのは勝手だよ。でもさ」
 だから、折角だから強くなったんだったら、少しは聞いてくれるかも知れないと思って。
「弱気な姉ちゃんはらしくないから、俺やだよ」
 ぱちくり。
 一瞬フユは、何を聞いたんだろうと目をしばたたかせて、小首を傾げる。
 そして、ぽん、と手を打って頷く。
「別に弱気にはなってないから、安心しなさい」
「…………」
 やっぱりフユはフユだった。
「安心して姉さんの言うとおりにすればいいの」
 無茶苦茶である。しかし、これがフユなのだ。
 自分勝手で、妙な自信があって、弟のナオには有無を言わせない。
 だからおかしくなって、肩をすくめてくすりと笑う。
 フユは彼のその様子を見て微笑みを浮かべるだけで、何も言わない。
「それおかしいよ。それも姉ちゃん気づいてないし」
「黙りなさい」
 ごちん。
 フユの鉄拳がナオの頭頂部にヒット。
 一瞬目を回すが、いてて、と頭をさすりながら口元には笑みを浮かべる。
「……変なナオ」
 そんなナオを見て、僅かにむくれたようだった。
「いてて。それより姉ちゃん。今回の目標のことだけど」
 フユは小さく頷くと、つい、と目を細める。獲物を見る時の、狩人の目。
「ええ。嫌な敵。私の前でナオにそっくりに変身した、小さな女の子と、私より一回り大きな女の姿をした魔物」
 彼女は、その魔物の二人組が、ナオが特務に就く直前だったと説明する。
 あの時か、と思い出してナオは眉を顰めた。
「……あの、姉ちゃん。それって、俺に会う前?」
「前よ?アキ姉さんに抗議した直後に現れたから、結局夜まで処理にかかったけど」
 ナオは腕を組んで首を傾げる。
 記憶どおりなら、ユーカ達と別れてすぐに現れたはずだ。
 夜にも来たが――ナオは音を立てて顔を真っ赤にしながら、それでも考え続けた。
「じゃ、じゃああの時の姉ちゃんは……」
 何故顔を真っ赤にしているのか。
 フユはそれを聞こうとしたが、やめた。それは些細なことだ。
 それよりも重要なことがある。
「ナオのところにも現れたというの」
 フユは興奮して、隣の彼に掴みかかってゆさゆさと揺さぶる。
「ちょ、ちょ、姉ちゃんっ、落ち着いてっ」
 ぶんぶんぶんぶん。容赦なく彼の腕を掴んで全身を思いっきり揺さぶるから、痛い。腕が痛い。
「何をされたの、何をしていったのあのアマはっ!」
 これで顔色が変わっていないのだから、『鉄面皮』と呼ばれるのも仕方ないだろう。
「姉ちゃん。口調崩れてるよ」
 淡々と冷静に指摘されて、はっと顔を赤らめるフユ。
 そして、ナオを離してこほんと咳払いする。
「……それで、どうなの」
「あ、うん」
 ぼ。
「何故赤くなるの」
「うん」
 しかし答えて良い物かどうか判らなくなってしまう。
 代わりに、一度聞いてみることにする。
「あ、姉ちゃん。あのさ、その。……姉ちゃんって誰か好きになったこと有る?」
「え」
 想像して貰いたい。僅かに上目で、可愛い男の子が、顔を真っ赤にしたままでこういう科白を聞いてくるのだ。
 意中云々抜きにして、それもフユにとってはかわいい弟である。
 だがフユは、彼の疑問に別の解答を導いた。
「――そっか、ナオは誰かを好きになったんだ」
「ちょ」
 ふい、と顔を背けてフユは反撃する。
「いいわよー、姉さんは何も反対しないけど相手はきちんと選ばないと、後で相手が酷いから」
「何を言ってるんだよ姉ちゃんっ!」
 いつの間にか全く違う奇妙な会話になっている事に二人とも気づいていない。
 ついでに言えば、トマコマイに向かう道の真ん中で立ち止まってしまっている。
「ちょっと……悪戯されただけだよ。その……姉ちゃんの恰好だったけど」
「私の?」
 思い出す。そう言えばあの少女、もしかすると同じぐらいの背丈かも知れない。
 眉を寄せて酷く嫌そうな顔をする。これだけはっきりと表情を浮かべる姉を見るのは、ナオは初めてだった。
 それだけ彼女の感情を刺激したと言うことかも知れない。
「赦せない。いいえ、バラバラのぎたぎたにしても絶対赦さない。そんな勿体ないことはしない」
 そんな顔を赤くするような悪戯は、自分以外では赦さない。自分はいいのかという突っ込みは取りあえず不許可ということで。
 冷静に淡々と告げるものだから(フユはいつもこうだ)、ナオは逆にその魔物が哀れに思えた。
「永遠に死なないように封印してしまいましょう。そして、毎日頭から水滴をぽちゃぽちゃ垂らしてあげます」
 それは死刑囚の拷問です。
 発狂してしまいます。
「あ、あの、姉ちゃん?」
 明らかに目つきが変わった姉に怯えて、恐る恐る声をかける。
「安心して。もうそんな真似させないから」
「あのね。……いや、もう良いです」
 何をどう説明してどう会話して良いのか判らなくなったのでやめた。
 できればその魔物は一瞬で楽にしてあげよう。そんな決意をして。
「変身する方にはそれ以上大した力はないみたいだから、問題はもう一人」
 もう少しで殺すことができたのに、と悔しそうに呟くフユ。
 弟の事になると酷いものである。
 ナオも流石に引いて居るんだが。
「こっちは錬金術を使う魔物で、格闘戦もできる……手強い相手」
 ふと、フユの視界を横切った影に、彼女は話すのを止めて目を上げた。
 つられるようにナオも目を上げる。
「探したぞ」
 ユーカだった。
「ユーカ、あなた……」
「久し振り、みたいだな」
 二人が思い思いに声をかけると、彼女はいつもの草臥れたような笑みを浮かべる。
「なんだか司令部ばたばたしてるから、もしかしたらと思ったんだが」
 ユーカは呟いて二人を眺める。
 勿論、二人ともほぼ完全武装、戦闘時の二人を知っているなら『いつもの狩り』の恰好と呼ぶべきか。
「……どこに行くつもりだ?」
「狩り、です。愚問ではないですか、この恰好なのに」
 フユは鋭い目つきでユーカを睨み付ける。
「だから何処に狩りに行くって聞いてるんだ。どうした、何を焦ってるんだ」
 じゃらり。
 ユーカがフユに向けて手を差し出そうとすると、まるで布が擦れるようにして金属音がする。
 音から考えるに……細い金属製の鎖を編み込んでいるような服だ。
 ナオの目にも、細身のユーカが僅かにだぶついて見える。ローブの下に着こんだものが、輪郭を僅かに崩しているのだ。
「……貴方こそ、やけに重武装ですわね」
 つい、と自然にフユはナオとユーカの間に入ると、警戒するように一歩下がる。
「いつも側にいるクガはどうしました?」
「今サッポロで司令を捜して貰っている。……魔物が出たんだろう?てっきりサッポロにいると思って」
 いたのに。彼女が言葉を紡ぐより早く、フユは動いた。
 完全にナオとユーカを結ぶ直線に入ると、懐から言霊扇を取り出し縦に一閃。
「っ」
 息を呑み、殆ど反射的に右腕を上げて飛び退く。
 じゃらん、と金属的な音がしてユーカの服の右袖が弾けた。裂けた布の隙間から、きらきらと金属の光沢が見える。
 鎖帷子のようなものを織り込んでいるのだろう。
「将軍!」
「姉ちゃん!」
 ナオは真後ろからフユに飛びつき、間合いを切ったユーカは苦い表情を浮かべている。
 非難の顔ではない。
「命拾いしましたわね」
「何を馬鹿な!いきなり斬りかかるなんて、正気の沙汰か?それとも」
 つい、とユーカの目が細められて、きゅと口元が締まる。
 真剣な表情だ。
「気でも触れたか、将軍」
 ざり。
 ユーカは足下の砂利を踏みしめて、僅かに腰を落とす。
「貴方こそタイミング良すぎませんか?化けの皮を剥ぎなさい」
「ちょっと、待ってよ姉ちゃんっ」
 フユは視線を動かさず、ナオを無言でふりほどこうと体を捻る。
「幾ら何でも都合良すぎるんじゃないの?先刻言ってた魔物、サッポロを監視してたかも知れないけどさ」
「……離しなさいナオ。少しでも危険が感じられる限り、私は信用なんかしません」
 がっちりとフユの体を抱きしめるナオは、フユが身じろぐのをやめたのを感じて、言った。
「判ったから。いきなり斬りかからないって約束してくれないと離せない」
 ユーカはふぅ、とため息を付いて懐から四角いものを取り出した。
 大きさは掌に載せられる程度、正方形に親指位の厚みがあり、その上にまるい赤いボタンが付いている。
「憶えてないか、将軍。アキ司令にこれを置いていったはずだ。……魔物が現れたら押せって伝えているはず」
 あ。
 フユはそのボタンを見て目を丸くした。
「……そんなもの。……すっかり忘れていました」


 シエンタとアクセラは、石畳の隅から隅まで綺麗に掃除をしていた。
 右手で薄い定規を持って、ごりごりと隙間を削るようにしてゴミをとるのだ。
 意外と石畳の隙間には色んな物が詰まっている。綺麗な石のかけらとか、金貨とかは言うに及ばず。
「あ、まお様の写真みつけた」
 多分マジェストが落としていったのだろう。
「……ボクはだんごむししか見つけられないよ」
 ともかく綺麗にしなければならなかった。
 そんな二人の様子を見ながら、まおは執務机で両頬杖を付いて、大きくため息を付いていた。
 魔王。勇者を待つしかない存在。
 世界を征服するための軍団を率いて、世界を滅ぼしてしまう力を持ちながら。
――英雄の居ない時代は不幸だが、英雄を必要とする時代はもっと不幸……か
 では、求める人が居ない時は不幸でも、求める人が必要な時というのも、きっと不幸な状態に違いない。
 本当は、何百年も前に定められた勇者によって滅びていたのかも知れない。
 最初に暴れていたときに、定められた彼をさくりと殺したことが始まりだったのかも知れない。
 今更。
――そう、いまさらだよね
 あれから一体どれだけの時間を怠惰に過ごしてきたのだろうか。
 『魔王が勇者を殺してしまう』という事はどれだけの影響を与えたのだろうか。
 あの時代、確かに魔王の力が隆盛していた。
 世の中は英雄を欲していた。
 きっとそれは今より不幸で。
 だから、多分あれから今まで、きっと英雄になる人間は現れず。
 勇者はこなかった。
 きっと。
「まじー」
「は」
 まおの真後ろに唐突ににじみ出す、マジェスト。
 しかし神速の足裁きで一瞬にして、掃除をするアクセラの側に行き取りあえず写真を回収する。
「やだー、一枚ぐらい欲しいですマジェスト様」
「五月蠅い、これは私の大切な宝物なのです。拾ったら返しなさい」
 まったく、と言いながらズボンをはたき、埃を払う。
 じと。
「や、魔王陛下、いえ、そのですね。何のご用でしょうか」
「……まじーに聞くべきか今非常に悩んだけど」
 あっはっはと後頭部を掻きながら、彼は豪快に笑うとすっと一礼する。
「どうぞ陛下。何なりと仰ってくださいませ」
「んあ。……結局さ。魔王の存在意義って勇者に倒されることなの?」
 これは聞かなければならないと思った。
 『ウィッシュ』のような存在が必要な理由。
 そして今の自分が、魔王という存在について記憶がほとんどないという理由。
 その代わりにまおには自由意志に近い思考能力が与えられていて、まおに従うように設定された魔王軍が存在する。
 しかし、魔王軍は自由に思考することは赦されず、設定に強制的に従う。
 そんな魔王は、何故この世に存在するのか。
「陛下。魔王は勇者により滅ぼされなければならない定めで御座います」
「うそ。それへんだよ。だって、私勇者を倒しちゃったよ!」
 両腕を机に叩きつけるようにして、そのまま体重をかける。
 若干前のめりになって、彼女の前で項垂れるマジェストも見下ろすことができる。
 マジェストはすっと顔をあげ、すぐにその態勢を入れ替えてしまう。
「そうでございます、陛下。……その後陛下はどうなりましたか?」
「あう……」
 慌てて飛び出して、後ろから羽交い締めにしたのはマジェストだった。
 ずるずると魔城に引き返し、こんこんとお説教をした後、まおは二度と外に出して貰えなかった。
 いや、自分ででようとは思わなかったのだった。
「トラウマに触れるのは忍びがたいですが、あの時は魔王軍団の動きもほぼ凍結してしまいました。陛下が動かなかったからで御座いますが」
「私が悪いの?!」
 マジェストはゆっくり首を振って、彼女の言葉を否定する。
「違います陛下。勇者でも英雄になれない者は存在します。魔王はそんな半端な勇者を蹴散らすだけの権限があります」
 実際に、『勇者』ではない人間がここに来ることもあった。
 魔王軍を蹴散らせる程の力を持った人間は、何も一人ではないのだから。でも。
 彼らは定められた『勇者』ではないという単純な理由から消された。
 問題は、と彼は続けた。
「要するにバランスなんですよ。あの直後から人間の軍備は極端に拡大し、たった一人の英雄を必要としなくなってしまった。皮肉なことに、勇者の死と魔王の停止が、人間に力を与えた」

  ばたん。

「わ」
 いきなり執務室が真っ暗になり、掃除をしていたアクセラが突き指を、シエンタは激しい音を立てて転んだ。
 かしゃん。
 そんな機械的な音がして、かしゃかしゃという音と共にまおの目の前に四角い光が映し出される。
 5、4、3……右下に映倫の文字。
 一瞬真っ白になると、タイトルが下から起きあがるように表示される。『勇者がいなければ魔王は滅びない』
 筆で書かれたその文字は、まあ良くあるドキュメンタリー番組のタイトルのようだ。
「それまでも、人間は武器を持って魔物と戦っておりました。しかし、必ず魔物は勇者と呼ばれる人間が現れて、魔物を殲滅していたのです」
 勇者という存在が英雄視され、魔物がどこにいるのか、何時現れるのか、人間達は戦々恐々していた。
 魔物の昼夜を問わない襲撃に対して、そのたびに人類は犠牲を出しながら対処していた。
「勇者に選ばれなかったような単純な人間は、魔物に食われ、あわよくばここまで辿り着いても陛下がばさりと」
「ふつーの人間じゃ勝てる訳ないぢゃん」
 ふん、と鼻息荒く言うと、どかりと椅子に座る。
「陛下は伝説の存在。勇者も伝説の存在。人間達はこの傲慢な支配者に、勇者の再来を求めるのは必然」
 映像はぱらぱらと流れ、逃げまどう人々を喰らう魔物が映し出される。
 魔王直々に大暴れするシーンもある。
「しかし陛下は」
 見覚えのある男の子が画面のなかでアップになった。
 まだ幼い、何の力もないような男の子。
 きっと強い目の光を湛え、両腕を大きく広げて、何の迷いもなく立つ姿。
 まおは唇を噛んだ。
「勇者を見つけてしまった」
「もうやめてよっ。説明するなら言葉だけでいいじゃんっ」
 
 だん
 
 まおが立ち上がった途端、執務室は元に戻った。
 同時に映写機ががーと音を立てて引っ込んで、やれやれとアクセラとシエンタが掃除を始める。
「……失礼いたしました」
 マジェストは何も言わず、ただそれだけ言うと僅かに頭を垂れて非礼を詫びた。
 まおは、ぷっと膨れた顔で両目に涙を浮かべている。
「性格悪い」
「良く言われます、特に陛下に。……あの強気な子供に、よく似ているような気がしませんかな、陛下」
「誰が」
 マジェストは驚いたように目を丸くして、『何を言うのか』というような顔だけ聞き返して、元の貌に戻る。
「話を戻しましょう。何故か、その後すぐに魔王は外にでなくなり、魔物の襲撃も不意になくなった。そうなれば人間は軍備を固めます。当然でしょう」
 勿論マジェストが閉じこめたからに他ならないが、人間達は『魔王がでてこなくなった』理由は判らなかっただろう。
 だが喉元過ぎれば。人間はすぐに次に魔王が顕れるまでの僅かな時間を利用するのは必然だった。
 街、国、城を上げて、魔物対策の工事が突貫で行われ、魔物との戦いのための軍隊も編成され始める。
 それまで数名の魔物退治、通称『狩人』と呼ばれるものたちもいたし、今も存在するが、訓練された軍隊の比ではない。
「べつにそれだけなら良かったのです、陛下。……今勇者が選ばれたとしても、きっと彼は『勇者』である事に気づくこともなければ、その必要性すらないのです」
 まおはまだ機嫌悪そうに眉をつりあげているが、涙は振り払ったのか欠片も見えない。
 ただマジェストの言葉に耳を傾けている。睨みながら。
「こうして、先代魔王陛下の時代のような、混沌とした世界と平和を繰り返す状況は一変しました」
「そね。……うん。昔はそうだったよね」
 別にこれに始まった訳ではない。今までも軍備増強は無かったわけではない。
 問題は、以前と今との大きな違いがあったことだった。
「勇者の年齢は当時恐らく七、八歳というところでしょう。十年分ぐらい人間の数が多すぎたのは、その後の二百年にとって手痛い話でした」
 彼はグラフを取り出して人口の増加率を指し示す。
 いつもの平和期のおよそ十倍以上もの増加が認められたが――面白いことに、それ以来『増加』していない。
 まおはぺたん、と机の上に身を投げ出して横たわる。
 彼女の好きな姿勢の一つだ。両腕をだらーんと机の上に伸ばして、顔を横向きに頬を木製の机に押し当てる。
「……ゴキブリなみよね」
「おっしゃるとおりで……。御陰で、魔王陛下の活動再開時には、もう人を滅ぼす事が難しい状況になっていたのは事実でございます」
 英雄の必要もなく、魔物との争いが蔓延し、普遍的な『擬似的な平和』に満ちた戦いの世界。
「陛下が真面目にやらないから、いつまで経っても勇者が現れないのですぞ」
 くい、と中指で眼鏡を押し上げる、お説教モードのスイッチをマジェストが入れる。
 まおはそれを見ていたが、まだだらーんと机の上に体を乗せている。
「いいもん。まじー、そんなかんじで良いんでしょ?この時代の中から勇者がでないうちに、私が死ぬのは困るんでしょ」
 そして、顔をむくりと起こすと、まおはにやあっと笑って見せる。
「私が死んだら、魔王軍団は滅ぶ。……今回の人間の状態だったら、きっと、人間同士での争いも起きるよね」
 マジェストはさっと顔色を変えた。
 が、すぐに元に戻り、ゆっくり頷く。
「そうでしょうな。勇者はまだこっちに来られては困るのです。だからこその対勇者用魔物」
「困る?やっぱりそうなんだ。魔王って世界を征服するための存在じゃないんじゃない」
 まおの言葉にマジェストは困った貌を浮かべる。
 困惑した彼の表情に、まおは睨み付けるように眉を吊り上げる。
「ヒトを滅ぼすのが目的でもないんでしょ?変じゃないそれ。おかしいよ、なんで勇者に殺されなきゃいけなかったり、人間の様子を気にしなきゃいけないの」
「魔王陛下」
 まおは立ち上がって、執務机を挟んでマジェストと向かい合う。
 マジェストは苦虫を噛みつぶしたような顔で、まおを見つめている。
 先程までの貌ではない。苦しそうな、悼む表情。それは悔しさではない。
「この『出来合いの物語』ってのをコントロールしなきゃいけない。……それがウィッシュたちなんでしょ?」
 先代魔王の命により、まおの代で作った魔物。
 マジェストはすっと目を細めて、眉根を揉んだ。
「この間の時ですな。……思い出されましたか」
 マジェストは呟き、目を閉じ――目尻から光がこぼれた。
「まだ完全ではありませんが、ないものは補充することでこのアンバランスな設定をデバッグしなければ」
「いやよ」
 そして。
 まおは、魔王の貌で笑う。
 子供のように無邪気な彼女が、邪悪な笑みを湛える。それは――酷く滑稽な、悪夢のCalicature。
「まじー。最初に私が失敗したの。この物語は元々未完成品だったのに、致命的なバランスの崩れが発生したのに」
 そしてふと彼女は、悔しそうに口を噤んだ。
 ふるふると両肩が震える。
「もう無理よっ!いやだよ!なんで私だけこんな目に遭わなきゃいけないのよ!」
 きっと目をむけると、マジェストは困った貌を浮かべていた。
「嘘ついたでしょ。もう勇者はいるんでしょ。ウィッシュに確認したもんね。……判ってるでしょ、この意味が」
「陛下……」
 マジェストは哀しそうに口を歪め、僅かに俯く。
「私は、そんなつもりではなく……もう少し、今はまだ時期尚早と」
 く、と喉を詰まらせるような声を上げるマジェストを睨み付けて、まおは言う。
「だから終わらせるようにウィッシュに頼んだよ。魔王らしく魔王として、ここで死ぬから」
「陛下」
 マジェストは、まおが言い切った言葉を否定する事は出来なかった。
 ただその場に片膝を付き、臣下の礼を取って項垂れた。
「御意に、ございます」
 初めからこうすれば良かった。
 まおは一瞬そう思ったが、もう何も言わずに椅子にへたりこむようにして座った。
――でも
 未完成な、不完全な物語だから。
――大丈夫
 まだ付け入る隙があるはずだから。
――ウィッシュ、きっちりやってね
 あとは結果を待つだけしか、もうやることはなかった。
 執務室の椅子に、力無くへたりこんだようにも見えるまお。
 シエンタとアクセラが掃除を終えても、彼女は視線を床に向けたまま動こうとしなかった。
「まお様、掃除終わった」
「ご苦労様」
 気づいて顔を上げたが、二人は無言でまおの方を見つめている。
「ん?なに?」
「まお様元気ない」
「どうかしたんですか?」
 二人は常にまおの側にいて、まおの世話をするのが役目。
 細かい変化は、彼らにとって手に取るように判る。
 まおは少しだけおかしくなって、くすりと小さく笑うと、足を組んで自分の肘を乗せて、両手を組む。
「ありがと。……ちょっとお話きいてくれるかな」
 こくこく。
 二人も何故かそのまま床に正座すると拝聴もーどに入る。
「えとねー」
 まおは、ゆっくりとこの間のシコクの旅の話を始めた。
 この城を出るのに、ものすごく苦労したこと。
 なんとかサッポロまで辿り着いたこと。
 ウィッシュとヴィッツが手を出すより早く、どうにか追いついたこと。
 色々あって、記憶をなくしながらシコクで大変な目に遭ったこと。
「人間ってさ、すごいんだよ。でも、一生懸命なのに、それが叶うとは限らないの」
 力が足りないこともあるだろう。
 命が足りないことだってある。
 それでも必死になって、何かのために戦う。今も戦い続けている。
「もし、さ。ものすごい力があって、それらを総て叶えてあげられるとしたら、それを選んでも良いと思う?」
 ぱちくり。
 二人は同時に瞬きして、お互い顔を見合わせて、まおの方を向く。
「それってまお様がやるの?」
 まずシエンタが口を開いた。
「ううん、違うけど」
「まお様は虐められてたら止めたくなるんだ」
 アクセラはうんうんと頷きながら言う。
「そっかな?うーん、そうかも。助けてあげたいって思うじゃない」
「やさしい」
 アクセラはにかりと笑って、また頷く。
 まおはえへへーと言いながらアクセラに手を伸ばして、彼の頭をなでなでする。
 シエンタは少し悔しそうな貌で、ほんの少し羨ましそうに口元を歪める。
「まお様。まお様はまおうへいかでしょう?」
「ん、そだよ」
 小首を傾げてシエンタの貌を見る。
「まお様、人間より凄いと思う。でも、まお様は魔王陛下だから、人間を滅ぼさなきゃいけない、敵でしょ?」
 うんうん、とまおは頷く。
「だったらさ。……別に、直接叶えても喜ばれないと思う。でもきっと何かできることは有るはず」
「そだねそうそう。うんうん。ありがと」
 きゅ。
 椅子から身を乗り出して、座ってるシエンタの頭に手を伸ばして抱きよせる。
 なでなで。
「今までありがとね。色々。ね」
 なでなで。
「いいえ、まお様の為ですから」
 にへらー。
 そして、そのままアクセラにも腕を伸ばして、二人を抱きしめる。
 いままでこんなごほうびをもらったことのない二人だけに、流石に焦って身じろぎする。
「ま、まお様」
「そうなのよねー。私、敵なんだよね。だからさ、時々寂しいことがあるんだよ」
 こんな事なら出会うんじゃなかった。
 まおは言葉にせず、『人間』だった数日間を思い出して目を閉じる。

『ロウ。昼食は終わりましたわ。早く自室にお戻りになって』

 姫と呼ばれた少女。
 ロウの、驚いた目。
 そしてグザイの言葉。

  この娘、人間じゃ――ない

 ロウはどう思ったのだろう。
 誰が悪い、何が悪いなんて何も言えない。ただ態度を急変させたグザイが――怖かった。
 ロウは?
 それまで散々酷く扱われて、でもグザイを羽交い締めにして止めてくれた気がする。
 何故?
「ヒトを、誰かを大事にしたいって思うのはおかしいのかな」
 シエンタもアクセラも、まおの言葉に応える事は出来なかった。

 好き。
 多分、そんな単純な感情なんかじゃない。
 誰もいなくなった執務室で、まおは机に両肘を付いて頬杖で考え込んでいた。
 死にそうになりながら戦う人間達。
 殺そうとしているのは魔物だ。まおの配下だ。
――世界を征服しない魔王はこの世に存在できません
 本当に?まおはマジェストの言葉に反論する。
 もしそうなら、何故こんなにヒトに。
 どうして、この間のあのシコクの数日間が大切に思えるのか。
 あの後、ロウはどうなったのか。
 そして――ナオはどう思うんだろうか。魔王だって言っても多分信じてくれない。
 でも信じさせたら彼はなんて言うんだろうか。
 想像できない――したくない。
 まおはため息を付いた。
「恨む……かな」
 左頬に体重を乗せて、右手はひじを付けたまま机の上に人差し指を押し当てて、くるくる円を描く。
「なんで魔王なんだろな」
 試しに記憶を探ってみる。
 自分の中に残った先代の記憶。自分ではない自分の記憶。
 どうして彼は、今の自分を求めたんだろうか。
――こんな気持ちになるなら、こんなに辛いなら女の子なんかいやなのに
 思わず両目涙がたまる。
――ヒトが怖いのに。こんなに怖いのに。死にたくないのに。殺されそうになったのに
 どうして。
――もうこれ以上傷つけたくないのに。傷つきたくないのに。裏切られたのに
 何故。
――信じたいのかな……。助けてくれるって、思ってるのかな?どうして……
 酷い矛盾。まおは訳が分からなくなってそのまま机に突っ伏した。
「魔王陛下」
 がばっ!
 慌てて体を起こして、顔を両腕でごしごしこすって、大きく両腕で伸びをして。
「な、なななに?なにかあった?」
「……何を大慌てしてるんですか陛下」
 ふう、とため息を付くマジェストの右手に、大きな銀の盆が乗せられている。
 ふわりと柔らかい香りがした。
「いつか、食べさせてあげられなかったので」
 彼はそう言いながら、執務机の上にお盆を置いて、蓋を取る。
 濃厚な酸味のある甘い香りが舞った。
「うわぁ」
 ブルーベリーソースのかかった、白いレアチーズケーキ。
「どうぞ」
 マジェストはそのまますっと身を引いた。
 まおは、一瞬ぱっと顔を明るくする。が、そこまでだった。
 凄く嬉しかった。だから。
「……魔王陛下?」
 マジェストが訝しがるうちに、彼女は俯いて震え出す。
 自分でも訳が分からないまま、先刻の事を思い出して涙が止まらない。
 焦ったマジェストが近づいてくるのが判って、たまらずまおは彼に抱きついた。
 彼は何も言わず、ただまおの頭を撫でるようにしてあやして、泣きやむのを待つことにした。
「落ち着きましたか?」
 マジェストを離すと、まおはこくんとうなずいて、チーズケーキに向かい合う。
 フォークを手に取りながら、彼女はマジェストをちらりと見上げる。
「まじー」
「は」
 いつものように答えるマジェスト。まおはじっと彼を上目遣いで見上げる。
「……ありがと」
「いえ」
 短い彼の返答に、にこっと笑ってチーズケーキを食べ始めた。
「本当はさ。……魔王って人間を全滅させたら駄目なのよね」
「陛下、それは……」
 まおはチーズケーキをフォークで小さく切り分け、ゆっくりソースを絡めながら一口大の塊を口に運ぶ。
 柔らかい。ちょっとつつくだけで形が崩れる。
「ゴキブリ並に増えるアレだもんね。徹底的に減らしたら、勇者が魔王を、魔物全部を滅ぼす。……つかの間の平和に、人間が増える」
 話ながらまおはチーズケーキを食べ続ける。
 段々、ケーキは小さくなって、最後には一口大より小さくなった。
「なんで?『本当は滅ぼさない』のに、そんな回りくどいことをし続けるの?」
 マジェストは黙り込んだ。
 何故なら、まおの話は魔王に抵触する話だからだ。
 それは語ってはならない。語れないように設定されている。
 語ろうとすればその記憶は封鎖され、元の思考ルーチンに戻る。
 結果、意味のない堂々巡りを続けて黙り込むしかない。
「バグですな」
「バグ?」
 きょとんとしたまおの顔に、マジェストはくい、と眼鏡を押し上げて無表情で答えた。
「最初にそう決めた……神の設定ミスですよ。最初に神が決めた仕様とは、実はかなり違うということです」
 結果として未完成になった。
 だから、色んな歪みや矛盾がある。
「魔王陛下などは良い例でしょう?でも、最後に殺し合った『神々』も、今やただの人間。……ですが」
 す、とまおに近づくと、マジェストは右手を彼女の頬に当てる。
 まおはくすぐったそうに顔をしかめるが、ふりほどかない。
「魔王陛下。貴方は……神がこう定めたのですよ。『人類を愛する事のできる存在になれ』と」
 酷い矛盾。
「どうして」
「そして、陛下。陛下は『魔王』ですが我々の統括ではないのです。いわば、異分子ですな」
 マジェストは右手で彼女の頭を撫でると、彼女から離れた。
 まおはまだ不思議そうな顔をしている。
「一番神に近い位置で、私達を見ることのできる方なのですよ、魔王陛下は」
 先代魔王が、彼に命じて作らせた『ウィッシュ』と『ヴィッツ』。
 そもそも『勇者』に対抗する為にそれらは存在した。
 何故先代が、今代の為に作らせたのか?――言うまでもない。
 彼はまおを望んだから――その為の安全装置は必ず必要になるはず。
「じゃあ神って?何?」
「この世界総てをお作りになられた、今は存在しないものでございますよ、陛下」
 存在しないから、訂正できない。もう修正の出来ない不具合だらけのこの世界を、どうにか当初の目的どおりに動かそうとして。
 それを探ろうとする、不届きな人間どもをどうにか排除して、同じ轍を踏まぬように。
 それは、しかしそれはまるで――世界を組み立てた神の意志ではなく、彼らの真意に気付いた初代勇者、『穹』を意味する神の想いなのかもしれない。
「この世界は、神の愛そのものでございます」
 だからどうにか、彼(か)のものの願いの通りになるように。
 まおは彼の言葉にくすりと小さく笑った。
「おかしいよそれ。おかしい。だってさ、だって。……へんじゃない?」
「おかしい?そうでございますな。魔物が神の愛を語るなんて非常におかしいことかも知れませんな。でも」
 しかし。
 神がこの世界の総てを作ったので有れば、神の味方も居なければ敵も居ない。
 この世界というのは神の思いのままに作られた『神の所有物』。
 だれも、彼のものを否定できないし、彼のものを憎む必要もなければ、敵対する理由なんかない。
「創造主に対して、きっと抱くことができる感情は、感謝と、愛情だと私は思いますよ、魔王陛下」


 トマコマイに通じる道で、フユ達とユーカは向かい合っていた。
 ユーカは呆れたようにため息をついて、「慌てすぎだ」と微笑むとフユに言う。
「司令に『予定通り行動する』と伝えて帰ってくるように言い含めている。ミチノリが来るまでの時間ぐらい落ち着け」
 フユは唐突と思ったが、確かに彼女の持っているボタンのようなものはあの時アキに手渡している。
 それこそずっと見張っていたフユの目をかいくぐってその話を知ることなど難しいどころか、不可能だ。
 信じるしかない。
「私達はこれから魔物を退治に行くんです。判るでしょう、追撃の最中です」
「場所は判っているのか?何か手がかりでもあるか?」
 魔物の追跡は不可能ではない。しかし、この広い世界の中でたった一人を見つけるという事は砂粒の中から砂金を取り出すような作業だ。
 見えない場所まで逃げた『正体不明の敵』を探すと言うことは不可能に近い相談だ。
「今負っている魔物は魔術を扱う二人組です。魔術痕を追えば追跡が可能です」
 魔術を使う魔物で、二人組。
 ユーカは僅かに目を見開き、ぱちくりと瞬くと右手を自分の頬に、左手を右肘にあてる。
「それなら先程、私も遭遇した」
 淡々と述べるユーカ。
 フユの言う事は事実だが、実際に可能かどうかは明確に言い切る事が出来ない『論理の穴』がある。
 もしそれが諸手を上げて歓迎される方法であるなら、何故彼女は魔術痕を常に拾い続けていたのか。
 彼女は驚いて思わず掴みかかりそうになり、両腕を自分の胸の前で縮めて、我慢する。
 彼女自身その矛盾を知っていたからこそ、彼女は否定されたわけではなくむしろ何らかの手がかりを言おうとしているからこそ。
 我慢して、ゆっくりと腕を降ろす。
「そ、そして、一体」
 ごくり。
「多勢に無勢だったが、どうにか手傷を負わせて逃げてきた」
 あっさり。
「そ、そう」
 あたふた。
 フユは動揺しながら、彼女の言葉を聞いて落ち着こうと必死だったりした。
「どんな奴だった」
 フユの隣からナオが顔を出す。
 眉が吊り上がって、鬼気迫る貌をしている。それに、僅かに彼女は眉を顰め、ついと細めた目を逸らせる。
「そうだな」
 言葉を探しているのだろう、ゆっくり首を傾げて思案するように数回瞬く。
 彼女の形のいい唇が一瞬歪む。
「珍しい魔物だったな、人の形をしてる」
 嘘は付かない。嘘が付けない。
「長い髪の女の子と、短い髪の女の子だった。見たことないような奇妙な服を着ていたぞ?すぐ判る」
「短い髪の娘は吊り目で、おかっぱじゃありませんか?」
 案の定フユは会っているようだ、とユーカは思いながら頷く。
「結構可愛らしかったな。魔物とは思えないが、もう一人がかばっていたぞ。直接戦闘った(やった)のは長い髪の女の方だった」
 やっぱり、とフユは頷く。
「間違いないようですね」
「それに、取りあえず、ほら」
 ユーカは懐からなめし革のような黒い光沢のある欠片を取り出した。
「魔物の衣服の一部だ。これがあれば追跡はできる。焦る理由はないだろう?」

 ミチノリはそれから二時間ほどで戻ってきた。
 いつもの様子で、のんびり鼻歌を歌いながらトマコマイにむかって来るので、ユーカは彼に駆け寄ってぽかりと殴ったりした。
「……前にも、話をしたとおり」
 トマコマイ砦側で日が暮れそうになってきたので、取りあえず野宿にすることにした。
 なおユーカの術によれば、このまま南へと真っ直ぐ下った先に魔物が潜んでいるらしい。
 いや、潜むというのはおかしな表現だろう。
 逃げて、待ち受ける――もしかするともっと別な何か。壮大な罠に仕掛けられたような気分とでも言うのか。
 ユーカが話を始めると、ナオはごくりとのどを鳴らしてじっと彼女を見つめた。
 車座になってたき火を囲む彼ら、フユはちょこんとたき火の側に正座し、その正面にはミチノリが横座りしている。
 丁度対照的な恰好で座るユーカだが、光の加減だろう。光の加減という事にしておけ、ミチノリの方が妙に色っぽく見えた。
「実質、魔王の誘いだと思って間違いない。つまり」
 視線がナオに集まる。
「え」
「ナオ。お前が勇者だ」
 もう一度、彼はのどを鳴らした。
 『あー、憧れたんだよ。勇者っていうよりも、そんな風に強くなりたいなって。なれるのなら、さ』
 キリエの声が聞こえたような気がした。
――なんで
 のどが渇く。だから、もう一度のどをならす。
「ゆ、うしゃ?勇者って、あの、神話とかにでてくるアレか?あの勇者か?」
「……ナオ、私が何故シコクに行ったと思っているんだ?」
 じろり、と睨み付けてくるユーカの視線に、彼は口を噤む。
 言霊師のように力ある言葉で縛るのとは違うが、彼女の真剣な目を見れば判る。
 それが嘘なのか、本当なのか位理解できる。
「……本気で……勇者を捜しに……だって、でも、俺って……」
「精確に勇者を捜したのではなく、手がかりを探しに行ったんだ」
 占いによれば『運命が動くから』だったのだが、勿論そんなことはおくびにもださない。
 出したくないし。
 丁度シーンはシリアスだし。とか、色々考えながら言葉を継ぐ。
「まあたまたま。本当に偶然、何らかの原因でここで『ナラク』が解放された瞬間に勇者が現れたのは確かなんだ」
 ぴくり。
 フユの頬が引きつる。
「そう言えばそう言う話をアキ姉さんがしていたような気がします」
 丁度特命の時に。フユは結構興奮していて、そんな話は右から左だったから気にしていなかったが、記憶に残っている。
「……では私が勇者を作ってしまったと?」
 確かにその時、ナオはトマコマイに居合わせた。
「いいか。これから話す内容は決して真実ではなく、私の立てた推論だ。そのつもりで聞いてくれ」
 ユーカは両手を少し広げて全員を見渡す。
 そして寝ぼけ眼な自分の夫に肩を落としてみせると話を続ける。
「恐らく勇者というのはナンバリングと同じようなものだと私は思っている。血族じゃない、魔王と戦って死んだ人間の息子が勇者であった試しはない」
 ついでに言えば、独身で子供どころじゃなかった勇者の後にも『勇者』が『発生』している。
「……フユ将軍。ナラクでは大勢の対魔軍の人間を巻き添えにしたと聞く」
 ああ、と、返事ではなく嘆息してフユは目を閉じた。
「恐らく対魔軍に勇者がいたのだろう。――ナラクで命を落とした勇者の代わりに」
 ユーカが視線を向ける。再びナオに視線が集まる。
「これはどういう理由か判らない。第一、指名される人間がそれを自覚していることはほぼないそうだが、中には声を聞いたという者もいたらしいが」
「……声?」
「伝承であるだろう?『貴方は勇者に選ばれました』と言う奴だ。伝承では勇者になってしまうが、もしかしたら選ばないという選択肢があるのではないか?」
 今まで誰も勇者を選択しなかったから、今まで勇者は発生しなかったのだろう、というのが彼女の推測だった。
「……声、なんか、聞いてない」
「だろうな。でなければ説明できないだろうな、あの魔物がここに来た理由の、な」
「それとこれと……キリエの話とどう関わってくるんだ」
 それは、とユーカが首を傾げた。
「キリエ?」
 がし、と、立ち上がりかけたナオの肩をフユが押さえる。
「姉ちゃん」
「まだキリエの事は話していないでしょう?良いから座りなさい。私が説明します」

   

※     ※     ※

 
 ぱちぱちと爆ぜる枝。
 たき火の明かりが、いつぞやのゴーレム化した時の残骸に複雑な陰影を落とす。
 防寒寝袋の準備を終えて、たき火に足を向けて横一列に並べた寝袋に全員潜り込む。
 一番端にフユとミチノリ、真ん中二人がナオとユーカである。
 場所柄まとまって眠らなければ寒いが、端は特に寒い。この順番はいわば、守る者と守られる者の差とも言える。
 フユはがんとして聞かないし、ミチノリも『これがあるから』とあの巨大手袋を自分の向こう側においてさっさと眠ってしまっている。
「ユーカ」
 彼女はナオの声に目を向けた。彼は斗穹(ほしぞら)を見上げて、声だけを向けてくる。
「魔王って奴は、何で存在するんだろうな」
「勇者はどうしているんだろうな、という疑問に聞こえるな、私は」
 ユーカはそう言うと目を閉じ、大きく呼吸する。
 隣にいるナオは身じろぎ一つせず、ただじっと穹を見上げたまま黙り込んでいる。
「無駄なことだと思うか?」
「……疑問に疑問で問うのは止めろよ」
 ユーカがくすりと笑うと、初めて彼はユーカの方に顔を向けた。
 だが、もうユーカは目を閉じていて、彼の目には彼女の寝袋のフードしか見えない。
「悪かった。存在意義の話をしているのではなく、現れた理由の話なら神話の通りだと思うが?」
 神が造り上げた存在。
 伝え聞く限り、人間を作った神は、退屈を紛らわせるために魔王と天使を放ち、人間を虐めてみたくなったのだ。
 それを赦せなかった神が、神に叛乱を起こし、総ての神を滅ぼし、魔王を最初にうち倒した勇者となった。
「でもさ。何度も勇者に滅ぼされてるんだろ?……神様の娯楽のために、人間は生かさず殺さずを繰り返しているみたいじゃないか」
「みたい、ではなく、そのものだろうな。私はそう思っているが」
「だとしたら神って奴は酷いだろ?」
 ふむ、とユーカの呼吸が聞こえる。
「……しかし、もうこの娯楽につき合う神は、裏切り者の神によって滅びたんだろう。……もう、魔王は眠りにつくべきかも知れない」
 ユーカの言葉尻は、もう寝息が混じり始めている。
「それって、一番最初の勇者の話だろ……一体、何百年おなじ事を繰り返して……一体、何をしてるんだろ、俺達」
 返事はなかった。
 そして、返事を待つほど、彼も起きていられなかった。
 夜はゆっくりと、一気に更けていった。


 まおは必死になって思い出そうとしていた。
 実は必死と言うほど真剣ではなかったが、あまりに遠い、同じ自分とは思えない違和感だらけの記憶を掘り返していた。
 思い出そうとしていた。
 整合性のない記憶の欠片のように感じるが、それは先代魔王、つまり死ぬ前の自分があまりに違いすぎるからだった。
 その魔王は体格の良い男性だった。
 決して年老いては居なかったが、まおのような子供ではなかった。
 だから記憶がはっきりしない。自分のものとは思えない、霞のかかった記憶。
 まおが子供子供しているのもこのせいだった。
 だが、どうやらそれだけではない事にも気付いた。
――黄昏の猛毒
 神を滅ぼすために神が使った、曰くある代物だ。
 勿論そのため、魔王にも良く利く。というかひとたまりもない。
「まじー。黄昏の猛毒ってなんなの?」
「は」
 マジェストはいつもの恰好でいつものように小さく頷いて応える。
「端的に言いますとRagna毒で御座います」
「誰が略称言えって言ったのよ。せつめーしてよまじー」
 マジェストは取りあえず無茶苦茶嫌そうな貌をして、眼鏡をくいと中指で押し上げる。
「仕方がありませんねぇ」
「……なんでそんなに嫌そうに答える」
 まおがジト目で睨むのを無視して、彼はほくほくとふところから大きな紙束を出した。
 A1と呼ばれるサイズの紙束を、やたら長い木製のバインダーで押さえた代物、教育用チャートという奴だ。
 表紙には『マジェスト先生の『よく判る黄昏の猛毒講座』』とポップ調の文字で書かれている。
 どこからともなくアクセラとシエンタがチャート用のスタンドを持ってきて、執務机の前にセットする。
「では、三時間目の授業は『黄昏の猛毒』について勉強しよう」
「いきなり三時間目?!しかもなにこの雰囲気っ!」
 すちゃ、と俗に大学帽と言われる四角い頭の帽子を被るマジェスト。
「あーあー、もう、駄目じゃないかキミぃ。これは『魔王の頭の中』なのだから何でもありなんだから」
 え。
「あれ?えと。……おや?んじゃ、なに?まじーに見えるけど実はまじーじゃないの?」
「YesYesYes〜!おまいがっ!って感じで御座います陛下」
 ぺこり。
 勿論納得していないまお。ともかく、今ここは執務室ではなく、まおの記憶の中、つまり夢らしい。
「ちぇ。なんだよー。夢なら夢ってせつめいしてよー」
 ぽん、と彼女の目の間に大きなショートケーキが姿を現す。
「こらこら」
 ぼん、とことさらに大きな音を立ててケーキが消える。
「今この夢は私の支配下にある。魔王陛下と言えども勝手は赦されません」
 がびん。
 そんな貌で凍り付くまおだが、マジェストの姿をしている彼もいわば魔王だ。
 尤も本物もそうなんだが……まあともかく、そんな感じでまおなど眼中になく、彼はこほんと咳払いした。
「と言うわけで黄昏の猛毒についてお話ししましょう」
 黄昏の猛毒とは。
 その昔神話の世界では、十三人の神のうち、一人だけ裏切り、十二の神を殺す際に使用したものと言われている。
 実際たった一人で十三人に戦いを挑んでも勝てる見込みがなかったから、知恵とこの『毒』を使用したとか。
「実体は、剣の形をしていたらしいのです」
 ぱらり、とチャートをめくると剣の絵が描かれている。
「黄昏の猛毒、と呼ばれたそれは、神にとっては勿論のこと……」
 次のページをめくるマジェスト。
 そこには単純化された人間の形の絵に、爆発したようなギザギザ模様が赤く描かれている。
 ちょっと見、ヒトガタが萌え、もとい燃えているようにも見え無くない。
「ここにおける人間という存在その物にも大きな影響を与えるものでした」
 尤もそうでなければならなかったのですが、とマジェストは付け加えた。
 まおはふんふん、と頷きながらも腕をくんで首を傾げる。
「せんせーしつもーん。存在に影響をあたえるー、ってどゆこと?」
「はっはっは。良い質問ですな」
 さらに彼はチャートをめくると、『存在とは』というタイトルが書かれており、先程の爆発のかわりに○が書かれたヒトガタの絵がある。
「黄昏の猛毒は、存在その物を切断、分解、消化してしまいます。勿論人間は耐えきれず、まるで剣で斬られたようになります
 ことり、と音を立てて彼は机の上に壺をおいた。
 そして何事もなかったかのように右手に見覚えのある機械仕掛けの『剣』を握る。
 極端に曲がった柄を持つ、刃の代わりに丁度腕の長さ程度の金属製の棒が取り付けられたもの。
 柄には指の形に凹凸が付けられていて、人差し指が当たる場所には何かのボタンのようなものが突出している。
「ちょ、まってまじー、それって」
「私はまじーではありませんが、まじーでも結構ですよ陛下」
 そう言ってそれを自分の前に突き出すように構える。
 柄を左手で握り鍔の一部に右手をかける。

  がしゃこんっ

 鋭い金属音がして、大きくスライドした鍔。
 しかし作動はそれだけにすまなかった。
 きん、と甲高い音がしてきりきりという聞こえにくい音と共に、金属棒は縦に割れる。
 並行に開いていく。
 一本だった棒は、正三角形の頂点に配置された台形の断面を持つ三本の柱へと姿を変えた。
 間違いなくシコクで見かけた『剣』だ。
「これは、魔王陛下の記憶を元にした「黄昏の猛毒」の劣化コピー品ですが」
 鍔を折り畳んで、彼の指では大きすぎる凹凸に指を這わせて、両手でそれを提げ、人差し指でスイッチを押した。

  ぴしり

 空間を叩いたようなそんな音が響き

  ばりっっ

 球雷が発生した時のような鋭く鈍い音が、その剣身を震わせた。
 そして、火を点したランタンのように、三本の柱の間に光が満ちる。
「まあ、物はさしたる差がありませんからな」
 そう言って思いっきりそれを振りかぶった。
 ぶおん、と音がして、光の刃がまるでマシュマロに熱したナイフが突き通るようなイメージで振り抜かれると、『ごそりと』刃が通った部分が無くなってしまった。
 熱や物理的な切り方ではない。
「効果は本物の通りに表現してみました」
「って、まじー、アレここまで凄くなかったよ!それに」
 マジェストは頷いて、ぽい、と『黄昏の猛毒』を捨てる。
「判ってます陛下。『存在』というのは、存在を示す情報量でして。――我々魔王に示される存在は、この世界では」
 ぱらり、とチャートをめくると、真っ二つになった魔物のイラストが描かれていた。
 これはいぬむすめの断面図である。
 ご存じの通り、娘部分は空洞で『もつ』のような感じの空洞を持ち、頭にやたらめったら何かよく判らないものが詰め込まれている。
「このように、魔物という物はきちんとした『生命体情報』を持っていないため、擬似的な姿を取ることがあるのです。この為矛盾も多く、『黄昏の猛毒』により攻撃を受けた際」
 先程の壺が、突然形を失ってどろりと黒い塊になる。
 見覚えのある、タールのような光沢のある、黒水晶かブラックオニキスを彷彿とさせる塊だ。
「本来の情報へと化けます。魔王陛下や魔物が『斬られ』た時は、人間の『生体情報』では矛盾するためかも知れませんな」
 マジェストがその黒い塊をつまむと、ぷに、と柔らかくへこみ、丁度水の入った風船のようにむにむにと変形する。
 結構柔らかそうだ。もしかして気持ちいいかも知れない。
「……それって、どういう意味?」
「……まだ判りませんか陛下。……つまりですね、魔王陛下も、この世界も、造られた模造品に過ぎないと言うことです」
 そして。
 彼は続ける。
「――この『黄昏の猛毒』は魔王陛下、私、この世界と同質でありながら異質、彼ら人間はここにありながら本来は全く別な存在ということです。ご理解いただけましたか?」

  どどーん

 びくっ、とまおは体を震わせて目覚めた。
 そこは暗い執務室で、ちょっと肌寒かったりする。
 で、お気に入りの恰好いつもの恰好、執務机にぺたーっと体を伸ばして眠ってしまったらしい。
「……あれ?」
 まおは、『存在の話だったのに意味の判らない応えだった』事に突っ込みを入れようとしていたので、取りあえず手近なマジェストを捜そうとした。
 が、物の見事に誰もいなかった。
 ちょっと寂しい。でも、夢の内容でいきなり文句を言われても多分困ると思うが。
 それに、記憶を探っていたはずなのに。
――なんだろ、今のは
 ?マークを頭の上に幾つか飛ばして、彼女は小首を傾げる。
「まじー、ちょっとまじー?」
 返事がない。
 おかしい。
「えー、ちょっとー、なんでいないのー。いないのまじー」
 それは前触れだった。
 だから、唐突でも何でもなかったのだ。
 普段から、マジェストは呼べばすぐ現れる、居て欲しくない時に側にいて、居て欲しい時に呼んでも来ない。
 でも。
 物理的に側にいない時を除けば、普通すぐに現れる彼がいないというのは――そう。二度目だ。
――まじーも何かしにいったのかなぁ
 まおはもう一度変な夢を見ようと思って、執務机に突っ伏すことにした。


 ウィッシュは、今魔城入口からゆっくりと魔王執務室へと向かっていた。
 魔城は、魔王の脱出防止のために入り組んだ迷宮と化しているというが……その実、迷宮化の効果は魔王にしか現れていなかった。
 実際に魔城に来ればどれだけ機能的に出来ているか判るだろう。
 うけつけ。ここには時々アクセラとシエンタも座っている事がある。
 そして、床にしかれた絨毯の色で、行き先が判るようになっているのである。
 緋色の絨毯は魔王執務室へ向かう印。
 その柔らかい道を、ウィッシュは一歩一歩踏みしめるようにして歩いている。
 既に魔城は臨戦態勢を整えるために一次待避に入っている。
 この後二次待避がかかると、大変形・モードを発動する事ができるようになる。
 変形を行うと中がぐちゃぐちゃになるので待避する必要があるのだ。うん。
 実は魔城は巨大な魔物なのである。
 土牢のウニモグと並び、魔城チゼータ75は自らの意志を持ち魔王を守るための最大の魔物なのである。
 ちなみに土牢ウニモグは実は気さくで、酒好きなところが欠点だとマジェストがぼやいていたのを良く憶えている。
 勿論そんなところを利用して、散々土牢から出して貰った事があるから知っているのだが。
――余計なことを知りすぎた代償かな
 ウィッシュという魔物はマジェストが魔王に命により、魔王の一部から創造した魔物。
 勿論「魔物」のカテゴリには含まれる物の、実際には不出来な模造品。
 コピーとコピーにより造られた部品を組み合わせただけの代物。
 それが動いているのは――言うまでもなく、魔王の欠片の御陰。
 魔王まおの一部、彼女こそがウィッシュの動力源。
 だから守る必要もなければ、そんな感情など皆無で、そして、魔王自身の思惑通り、彼の描いたシナリオ通りに総てを矯正する。
 何故なら。
 それが先代魔王の意志だったからだ。
 だがそれは行き過ぎた逸脱でもある。
 魔力が枯渇することはないが、人間と違い魔力の塊のようなものなのだが、何故かそれが妙に頼りなく感じることがある。
 誤魔化しているのも恐らく時間の問題かも知れない。
――お願いだからもってよ……
 何時までも続くような長い道のりを超え、緋色の絨毯は一室の扉に向けて道を示す。
 彼女は躊躇いなくその扉をノックした。
 控えめに、甲高く二回。躊躇うようにもう二回。そしてため息を付くと諦めて扉を開いた。
「魔王陛下」
「すー……ふひぃー……すー……ふひぃー」
 亜麻色の髪の毛の塊が見える。
 間違いなくまおの頭だ。
 そこから腕が生えている。いや違う。
 両腕を思いっきり伸ばして机に突っ伏しているのだ。
 丁度ここからだと顔が見えないので、亜麻色の毛玉に腕が生えているように見えなくもないのだ。
「ちぇ。なんだかばかばかしくなってきたよ」
 後頭部をがりがりかくと、ため息をついてつかつかと机に歩み寄る。
 そして、両手をとん、と机におくと体重をかけてまおの頭に顔を近づける。
「まお様」
「ひゃえ?ほー……」
 謎の声を上げて毛玉がごろりと転がり、まおの寝ぼけた顔が現れる。
 ウィッシュは頭の上にくしゃくしゃの線が飛びそうなぐらいしかめっ面をして、体を起こした。
 何となくマジェストに頭が一生上がらない気がした。あがらないけど。
「ほーじゃありませんよ。仕掛け、終えてきました陛下」
 目をごしごしとこすって体を起こすと、「ん」と短く返事をして、彼女は椅子に座り直す。
 何度も見た光景だが、やっぱり体に合ってないし凄く不自然だ。
 別な言い方に変えれば、幼さが強調されてしまい可愛いと言うべきだろう。
「そか、で?」
「はい、魔王陛下。カキツバタ=キリエを人質として罠を構成しました」
 やはりまおは短く応えると身を乗り出すように執務机に両肘をついて両手を合わせる。
「……陛下、判ってると思いますが遠慮も油断も禁物ですよ」
「判ってる。そんなの。……じゃないと、意味がないんでしょ?」
「ええ。陛下には非常に問題ではありますが、カキツバタ=キリエはミマオウ=ナオと非常に強い結びつきがあった。……キリエさんには、悪いけど」
 まおは顔色を変えない。
「そのぐらいがまんしてもらお。キリエー私きらいー」
 ぷっと頬を膨らませるまお。
 ウィッシュは思わず小さく笑い、「そうですね」と思い出しながら応える。
「多分これから一番のライバルになるんじゃないですか?ほら、ナオさんは非常に鈍感ですからね」
 ぽんぽん、とまおの頭を軽く叩いてにこやかに言うウィッシュに、まおは口を開けて不思議そうな顔で見上げる。
「そーなの?」
 おやおや、この子もまだまだだ――ウィッシュは思わず頭を撫でて、何も応えずに微笑み続けた。
「一応、修正は範囲内だったので激しい動きはしていません。でも多分、もう二度とこれ以上の修正が効きません」
「……消えたりしない?」
 一転して不安そうな声で、まおはまるですがるように言う。
「まさか」
 ウィッシュは応えながら、それが淡い考えだと気付いていた。
 完全ではない。
 多分、もう一度『世界の修正』を行えば保たない。
――天使で偽装して……偽装が完全じゃなかったら追跡されている
 人間が辿っているように、『天使』は最も『世界』に近い存在なのだ。
 自ら切り捨てる――結果的にそう言う事にもなりかねない事は判っているのに。
 今目の前でどこか寂しそうな顔をしている少女を見れば、その決意が揺らぐ。
 もう一人の、別の姿をした自分。
 そんな親近感も重なる。
「まおさまの、わがままから生まれた私は勝手に消える訳にはいかないでしょ?」
 するとぷっと頬をふくらませて眉を吊り上げる。
「私じゃないもんっ!前の奴が言ったんだよ!しらないよそんなの!」
 くるくると良く回る表情。
 きっと人間的に成長すれば、可愛らしい女の子になるのではないだろうか。
「まおさまは」
 きっと綺麗な女の子になる。
 ウィッシュは自分がどれだけ優しい顔をしているのか気付いて、でもそれ以上言葉を紡がずに、代わりに続ける。
「本気でナオさんを『殺』さなきゃいけないんですよ」
 ぴたり。
 まおは口元をぴしりと一文字に決めて黙る。
「『魔王』が『勇者』を指定したのに、そしてもう引き返せない罠まで用意したのに」
 実際には違う。
 戻ろうと思えば幾らでも戻ることはできる。
 そう言う風に出来ているから。
 でも、それはウィッシュを切り捨てることになる。
 彼女だけは戻らない。戻せない。
 彼女は異分子――まおとマジェストと、天使と世界と、そのいずれにも当てはまらない存在。
 恐らくこの『世界』における最大のイレギュラー。
「ホント o(゚Д゚)っ モムーリ!なんていいませんよね」
「……あの。私、そう言うのきらいだって言わなかったっけ」
 あら、とウィッシュは驚いたように目を丸くして、きょろきょろと周りを見回す。
「じゃ、やりなおしましょうか。なんだかシリアスなシーン台無しですね」
「判っててやるな」
 くすくす、とウィッシュは笑い、執務机にちょこんと腰掛けて彼女を見下ろす。
「無理ですよ、シリアスなんか。魔王陛下、まお様はこれからこの難関を越えて笑っていられなきゃいけないんだから」
 最大の難関を。
 忘れてしまった総てを取り戻して貰わなければならないのだから。
――魔王として過ごしたこの年月の中で失われた総てを
「それから。――これは多分ご存じないでしょう、マジェスト様のことですが」
「ん、今いないよね」
 ウィッシュは小さく頷き、真剣な表情を造って見せた。
「陣頭指揮を執られて、全軍により出撃。既にシズオカ周辺は完全に人間が死滅しております」
 まおの貌が驚きと怒りに彩られる瞬間、酷く哀しそうな貌が過ぎった事をウィッシュは見逃さなかった。


 何が本当で何が嘘。

「しかし」
「ああ、確かに問題だろう。だがあの腕は確かだ。我々の邪魔をされると困るところだが」
「……後々禍根となろうぞ」
「それは承知のことであろう。だがもし、我々に賛同できるようであればいかがか?」
「その通り。我々はそもそもあの長きに渡る大戦を終了せしめた訳であり、実質的には世界を救ったのだ」
「あの女はそれを承知すると思うか」
「だが承知せざるをえまい?そもそも……青臭い理想論をここに持ち込んだ張本人であるが」
「技師としての腕も確かだ。我々の構想は彼女無しには達成しなかった」
「だが世界を創造せしめるのも我々、所詮小間使いの女はそれで用済みだ」
「そう言う考え方もあるか。デバッグ=モードは準備しているのか」
「既に。勿論256×256モードで秘匿済みで導入している。リアルモードでの起動を前提にしているがな」
「誰かが拾ったら?」
「安心しろ、秘匿を解く以前に彼らに理解などできるものか。我々『神の意志』を」
「神話は昔からそう言う風に造られているとでも?思い上がりではないか?」
「確かに。黙示録にしても儀典にしても、そして有名な諸世紀にしてもそのような記述はある」
「人間とは偉大なり。――無論、我々が偉大でない訳がないが、その点は注意した方が良い」
「しかしならば聞こうか。彼らは新たな肉体という器の中で固定された設定を保つために動くが、それを破ろうとするだろうか」
「確率は星の数の逆数に等しい。疑いを抱くには完成度が高い」
「念のため準備した方が良かろう?我々のavatarにも寿命が設定されているのであろう」
「それは既にデバッグ済みだ。23版のパッチコードをラインで走らせれば自在だ」
「エディタは用意されていないのか?」
「貴様、また女性にでもなるつもりか?いい加減変身願望は棄て賜え」
 失笑。
「余計なデバッガは不必要だ。むしろリアルでそれを走らないようにプログラムされるべきだ」
「ああ、我々以外に神は不必要だ」
「それで幾つも失敗した例がある。そう言うわけで諦めてくれ」
「では今後作業を進める上で注意すべき事項を纏めておこう。まだ世界は未完成だが、既に人々の移住は開始すべきだからな」
「ああ、この世界で原始に戻って貰っても構わないが、『睡眠学習プログラム』自体、既に完成しているのだから」
「女が進言してきた。我々の住む場所以外には緑の多い世界を用意したいと」
「好きにしたら良いだろう?我々は、我々が住む場所は我々の希望を通すが」
「好きこのんで荒れ果てた地に住むというのか?」
「好きにしろと言ったばかりだろう。だが、今更私は他の住む場所などないのだがな」
「なら私は森の中に大きな湖を湛えた場所に家を構えよう」
「聞いたか、おい。今度から彼は『湖の騎士』と呼ぼうではないか」
「ランスロットか、成る程、お似合いだな」
「ではなにか?我々の愛称は総てアーサー王から取るつもりか?」
「まさか、勘違いされては困る。そも13人などという半端な数字になってからというもの……」
「その通り、歴史的に名のりを上げるには綺麗な数字ではないだろう。特に基督教徒どもが幅を利かせた歴史ではな」」
「今の言葉、少し問題がないか」
「大丈夫だ、基督教は愚か、世界中の宗教が精霊信仰のレベルにまで落ち込んでいるのだから」
「無論だろう、何故歴史を繰り返す必要性がある」
「その通り、特に宗教などというものが存在することにより、無益な戦いが生まれたこともあるのだ」
「宗教は省くべきだ」
「本当の神である我々の存在が、宗教を否定するとは……なかなかの皮肉よ」
「そなたの言うとおり。我々があればこそ、宗教は否定ができる。――哲学として生活習慣に馴染ませておけばよい」
「ではプログラムに組む理由はないと」
「そうだ。本物がいるのに偽物をわざわざ崇めさせる理由は無かろう」
「うむ。通常の生活習慣や彼ら自身の役割を別々に与える事も重要であるな」
「戦争の無い世界、か」
「そのためには、やはり近現代ではなく、中世以前の世界文明レベルがいいのではないか」
「まて、そのレベルで宗教を省くのか?宗教で成り立っていた時代ではないか」
「確かに、古代まで戻れば精霊信仰・神降ろしが祀りと呼ばれ、政治だった時代がある」
「だがしかし考えてみ賜え、世界の争いは基督教の蔓延と腐敗が原因だ」
「中世の『十字軍』のことか」
「それは確かにゆゆしき。小競り合い位は赦すべきであろうが、あのクラスの戦争になると問題だな」
「その辺もしっかりプログラムすべきか?」
「まて、争いのない世界は確かに有効だろうが、我々が造っているのは世界であり天国ではないのだぞ。そもそも……そんな話は女に毒されていると見るべきだ」
「彼女は本気で造るつもりだろうな」
「勝手にしておけばよい。だが、いざ、ここを出た後を考えてみれば」
「……経験と言う意味ではここで積ませるべきか」
「女が納得しないであろう。プログラム根幹を完成させるためにも」
「そうだな。言い訳は何でも構わない。――エディタを用意しておこう、メインは造らせて置け」
「内容は」
「簡単だ。敵役を用意してやれば良いんだろう?――魔物だよ」
「魔物とそれを統括する魔王、これを世界に君臨させるんだよ」

「学習プログラムは」
「大丈夫だ」

「『Daemon』の外観は天使をモチーフにしてみたがどうだ」
「良い皮肉だ。なかなかどうして、面白いではないか」
「BOTとしての能力もしかり。これではこの世界の人間では太刀打ち敵うまい」
「専用設計の魔物でも居ない限り勝てないでしょうな」

「人類の救済?本気で思っているのか?」
「違うというのですか?違うのであれば、あなた方は私を騙した事になる」
「救済は既に済んだことであろう?違う、と言うつもりか」
「しかし……」
「貴女の設計した学習プログラムにより住民はこの世界に馴染み、貴女の与えた能力でもってこの世界を切り開いている」
「そんな話をしているんじゃありません!」
「ほほう。ではなにか?私のスリープマシンを止めるとでも言うのか?本当の殺人をやってみるか?総ての元凶である私を葬るか?!」
「……」
「既に遅いのだよ。我々はこの世界を創造し、人類の一部を救済した。――もう居場所もない、帰るところもない」
「だからっ!……だから、だから……何故、あなたは……あなた方は……一体何を」
「――世界征服、を」
「陳腐な言葉や今更偽りは聞きたくないわ!じゃあなに?自分達が神になったつもりで、世界の歴史でも握るつもりなの!?」
「偽りなものかね。世界中どんな人間もこれだけはなしえなかった偉業。何故なら、所詮同じ土俵に立っていたからだ」
「な、……まさか」
「待ち賜え。そんなはずはないだろう?たまたま、滅びかけていたからできる救いの手をさしのべただけ。……その代償だよ」
「馬鹿な」
「何とでも言うが良い。何とでも罵るがいい。だが――所詮、この世界を創造せしめた貴女も同罪」
「!そんな、私は」
「ここに住まう人間達は、精一杯生きているだろう。何にも疑う事無く、な」
「だけど、そうでなければっ……もう一度人類は、歴史を……やり直す必要があるから」
「本当にそうか?戦争はなくなるのか?基督教の教典の罪人共は非常に愚かだぞ。人類というものが存在してから向こう……」
「アレは信仰を煽る為の寓話に過ぎません!」
「そうとも、寓話だ。おとぎ話だ。ファンタジーだ。この世界そのものが、な」
「う……そんな」
「たった数千年で目覚める、そんな陳腐なおとぎ話さ。『ReTerraForm』が終わる頃、再び人類が持つ叡智を地表に溢れ返させる為に」
「……あなた方は、そんな世界を自らの手中に収めようというのでしょう」
「指導者として。いわば神として。そのためのシステムはキミが用意してくれた」
「そんな事っ……」
「望んでいなかったか?隠しておいたからね。くっくっくっく……少なくとも君の望みは叶えてあげたはずだ」
「確かに私の造ったシステムですっ!でも、あなた方のような考え方では、結局今までと変わらない!」
「変えてどうするつもりだったのだ」
「――!」
「我々は変化を求めなかった。我々は我々の利を求めた。肉体的な死を取り除こうとした。戦争などという無駄が世界を滅ぼすなら、それを利用しただけに過ぎない」
「……交渉決裂、ですね。私は二度とこの世界に干渉しません」
「ありがたい事だ。だが――世界の崩壊による人類消滅は困るな」
「メンテナンスをしろと?」
「そう言うことだ。コアは我々ではメンテナンス不可能だろう?」

「アバター強制介入だとっ!」
「『消しゴム』って判るかしら」
「貴様っ……」
「コアをようやく改竄出来た。もうあなた方の古いデバッガは通用しないわ」
「そんな馬鹿な、これでは」
「そう言うこと。あなた方はもう神でも何でもない。――一人の人間よ」
「そんな」
「『輪廻』に叩き落としてあげる。あなた方全員。――この世に残された人間全員を更正させる」

  System Log Record...Scan complete.

  ReBoot

 刻み込まれるは。
 偽物の歴史の中の、一つの想い。


「延期?」
 追跡を開始して一週間が経過した。
 ナオご一行様はアキタで足止めを喰らってしまっていた。
「突然魔物の侵攻が始まったらしくてなぁ」
 今まで組織だった戦闘というのは、殆ど見られなかった魔物の軍団が突如統制のとれた動きで動いているという。
 フユはぎり、と歯ぎしりさせて南の空を睨み付けた。
「ねえちゃん、そんなとこ睨んでも何にもでないよ」
「黙りなさい」
 以前に一度だけ統制のとれた魔物の軍団と戦ったことがある。
 戦場にはナオもいたはずだが、そんな事は考えていなかっただろう。
 そも――ナラクで敵味方問わず吹き飛ばさざるを得なかったのは何故か。
――統制のとれた軍隊のような動きをする魔物に、人間は勝てないからだ。
「何にしても馬車はでないよ。済まないね」
 駅員に言われ、一言礼を言って一旦駅の外まででた。
 アキタ駅は最北端だけに規模は大きいが、行き来する人間は極端に少なく、妙に閑散としている。
 馬車が動いていないのだ。大陸のどこにも繋がっていない駅など、こんなものだろう。
「徒歩で行くには少し厳しいぞ」
「判っています。そんな事より何か良い魔法はないんですか」
 自分も魔法を操っているという事を忘れたような発言をしながら、フユはずんずん歩いていく。
「あー……ユーカ、ちょっと」
 ナオの小声に、ふと立ち止まって振り向いた。
 ナオは困った表情で右手を自分の顔の前で立てる。
「ねーちゃん、ダメだって判ってても言っても聞かないから、ほっとくか着いていくしかないよ」
 だからごめん、と。
 ユーカはくすりと小さく笑うと、両肩をすくめて見せた。
 言霊も、ユーカの使う魔法も基本原理は同じ。
 その発動要件と『練り』が異なるだけだ。
 言霊が言葉を媒介として作用するのに対し、むしろ原理的で何でもできるのが魔法だが、人間の魔力はたかが知れている。
 実際魔法使いの数が少ない事からも、それはよく判るだろう。
「焦りは禁物だ、頭を冷やすのを待とうか。でも、ナオ」
 ユーカはフユの背中に目を向けて、ついと細める。
「羨ましいな」
「……え?」
 ナオは何を言われたのか判らなくて思わず聞き返したが、もしかして恥ずかしい事を言われたような気がして真っ赤な顔をする。
 急に無言になる気配に顔を向けて、含み笑いをすると呆れたようにため息をつく。
 そんなユーカにぴとりと張り付くミチノリ。
 はっきり言って空気読めない上、実はかなり恥ずかしい。
「……恥ずかしいなぁ、もう」
「ナオ。お前判って言ってるだろう」
 酷く困った貌をして、ミチノリの妙な自己主張を右手で押しとどめようと彼の頭を押さえつける。
「こら離れろ」
「なーうーんー」
 ごろごろ。
「俺ちょっと行ってくる」
「あ、おい」
 姉の元へと駆ける彼を見送るしかなく、がくりと肩を落として眉根を揉んだ。
 それでもぴとりと抱きついたミチノリを見ると、にへらと笑みを湛えて彼女を見上げる。
 完全に弛緩した彼の笑みに、呆れて彼女まで弛緩する。
「でもぉ。羨ましいぐらいならやめちゃえばよかったのにぃ」
 思わずその弛緩しきった緩い笑顔を睨み付け、ユーカは無言で口を歪める。
「お前」
 緩んだ顔つきに反した鋭い視線と言葉。
 ユーカは難しい顔をして睨み合いを続け、やがて根負けしたように視線を逸らせた。
「辞められるものか。今更、職業や信念ならいくらでも曲げてやる。しかし」
 逸らせた視線をついと上げ、穹を見つめる。
 雲一つない美しい蒼穹。
 その向こう側が見通せるような錯覚まで起こす穹。
「生き方まで――今まで生きた自分の人生まで、変える事などできる物か」
 だから羨ましい。それは――自分では望んでも代え難いものを手に入れている者への羨望。
 判っていても、それは棄てられない。
「今更ぁ」
 相変わらずのとろんとした巻き舌で、舌っ足らずに聞こうとする彼の頭をこつんと殴る。
「五月蝿い黙れ」
 そして、無理矢理彼を引き剥がすともう一度こつんと殴る。
「い〜」
「痛くない。黙れ」
 フユとナオが何か会話をしている。
 じゃれているようにも見えるが、ほほえましいと言えるだろう。
 その姿を見るとユーカは、口元を歪めた苦笑を浮かべてしまう。
――これからの過酷さを考えれば、今の平和は充分に享受させるべきだ
 様子を窺うようなミチノリに気づき、彼女は肩をすくめた。
「まだ良い方さ。ミチノリと私に比べれば、な」

 結局アキタの周囲を怒りながら歩くのを止めたのは、充分に日が暮れてからのことだった。
「全く、ねーちゃん一応有名な軍人なんだから。恥ずかしい」
 どうやら今日は恥ずかしいを連発する日のようだ。
 ナオの言葉に恥じらいもせず、頬を赤らめもしないフユだが。
 ともかく今夜は取りあえず宿を取って一休み、夕食後会議を開き方針を決めると言うことになった。
「お前達がふらふらしているうちに情報は集めておいたぞ」
 と、ユーカ。
 実際フユがアキタの周りでふらふらしていた時間は結構なものになった。
 ユーカはそのうちにこの周囲を回って色々話を聞いてみたのだ。
「まあ、一番有力な情報が瓦版だけというのは仕方のないことかもな」
 と言って、購入した号外を広げて見せた。
 その新聞には、地図が描かれている。ニホンの地図だ。
「魔物の軍勢は、魔城と言われる山を中心にしてシズオカを壊滅させている」
 新聞の地図の中央に大きな三角が描かれている。
 「魔城」だ。
 伝説に寄れば、切り立った巨大な岩山の中央部に魔王の住まう部屋があるとされているので、このニホン一大きな山が『魔城』で有ると言われる。
「丁度魔城を取り囲む周辺は、まさにぺんぺん草も生えない廃墟になっているらしい。魔物の巣窟だな」
 それはとんでもない状態であると言うべきだろう。
 今までそう言う事が史実として存在しないことは彼女は勿論、殆どの人間が知っている。
「根絶やしにするつもりか?!」
 ナオが声を荒げるのを、フユが一睨みで制する。
「な、そ。……」
 そして一呼吸して、一転して小声で続ける。
「魔物ってそんなに強力だったのか?」
「……まぁ、そう言うことだろう」
 フユの視線が一瞬だけ哀しげに細められたが、次にユーカに向けた時にはいつもの――いや、二割三割は当たり前増しの強さで彼女を見つめた。
「我々の仲間は勿論、将軍ほどの言霊師でも一気にこれを片付ける事は出来ないだろう」
「相当の準備が不可欠ですね」
 あの『ナラク』規模の言霊を大陸レベルで配置するとなると、幾何学的計算に加えて発動遅延のための計算が必要になる。
 細かい誤差を含めて補正を行うとなると、今度は配置する言霊触媒の混合比にも影響がでてくる。
 あの砦規模がせいぜいできる限界であると言うべきだろう。
「それに都合の悪いことに、奴らは限界以上の物量で押し切っているらしい」
「!」
 一瞬トマコマイ砦のスタンピードを思い出してナオの貌が青くなった。
 統制のとれた有象無象の軍団というのは怖ろしい。
 何故なら、防御する側の準備ができないからだ。
「まさに蹂躙されたような町もあるとか」
 物量と力、そしてそこに相応の戦術が加わればどうなるか。
 怖ろしい軍隊のできあがりである。
「それで」
 フユは彼女の報告を聞き終えたあとで、すぐにそう付け加えた。
「私達が目指す――ユーカの魔法で追っている魔物の場所はどこですか」
 ユーカは一瞬眉を吊り上げるようにしてフユを見返し、クスリと小さく笑みを浮かべた。
「ここだよ」
 そう言って指を差したのは――
 魔城――即ち、ニホン一高いと言われるエタ山を指さした。
 そして懐から水晶を取り出して見せる。
「私が使っているのは、本来は行方不明の人間を捜す為の術だ」
 髪の毛一本でも在れば、その持ち主を世界中から検索して、その場所を報せるという便利な魔法。
 尤も『生きていない』場合や何らかの手段を講じて魔法の届かない場所に封印されてしまった場合、『存在しない』という反応が返ってくる。
 彼女は魔物の服の切れ端を水晶の上に置き、何事かぶつぶつ呟いて――水晶球が発光を始めるととん、と軽くそれを叩いた。
『うぃー、まあこのへんちゃうか?』
 びくっ!
 フユとナオはいきなり響いた謎の言葉に体を引きつらせた。
 妙に馴れ馴れしい、さりとて気遣いする必要のない気安い印象の声。
 勿論誰の声でもない。
 同時に光がぱっと瞬いて、部屋の一点を差した。
『どないやろ。んー……たぶん歩いたらつかんで』
 ぱんぱんとユーカが無表情で水晶を叩く。
『痛痛いって姐さんっ!あー、馬で一週間以内や、これ以上まからへんで!』
「まからんでよろしい」
 再びユーカが何事か呟いて、ぽんぽんと今度は柔らかく水晶球を叩いた。
 それで、まるで落ち着いたように光が消える。
「ちょっと精度が気になるが、まあ馬車が在れば一週間で着く距離、この方向だから」
 それは丁度ここからだと南西の方向。
「大体エタ山付近、まさに今魔物が大暴れしているあたりだ」
 フユは無表情にこくりと頷く。
「間違いないでしょう。その――魔王と勇者の関係が正しいのであれば、今まさに火急の事態ですから」
「そうだな。まあもっとも直接関係ない事だと思うが」
 ふとナオが顔をしかめた。
「……そんなとんでもないことになってるのか?」
 訝しがる口調で続ける。
「何でそんな。……魔王が本格的に人間を攻める事にどんな意味があるんだ」
 魔王の軍勢とは常に戦いを続けている。しかし、それは自然に存在する動物との争いにも似ていて、或る意味不可侵の掟のようなものがあった。
 言うまでもないが小競り合いの他は、よっぽどの事がない限り組織だった戦闘を行わないという事だ。
 実際にはトマコマイ砦のような事もあるので皆無ではないが、それでも人間を完全に滅ぼしたという実績はなかった。
 いや。
 シコクを除いて存在しなかったと言うべきだろうか。
「もしかしたら魔王からの挑戦か。さもなければ内部分裂か」
 ユーカは腕組みをして口をへの字に曲げる。
「先刻も言ったとおり、エタ山の方向に追うべき魔物が、戦闘によって蹂躙された土地もその周辺と言うことは、これを突破する必要がある」
 かつん、とエタ山を叩く。
「何か良い方策を考えながら、状況を見て下るしかないな。……どんな方法を使ったのか、我々より速く移動しているから追いつけないようだし」
 結局現状把握と方針決定すらままならないほど、思ったよりも状況は良くないと言う感じであった。
 それだけ話し合うと、明日朝から移動手段を手に入れる事を目的に歩き回る事にした。
「ユーカ、いちゃつく前につき合いなさい」
「将軍。人聞きの悪い言い方だが、それだけだとひがみに聞こえるぞ」
 言いながら、フユとユーカは連れだって部屋を出た。
 ぽやんとそれを見送るミチノリ。
「……いちゃつくのか」
 ナオに言われると、ミチノリはゆっくり顔を向けて、僅かに首を傾げ。
「いちゃつくよぉ」
 と嬉しそうに言うと初めて顔を赤らめた。
「どうでもいいから部屋に戻ってくれ……」
 しっし、と彼をでていくように右手で払うと、ナオは草臥れた顔で自分のベッドに横になった。
 フユとユーカは連れだって階段を下りると、そのまま宿の外に向かう。
――……ん……
 ふと宿の部屋のミチノリを思い、ちらりと視線を二階に戻す。
 まさか宿の外にでるとはユーカも考えていなかったからだ。
 しかしフユは振り返りもせず、既に暗い宿の外にでてしまっている。
「どこに行く気だ、将軍」
「できる限り人の目に付かないところへ」
 ざり、と足音が僅かに非難の声を上げた。
 それに気付いたように、フユが振り向く。
「何故」
「それは貴女が一番良く知っているでしょう」
 うそぶくフユだが、彼女の視線からは何も感じられない。
 『鉄面皮』の彼女らしい凍てついた貌。
――ふむ
 彼女に着いていく事について幾らか思案しなければならない条件がある。
 しかしユーカが心配しているのは自分の身ではなかった。
 ユーカにとってはフユが人間であることは確信して間違いない事で、誰かが化かそうなどと考えているとは思う必要がなかった。
 もっと別な事に彼女は気を取られている。だから、フユの様子を訝しんでいる。
「話だけなら食堂でも構わないだろう、判ってるだろうが今は」
「魔物如き、狩人たる我々に一体どれだけの脅威というのですか」
 これも事実。
 第一、ここが安全であることは既に確認したばかりだ。反対するには説得力が少ない。
「……ナオのことです」
「ナオ?」
 フユはそれだけ言って再び背を向けた。
 ユーカはため息を付いて、彼女の横まで追いついて一緒に歩き始める。
「貴女は隠し事も上手なようですが、今回の件、あまりに用意周到すぎるので」
「疑われていると言う事か。仕方がないな、占いなどという不確かな物ではなく、論理立てた予測通りに動いているからだが」
 フユは少し目を丸くしてユーカに視線を向けた。
 ユーカは相変わらずどこか眠そうな顔つきのまま続ける。
「私の知り合いに、シコクに住む元魔法使いがいる。魔術ではない方法論でもって世界を測る男だ」
 アキタの夜は、サッポロに比べると暖かい方だ。
 二人は、今回の事件のせいで全く人気を感じない町に靴音を響かせていく。
 そよ風すら吹かない、凪ぎの闇。
「魔王、勇者、そして円環の終焉。論理立てた予測の果てに見える世界……私は魔法という論理でもってこの謎に挑戦している」
 夜の穹は、手が届きそうな場所に見える星があるから。
 ユーカは星穹よりも蒼穹の方がずっと好きだった。
 一瞥だけするとすぐ視線を戻してフユの貌を見る。
「何を知っているのですか」
「何も。知らないから、調べる」
 フユの眉が吊り上がり、物も言わずに立ち止まる。
「人間の思考というのはそんな簡単なものではありません。そのぐらい――判っているでしょう」
 知らないことすら知らなければ、知る方法が判らない。
 調べる事ができるというのは、そこに至る経路を少なくとも予想できているという事だ。
「私達を使って何を調べようというの」
 ユーカは一瞬目を丸くしたが、すぐに顔をゆるめると踵を返し、宿を見つめる。
「……人の終焉というのは面白い」
 彼女は死という言葉を使わなかった。
 だがそれだけのことだ、フユは無言で彼女の背に一歩近づく。
「この先起きるであろう出来事を、どれだけ知ることができるか。歴史家ほどどん欲な人は居ないと私は思う」
 ちら、とフユを一瞥すると、そのまま宿に向かって歩き始める。
 フユは遅れないように彼女の後ろにそのまま着いていく。
「ナオは」
「無事だよ。きっと。そう言う風に仕掛けられた物語の上で踊るだけ。問題は……」
 そう。問題はそんな表層の事じゃない。
「そんな事には問題はないから、だからナオの事は安心していい。……これで、いいか?」
 ユーカが足を止めて振り向くと、まだ険しい顔立ちでフユが彼女を睨んでいた。
「……今私が一番知りたいことは確かにそれですが」
 言外に『忘れたのですか?』という聞こえない糾弾が聞こえた。
 だからそのまま沈黙して気まずくならないよう。
「疑うなら、何時でも背中から斬りつけられるような準備をしてくれればいい。裏切ったら、即、死だと」
 そして口元を歪めて笑みを湛えた。
「少なくとも、これだけは保証していいだろう?私は有益な情報を渡す。私は『人間』から一歩踏み外す。尤も魔女は常にそう言う存在なのかも知れないがね」


 エタ山はニホン一の山。
 歌にも謳われた名高い山だが、実はその深奥には魔城が存在した。
 と言っても魔城は前からここにあったわけではない。やろうと思えば穹を駆ける事も地を這う事もできる魔獣なのだ。
 勿論それは今だって同じ。ただ、一応定位置としてエタ山地下に決めて、いまそこにあるだけだが。
「魔王陛下」
 ふと思い出したようにそちらに顔を向ければ。
 にぱっと明るい笑顔を湛えたまおの顔を何時でも思い出すことができる。
「へいかぁっ!」
 ぶわわっ!
 取りあえず両目からだくだく涙を流して感動に打ち震えるのは、今更言うまでもないがマジェスト。
 そんないつもと全く変わらない彼が、今居るのは。

 戦場。

 既にシズオカ周辺地域は駆逐が終了している。
 彼のすぐ側に跪いて控えるのは軍団長、イジィである。
 元は東の統治権を持ち(無論魔物の中での話である)、小柄ながら力持ちというロシアの戦車兵のような軍団長だ。
 尤もこの喩え、読者と私以外誰も判らないが。
 いい加減彼は疑問を隠せなかった。
――有り得ない
 今までも、魔王の招集無しにありえなかった事が今実現し、歴史的に見て初めての事が起きていた。
――魔物による人間の大量虐殺。
 当然だった。何故なら――ここには既に許容できないほどの戦闘能力が集結していたのだから。
 東の軍団長イジィ、北の軍団長ドク、西の軍団長エフ、南の軍団長シェアが、完全武装で一所に集まってるのだ。
「マジェスト様」
 ドクが耐えかねたようにマジェストを呼びかける。
 マジェストはだくだく流した涙を右腕の一降りで振り払うと、何事もなかったかのように彼の方を向いた。
「なんだ」
「既に周辺は根こそぎ生物を荒らしました」
 そう。
 この土地は。
 彼らが命令により滅ぼした土地にはもう人っ子一人どころでは済まなかった。
 死せる大地としての蹂躙。彼ら魔物の中には、ありとあらゆる形で生命を滅ぼす事ができる方法を持った物が居る。
 端的な表現をすれば、この大地は完全滅菌されてしまっていた。
 簡単な譬えで言うなら、生肉をぽん、と棄てても腐敗しない。そんな世界だ。
「ならば次はその周辺だ。拡大せよ」
「しかし」
 マジェストが見つめる視線に、ドクは唇を噛む。
――……そんな
 視線が動かない。
 瞳に自分がうつっていない。いや――彼に触れることすらできない。
「総て滅ぼせ」
 マジェストはそう言い切ると、くるりと背を向ける。
――聞いていない
 マジェストの耳に言葉が届かない。
「マジェスト様!魔王軍最高参謀殿!」
 それでも声を張り上げるのを止める訳にはいかなかった。
「『土地の初期化』など、一体何故行うのですか!」
「必要だからだ。魔王陛下――『魔王』の意志であり、それをお望みだから実行する。それが我々の役割だ」
 即答。
 答えを紡いでから、くるりと再びマジェストは彼の方を向いた。
「やり直すのだよ、軍団長。この世を一度平らにしてもう一度人間が育つように書き換えないといけないのだよ」

 がたん、と椅子を蹴って立ち上がったまおの前にウィッシュは立ちふさがった。
 狭い魔王の執務室では、ただそれだけでもう身動きがとれなくなる。
 大きな執務机と、有り得ないようなソファにはさまれて、ウィッシュの向こうに見える出口があまりに遠い。
「どこに行こうというのですか?」
 ウィッシュにはまおの行動が手に取るように判った。
 もし彼女がまおの作りだした四天王のような存在で在ればこうは行かなかったかも知れない。
 魔王でありながら魔王の作った存在ではない彼女だからこそ、彼女を制する事ができる。
 マジェストは別格だ。魔王としても魔王を導く者として特殊な立場を与えられている。
 それ相応の『存在意義』がある。
 しかしそれはウィッシュにも同様――『Reason To Be』、生まれた理由が、親が居る。
 『魔王』ではない存在として、『まお』の一部を持って作られたために。
「どこって!」
 まおは焦った顔で、眉を吊り上げ、両手を思いっきり突っ張って。
 怒っているのに、そこに感じるのはむしろ焦り。
 どこか寂しそうな気配がするのは多分気のせいじゃない。
「まおさまはここにいるべきなんですよ。勇者をまたなければならないんですからね」
 そのためにウィッシュが動いた。
「でも」
「ええ、マジェスト様が動いたのは私の行動が問題だった可能性がありますね」
 だん。と。
 軽い音だったのに、ウィッシュは思わずそちらに目を向けてしまう。
『そんなことない』
 びく。
「……どうしてそんなことが言えるんですか?」
 先回りするようにしてまおに合わせて言うと、まおはびっくりして、続いた彼女の言葉に押されてしまう。
 そして、かたん、と自分の椅子に座ってしまう。
 もとのとおりに。
 ウィッシュはくす、と笑うとそのまま彼女の側に寄ると、彼女の顔に合わせるように膝をつく。
 そして、まおの両肩に自分の手を載せるときゅっと抱き寄せた。
 自分の頭のすぐ隣にあるまおの頭。
 右手で彼女の後頭部を押さえて、ゆっくり撫でる。
「『魔王』陛下は情け容赦なくなければなりません。まおさまは優しすぎるきらいがあります。だからマジェスト様が動いた」
「なんで?」
 まおはもう動こうとは思っていなかった。
 だから何もしなくても彼女は逃げることはない。
 でも、こうしていなければ彼女はきっと、そのまま。
 ウィッシュは思わず腕の力を込める。まおの震えを止めるように。
 力一杯抱きしめるには彼女は小さすぎて、止められるはずもないのに。
「今の状況は。魔王不在がもたらした人間の繁栄は求められる物ではありませんでした」
「どうして?」
 まおは当然の質問を彼女に浴びせた。
「それだけでパンクするからです。勿論、始めに考慮された限度というものもあります」
 まおの両肩を掴んで離すように、ウィッシュはまおを自分の真正面に固定する。
 もうまおの顔はくしゃくしゃだった。
「なんで?」
「ここは天国じゃないんです。これから地獄に戻る人間達に、地獄を忘れない為の訓練を行う場所なんですよ、まおさま」
 だから。
「その訓練を行う為のシナリオと、敵役(Aggresser)が必要なんです。その敵は、地獄をくぐるよりも凶悪な性格でなければならない」
 堪えきれなくなったのか、まおの両目にたまり始める涙。
「『魔王』陛下はそのために存在する」
「じゃあゆうしゃは?!」
 噛み付くように叫ぶまお。
「何で私がここにいるの!どうしてこんな事をしてるっていうの!」
 多分それはずっと思っていたことなんだろう。
 でも、そんな考えを持たなければならなくなったのは、最初に『勇者』の子供を殺してしまったからだろう。

 何も考えることなく。
 勇者と思った魔王が、全力を尽くした一撃で。
 消し飛ばした。

「どうして……私は魔王なの……」
「いいえ、まおさまは魔王陛下。『魔王』陛下が考えている事も判らなければ、『魔王』陛下が必要な訳でもなかったのです。ただ」
 ぱちくり。
 不思議そうに瞬いて、つい先刻まで大声を上げていたとは思えないぐらい不思議そうな顔をして、自分の顔が涙で濡れている事も忘れたようにウィッシュを見上げて。
「まおさま。全てを忘れてしまっているのですよ。何故あなたが『魔王』になっているのか。どうして今その姿なのか。自分が誰なのか」
「……ウィッシュは……知ってるの?」
 小さく儚い少女の言葉に、ウィッシュは笑みを浮かべた。
 どこか自嘲めいていて、それでも目の前の少女に優しく見えるように。
「私は」
 でも、彼女は答えるつもりはなかった。
 それで物語を終える事が出来ないから、彼女は進めるしかない。
 それが狂言回しの役目――彼女に与えられた設定なのだから。
 ただ彼女は設定に従う訳ではないし、それに縛られている訳ではない。
 『彼女』の望みの為には、今はマジェストの方が最も正しい選択、設定通りの行動なのだから。
「まおさまと一緒に、世界の終わりまで物語を……」
「――だめだよ」
 まおはウィッシュの言葉を遮って。
 意外に強い言葉で言う。だから彼女は少し驚いて、まおが両手を押しのけた事に気付くまで少し時間がかかった。
「ありがと。……でもさ。やっぱり私が『魔王』じゃん」
 まだ目尻に涙が残ってるし、みみたぶは赤いし、何より泣いたのばればれな枯れた声。
 でも声にある意志が感じられる。
「魔王は部下の勝手な行動をいさめなきゃ。それにさ」
 両手でごしごしと目をこすって涙を強引にふき取ってにやりと笑う。
 不似合いで滑稽な、だから妙に可愛らしい笑顔。
「まじーも、ウィッシュも、やっぱり私にとっては大事なんだよ。きっとね」
 ウィッシュはふう、とため息を付くとくすくすと小さく笑う。
「ではどうしても止めると言うのですね」
 ウィッシュの言葉はどこか明るい。
 彼女――まおの行動は簡単に予測できる。だから、ここまでは充分予測通りの展開だ。
「とめるよ。だってさ。……勇者がここまでこれないじゃない、そんなことされたら」
「そうかも知れません。でも、そのぐらい越えて貰わなければ勇者とは言えません」
 それでも。
「違うね。そうでしょ?ホントはそんなじゃない。勇者ってのは、ここに来る前に既に決められている」
 まおはじっとウィッシュを睨み付ける。
 自信たっぷりの、魔王の顔で。
 何時か見せた魔王としての風格で。
 今まで忘れていたものの一つかも知れない。
 僅かに残してきたものかもしれない。
「勇者は私を倒す資格があって、私を倒さなければならない。……倒せなければ、一度リセットしてしまう」
「強制的に、ですが。まおさま。……今回は初めてのケースなのです。シナリオを無視してまで、こんな事はありえないのですから」
「だよね。私のミスから生まれたことだけどさ。…なに、ゆうしゃって言うのは結局、そんな『わざと作られた試練』を越える事がひつようなわけ?」
 魔王に辿り着くために。
 そしてそれこそがこの『英雄譚』の正体。
 魔王という『仮想敵』に対して立ち向かう『英雄』を作りだし、産むためだけに存在するストーリーテラー。
「まおさま」
 ウィッシュは彼女の名前を呼んで、そこで一区切りした。
 ゆっくりと深呼吸するようにそのまま名前を飲み込む。
 大切な者を守るように。そのまま、自分の拳をきゅっと握りしめる。
 何かが崩れてしまうのを、必死で押さえるように。
「……魔王を止めるという意志にお変わりは在りませんか」
「ない。喩えウィッシュが『魔王』ってのをどれだけ大切に思っていて、どれだけだいじなものなのか教えてくれたってダメ」
 実際まおはこの魔城に軟禁状態が基本だ。
 マジェストがいない今、彼を止める為にここからでるにも一苦労する。
 尤も、案内役はマジェストと限る必要はない。
 彼女は魔王の看板だけを背負って、ただ勇者と対峙する為だけに存在する。
 それが、どれだけ『正しい事』だとしても。
 彼女には耐えられるものではない事に気付いてしまった。
 人間がどれだけ残忍であるか。
 人間がどれだけ魅力的なのか。
 人間がどれだけ信頼できるのか。
 それを――彼女は知りたいと思った。
 いや、本当は遙かな昔、それを知っていたような気がする。
 『彼女』は、魔王を選ばざるを得なかったのかも知れない。
「私は人間になる。ヒトならこんなにやな思いしないんだもん、魔王なんかやってられないんだもん!」
 まおは全力で叫んだ。
 そうしろと言われたかのように。
 そうしなければならないかのように。
 そしてウィッシュは、彼女の思ったとおり、それを望んでいた。
 まおの真剣さを、知っていても表現して欲しいと望んだから。
「判りました。では思い出させてあげます。まおさまが何者だったのか。――それを思い出してから、果たしてまおさまが今のマジェスト様を止められるのであれば」
 過酷かも知れない。
 それでも彼女がマジェストを止めるというので在れば、多分。
 もう二度とまおを魔王の座に座らせる事は出来ないだろう。
「――幕を、上げましょう。最後の仕掛けの為の」

 結局南へ向かう為の交通手段は、そんなに簡単に手に入るものではなかった。
「なんだか俺達、いつもこんな感じじゃね?」
 ナオはシコクでバグと出会った事を思い出しながら、後ろのユーカに顔を向ける。
「そうだな。……まあ、今度はあんな連中に会うことはないはずだが」
 ユーカは苦笑して応えると、黙々と前を見て歩くフユの背に視線を向ける。
「まあどんな化け物がでたって今回は将軍も居るからな」
 そう、危険だろうと関係はなかった。
 少なくとも彼女、フユにとっては。
 結局馬車は調達できず、歩いて南に向かうことになった。
 少なくともアキタから馬車がでていないのであって、シズオカに向けて下るうちにどうにかなるだろうという考え方だった。
 もしかするとダメかも知れない。しかし、ユーカの『物語』説が間違っていなければ、何か手だてがあるはずだった。
 そう言う事で、野宿の徒歩の旅が始まった。
 最初の二日ほどは特別何も起こらなかった。意外かも知れないが、彼らは徒歩での旅が当たり前なのだ。
 ちゃっちい鍛え方をしてるようなあのミチノリでさえ、いつもにこにこを絶やさないし、遅れる事はない。
 『あの魔物を始末するのであれば、邪魔する全てを排除する』
 フユは躊躇う理由はなく、そしてそれが彼女の今の偽りない気持ちである。
 彼女には何の躊躇もない。それが彼女の戦士としての強さなのかも知れないし、女性としての弱さとも言えるかも知れない。
「……私にはナオが居ます」
 おおーという比較的間の抜けた、どこか嬉しそうな声が上がる。
 言うまでもないがミチノリの反応だ。
 ユーカはユーカで口元を歪めて笑っているが。
 しかし、ナオは笑っていない。いや、笑えない。
「姉ちゃん」
 彼にとっては当然の言い分を言おうとして――フユがそれを遮った。
 もう少し精確な表現をすれば、それに一番先に気が付いたのがフユだった。
 全員が立ち止まり、ナオは腰に提げた斬魔刀に手を伸ばす。
「おや」
 向こうは気付かなかった。
 いや、その言葉を漏らした時には既にフユを筆頭に戦闘態勢を整えてしまっていた。
 両手に言霊扇を閉じて携えるフユは僅かに半身になってそれを睨み付けている。
「人間か」
 それはまるで人間の姿を真似ていた。
 まるで――そう、この修飾語句が意味するところはなにか。
 それは一人の男に見えた。だが、せむしの彼は人間ではなかった。
 瘤ではない。決して猫背なのではなかった。彼のその背は筋肉の塊が盛り上がっているのであって――
「――!」
 全員が一気に気色ばむ。
 『言葉を解する』魔物――しかも、彼らの知る二人組以外の魔物。
 そして彼の後ろにはやはり幾つかの蠢く影。
「話せる?!」
「おいおい、魔物にも話せる奴がいたっておかしくないだろ」
 銀色の鱗のような物を着こんだ彼が少し動くたび、甲高い金属の擦れる音が響く。
 彼の両手に握られた、幾重も重なった刃が凶悪な光を放つ。
 威圧的な存在感に、皮膚の裏側まで鍛え上げられたような筋肉の盛り上がり。
 魔物の中でも最も恐れるべき存在にして、人間とは桁はずれた能力を持ちながら――決して人間と戦ったことのない、『軍団長』の一人。
 東の軍団長イジィだ。
「どれ」
 彼は体を起こした。
 ぎしぎしと麻縄を捻ったような軋みを上げる全身の筋肉。
 いや、実際には彼が身につけている鎧のようなものが音を立てたのだ。
 それは鎧ではなく、薄い柳刃を鱗のように編み上げたものだ。もし人間ならそんな酔狂な鎧を着ようなどとは思わないだろう。
 触れただけで指先は短冊状に切り裂かれてしまうだろうから。
 むき出しの両腕なんか、ただ動かすだけでずたずたになってしまうはずだ。
 よく見れば獰猛な顔つきに感じられる彼の顔も、実は自分の血に染まっているのだろう。
 魔物特有の再生能力と頑丈さ故に鎧を着こなしているだけ、だということだ。
「じゃあまず俺が相手だ。おめぇら手を出すな」
 きしきしと刃を軋ませ、笑うように体を揺すると一歩彼はさらに踏み出した。
「人間!これはゲームだ。俺の後ろには俺の部下が居る」
 そう言ってくいっと右腕を振り、親指で自分の後ろを指さす。
「勝てば赦してやる。だが敗北は――」
 きしきし、と神経質に全身が軋む。
「残念ながら、この周辺一帯から魔物以外の全てを消し去る。命の限り戦え」
 細波のような笑いが響き、魔物は鷹揚に歩みを進める。
「ゲーム」
 ぎし。
 フユが両手の言霊扇を大きく開き。
 ナオは手元で素早く斬魔刀を回す。
「――開始、だ」
 どん。
 音に喩えるなら地鳴りか太鼓か雷鳴か。
 爆発するようなその音と同時に刃の塊は一気に間合いを詰めた。
「くっ」

  ぎゃりぃっ

 火花が激しく飛び散り、フユは両手で言霊扇を前に構えた格好のまま後ろへと押し戻される。
 突進を押さえただけでも充分驚異に値するだろう。
――見えなかった
 フユだけではない。
 そこにいた全員がイジィの動きを見ることが出来なかった。
「おおおおおおっっ」

 ぎゃぃんっ

 位置は最適。
 イジィがフユを押し込んだ為に、フユの右手に居たナオはイジィの真後ろに位置した。
 だが、振り下ろした斬魔刀はイジィがただ差し上げた左手に阻まれ、彼が握り込む刃を鳴らしただけに過ぎなかった。
 金属が軋む音が、まるでせせら笑う声のように聞こえた。

 勝てない。

「『焔』」
 フユは殆ど本能的に真後ろに飛び、言霊扇を眼前で振るう。
 大きく奏でられる空気の震えが、ひょうひょうと彼女の周りでむちを振るうような音をたてる。
 同時にそれが彼女の周囲の空気を遮断――真空の壁を一瞬だけ造り上げる。

  ごぅん!

 脂の焦げる臭い。
「――!」
 ナオは転がるようにして距離を離していた。
 既に彼の手に斬魔刀はない。
 突如襲った『痛み』に我を忘れて取りあえず飛び退いたのだ。
 それでも彼の右手に痛みが残留――いや、今の一瞬で火傷を負ったのだ。
 フユの真後ろで、右手に何かを握ったユーカがいた。彼女が魔法を使ったのだ。
 まるで残滓のように輝いていた右手の宝石――こぶし大の『命の雫の欠片』が完全に沈黙する。
 効果の発生は瞬時、今の瞬間で回避できたフユとナオはまだましな方だろうか。
 先程のイジィの突進同様――恐らく状況を把握できた人間はいないだろう。
 単音節で一瞬のうちに効果を発生させる『インスタント』と呼ばれる魔法。
 喩えるなら魔力を収めたぎりぎり溢れそうなコップを用意しておくのだ。
 そこに僅かに魔力を注ぐことで一気に効果を発現させる――そう言う意味では広域殲滅用言霊とやり方は同じ。
 違いは、擬似的な魔力を維持するための触媒を利用するか否か。
 そしてその魔力を維持させる為に必要な『命の雫』により、使える魔法の純粋な能力が決まる。
「がああああっ、ぎゃあああっ」
 言葉で表現しがたい叫び声が続く。
 当然だろう、いかに丈夫であろうと、どれだけ再生能力が在ろうと。
 一瞬で金属を灼熱させるような熱量でもって全身を灼かれれば、命があるだけでも勿怪の幸いという奴だ。
「生きているか。――私の半生を賭けた魔力でも殺しきる事は出来ないとは、業な魔物」
 或る意味最終兵器。
 或る意味『これが最後だからこそ』使った一撃。
 命の雫の欠片はさほど多いわけではない。流通しているのは二流品以下。
 『何かのために』と見つけた命の雫に魔力を込めておいたと言ったって、命の雫が一級品のものでなければここまでの効果は無かっただろう。
 そして、これは二つとないからこそ。
「さて、魔物よ。これで約束を守るべきだな」
 これで殺し切らなければ今度こそ全滅する――


 戦場での一瞬の判断のミスはそのまま死に直結する。
 叫び声を上げる獣を中心にして、放射状に光の欠片が見えた。
 高熱のあまり土の主成分がガラス状に変成したのだ。
 通常、あまりに尋常ではない状況に出くわしたならば人間は状況把握のために混乱を来してしまう。
 しかしフユは速かった。思考する速度が早かった訳ではない。
 思考するより早く体が反応し、地面を蹴ってナオの元へと向かっていた。
 ナオを引きずるように獣から離れたのは殆ど本能的だったから、気が付いたらナオを後ろから抱きしめるようにしていた。
 そして、『姉としての彼女』より早く判断した『戦場の彼女』が、彼を彼女の後ろに運ぶ。
 懐から――言霊扇ではなく、束になった『符』を取り出し、ナオの方へと投げる。
「使いなさい」
「姉ちゃ」
 返事を待たず、彼女は再び懐に手を戻し、今度こそ言霊扇を取り出し構え直す。
 しゃんしゃんと薄く作った鉄扇は鈴のように鳴り、要に提げた飾り紐が生き物のように躍り。
 奏でる魂は彼女の周りに薄く魔力の流れを生み出す。
 この仕組みに、彼女の着こむ言霊を織り込んだ戦闘衣が反応して、魔法使いとは違う継続的な戦闘能力を引きずり出す。
 絶対的な魔力差が産む魔物との戦力差を埋める為のフユの『技術』。
「今のうちに畳みかける」
 指示を出すように呟き、すぐさま独特の韻律のある言霊を紡ぎ始める。
 同時に舞うようにしゃん、しゃんと言霊扇を降る。
 言霊は詠唱がそのまま現象へと転化される。あらゆるこの世の魔法の中で最も早く発動し、その効果の再現性は非常に高い。
 最も論理立てられた魔法だからこそ、記憶力と鍛錬の時間だけが力になる。
 彼女が放り投げた符は論理だけで作られたものだ。
 ナオのために調整した、ナオに合わせた符だ。
 彼の癖を全て知っているフユだから作れる、彼のための力。
――そんな事言ったって
 その符は良く見たものだから、使い方も効果も良く知っている。
 魔物狩りで使うようなものではないから混乱した。
 どこでどう使う?
――一体どうするつもりなんだよ!姉ちゃん!

 ユーカに油断はない。
 右手に衝撃波を発生させる護符を装備し、左手に諸刃の突剣を。
 彼女が作った魔術具の殆どを今回用意している。
 この時この瞬間のために造り上げたからこそ、出し惜しみはない。
「『勇者』を『魔王』の間へと連れて行かなければならないのはお前も知ってのとおりだろう」
 まだ足の裏が熱い。自分でもここまでの魔力を使えるとは思っていなかった。
 勿論ため込んだ魔力が幾ら高くても、どれだけの魔力量が在ったとしても操作できる大きさには限りがある。
 人間の精神では限界がある。その限界を支えるための『骨組み』になるのが言霊である。
 意識しなくても魔法を在る形に留め置き、自動化するためには必須とも言える。
 今の一瞬で発生した熱量を、あらかじめ言霊で設定した領域に展開すれば恐らく後ろに控えたこの魔物の部下も纏めて消し飛ばせただろう。
 しかしその『準備』には少なくとも一月かかる。
「私の半生分の魔力を一点に集中したのだ。骨まで熱が通りこんがり灼けただろう?」
 聞こえているだろうか。
 苦しげに大声で叫び、動かない体を痙攣させている。
 まだ生きているのだ。
――どうするか
 これ以上の攻撃ができる魔法もない。
 この魔物をばらす為の魔法も在るわけではない。
 両手に持った武器は護身程度しかない。だが、まだ生きているならどうにかしなければならない。
 錬金術は使えないが、この魔物を固めて動けなくさせる事は不可能ではない。
 それが気休めでも。
 彼女は懐の魔法道具を取り出そうとした。

  ざっ

――!
 左手を右手の甲に添え、一歩飛び退く。
「ユーカ、こんがり灼いて貰った御陰で」
 全身を揺すらせながら体を起こすイジィ。
 雄叫びを上げて上半身を逸らし、ばらばらと全身から埃のように粉を吹き出す。
 粉――熱量により砕けた体の破片が散り、肌の下から組織が覗く。
「喩え生きていようとも」
 そして、イジィはゆっくりと真後ろを向く。
「体が死んでいるなら充分――自らの手によって滅びを。ナオ、やっちゃいなさい」
 ナオに差しだした符は『憑依の符』。
 生きていないものに対して彼の魂を憑依させ、不死身(精確には倒す事は可能だが)の人形として戦場に赴く事ができる符だ。
 フユの真後ろで符を握りしめて倒れたナオを守る手段が必要であるが。

――な、畜生
 イジィは殆ど意識がなかった。
 初めは、今までに蹂躙した人間とさしたる差がないと踏んでいた。
 魔王の東征は最も昔、魔王がまだまだ勢いが残っていたころに行われた。
 イジィはその先鋒。多くの人間を滅ぼしてきた。自分の部下が蹂躙する前に一騎打ちをする習慣も、彼が生まれてからずっと行ってきた。
 彼の役割がなくなるまで、魔王が倒されるまでに何度も戦った。
 魔王が――勇者に倒される運命に流されるたび、彼はリセットされたが、それでも一度も戦いに負けたことはない。
 先程喰らったような強烈な魔法も初めてだ。
 強固な再生能力のある、自分の自慢の体が殆ど完全に破壊されるなどという経験も初めてだ。
 そして屈辱的なのは。
 その体に無理矢理押し入ってくる別の『人間の意志』だ。
 蹂躙される感覚。それは――今までに自分が行ってきた事が返ってきたように。
 あまりにソレはいらだたしい。
 第一、今自分は何をやっている?!
 感覚のない右腕を振り回すこの『意志』は何をやっている?
 聞こえない鼓膜を通して感じる悲鳴は誰の悲鳴だ?
 極度に特化された肉体能力。強力な再生能力が、ほんの僅かな断片ですら彼を『生者』として押しとどめようとする。
 もしかすると、今こうして目が見えず耳が聞こえないという闇の中にいる事はまだ幸せだったかも知れない。
 彼の体に残留している熱量をまき散らしながら、彼は彼の部下を片っ端から潰しているのだから。
 停まらない。止まらない。
 苦しそうな叫び声を上げる魔物は、叫びながら自分の部下に向かい拳を振り下ろす。
 突進する。全身を振り回す。
 気付いていないのか、そもそも判らないのか、先程魔物が部下と呼んだ魔物達は、暴れる彼にすがるように集まり。
 何の躊躇いもなく潰されていく。
 ぐしゃり、ぐしゃりと。
「あとは時間の問題だな」
「そうでもありません」
 今操られている魔物は、確かに今は『死んで』いる。
「あの術自体は、無機物にしか作用できないですから。再生が始まって内側から先程の魔物が現れれば、ナオは追い出されて」
「ついでに言えば、あの魔物自体を何とか出来なければいけない訳だが」
 時間稼ぎしている暇ではないだろう。
 しかしもちろん、このまま『自殺』させる訳にはいかない。
 本体の自殺はそのままナオの死に繋がる。
「……間に合いそうに、ないですね」

  ぎし。

 唐突に割り込まれるような感触。
 いや――ナオにとっては割り込んでいる方だから、『追い出されようとしている』のだろう。
 まだらに歪む視界。
 感覚を失っていく両腕。
 聞こえてくる内側のうなり声。
『くっ、まだ生きて』
――がぁああああっっ
 内側から染みこむように叫び声が聞こえる。
『――!』
 同時に。
 両脚の感覚が一気になくなる。
――逃がす、か
 内側から染み出してきた『意識』が、網の目のようナオに絡みついてくる。
 なくなった感覚の代わりに、直接、文字通り『心』を縛り付けていく。
 歪んだ視界が、彼の意思に反してくるりと周り、彼の姿が現れる。
 彼の『抜け出た』体だ。
『やめろっ』
 彼の『憑依』は、フユの言霊によるモノだ。彼の意思で抜ける事はできない。
『姉ちゃん!』
 視界は既に彼の意思では『見せられている』状態でしかない。
「そんな、まさか」
 聞こえた。
 外部の状況は判らない。
『姉ちゃん?!』
 自動的に固定された画面。
 揺れる画像の向こう側で揺れる視界。
 乱れる映像。
――きさっ……
 その時、視界が完全にブラックアウトした。
 まるでテレビがスイッチを切るように。
 全ての感覚が遮断される。

――……ゲームオーバー、ということか

「そ〜こぉまでぇ、かな?」
 がしゃん、と音を立てて崩れ落ちるイジィの体を、自慢の巨大な手袋で抱きしめるようにして受け止める。
 ミチノリの笑みは酷く明るく、一点の曇りもなく。
「終わったのか?」
「おぉわりぃ〜」
 ユーカの言葉にゆっくり首を回し、ミチノリは小さく頷いて応えた。
 倒れているナオを支えるフユがミチノリに目を向けて。
――結局……
 確かに魔物の再生は行われていた。魔物がナオを捕らえていたのも判った。だから、危険な状態だった。
――何だったというの
 ナオに向かう魔物を止めたミチノリ。ただ遮るようにして間に入っただけ。だというのに。
――……
 フユは納得できない顔でミチノリとユーカを睨み付けるしかできなかった。
 既に四天王の殆どは散った。
 各方向へと軍団を侵攻させ始めたのだ。
「マジェスト様」
 残ったのはドクただ一人。
「なんだ」
 ドクは納得していなかった。
 だから、今回、今期の魔王に従い――『魔王』の行動に疑問を抱く。
 そもそもマジェストの行動そのものが、彼にも疑問だ。
「私は魔王陛下と共に行動します」
「……どういう意味だ」
 マジェストの顔は変わらない。
「ヒトを殲滅する必要性が理解できません」
「成る程一理あるが」
 マジェストは大きく頷くと腕を組み、ふむ、と顎に手を当てる。
「しかし困った事になるな。魔王陛下は自らの失敗を気にしておられる。一度その失敗を帳消しにするのが我々の努めだと、こう私は考えている」
 くい、と顎に当てた手を眼鏡の中央にあてて、ずれを直すような仕草をする。
「一度人間を平らにしてしまえば良い。陛下は今なら立派に魔王を努めなさるであろう。だからこそ我々はその準備をするだけの事だ」
 マジェストの顔色は変わらない。
 淡々と話すその姿は、機械的とも事務的ともとれるが――決して感情を感じさせるものとは言えなかった。
 ただただ絶対的。それが間違いでもなければ、願いでもない――唯一の真実であるような口調。
「今はお時間を必要とされているのだ」
「たしかにそうかもね」

  わぁぁん

 遅れてお椀が響くような轟音が轟き、マジェストとドクに瞬時の暴風が叩きつけられる。
 砂煙に目を庇い腕を上げると、ひょぅと撫でるようにつむじ風が舞う。
「まおさま、ちょっと飛ばしすぎですよ。スピード違反です」
「……スピード違反ってなんだよー」
 ぶーぶーと後ろを向いて、そこにいるウィッシュに文句を言う。
「スピード違反はスピード違反です。減点!免停!」
「……免許なんかないよ」
「だったら無免許だから」
 つむじ風の正体は言うまでもなかった。
 マジェストは意外な物を見たように目を丸くして、まおを見返すとすぐに跪く。
「魔王陛下!どのようにしてここまで」
「無免許にスピード違反でそのまま交通刑務所に行くような方法で」
 まおの代わりににこにこ笑いながら言うウィッシュにジト目を向けながら、まおは小さくため息を吐いた。
「ウィッシュの魔法だよ。お城から出して貰ってさ」
 両手を腰に当てて、呆れ顔で二人を見つめる。
「まじー。あんた何やってるか判ってるよね」
 ぷんぷん。
 かなり怒っている。
 普通に怒って然るべきかも知れない。しかし、マジェストにとっては意外な事だ。
 何が――そう、現状が。
 今彼の身に何が起こっているのかが理解できない。
 どうして閉じこめたまおが彼の前に居て、彼の娘とも言えるウィッシュが彼の味方ではなく、まおを助けているのか。
「……魔王陛下こそ、一体何をしたのですか。その、陛下は」
 そもそもウィッシュを使うとまおが言い始めた時点で『魔王』の自覚が戻ったのだから、まおの代わりに『魔王』を行う事が彼の目的だったというのに。
 『魔王』として人間を減らし、人間を追いつめる必要があった――はずだ。
 勇者を選ぶのはそれから――いや、既に定まっている勇者以外を始末すれば済む話だ。
 それが『魔王』としての在り方の一つだ。
「マジェスト。いい加減にしなさい」
「ま……」
 まおは絶対者の言葉でそう言いつけた。
「余計なことをする必要はない。良いことまじー?私は魔王。あなたは?」
 違う。
 マジェストは直感的に間違いに気が付いた。
 『魔王』であればもっと横暴なはず。『魔王』としてならばここまで苛々しないはずだ。
「魔王……軍団参謀長」
「そう。よくできました」
 今彼の目の前で笑顔を見せて、胸を張っている少女は、まおだ。
「だったら参謀長は私の言うことをきかなきゃいけないよね」
 魔王ではないのに絶対的な、有無を言わせないその態度と言葉。
 マジェストは混乱していた。
 何故?いや、何故ではない。
 理由は彼の目の前にいる。まおの後ろに見える。笑っている。彼女――ウィッシュ。
「今すぐに退かせなさい。作戦は中止。判ってる?これは魔王としての命令だからね」
「ウィッシュ」
 まおの後ろに声をかけるが、ウィッシュは返事をしない。
 ただ小首を傾げ、瞬きを数回。
 そして小さく頷くと、まおの耳に口を寄せる。
「まおさま」
 小さく頷くまお。
 両腕をゆっくり自分の真横にさし上げると、掌を内側に向けてゆっくりと前に閉じていく。
「!」
 気が付いたが遅い。
 勿論ゆっくりゆっくり動くまおから逃れる事は出来たが、今までのまおであれば絶対に行使しなかったから油断――油断?していた。
 ソレは油断ではない。
 『そうでなければならない』という一つの枷、『設定』だ。
 既に遅く、彼の体は不可視の巨大な何かに捕まれてしまっている。
「魔王陛下っ」
「止めるよね?」
 ぎり。
 全身に軋み音が走る。
「わっ、判りましたっ!た、ただちにっ!ただちに全軍を撤退します!」

 全軍撤退の命令の直後、異変が起きた。
「連絡が取れません」
 マジェストは部下の報告に舌打ちをする。
「れんらくとれないって?」
 彼の後ろで腕組みをして、左足の上にのせた右足をぶらぶらと振り回す。
 イメージとしてはやんちゃな子供。
 でも、その笑顔には影はなく、『Breakdown innocence』を地でいく子供。
「ええ。北に向かわせたイジィの軍です」
 マジェストはくるりと振り返ると言う。
「突っ走ってるのかも知れません」
 よっと、とまおは両脚をリズムを取るようにして振り、全身のばねを利用して跳ぶ。
 着地。ぽて、と小さな音を立てると彼女は体を伸ばしてちらりと後ろを見る。
「――ウィッシュ」
「まおさま」
 ぼん、と空気が破裂する音がする。
「私が行くから」
 ウィッシュが使った魔法なのだろう。
 まおの衣装が、真後ろから風を受けているようにはためき、大きく孕む。
 『暴走ちょー特急』という高速移動の魔法だ。
 勿論スピード違反にもならないし、免許もいらない。
「まじーは撤収して城の準備して。多分移動させなきゃ間に合わないと思うし」
 御意、と応えようとして彼は一瞬額にしわを寄せて小さく首を傾げる。
「……間に合わない、とは?」
 今にも飛び立ちそうなほど体をばたばたと震わせるまおは、顔を一生懸命マジェストに向けながら悪戯っぽく笑みを浮かべる。
「うん、この物語の最終章にね」
 まおは自信ありげに思いっきり笑みを浮かべて、元気良く両腕を振り回しながら。
「さーぁって、いっくぞー!」
 前を向いてクラウチング・スタートの姿勢。
 いつの間にかウィッシュがすぐ側に立っていて、右腕を穹に伸ばしている。
「よーい!」
 と言いながら自分の右人差し指以外を折り畳み、左手で親指を逸らせる。

  ぱぁん!

 甲高い、空気を切り裂く音と共に、まおは地面を蹴った。
「じゃあマジェスト様。そう言うことで」
 すちゃ、と何事もなかったかのように左手を挙げてウィッシュは言う。
 ごうごうと風切り音を立てて遠ざかっていくまおに視線を送ると、マジェストは言った。
「……何をした」
 マジェストが真剣な顔で言うのを、彼女は涼しげに流す。
「ご存じのはず」
 そして、それ以上何も言わずに背を向けて。
 一瞬彼女の背中が揺らめいた――それは、まるで翼を伸ばしたようにも見えたが、すぐに不可視の圧力に変わり、彼女を一気に加速した。
 二人を見送ると、マジェストは不服そうにため息をつき、くるりと後ろを向いた。
 エタ山の地底に沈めた魔城チゼータを起こさなければならないと思うと。
「……面倒を残してくれましたね」
 それも、予定外も予定外、あまりに外れた内容なだけにマジェストは大きく空を仰いだ。
「どうするおつもりだというのですか、魔王陛下――それから」
 こほん、と彼は咳払いをする。
「あんまりぴちぴちのスパッツを履かないようにと注意しておかなければなりませんね。まずはシエンタをお仕置きしなければ」
 きらりと光る眼鏡は彼の本当の貌を覆い隠していた。
「魔物は完全に沈黙してますね」
 回復しかかっていたのだろうか、炭化した体の一部に大きな亀裂が走って見える奥の体は、妙にみずみずしい。
――今度こそ死んでしまったようですが
 ユーカの魔力によりほぼ完全に芯まで灼けて居たはず。
――何故?
 これを見る限り、また生き返って襲いかかってきてもおかしくはない。
 のに。
「良ければ行こう。少なくともここはこれで安全だろう」
「待ちなさい」
 フユはユーカの言葉に立ち上がり、きっと彼女とミチノリを睨み付ける。
「フユ姉?」
 その異常な雰囲気に気が付いたナオは呟くように声をかけるが、まだ体力も回復しきっていないせいで――いや、フユに届かないのはそれだけではない。
 彼女自身いい加減に苛ついていた。
 ユーカへの疑惑、一番信じられないものを。
 フユは完全に敵を見つめる目でユーカを睨み付けている。
 袖の中にある鞘に隠した言霊扇は何時でも振り出せる。
「まだこの魔物は生きています。違いますか」
 ミチノリはにこにことしたまま小首をかしげ、ユーカはふむ、と腕を組む。
「ミチノリ、どうなんだ」
「んーーぅんー」
 彼は妙に長い間で唸る。
 そして何かを願うようにちらりとユーカを上目遣いに見つめる。
 ちなみに、決して背が高い方ではないユーカだが、ミチノリは小さい。
 普通にしがみついて少し頭を下げているだけで、腰にくっつく子供のようにも見える。
 ちょっと見ではユーカの後ろに隠れているようでもある。
「だ〜ぁいじょぉ〜」
「敵は再生しています。確かにナオを助ける事は出来ましたが、それがこの魔物の死と決めつけて良い物とは思えません」
 しかしミチノリの貌は変わらない。
 ただひたすらににこにこしている。
「で〜ぇもぉ〜ぅ」
「大体、何故クガはこの魔物が死んだ事を理解しているのですか。何か、クガがやったとでも?カサモト」
 ちらり、とミチノリに視線を向けてからフユに顔を向けるユーカ。
 小さく肩をすくめて見せて、そしていつもの貌で言う。
 どこか面倒臭そうな、眠気の残る気怠い貌で。
「ミチノリの『祈祷』は、生来からの能力みたいなものだからな。私にも説明はつかん。が、生きているモノと死んでいる物の区別はつくらしい」
 こくこくと頷くミチノリ。
「こいつに話させると長いし五月蝿いから私が簡潔に説明する。ナオに向かって歩いていた時ですら既に死にかかっていたのだよ」
 そしてミチノリを引き剥がしながら、彼女は大きく両腕を広げてみせる。
「どんな生き物であっても幾ら何でも何時までも生きられる訳じゃないだろう。私の魔力で既に殆ど死にかかっていたんだからな」
 尤も、完全に死ぬ前に何らかのエネルギーを与えればおしまいだった、と付け加える。
「……つまり、別にクガが何かをやったわけではない、と」
「そぉ」
「ああ、何もしていない。ただ予見して割り込んだだけだろう?」
 何故か最後は語尾を上げて疑問調で言うと、視線をナオに向ける。
「どんな感じだった」
 ナオは目を丸くして自分を人差し指で指さす。
「俺?えっと、丁度そのー、雁字搦めに絡め取られたみたいになって、途中で姉ちゃんの声が聞こえて」
「最後は?」
 フユが振り向いて、優しい声で言う。
「ああ、ふっと暗くなって感覚がなくなった。その直後、いつもみたいに元に戻ってたかな」
 フユの声は、彼を元に戻そうとして巧くいかなかった時の叫びだろう。
「丁度その前後でミチノリが割り込んだ形かな。納得いかないか」
 理屈は成り立っている。
 でもフユは、彼女はどうしても気になっていた。
 それ以上何も判らないから、ただ唇を噛むのが精一杯だったのだが。
「……いいえ、少なくとも納得出来ましたから」
 ちら、とナオに視線を向けると、それだけで歩き始める。
「それじゃ行こう」
 ユーカは彼女に合わせて踵を返し、再び魔物の居る方向へと歩み始めた。
 その日は結局それ以上南に向かったところで何もなく、またあの魔物の言葉通りであればこれ以上先に人の住む町はおろか、食料の調達も難しいはずだった。
「姉ちゃん?」
 無言で歩いていたフユが、すっとナオに体を寄せた。
「後で、いつもの治療をするから」
 実際徒歩でシズオカまで向かうのは難しい。
 その日の野営は丁度日が沈む直前に見つかった小さな林を利用する事になった。
 すっと帳がおり、穹に星が瞬き始める。月は半月、半分に欠けたそれは頼りない光で夜の草原を照らし上げる。
 彼らはたき火を準備し、寝具の準備をすると食事の準備を始める。
 通常幾らか持ち歩いている保存食を調理するか、採れるなら食材を調達する。
「植物ぐらいしかなさそうだ」
 ユーカはぐるりと林を見回して言う。
「キノコと、ゼンマイと百合根があった。これで良いだろう」
「ん〜じゃぁ〜みっちゃんに調理させてぇ」
 材料を手早く刻み、鍋にぽんぽん放り込んでいく。
「あ、じゃあ任せていいか」
 ナオが確認するように聞くと同時、フユが立ち上がる。
 ユーカがつい、と視線を向けると、彼女はこくりと頷いてナオが答える。
「カタシロの『後遺症』を治して貰うわ」
 多分読者の殆どは忘れていると思うが、戦闘時に使用した『カタシロ』は深刻なダメージを刻む。
 この為、常に直後に(度合いは勿論強弱あるのだが)言霊による治療を行う。
 フユ曰く必須の治療だという。
 別に毎回温泉に行くわけではない。特にこんな場所で簡易的に治療する場合には贅沢は言えない。
「ああ」
 ユーカはにや、と口元を歪める。
「何なら耳栓をしてやろうか」
「あなたは何を言ってるんですか」
 即座に鋭く突っ込みを入れると、ナオを引きずるようにして木々の向こう側まで移動する。
「……何で耳栓を」
「ナオ。黙りなさい」
 ぴしゃりと言うとまず地面の様子を調べるように片膝をつき、彼女は札を二枚ぺし、ぺしと地面を叩くように並べる。
 そして一言二言言霊を吐くとナオに手招きしてそこに座らせる。
「耳栓なんか必要ありません。どうせこれで向こうには声は届きません」
「ちょ」
 しっと口元に指を当てる。
 フユの貌は真剣その物で、巫山戯ているようには見えない。
「ナオ、あなたには話しておかなければならない事が幾つかあります。できればカサモト達に伝えたくない事だから」
 そう言うと手早く符を準備しながら、ナオに横になるように顎で指図する。
 ナオは納得行かない貌のまま素直に横になる。
「カサモトが、勇者と魔王のシステムについて何かを調べているのはもう知ってるでしょう?」
「ああ」
 ぺたぺたと寝転がった彼に符を張っていく。
 今回は軽度な治療かと思ったが、意外にその符の数が多い。
「手先とは言わないまでも、間違いなくカサモトは何かを知っている。それはきっとナオ、あなたの危険に関わる事」
 そして魔女が、人間という『倫理』を持たない存在であると言う告白。
 フユは先程の戦いを終えてから完全にユーカを敵視していた。勿論、ナオの安全がその下敷きにある事は言うまでもない。
「……俺が勇者、だから?」
 フユは困ったように視線を逸らして沈黙するが、一呼吸の間を置くともう一度彼を見つめて頷く。
「もし彼女の言う通りであるなら、ナオ、あなたは生死に関わる危険の中に投げ込まれる。確実に生き残る手段があるとしても」
 ぺたり。
 既に何枚も彼の上に張り付けられた、傷ついた精神を癒す符。
 具体的にはカタシロの言霊により強引に別の体に出入りした際の疵を癒すものだ。
 別の体で死にかけたり、実際に死を体験してしまうと前回のように治療するのが最も早い。
 特にこの間は大きさも重さも違う、負荷の大きなカタシロだったから必須だった。
 今回はこれでも充分なはず、というフユの判断だ。
「それでも、いい結果になるはずはない、でしょう」
 最後の一枚を張り付けて、その手を載せたまますっと顔を彼に近づける。
「姉ちゃん」
「私はナオ、あなたのことを心配してるのに」
 つい、と。
 さらに顔が寄る。
「ちょちょ、ねーちゃんっ」

  ごぉうっ!

 その時、突風の煽りが二人の上を通り過ぎた。
 言霊は発動し、ナオに張り付けられた符は瞬時に燃え尽きて消える。
「あらあら、冗談だったんだが」
 同時に声が、思わず側で聞こえた。
 慌てて体を起こすナオと、悠々と立ち上がるフユ。
「何用ですか」
 立ち上がって振り向き、フユの眉が吊り上がった。
 ユーカは背を向けており、その向こう側。
 たき火が見える。いや、その焔が揺らめくのに合わせて複雑に揺れる人影。
「――お前」
 フユは後ろで息を呑むナオの気配に舌打ちする。
 焔の隣の小さな影、そしてそれを覆うような大きな影。
「まさか、あなた達は人間じゃなかった、と言うわけですか」
 険しい顔立ちの少女、Tシャツの上に袖のないタンクトップ、薄手の上着、短いフレアスカートにスパッツ、大きめのスニーカー。
 ひとくくりに纏めた髪の毛はアップにして、大きめのピンみたいなモノを差している。
「――『魔王陛下』」
 音はなかった。しかし、もし音が見えたならこう見えたのだろう。
 陽炎のように彼女の周囲が揺らめき、その界面が地面を走りそこにいた全員を撃つ。
「『軍団長』を滅ぼしたようだな、人間」
 良く通る鈴を鳴らしたような少女の声、勿論聞き覚えがある声。
「まお」
「『贈り物』はお気に入りだったようですね」
 ウィッシュは続けて奏でる。
「ではもう一つ」
 呟くように言うと右手をさし上げて、軽く振るった。


 ばしぃっ!

 鋭い音と共に弾け、フユが姿勢を崩して真後ろに跳ぶ。
「姉ちゃんっ!」
 振り返るナオ。
「!」
 ユーカはナオとまおの間に入ると、がしゃりと全身の鎖帷子を軋ませて右手を差し出し、左手を甲に押し当てる。
 ミチノリはたき火を挟んでまおから離れているが、位置的にまおとウィッシュ、ミチノリ、ユーカとナオの三角形を崩せそうにない。
「つぅ……」
 意識を一瞬持って行かれそうになった。
 瞬時の強打。多分額が赤くなってるんじゃないか。
 フユはそんな事を思いながら体を起こそうとする、が。
「――!」
 腰が抜けたように起きあがれない。
 脳が揺れて、朦朧としているのだろう、だが――フユはこういう状態になったことがなく、『戦場の彼女』ですらどう行動して良いか判っていない。
「ナオっ」
 確かに一瞬だ。
 だがナオは、ユーカの声を無視して敵に背を向けてフユに駆ける。

  ご

――っ!
 背中に斬魔刀を重ねるように振り上げる。
 同時に衝撃。
 肺の中の空気が一気に吐き出され、視界が赤くなるが彼は地面を蹴った。
 このまま倒れ込めばフユの上に重なる。
 殆ど本能的に地面を蹴って飛び上がった彼は、その勢いでくるんと宙を舞う。
 ユーカには、まるでナオがフユを宙返りで飛び越えるように見えただろう。
 実際には飛び越えて腰から地面に叩きつけられた。
「――ぁあっ!」
 しかしこちらは白兵戦で慣れた体。
 まるでばね仕掛けでも入っているような動きで、素早く立ち上がって態勢を整えるとフユの前に体を押し出す。
「まお!それにウィッシュ!お前ら!」
「諦めろナオ」
 呟くように吐き捨てるユーカ。
「別れる時に居なかったから無理もないが、奴らは魔物で、これが真実だ」
 よく見れば、まおは僅かに体を浮かせて居る。
 魔力か。
 それとも別な何かか。
 だらん、と両脚は力を加える必要がない為に真っ直ぐ地面に伸びている。
 そして、僅かに胸を反らせて彼らを見下ろす貌で。
「そう、私は魔王」
「まお!お前」
「少しは静かになさいな。見苦しい」
 再び割り込むように腕を振るうウィッシュ。
 今度は腰を落とし、刃を力に向けて振るい左腕を峰に押し当てるようにして――受け止める。
 ずん、と衝撃が刃を揺らし、一瞬両足をひきずるような跡を作る。
 まおは変わらない恰好で、僅かにスカートを揺らして、両足をバランスを取るように開いて着地する。
 みょんとバネのように髪が揺れる。
 同時。

  どん

 まおが右腕を下から上に振り上げると。
「わ」
 彼女の姿が一気に下に――いや、彼が丁度ちゃぶ台替えしのようにくるんと足下から飛ばされたのだ。
「ナオ!」
 叫んで顔を上に上げたその僅かな瞬間。
「!」
 フユはそれに反応しきれない。
 いつのまにか一気に接近したまおは、彼女の胸元側で体を沈み込ませている。
 半身で左足をフユに向け、上半身を左に向かって螺旋を描いて。
「――」
 小さなつむじ風がフユの顎の下をかすめる。
 ほんの僅かに背を反らせるのが早かった。
 まおは右掌が外れても気にせずそのまま体を捻りながら左へと体を沈め。
「えい」
 緊張感のない気合いを入れて、彼女の右足は地面を離れる。
 態勢が崩れているフユは、まおの右足が伸びてくるのが見えたが、左腕に右手を添えるのが精一杯。

  がしん

 まおの右回し蹴りが左腕に命中する。
 勿論体重差を考えればそんなもの大したものではないだろう。
 実際殆ど衝撃はなかった。が、直後にフユは全身を捕まれたような勢いで真横に弾き飛ばされる。
 姉弟そろって宙を舞い。
「――待って」
 まおはウィッシュにきっと視線を向けて睨み付ける。
「まおさま」
「ウィッシュ」
 今度は強い語調で言い切って、再び前を向く。
 地面に叩きつけられたナオとフユ、そして少し離れた場所にいるユーカとミチノリ。
――まお
 ユーカは自分の向けられた視線にとまどいの色が混じっている事に気付いた。
――無理しているな
「――!」
 と同時に、何が起こるのか判った。
「ミチノリ」
 声をかけながら、慌てて懐にしまっている道具を探す。
――間に合わない
「頼む」
 だが、いつもののんびりした返事は返ってこなかった。

「あの程度で私に勝てると思わないことだ」
 腰から落ちたナオに浴びせられる言葉。
 受け身を取り損ねたせいで、半身を起こすのが精一杯なナオの視界に。
 まおが見えた。
 こちらを傲岸不遜な顔で見下ろすその貌が、僅かに歪み。
「思い知らせてやろう」
 両腕を大きく振り上げる。
「頭を下げろ!」
 ユーカの声が響く。
 まだフユは起きれない。
 ナオは慌てて元の姿勢へ戻る。同時に――それが起こった。
 大きな金属同士を叩きつけたような甲高い音に全身を襲われたような、脊髄の裏側まで響く巨大な音。
 黒から赤へ、そして白く染まっていく視界と、耳に伝わり続ける音。
 だがそれだけだった。
 まるでスイッチを切ったように視界が暗く戻り――通り過ぎて闇に返る。
 ナオが体を起こして周囲を見回して、閃光にやられて視界がほぼ遮られている中、僅かに動く影が見えた。
 それはユーカが体を起こすところだった。
「ふん――まあ良いだろう」
 そして、変わらぬ位置から聞こえる声。
 まおの声だ。
 それも先刻の轟音の為にかすれて聞こえる。
「預かっているキリエ、返して欲しいか?」
 裏声で、しかも大きく尻上がりな疑問形。
 一瞬、その声色のために何を聞かれたのか理解できなかった。
「きり――え?キリエ?まて、まお!待て!」
「聞こえなかったとでも、言いたいのでしょうか?ならもう一度私から言いましょう」
 既にまおは体を浮かし、最初に姿を現したように胸を反らし、両手両脚をだらりと提げている。
 顔だけ下を向き、そこにいる人間を見下ろしている。
「キリエさんは『私』が預かっています。返して欲しいのであれば――」
「来なさい」
 つい、と顔を上げるまお。
 彼女の声に続いて、急に闇が訪れた。
 闇、ではない。
 それは影。大きな影。一瞬月が雲にかげったのかと思ったが。
「な――」
 否。
 それは雲ではない。
 彼らの真上に、つい先程まで瞬いていた星が全て消え去り、月の明かりすら彼らを避けている。
「私の城に。本当かどうか疑うなら疑っても良い」
 巨大な影。穹を覆い尽くす程巨大で、それは翼を広げた巨大な生物のようにしか見えない。
 鳥ではない、鳥ならばあれほどまで横に丸く広く、そして何より長い蛇のようなしっぽがあるはずはない。
「その代わり、私は城で全てを滅ぼす。何故なら、何故なら」
 そこで再び彼女は下、いや、ナオを見つめる。
 じっと。
 以前見つめた陽気でころころと良く動く貌ではない、冷たく研ぎ澄まされた冷たい金属のような仮面。
 ナオはその貌を睨む事も出来ず、見つめ返す。
「――それが魔王」

  ごうっ

 ナオは突然の突風に左腕を上げて顔を庇う。
 巻き上がった草や砂埃を右腕で払いながら立ち上がり、穹を見上げた彼の目には、既にまおの姿はない。
 ただ、影を残す『城』と呼ばれた巨大な生命体の姿が悠々と穹を飛んでいるだけ。
「……まお……」
 ナオの表情は複雑に歪んでいた。
「将軍?!」
 ユーカの声に慌てて振り向くナオ。
 フユを抱きかかえるようにして彼女を支えるユーカ。
 側のミチノリ。
――え?
「目を覚ませ、おいっ」
 必死な貌をするユーカのに、揺らしても反応のないフユ。
 ぐったりと力が抜けた彼女の体は、ただゆらゆらと揺れるだけで。
「……ねえちゃ……」
「しっかりしてくれ!将軍!」
 ユーカの慟哭のような声が響いただけだった。
 原因は判っている。
 でも、だからって信じられる訳がなかった。だから叫ぶ。
「フユ将軍!」
 ユーカはぴくりとも反応しない、自分の腕の中の少女を見つめる。
 判っている――いや、もう少し正確に言えば判っていた、と言うべきだろう。
 つ、と視線を上げて、顔をゆっくりと後ろに向ける。
「ユーカ」
 ナオに声をかけられて、そのまま彼女は顔を彼に向けた。戸惑う顔をした彼、そして彼を見通した向こう側に佇む。
 ミチノリ。
「姉ちゃんは?」
 眉と眉の間に小さく立て皺が刻まれる。
 普段からそんな感情とは無縁な彼女には珍しく、悔しげな顔でいらいらと首を振った。
「……済まない。魔力の中和が間に合わなかったのだろう」
 ユーカは説明するつもりでそう言ったが、ナオには届いていない。
「姉ちゃんはどうなったんだ?」
 ナオは焦ったように続けた。彼女は唇を噛んで、一度瞬きをしてから顔を上げた。
 彼は一歩近づく。
「生きてるよ」
 だが、ユーカより早くナオの後ろからミチノリが声をかけた。
「ああ生きている。だが、意識が持って行かれてしまっている」
 そう言うと、体をずらしてフユの顔をナオに向けた。
 額の中央、赤いこぶのようなモノが出来ている。
 まおに攻撃される前に受けた、ウィッシュの疵が大きくなってきたのだろう。
「って、大袈裟な、気絶しただけなんだろ?」
「違う」
 ナオの呆れた声に、ユーカは即答で切り返す。
「文字通り持って行かれてしまっている。理由も方法も全く判らん、ただ判るのは、明らかに体が生きているのに死んでいると言うことだけだ」
 ユーカ自身自分で何を言っているのかさっぱり判らなかった。
 フユの心臓は動いている。医学的に言えば脳死のようなものだろうか。
 普通生きているなら何らかの反射があるはずなのに、あらゆる反射がない。
 文字通り心臓だけが動いているという、奇妙な状況だ。
 有り得ない。先刻まで確かに生きていたのだから。
「フユ姉」
「多分、まお……魔王か、さもなければウィッシュだ。……今は、それぐらいしか判らん。……すまない」
 咄嗟にミチノリに声をかけて、魔法を拡張するつもりだった。
 彼の『能力』に働きかければ、喩え魔王であろうと魔力の中和が可能になったはずだった。
 ナオはぎりっと歯ぎしりさせて、もう一度夜穹を仰いだ。
 先程まで自分の頭の上にあった魔城の姿がまだそこにあった。
「だったら聞くしかない」
 直接。本人から。何故、どうして、どうやって。
――キリエだって
 人間の死体を見慣れている訳ではないと言っても、見慣れたキリエを見間違うだろうか。
 酷いものだった。間違いなく背中からばっさりと一撃。
 その後、切り刻むように何度か斬魔刀を叩きつけたような切り口が背中にあったのを憶えている。
「……絶対にキリエだって殺されてるんだ」

  キリエさんは『私』が預かっています。返して欲しいのであれば――

「嘘だ」
 今更迷うわけがない。ナオは確かに彼女の死体を見た。アレは良く化けた魔物でもなければ絶対にキリエだ。
 検分がどうか確認している余裕はない。
「まて、ナオ」
 悲壮が顔に表れているのに気が付いたユーカが声をかけるが、無言で睨み返して応える。
 そして、右手で斬魔刀の重さを確認するように一度握り直して、振り上げる。

  ぶぉん

 鈍い空気を裂く音が響き、斬魔刀は弧を描いた。
「あぁぁ」
「なんだ、五月蝿いぞミチノリ」
「うぇぇ」
 ユーカとミチノリは眉を寄せる。
 一度顔を見合わせて、ふいっともう一度上を見る。
「おーちー」
「うわああああああっっ!」

  視界一杯に、魔城の腹が見えた。

 弾けるように立ち上がると、ユーカはそのままフユを抱えて走り始める。
 続くように、僅かに遅れてナオも走り出す。途中でミチノリの腕をひっつかんで引きずるようにしながら。
「ななな、何だ何だ何だなんだーっ!」
 魔城チゼータは、彼らの真上からゆっくり降下を始めているところだったのだ。

 はっきり言って死ぬところだった。
 ナオは地面に完全に倒れ伏して、大の字で荒い呼吸をしている。
 ユーカは一応女性の面目だろうか。動けないのは同じだが、両脚を揃えて座り込んでいるだけだ。
 どちらにしたって足がもう動かない。
「……いや……穹を飛ぶ必要はなくなったわけだ」
 どどーん。
 呟くユーカの向こう側にそびえる壁。
 壁ではない。チゼータと呼ばれる魔物の体、即ち『魔城』だ。
 こうして外観を見る限りではただの岩山のように見える。肌というか、質感は鱗のようなものではなく、鮫肌というか。
 岩肌。もろ岩盤。
「魔王の城って、自由に移動して、穹まで飛んで……」
 ナオも呼吸が整ってきたのか、言葉を区切り区切り言う。
「……殺されるところだった」
 魔物ではあるが。
 魔城に殺された勇者。少し情けなく感じる。
 ごろん、と体を転がして、地面から引き剥がすように起きるとあぐらを組んでふいっと魔城を睨み付ける。
 一応なりとも、宿敵の居る場所。尤も、宿敵よりはなんというか。
 魔王。
 自覚などないが、ないに等しいが、それでも魔王と勇者は対の存在。
 それに今や他人ではない。
――まお
 彼はゴーレムとして彼女と戦った記憶はない。
 しかし勿論、それ以外で直接出会った記憶はある。
「ナオ。勇者って、この期に及んでなんだと思う」
 ユーカは側でへにゃりと座り込むミチノリの頭を撫でながら聞く。
 どうやら精神安定剤のような役割でもあるんだろう。
 こころなしか彼女の顔色がいい。
「……生贄か?」
「言い得て妙だな」
 と言うことは、ユーカもそう思っているということだ。
「色んな特典がある、罰ゲーム。私はそう思うな」
 ナオは彼女の答えにふん、と鼻で笑いながら、顔に不敵な笑みを湛える。
「四の五の言ってる場合じゃないよな」

  預かっているキリエ、返して欲しいか?

――それに
 フユに目を向ける。彼女だって。
 きっと――ユーカの言葉を信じるまでもない。他に有り得ない。
「返して貰わないといけないから」
 ユーカは口元を歪める。
 それはどこか寂しげにも見える。
「魔王を倒せば何か貰えるんだろう。――姉ちゃんを。キリエを返して貰う」

 魔城中心部、魔王の執務室。
 いつものように大きすぎる椅子に腰掛けて足をぶらぶらとさせて、寂しそうな顔をして。
 まおが座っている。
「魔王陛下、無事着陸致しましたぞ」
「わかーってる」
 そしてやはりいつものように、不意をついたように姿を現すマジェスト。
 でも、まおは顔を上げない。
「どうしたのですか?勇者はもう準備を終えてるのではないですか?」
 まおはふい、とマジェストに顔を向ける。
 ジト目。
「……なんでございましょう」
「あーのさー、まじーは邪魔だからむこーいっちゃってよ」
 がーん。
「な、何故にそのように」
「なにゆえぢゃなくて、ぢゃま。判る?」
 そしてゆらぁりと立ち上がると、そのままくるりと振り返る。
 ジト目全開。半開きなのに全開とはこれ如何に。
 ともかく思いっきり半開きの目で彼を上目遣いに睨み付ける。
「まじー。あんた勝手にリセットしようとした挙げ句、なに?その言い訳が『魔王がやる気になるまで』だって?聞いたよ。ドクから」
 まおは猫背気味に構えて、右手を胸の前から一気に振り抜いて、肩の高さのまま真横に伸ばす。
「『私』が居るならどうせ……マジェスト、あなたは必要ないもの。判ってるでしょ」
「そんな」
 マジェストはまおが何を言っているのか理解できなかった。
 同時に。
――棄てられた
 脳裏に閃く言葉。
「何故!なぜですか魔王陛下!」
「『魔王陛下』じゃないよ、マジェスト=スマート?」
 ぴくり、と彼の貌が歪む。
「……まお、様?」
 まおはにこっと笑みを浮かべて。
 胸を反らせて、右手を自分の胸に押し当てる。
「そうだよ♪まじー、もうこの物語は終わる。ううん、終わらせるの。こんなバグだらけの物語なんか」
 右手をくるっとひっくり返し、掌を見せて。
 親指を立てて拳を作り――下に降る。
「作り直せなんか言ってないんだからね」
「……しかし」
「人間の望みは深くて、たった一人で支えられるようなものなんかじゃないの。幾ら巧く作ったってね」
 そしてまおは、どこか自嘲気味に微笑みを歪めた。


 魔城の入口はあっさりと見つかった。
 ぐるりと回るとあまりに大きな円柱が二つ。
 恐らく十人あまりの大人が囲っても手が届かない位の太いその門柱は、やはり怖ろしく高くそびえ立っている。
 そして、何かを待つかのような暗闇がその向こう側へと広がっている。
「もしここで引き下がったら」
 隣に居るユーカに言う。
「ああ」
「ニホンを攻撃するのかなぁ」
 いつもの笑みでミチノリは継ぐ。
「そうだな。どちらにせよ、さがるという選択肢が既にない」
 そもそもそんなつもりはない。
 ナオは斬魔刀の柄にかけた右手に力を込める。
 ぎしり、と巻き付けた滑り止めの布が軋み、斬魔刀の重みが消え失せる。
「行くぞ」
 そして門柱の間の闇へと、足を踏み入れた。
「あ〜」

  ばたぁん。

 あからさまに大きな、まさに扉の閉まるような音がして。
 一瞬闇に包まれる。
 ぼ、ぼっと炎の灯る音と共に、周囲が明るくなる。
 ナオとユーカは真っ赤な絨毯がしかれた、大きな城の中にいた。
「……ミチノリ?」
 そう。
 二人だけそこにいた。
「またかよ、おい」
 振り返るがそこにあったはずの入口は、何故か遙か向こうまで伸びる赤い絨毯の廊下へ。
 周囲はいつの間にか、暗闇を削り取ったようなただひたすら暗い城内。
 闇を蝕むのは不自然な焔、それを点すランタン。
 どこからどこまでも不自然なのに、作りつけの芝居の背景のようなリアリティがそこにある。
「……放って置くしかないだろ」
 ユーカにもどうやったら出られるのか思いつかない。
 色々パターンは考えられるが、果たして出る必要があるのだろうか。
――時間的に……
 幾らでも時間があるように思える。
 でも本当に時間があるのか、その確たる保証が存在しない。
「そう……だな」
「なんだ、大丈夫だろ?」
 ユーカの歯切れの悪さに思わず首を傾げるナオ。
「いや。ああ、そうだな、こちらの方が危険だし、大丈夫だろう」
 ユーカは応えるが、引っかかるものを感じてどうしても安心できなかった。
 何かが、起こるような気がした。
「しかしここから先、どうやって進めばいいんだろうな」
「それ以前に、どうなってるんだよ一体」
 確かに魔物の大きさはかなりのものだったが、それでもこの不自然に長い廊下を説明できない。
「まあ、それは幾らでも説明できる。所詮魔物の体組織の構造やその不自然さを見れば判るだろう。自然じゃない」
 通常、同じ環境下にある生命体は、どれだけ違う存在になろうとも、どれだけ遺伝情報が違うとしても、大まかな構造は同じ。
 容貌を見れば簡単に判るだろう。しかし魔物はそうとは限らない。
 犬のような姿をしていても脳味噌の場所が違う。
 ヒトのような姿をしていても骨格が違う。
 その存在。
 その能力。
 その行動。
 全てが普通の生命体とは説明が付かない、『訳の分からない存在』こそ魔物の魔物たる所以なのだ。
「魔術師として論理的に説明できない例外。実は魔物存在そのものがその一つだ」
「んな……じゃ、魔術師って何をしてるんだよ」
 ナオの言葉に思わず肩をすくめ、微笑みを浮かべる。
「そうだな。そう言う不自然をどうやって説明しようか考えてるのさ」
 立ち止まって居ても仕方がない、と取りあえず前に進み始める。
「だから『勇者』と『魔王』の関係なんかも調べてるのか?」
「いや、それは違う。謎の一つであり、魔術師として基礎的な知識の一つとして、この世界の構造その物を揺るがす……」
 それはまず、暗闇から訪れた。
 唐突にユーカの声が聞こえなくなったと思うと、足下の絨毯も消え失せている。
 ナオはすぐに腰を落とし、斬魔刀を構える。
――来たか
 この魔城は魔物であり。
 既に魔物の腹の中にいるのだから、何が起こったって不思議ではないのだから。
「ナオ」
 びくっ。
「っ」
 思わず声を出しそうになって、斬魔刀を声の方向へ向ける。
 削りとられた闇の空間から、すいっと姿を現したのは、白い見慣れた麻の服に赤い刺繍と飾り紐をあしらった上着、赤い袴。
 そのまま神社に居ても不自然さのない『言霊師』の装束。
「どうしたの、ナオ。来てくれたんでしょう?」
「そんな、居るはずない」
 斬魔刀を両手で構え、その切っ先をぴたりと青眼に構える。
「正体を現せ、この野郎っ!」
 一気に踏み込み、手首を返すだけで一気に斬魔刀を旋回させると、肩で峰を受け止める。
 重心を中心にして切っ先を回す事で素早く刃を振りかぶって――
 止まる。
 いや、止められてしまう。
「ナオ」
 フユの右手がナオの貌に当てられて、ナオは体を動かせなくなる。
 柔らかい。フユとナオでは『何をやったとしても』彼女が一番正しい。
「ありがとう」
 そして、すいっと側に寄る彼女に何も出来ない。
 何よりこれだけ近づかれてしまえば斬魔刀は振り抜けない。
「さよなら」
「っ」
 右手をそのままに、左手が何の前触れもなくすっと彼に向かって突き出されて。
 やばい、と感じたナオが体を捻る。
 それでも右手が離れない。まるで吸盤のように動こうとしない。
 だから。
――痛
 じゃっと空気を切り裂く音がした。
 見た目ではかなり遅く感じたはずなのに、明らかに怖ろしく早い音が。
 彼女の左手が、ナオの脇腹を削っていた。
 服が、紙くずでも気軽に引き裂くようにびりびりに引き裂かれ、まるで何かを押し当てたような後を残す。
 そして、耐えきれなくなったように皮膚が裂け、内側からまくれるようにして肉が押し出される。
 塊のような赤い光沢と同時に。
 それはまるで自分の力で外に弾けようとしているようにも見えた。
「っ」
 痛いどころの騒ぎではない。
 まるで弾けるようにして体をくの字に曲げる――無意識のうちに。
 力無く崩れ落ちるナオ。
「死んで頂戴、私のために」
 すい、と彼女が足を踏み出す。
 体が反応する。
 痛みに意志が反応しない――でも、訓練された体は倒れたその状態から逃れようと藻掻く。
 ぱん、と両手が地面を突き放し、エビが後退するようにしてふらりと立ち上がると、右腕で腹を抱えてふらつきながらフユを正面に捕らえる。
「何故?ナオ、私が頼んでいるのに」
 彼女は顔色を変えない。
 ぽたり、ぽたり。
 床を叩く水滴の音。
 左手を彩るまだら模様。
 ゆるりと右手がさし上げられる。綺麗な、美しい細い指。
 決して汚れていない右手。
「死んで。判る?」
 ナオは眉を顰める。
「姉ちゃんの為なら?」
 そんなはずはない。
「……ふざけるなよ」
 姉の姿をした横暴な存在。
「姉ちゃん、ごめん。でも」
 我慢するだけなら構わない。肉全てがえぐれてる訳ではないから、出血は筋肉の締め込みだけでどうにかなる。
 そして、この両腕に構えるのはキリエの斬魔刀。
「――この魔物には我慢ならない」
 何故なら、姉は。
 フユは絶対に自分のために動こうとは考えない女性だったのだから。
 ただ姉の姿をしているから、それに斬魔刀を振り下ろすなんて事は避けたかった。
 そんな事は酷く嫌だった。喩えそれが魔物であったとしても。
 そう確信できたとしても。
 姉に向けて刃を振り下ろす事だけは避けたい。――女性に手を挙げるような真似はしたくない。
――だから謝る。
「ナオ?」
「それ以上、姉ちゃんを侮辱するんじゃねええ!」

――それでいいのよ、ナオ

 ナオは優しすぎる。フユは、魔物を恐れない彼に『恐がれ』と教えた。

 まるでスローモーションで振り下ろされる斬魔刀。

 それは物理的なモノであるのかも知れないし、『可愛らしい』魔物その物なのかも知れない。
 しかし、それ以上が今現実として目の前にある。
 だから。
 両腕にずしんと伝わる手応えのなさと岩を叩く感触に、ナオは驚くより安心していた。
 ぎん、と刃が欠ける音と、両手に伝わった痺れ。
 手応えなく消え去るフユの姿。
 それは脇腹を裂いた魔物の一撃よりも軽く、フユの言葉を脳裏に反芻させた。
 彼女に抱きしめられた感触を。

  お願いだから私の言うことを聞いて怖がりなさい

 ぎしりと彼は歯ぎしりをして、眉の間に鋭い谷間を刻む。
「絶対――赦さねぇぞ」
 意識が戻らないフユの姿を思い出して。
 しかしそれが、魔物がフユの姿を借りた事に対する怒りなのか。
 それとも、自分が感じている気持ちと感情に対する憤りなのか。
 それを理解できる程自分を知っている訳でもなければ、それを理解しようとする程冷静でもなかった。
 だから。
「まお!」
 彼は敵を見つけた。


 勇者と呼ばれる人間の英雄は何なのか。
 その解答を望むことは赦されない事なのか。
 ユーカはある種踏み込みたくない領域での話でもあった。
 キール=ツカサの研究材料であるという意味もあるが、それ以上に何か感じるモノがあったからだ。
 彼が魔術師を辞めて選んだモノ。
 俗に『マセマティシャン』と呼ばれていたそれは、魔術師とは考え方も違う、ある種異質な存在。
「おまたせしました」
 だから、彼女はこの命題から離れる事にした。
 それでも『他の糸口がないのだから』選択肢がなかった。
 何より、結果的にこの『世界』が英雄を欲し、そのために『魔王』と『勇者』を配置しようとするのは確かに判った。
 魔王の存在に呼応するように、その符帳が世界を歪める。
 いや、世界にその存在を明らかにするというべきだろうか。
 勇者が。魔王を求めて。英雄として。
「結局全て、お前の掌の上なのか?」
「まさか」
 くすくすというあんまりその場に似合わない子供っぽい笑い声が聞こえて。
 闇と思った場所から、小柄な姿が現れる。
「望姉も私も、所詮そのための手駒に過ぎないのですから」
「あら。終わり?あの怖い将軍様の真似、大分巧くなったんじゃないの?」
 魔城の一部の区画に刻まれた特等席。
 初めからそこはあつらえられていた。
 ユーカのために。
 彼女が望んだとおりに。
 キリエの殺害。
 フユの拘束。
 ここまでのシナリオを繋ぎ、精確に記述するには二人だけでは足りなかった。
 尤も強力な助っ人――それが彼女だった。
 カサモト=ユーカ。

「望姉」
 ヴィッツは不安げにウィッシュに声をかけた。
「あの……」
 時を遡る事、数週間前。
 サッポロから幾分か離れた場所にある砦、トマコマイ。
 二人は今、そこで隠れるように座り込んでいた。
「大丈夫。間に合ってるから。だからそんな顔しないで。ボクだって好きでしたんじゃない」
 気配を断って残骸の影に潜む二人。
 砦の体裁はととのえているものの、もうここは砦として機能していない。
 廃屋ですらない。ここは、『砦の姿をしたゴーレム』の、残骸が転がっているだけの墓場だ。
 折り重なるような壁と屋根の残骸の中に、二人は潜んでいる。
 ヴィッツは落ち着かずにそわそわと彼女の側で体を動かしている。
 よく見れば震えているのが判っただろう。
「望姉」
「ああん、もう」
 ぎゅ。
「大丈夫だって言ってるじゃないか。落ち着いて、落ち着いてね」
 ぼろぼろ。
 抱きしめた途端に声をなくして泣き始めて、しかたなくウィッシュはしばらくそのまま彼女を抱きしめているより他なかった。
「でも、でも」
 思った以上に彼女はショックだったようで、ウィッシュは
「判ってるって。やさしいもんね、ヴィッツ。終わったら一番に会わせてあげるから。謝らせてあげるから」
 あたまを撫でて慰めてやりながら、ウィッシュもかなり困惑していた。
 まさか、自分も動揺してしまうとは思わなかった――張本人なのだから。
 最後のはやりすぎたかも知れない。そう感じながらも、僅かな時間とはいえ、人と過ごした事に影響をされてしまった事を実感していた。
「ヴィッツは先に帰る?別に出てこなくて良いよ、ほら……そんなじゃ顔だせないし、絶対失敗するから」
 そう言う彼女は、腕の中のぬくもりばかり気になってしまう。
 自分で自分を見つめても、自信は戻らないばかりか逆に。
「何が失敗するというんだ、二人とも」
 そこに。
 まさかの油断から、無防備に姿をさらしてしまっていた。
「え」
 普通なら不意打ちを受けたかも知れない。
 気配を読んで先に逃げることだってできたはずなのに。
「……お久しぶりですね」
 ヴィッツは慌てて涙を拭いて、残骸の影から彼女を見上げる。
 世界に数名しかいないと言われている、『魔術師』、カサモト=ユーカが残骸に手を置いて、ウィッシュら二人を覗き込んでいた。
 相変わらず眠そうな顔をしている。
「そんな髪だったんだな。まあすぐに判ったが……目の色と髪の毛の色、やっぱり人離れしてるな」
 ユーカは体を起こして陽の中に身を晒す。じゃらりと言う全身が立てる細波のような音に、ウィッシュの直感は応える。
「……もしかして狙いは私達ですか」
「多分そう言うことになるかな。心当たりあるだろう」
 両腕を大きく広げる。
「『魔物が現れたらボタンを押せ』って、アキ司令に道具を貸して置いたんだ。尤も……ここでお前達と会ったのはただの偶然だ」
 声を殺した女の子の泣き声、そんなものが砦の影から聞こえてきたのだ。
 まさか魔物の二人組だなんて思うわけがない。
「ゆぅちゃぁあん」
 死角から声が聞こえた。ユーカは声の方に振り向いて、面倒くさそうに言う。
「判ってる、ミチノリ、お手柄だったんだから困らせるな」
 しっし、と言う感じに右手を払うと、小さな悲鳴みたいな声が聞こえた。
 顔が近すぎる。思いっきり鼻にヒットしていた――もちろん、わざとだ。
「はながぁ」
「五月蝿い」
 そのやりとりに、抱きしめられたヴィッツがくすりと笑う。
 少しは回復したのだろうか。
 どちらにせよ。
「出るよ、ヴィッツ」
 隠れていたって仕方がない。ウィッシュは頷く彼女を解放して、一緒に瓦礫をくぐった。
 そこにはユーカと、彼女にしがみつくような恰好のミチノリがいた。
「だめだよぉ」
「判ってるから、動きにくいから離せ」
「駄目、だめぇ。しーちゃんもつーちゃんもわるいこじゃぁないもん」
 思わず顔を見合わせるウィッシュとヴィッツ、そして苦笑するユーカ。
「悪いな、うちのは馴れ馴れしいんだ」
 ユーカが腕を動かそうとするとそれをひっつかまえてまだ彼女を拘束しようとするミチノリ。
「判ってるから離せ馬鹿!いや、もう離しても今日はお仕置きだ!今日は泣くまで赦さないからな」
 がーん。
 顔に縦線が走るミチノリだが、それでもユーカの腕に手が握りしめられていた。
「でも、でもだめ、だよぉ」
 いつもなら引き下がるのに。ユーカはそう思いながら、彼女の腕を握りしめるミチノリのふるえを感じていた。
 両目に涙がたまっている。
――この……馬鹿……
 いい加減疲れたようにため息をついて、彼の方を向いて頭を撫でてやる。
 ほとんど無意識に、ミチノリも手を離してしまっていた。
「大丈夫だから。お前のせいで話せないから、手を離せ」
「……ん」
 彼からようやく解放されて、ユーカはまず彼を逆に抱きしめる。
「さて」
 ウィッシュの方に向き直ると、彼女は苦笑して小首を傾げた。
「……当てられちゃいますね」
 ふふん、とユーカは笑う。
「まさか?ミチノリはお前達を案じているんだぞ。嫉妬するのは私の方だ」
 そう言って、びっくりしたように目を丸くする二人に微笑みを見せる。
「何をしたのか判らないが、どうせサッポロに出現したのはお前たちなんだろう」
 肩をすくめるようにして、ユーカは続けた。
「話してくれれば悪いようにはしない。もしかするとお前達より巧くやれるだろう」
 ウィッシュは何を言っているのか理解できず、二回瞬くと眉を寄せる。
「どういう……意味ですか?ユーカさん」
「魔王と勇者と、できれば、世界について知りたいと思っている。見届けたいと思っている。もし――その手伝いができるなら本望だ」
 キールの言葉。そして、あの時考えていた事はまさに今のこの状況に通じる。
 逃す訳にはいかない。
 答えに戸惑うウィッシュにユーカは続けて言った。
「……なあウィッシュ、私は、人間失格か?」
 ユーカの質問は端的で、且つ、ウィッシュにとってもしかしたら望む物だったのかも知れない。
「充分失格ですよ。ユーカさん」

「助かるよ」
 ウィッシュは酷く晴れ晴れとした笑みを浮かべて、ユーカに言う。
「お前の言っている事が本当で、充分取引に値する内容であればだ」
 ウィッシュの服の切れ端を受け取りながら、ユーカはにやっと笑みを浮かべる。
「でもユーカさん?ボクの言う事が嘘だとして、だったら誰が得をすると思いますか?」
 ユーカの顔を見て、ウィッシュは負けじとにやにや笑う。
「そうだな、嘘だと私達には不都合だろう」
「それは私も同じです」
 むっと口を尖らせたヴィッツがウィッシュの横から顔を出す。
 ウィッシュは彼女の肩を抱いて、ぽんぽんとあやすように叩く。
「そう言うことだよ。ユーカさん、嘘で得する人は、少なくともいないんだ。でも、誰かが巧くやってくれなかったら」
「……困ったものだな」
 呆れた口調でユーカは言うと、ため息をついて笑う。
 前代未聞だ。
 いや――今まで有り得なかった事ではない。ただ、余計なことに余計なところまで首を突っ込んだのがユーカなのかも知れない。
「ボクらはそのために作られたけど」
 ちらりとウィッシュは、ヴィッツを見る。
「ゴメンね。ヴィッツももう絶対駄目だもん」
「『も』ね」
 ユーカが確認するように言うと、ウィッシュは恥ずかしそうに笑った。
「あっはっはっは。……多分、今フユ将軍に会ったとしたら負けちゃって、『魔城の場所を教えられない』」
 だから助かったんだよ。
 ウィッシュはおかしそうに声を上げて笑う。
「ホント、前代未聞だよね。魔物の手助けをする人間だなんて」
「そう言うがウィッシュ。私から見れば――お前は魔物を滅ぼす手助けをしているんだぞ」
 ぱちくり。
 ウィッシュは不思議そうに瞬くと、にこりといつもの笑みを浮かべた。
「そうかもね。そうなんだろうね。でも、『魔王』に『勇者』を引き合わせる『導き手』は、システムに存在しないから」
 それは最悪のバグ。どこにも存在しないからこそ欠陥。
「できる限り自然を選んだからなのか、初めから欠落していたのか。ご存じ?神に滅ぼされた神は、本当はこの世界を支配するつもりだったんだよ」
 それを赦さなかった神は、『黄昏の猛毒』で神を滅ぼした。
「だから、もしかしたら初めから『作りかけの物語』だったのかもしれないね。――じゃ、追ってきてね。あとおねがい」
 ウィッシュはヴィッツを連れて、そのままトマコマイから下っていった。

 それが始まり。
「これからが始まりで、そして終わりですよ。あなたが望んでいた」
 ユーカは口元を歪めた。
「望んでいたのは終わりではなく、終わろうとするこの世界そのものだよ」
「変わらないです」
 ヴィッツはいつものように素っ気なく言った。


 まおは執務室で退屈そうに足をぶらぶらさせている。
 後ろに控えるマジェスト。
 二人は完全に沈黙して、ただまおがあしをぶらぶらとさせているだけ。
 こう言っては何だが、はっきり言うと魔王の待つ部屋とは思えない。
「まお様」
「んー?なーに、マジェスト」
 ふい、と彼女は笑いながら振り向く。
「できれば、今まで通り魔王陛下と呼ばせていただきたい。それがダメなら、せめて」
「なにまじー。今まで嫌がってたくせに」
 まおはけらけらと応え、再び前を向く。
「それともなに。やっぱり変かな?変だよね。いきなりこれじゃね」
 マジェストは彼女が今までのまおと違う事には気付いていたが、今までの魔王とも違うことに気付いていた。
 まおが全くの別人である可能性はあったが、それは違う。
 まおの記憶がある別物である――そうでなはい。
 まおそのもの、今までのまおが『違う物』だったのではないか。
 もしかすると魔王という存在は――
 だがマジェストの思考はそこでストップする。
 そしてリセットされて元に戻る。
「変ではございません、陛下。陛下は私をからかって喜ぶ性格でしたから」
「なによー、それじゃホントにただの嫌な奴じゃん♪」
「ただの嫌な奴ではございません。本当に嫌なお方です」
 むと眉を寄せて振り返るまおの前に、マジェストはいつものように直立不動で。
 どこか優しい顔をしていた。
「私は今までずっと振り回されておりました。魔王陛下はまお様であり、魔王ではないとするなら、――どなたなのでしょうか」
「だれだって?そりゃ、私はまおだよ?ずっと色々放置してたからね。そろそろ何とかしなきゃなって思ってるの」
 本当に色々。それこそ言葉で言い尽くせない程沢山の様々な事。
 今更と考えること。
 人間のこと。
 そして何よりこの世界のこと。
 今まで繰り返してきた戦いのこと。英雄の伝説のこと。
 そして、この未完成な世界のこと。


 今よりも狭い執務室。
 体に合う椅子と机。
 そして、その前で佇む、りりしい顔をした男――人間。多分、彼は勇者。英雄。魔王を倒す為に顕れたもの。
 その古い風景の中は不気味なほど静まりかえっていて、血臭が漂い、そして魔王は草臥れた笑みを湛えている。
 頬杖をついて。
 魔王と勇者。
 まさに今、その雌雄を決する時。いや――魔王はこの人間の手によって滅ぶべしと考えている。
 何故。
 他人の記憶のようなそれを、まおは思い出そうとしていた。

「神は居ない」
 魔王は足を組み、執務室にマジェストを呼びだして話していた。
 幾分かマジェストより体格が良く、威厳が感じられる程年をとっているように見えないが、間違いなく先代の魔王だ。
「は。魔王陛下」
 恭しく一礼する。今のマジェストを考えると、あまりに違和感を感じる仕草である。
 姿形が変わらないだけに特に酷い。
「人間は辿り着いたか」
「いえ、有り得ない――とは言い難いのは確かで御座います。最初にかけてしまった物を取り戻す手段もございませんからな」
 マジェストはその姿勢のまま言うと、面を上げた。
 魔王はふむ、とため息をついて、組んだ足の上で両手を、指を絡めて合わせる。
「マジェスト。そろそろ勇者が幕引きにくる頃だろう」
「その通りで御座いますな」
 その割に落ち着いた口調で、焦りも何も感じていないようなどこか気怠げな雰囲気が漂う。
「今回はここで待ち受ける。そのつもりで頼む」
「承りまして御座います魔王陛下」
「それと」
 魔王は言葉を継ぐ。
 今伝えなければいけない内容だ。もう、死ぬ事がはっきりしているのだから。
「そろそろ人間共もそれなりに力を付けてきている。……いつの間にか、危険な手段と引き替えに様々な力を得ている」
 そもそも魔法は魔物にしか扱えない物だったはずなのに、数人とは言え、人間の中に魔法を使う物が居る。
 言霊とは比較にならない、強大な魔力だ。
「『マセマティシャン』の事で御座いますか」
 マジェストが聞くと、魔王は鷹揚に頷き、そのままううんと唸る。
「奴らは我々と敵対している。尤も忌むべき存在だ」
 奴らは天使に気づいた。
 天使をばらしてこの世界により深く潜り込もうとしている。
 危険な存在だが、彼らは『神々』ではない。だからこそ、魔王は弱っていた。
「『黄昏の猛毒』は我々にとっても猛毒だ」
「おっしゃるとおりでございます」
「シコクの閉鎖が不充分かも知れないか?……ああ、困った」
 魔王は頭を抱え込んだ。こういう姿を見ることができるのはマジェストだけだった。
 酷く苦悩した彼の顔。
 何故魔王が苦悩するのか。それも、たかが人間如きに。
――いや、それは矛盾していない。人間だからこそ、彼は胸を痛め、頭を抱えるのだ。
 軍団を前にしてはとても見せられない光景だが、これが神の定めた摂理なのだ。
「陛下」
「マジェスト。貴様はリミッターが有るはずだ。……しかし、お前に匹敵するだけの魔物もいない。であれば」
 彼は腕を組んで胸を張る。
 長身のマジェストですら、魔王の身長には敵わない。
「こちらも『切り札』を持つべきではないか?」
 切り札。
 強力な隠し武器、圧倒的で逆転のチャンスを得られる懐刀。
 しかし性質上、それを大量に持つことは出来ないし、使い捨て――まさに切り札だ。
「御意。早速準備に取りかかります」
「頼むぞ。人類に変化があったから、この俺にも変化が訪れたのだろう。……恐らく、この記憶は留めるのが難しいだろうしな」
 マジェストは訝しげに眉を寄せると首を傾げる。
「それはありえません、陛下。記憶は連綿と繋がるもの。それを遮る事など」
「有り得ないか?今までの俺と違う俺になってしまえばそれは否定できない。自分の考えだからこそ、記憶は後から再生する事は簡単だったんだ」
 全く別人の記憶を得たところで、それはただの邪魔なデータの塊に過ぎない。
 データの羅列は理解できたとしても、記憶のような正しい状態で認識できるとは思えない。
「人間に対応するため、俺は余計な事を知りすぎた。――多分、魔王としてもおかしい状態ではないか?マジェスト」
 マジェストは返答に困った。
 本当なら嘘でも即答すべきだったのかも知れない。
 そう思い返しても遅い。その彼の僅かな沈黙が肯定を指し示すことだってあるのだから。
「俺には魔王は合わんよ。無理だ。似合わないスーツを着こんでるようなものだ」
「馬子にも衣装という言葉がございますよ」
 魔王は吹き出した。
「それは間違いだろう、マジェスト」
 気付いてマジェストも笑う。が、彼は本気だった。
「陛下。似合わないと思って着こなしていていいんですよ。間違いではございません」
 そうするより他、存在意義などないのだから。
 そう。
 それが魔王。――定めと言うので有ればあまりに哀しい定め。
 魔王は苦笑を浮かべたまま、どっかと背中を背もたれに沈める。
「……だからだ。……マジェスト、お前には世話をかけることになる」
 彼がそう言って僅かに目を閉じると、マジェストは優雅に一礼する。
「構いませぬ陛下。このマジェスト、何時いかなる時でもいかなる状態であろうとも、魔王陛下を導く存在」
 彼の言葉を聞いて、魔王はふん、と鼻を鳴らした。
 マジェストは本気だ。彼の言葉に偽りも間違いもない。
 だから、だ。
 魔王は大きなため息をついて、顔を上げた。
「ではこの馬子は、似合わぬ衣で勇者を待つとするさ。今回の勇者は、どうなんだろうな」
「既にアクセラを突破した模様で御座います」
 そうか、と呟き、眉根を揉んだ。
「では急ぎ対勇者用魔物の製作に急げ」
 は、と答えてマジェストは引き下がった。
 表向き、人類の中から勇者を摘出し始末するための隠密性の高いユニット。
 いわば勇者暗殺を果たす為の魔物。
 しかし実際には違う。
 切り札――魔王が考えている最悪のシナリオを回避するための『システム』。
 正確に言えば、今回はまだ何とか話が収束したものの、次回は全くの未知数。
 これ以上人間が「ひみつ」を知ってしまえば、困ったことになるだろう。
 既に黄昏の猛毒は解析が終了してしまっている。人の手には負えないはずのそれを、使おうと躍起になっている。
――それは神の意図に反する。神の愛に対する反逆だ
 そのためのシコクだったというのに。
 全く、母はとんでもないおまけを残してくれた物だ。
 魔王は呆れたように大きくため息をついて、全身から力を抜いた。
――余計なことを知らなければ、俺ももう少し楽に魔王をやれたんだろうが
 人の変化というものを知れば、自ずと変化の必要性に迫られる。
 それだけのことだ。
「さあ、勇者よ、どうでる?」
 しかし魔王は、その日のうちに滅ぼされた。『黄昏の猛毒』によって。

 魔王は、その日を最後にして完全に滅んだ。
 魔王を埋め合わせる必要性がそこに生じた。
 だが魔王存在は既に、『黄昏の猛毒』により半壊してしまっている。たとえ魔王そのものが『魔王』とは違うと言っても。
 少なくとも元に戻す方法と、元の彼を生じる方法はなかった。
――だから
 まおは。その時、魔王を選んだ。人々を救う、その手段になると信じて。


 がたん、と大きな音がして、周囲が闇に墜ちる。
 同時。
 まるで初めからそうであったかのように。
 閉じていた目を開き、薄明かりに目が慣れるように。
 ナオは薄暗い石造りの廊下に立っていた。
 かび臭い匂いと、ランタンから薫る獣油の臭い。
 壁に揺らぐ影の形が描く凹凸が、現実感をゆっくりと失わせる。
 足下が不安定なように感じる。
 そんな歪な空間。
 彼の足下には、今まさに突き立った斬魔刀によりえぐれた絨毯がある。
 染み出してくるような朱(あか)。緋色が酷く欠けた暗い暗い紅(べに)。
 距離感が狂うような暗さから感じる孤独。
 だがナオは迷う理由はなく、そして惑わされる事もない。
 否。
 既にそれが惑いなのかも知れないのに。
 迷うことなく足を踏み出す。
――どうせ、俺を待ってるんだろう?
 ならこれは誘いだ。
 これが魔王流の歓迎なんだ。
 ナオは自分の足の裏に感じる絨毯の感触と、耳に届くさくさくという極めて小さな音に引かれるようにしてゆっくりと廊下を進む。
 他の何も感じない。
 風も吹かず、音もせず、ただひたすらに続く廊下。それは距離感も時間も失わせる。
 その中を右手に提げた斬魔刀の重みを感じながら歩く。
 重く遠い道程。
 何時までも同じ風景が続くだけなのに、何故かどこまでも深みへと落ち込んでいくような錯覚。
 振り返りたくない。その瞬間に何かが待ち受けているかのような感覚。
 このまま歩いて、たどり着く場所はどこなのか。
 間違っているとは思えない。思わない。魔王が自分を呼んでいるのだとするのであれば。

「流れ的に言って、案内を出すのが適当なのよね」
 まおは腕を組んでくるりと振り向く。
 マジェストは彼女の後ろですっと跪く。
「は。いかように」
「そーねー。私が直接出向くか、それともやっぱ、ほら、『してんのー』とか出すとか」
 四天王は一応居る。実際彼らはそのために待機しているようなものだ。
 だが彼女の口振りを考えれば、それをするつもりはないのだろう。
 マジェストもあえて何も言わなかった。
 まおは様子を窺うようにちらりと後ろを見て、そしてくりんと体を一回転させる。
「じゃ、まおうらしく罠をはろうか」
「は」
 にやっと笑みを浮かべる。
「ほら。なんだっけ。強い奴をたおすと魔王を倒せる武器が手に入るってイベント、おやくそくぢゃん」

 おぉおおおぉぉぉぉぉんんんんん……
 ナオは目をつり上げた。
 静寂を打ち破った声が彼の前から地響きのように鳴り響いた。
 唐突に現れた――本当に、何もない虚空からいきなりそれは牙をむいた。

  ごぉうっ!

 左腕に衝撃。
 腕が弾けて体が錐もみ状にねじれようとする。
 足下がもつれて、一気に真後ろが見えた。
 そこで大きくたたらを踏み、偶然体のかしぎが停まる。
 だがそこまで。完全に背中を向けた彼は、もう一度何かの衝撃を受けて今度こそ前のめりに倒れる。
 ごろごろと転がりながら、彼は何が起こったのかを把握しようとした。
 しかし、自分の状況すら把握しきれないままに、地響きのようなうなり声が聞こえた。
 体に当たるなま暖かい風――それは、呼吸か。
 やっと自分が地面に俯せになっていることに気づき、両手で体を弾き態勢を整える。
――!
 斬魔刀がない。
 そんなはずはない、と僅かに隙を見せたのが致命的だった。
 真正面からそれが襲いかかった。
――何なんだ一体!
 体に当たる風圧。
 なのに――何も、いない。何も見えない。そこに存在するはずの脅威が見えない。
 全身を走る衝撃に彼は当然の疑問を抱いた。
 今度は無様に転がりはしなかったが、崩れた態勢から立ち直るまでの僅かな時間が必要だった。
――どこだ
 殺気の出所を探る。
 これがもし実体のある魔物ならば、必ずどこかにそれはあるはず。
 さもなければこんな幻みたいな攻撃、ありえるはずがない。
 再び、咆哮。
 同時。

  轟!

 彼は姿勢を思い切りよく倒し、地面を這うような勢いで地面を蹴った。
「!」
 すると思いの外軽い感触が彼の肩に触れ、同時に悲鳴のようなものが聞こえた。
 勿論身体を支えられるはずもなく、そのまま地面に転がるナオ。
 地面は石畳のはずなのに、妙に柔らかい感触に彼は倒れ込んだ。
 右手に――斬魔刀の感触。
「――、は、離れて下さい」
 頭の上から声。
 僅かに顔を上げると、目の前に衣服。いや。何か中にある。
「うわっ」
 がばりと全身を起こして気づく。
 今、彼は少女を押し倒している恰好になっていることに。
「……ヴィッツ」
 一瞬の罪悪感と同時に浮かぶ疑問符。そして、訝しげな顔をして、彼は斬魔刀に左手を添える。
「さすがにそこまで頭が弱いわけではないのですね」
「さらりと酷いことを言うな」
 だが今の科白で、ナオは確信した。
 まお、ウィッシュ、ヴィッツはいつも一緒にいた。
――だから。
「『魔物』だったんだな」
 びく、と貌を引きつらせた。
 そして、汚いものを見るように、酷く嫌そうに貌を歪める。
「そうです。それがなにか?」
「まおもだけど……話して、判る相手だと俺は思っていた。……」
 右腕が震える。
 掌に汗が滲む。
 斬魔刀の重さが気になって、指が震える。
「話して?理解し合える?」
 ヴィッツは言葉尻を上げて、それこそ――挑発するように甲高く叫ぶ。
「私達とあなた達が?まさか。異質すぎるのに理解はできません。せいぜい、行動の予測ができる程度」
 人とは違うのだから。
「何故貴方に近づいたのか。――理由は簡単、まお様に近づかせないため」

  ごぉおおおおん

 一瞬ヴィッツの姿が歪み、陽炎のような渦が彼女の周囲に走り、先刻から聞こえていた獣の咆哮のような音が響く。
「結局まお様は貴方を勇者として選んだようですから、結論は同じでした」
「まてよ!俺、お前に剣を向けたくな」
 ぱしゅ、と空気が引き裂かれた音。
 殆ど本能的に避けたが、目の下から耳にかけて朱の筋が開き、ゆるりと膨らんだ赤い粒はたらりとおとがいに向けてこぼれる。
「……ヴィッツ」
「どうしたのですか。私は先刻からずっと貴方を攻撃しています。かかってきたらどうですか」
 右手をついと肩の高さに前に差し上げ、たらんと右手の甲を見せるように人差し指を下に向ける。
「――折角だからジュースの代わりに、ナオ、命もらえないかな」
 口元を歪めて笑みを――嫌らしい笑みを浮かべる。
「っ!」
 同時、彼女の右手が翻った。

「魔王陛下。どちらを罠にするおつもりですか」
「勿論両方だよ?あったりまえぢゃん。どうせ『あの人達』の隠しプログラムの一部は解析されてるんだよ。今更幾つ渡したところで同じ」
 既にウィッシュを通じてヴィッツには連絡が入っているはず。
 もしかすれば、もう戦闘状態に入ったかも知れない。
 そんな時だ。
 まおとマジェストは既に執務室を出て謁見の間にうつっている。
 ここにある異様に背の高い玉座に座ると、まおの小柄さがより引き立ってしまう。そんな場所。
「しかしながら陛下、次もう一度黄昏の猛毒を食らっては、このシステムその物が崩壊します」
「そうね?それもいーんぢゃない?まじー。私はね、そんな小さな話をしてるんじゃないの」
 まおはマジェストににっこりと笑みを浮かべてみせる。
「私はね。まだ本気で人間を救うための世界を組み立てなきゃいけないんだっておもってるんだ。ただそれだけなんだけどね」
 まおはふん、とすこし得意げに鼻を鳴らして腕を組む。
「どうせ、私が作ったこの世界も、『あの人達』に作らされた偽物の天国」
 初めはそのつもりではなかったのに。
「0からつくりなおすために、眠りにつくのもひつようなんじゃないかな。どうせまだ――」
 まおは、一瞬笑みをかげらせる。
「まだそとにはでられないんだからさ」

 多分、本当なら今の一瞬でけりはついたのだろう。
 かいん、と甲高い音がして手のひらより大きな金属片が石畳をはねた。
 斜めに切り裂かれたような、斬魔刀の切っ先。
 ばくんと大きくえぐりとられた斬魔刀は、ナオが握るには少し軽いぐらいになってしまっていた。
 キリエの特注品であるこれは、今のように切っ先がない状態でちょうどバランスがとれている。
 ナオがとり回すにはちょうどいい重さと重心の位置に。
「……今のは」
 だが、決して狙っていたわけではない。
 青眼に構えた格好のまま、彼は立ちつくしている。
 ヴィッツを目の前に。
 彼女は右手を突き出しているような格好で、地面にへたり込んでいる。
 右手には黒い、ちょうど柄だけの剣のようなモノを握っている。
「E.X.って名前は聞いたこと、ありますか」
 ヴィッツは泣きそうな顔で、身体を震わせている。
 いつか、フユに追いつめられた時のように。
「――存在を削り取るこの世で最後の武器です」
 なのに。
 なぜか彼女の方が追いつめられているように見える。
「総てを消し去ることのできる最終兵器」
 Extirpater of eXistence――それはその形態から名付けられた後の名前。
 そして。
「前の勇者が魔王を倒すときに使った武器です」
「……なあ」
「なんですか!」
 訂正する。完全に立場は逆転している。
 つい先刻まで強力な術でナオを翻弄しているように見えたが。
 今は完全に茫然自失――いや、E.X.の威力に驚いて動けなくなった少女がいるだけだ。
 しばらく切っ先の短くなった剣を構えて彼女を見つめていたが、肩から力を抜くと剣を降ろす。
「やめだ。ばかばかしい。どうせ中ボス気取りの魔物なんてさ、やられ役なんだろ」
 思い出す。
 子供の頃に飽きるほど聞かされた『勇者』と呼ばれた英雄達の物語を。
「勇者を引き立てる為の魔物。――実際そう言う物ばかりだったような気がするぜ」
 名前ばかりやたらとごつく、いかにも強そうな。
「な。なんですか。何を根拠に言い切るんですか」
 やっぱりE.X.を突き出したまま、もう殆どだだをこねて貌を赤くしているレベルのヴィッツ。
 『泣いてる?』『泣いてません!』と激しく泣いているパターンだ。
「お前。俺を殺す気ないだろ」
 沈黙。ヴィッツは顔色を変えず(既にくしゃくしゃで変わりようもないかも知れないが)やっぱり拗ねたような貌で応える。
「でも私は」
「キリエに化けてたんだろ」
 先刻までの見えない化け物の攻撃。
 そしてE.X.でへたりこむ彼女を見ていれば――それが幻であったのだろうと想像するのは難しくない。
 キリエと二人でしか知らない事を彼女が知っている限り、その推測は揺るがない。
 ナオはばかばかしさを感じて頬をかく。
「なんだよ。俺に一体何をさせたかったっての」
 赦す赦さないではない。
 人の生死をもてあそぶのが魔物であるというのであれば。
「……魔物と人は理解し合えないか。確かに俺はお前らが何をしたいのかわからねーよ」
「あのっ」
 背を向けようとする彼に、慌てた声で叫ぶ。
「あのっ!キリエさんは本物ですっ!私の幻じゃありません!」
「……あん?」
 第一私の術は幻ではありません、と小さな声で繋ぐと続ける。
「正真正銘、キリエさんを切り刻んだものです。――貴方の姿で。約束は夕食前、男子寮裏」
 ナオの貌が凍り付く。
「えさ、ですよ。こうでもしないとナオさん、連れてこれなかったと思っています」
 そして再び、にっと口元を吊り上げる笑みを浮かべた。
 でも、落ち着いているのは貌色だけだった。
 死にたくない――そんな気持ちなどない。
 ただひたすら目の前で、それが目的でなければならないのに、ナオが安堵に逃げ込もうと足掻く姿が痛い。
 敵意を持たれなければならないことが辛い。
 少なくともキリエへの変身は比較的巧くいったと自分でも思っている。
 できればあのままでいたいと思える程、完璧だった。
 だから、ナオをぶち切れさせるのは簡単だ。
「あの女、嫌いだったんですよどうせ。前一緒にいたときからずっと殺してあげるっておもってました」
「思ってたら何で」
 ほとんどかぶせるようにナオは呟く。
「なんでずっと一緒にあの時旅ができた。お前ら、五月蠅かったけど仲は良かっただろ?あれも演技だったっていうのか」
 ナオには幾つか疑問がある。
 でもその最たる物は自分の中にある自分の気持ちだった。
 判らない、でも。これだけ人間と同じ姿で同じ言葉を話す物が、どうして通じ合えないのか。
 それこそありえない。
 今こうして敵対しなければいけないなんて、多分間違っている。
 そう思う自分が判らなくなっていた。何故そう思うのか、キリエを殺したと言っているのに。
――いや。多分どこかでソレを否定しているから。
「俺は信じる。キリエは殺されたりしていないんだろ」
 明らかに殺せるはずがない、目の前のこの少女が幾ら自由に変身できるとしても。
「お前は人を殺せない」
 殺せるなら。
 既に殺す気でいたのなら、E.X.でへたりこんだりしない。
 したとしても素早く次の一撃があるはず。
 ソレが目的ではないのであったとしても、ソレを信じ込ませるだけのはったりすら感じられない。
「……うっ」
 ぼろ、と両目からにじんだ涙。
 あとは止めようがなかった。

 結果的に泣かせてしまって、ナオはあんまり気分が良くなかった。
――まおの奴、本気で魔王なんだろうけど
 完全に毒気を抜かれて、先刻までの勢いづいた感覚までなくなってしまっていた。
 所謂中だるみというあれかも知れない。
「こんな女の子が中ボスなんだから、大概だよな」
「こんな女の子って、どういう意味ですか」
 きっと睨み付けてくるが、ナオは右手をひらひらさせて応える。
「そのまんまの意味だよ。ま、本当は正体がばれるなんて手際にはならなかったんだろうけどね」
「そのとおりだよ」

  ぶぉんっ

 激しい空気を裂く音と、強烈な衝撃にナオは再び空中に浮いた。
 背中が反っくり返って、一気に頭の中が白くなる。
「予想以上の活躍をしてくれたね」
 石畳に叩きつけられる痛みに顔をしかめる。
 耳に届く棘のある声に身体を起こすと、ヴィッツの側に長身の女性。
 見覚えのある人影にナオはにっと笑みをうかべ、斬魔刀を杖代わりにして立ち上がる。
「ウィッシュ。もしかして黒幕の登場かな?」
 余裕の有る声で言うが、勿論余裕などない。
 既に全身が打撲で痛み軋んでいる。
「いいえ黒幕なんかじゃないよ。判る?このボクがで張らなきゃいけない緊急時を、キミが作っちゃったってこと」
「……それってつまり」
 何となく嫌な予感がして、喉をごくりとならしながら聞く。
 ウィッシュの目つきが悪い。所謂逆三角目。
「ボクの可愛いヴィッツを泣かせたって事だよ」
 うふふふー、とどこかこわれた笑い声を立てて、彼女は両手に尋常ではない魔力をまき散らしながら近づく。
「……えと。うぃっしゅさん?その、つまり?」
 見えた。
 いや、本来『力』と言う物は見えるような無駄な動きやエネルギーは一切与えてはならない。
 だが多分ウィッシュは今抑えが効いてない。
 そもそも魔物というのは、魔術を憶える必要がないほど、魔力その物のキャパシティが大きい。
 まあぶっちゃけ。
「うわぁっ」
 高密度の魔力塊がナオの目の前を疾り、かろうじて直撃を避けられた。
 見えたと言ってもソレがなんなのか判らない。丁度、レンズで向こう側を見るようなイメージで。
 側を通るとき、それはまるで静電気を帯びているかのような音を纏っていた。
「うふふふふふ」
 音もなく彼女の両手が歪む。
 いや、歪んで見える。
 両掌をこちらに向け、僅かに肘を内側に向けるように逸らせているような恰好で。
 かつかつと堅いヒールを叩くような音を立てて近づいてくる。
「ヴィッツを本気で泣かせたのはキミで二人目だよ、ナオっ」
「やめなさい」
 一瞬そこにいた全員が凍り付いた。
 勿論文字通りの意味ではない。
 唐突に、何の派手なエフェクトもなく、具体的には初めからそこにあったのに気づかなかったかのように。
 こちらを向いたナオと、彼を見つめたウィッシュの間の何もなかったはずの空間に。
「それ以上は赦さないからね、ウィッシュ?」
 いつもの白いワンピースに身を包み、にこりと目許を歪めて明るく笑顔を湛える亜麻色のツインテール。
 風もなくまるで水中で漂うかのように揺れる彼女の髪は、間違いなく高密度の魔力を帯びている。
 いわば何にも変換されずそこに存在する『だけ』で、ただ失われるだけの魔力。
 だからそれは、それこそは彼女――魔王にだけ赦された装飾。
 いかな魔物と言えども、そんなに無駄に魔力を放出し続ける事は不可能なのだから。
 しかしこの魔力の海に囲まれる魔王は、だからこそ不死身にして無敵。
 この高濃度の魔力は彼女の意志により様々な『色』を与えられて姿を変える。
「せめて派手な演出込みで登場してください。一応は魔王陛下は、我々のボスなんですよ」
「あなたもね、ウィッシュ。芝居、下手だよ」
 まおはまるで子供のように無邪気に笑い、彼女にそう伝えた。
――はは
 ウィッシュはくりんと輪を描くツインテールを眺めながら、苦笑ともとれる笑みが抑えきれないのを自覚していた。
――さすがにやりすぎたかな
 でもこれで、求められた結果は最大限度だ。
 もうヴィッツには何もできない。
 ウィッシュの介入は既にもう、手詰まりを表している。
 ナオにばれた段階でもう時間的にはぎりぎり間に合わない状態とも言えるのだ。
 悠長に罠だのなんだの、話している暇はない。
 勿論この連載も微妙に巻き入ってるのは言うまでもなく。それは言わない約束を踏まえた上での条件付きで。

 魔王は、勇者と対峙する。

 今度こそ、完全に一対一。
 いや、後ろにいるのはギャラリー、否、既に通り過ぎた道程。
「ごめんね」
 しかし、魔王は言った。
「それでも、ナオがどれだけ信じていてもいなくなったものはもう生き返らないんだから」
 笑顔で。
「私が殺した。キリエを」
 ナオの希望に止めをさした。
「おかしくない?あれだけずたずたに切り裂かれて生きてる人間いる?あはっ、そうじゃないよね」
 ついっと引き絞られる目。
「そうじゃないよね」
 声色は変わらないのに、突然周囲が凍てつくように錯覚させるような抑揚。
「ねえナオ?あんたまだ信じてるんだぁ。自分が夢の中にいるなんて。まさか」
 くすり。
「今もまだ、醒めない夢の奥底で横たわってるってのに、今更夢?はん、それこそバカにしてない?ねぇ、ナオ」
「ま……」
「夢の中で夢を見るほど貴方は脳が緩いの?」
 反論も、まして彼女がいつの間にか近寄っているという事実に反応するよりも早くまくし立てる。
 早くなければコレは意味がない。
 物理的距離が近い事は言うまでもなく影響力が強いのだが、それだけ逆に感づかれるおそれも高くなるのだから。
 まるで恋人同士がテレパスでもあるかのように感応するのと同様に。
「ここは既に夢の中なんだよ?」
 再びくるんと身体を回しながら彼女はナオから離れる。
 くるん、くるんとひねりながら彼の前で軽やかに舞う。
 反転するたび、まるではねるように
「指示は私。お膳立てはヴィッツ。止めがウィッシュ。貴方、目の前に大好きだったはずのキリエの殺人実行犯がいるのよ?」
 そこでにやりと笑みを湛える。
「貴方の知らないところでキリエさんはばらばらのずたずたの肉塊に変えられました。犯人は私。さあ、どうする?」
 右手をすちゃっと掲げると、そのままついっと自分の前に降ろしながら右の膝をついて項垂れる。
 顔を上げてぺろりと舌を出すと立ち上がる。
「夢?夢ってなんだよ、それに……まお、お前」
 まおの一人芝居のような道化に、思わずナオは状況も理解できずに聞いた。
 立ちつくして。
 彼女のあまりに変わり果てた様子に。
 そして、自分の行動の『無意味さ』を理解できずに。
 まおはただ笑う。
 立ち上がって。
 無邪気な雰囲気のまま、冥い表情で。
「そう。私は魔王。あなたは、私を倒しにきたんじゃなかったっけ」

  どん

 まるで風が吹き付けるような感触がしたと思うと、続いて水の中に放り出されたような錯覚を覚え。
 それは、まおが魔力を放出――いや、その場を魔力で『満たした』結果だった。
 魔力とは一時的にソレをためるコンデンサのようなものに封じておかなければ拡散して消える。
 だからこそ『命の雫』のようなものに詰め込む事で人間は強大な魔法を操る。
 しかし同程度の密度の魔力を、今のまおのように空間に放出し続ければ、何も何年も貯める事なく同等の事を行うことができるのはいうまでもない。
 つまり今ナオは――刃物で全身を包まれているのとほぼ同じ条件にあるといってよかった。
 でもまおにとっては、まるでナオを抱きしめてるのと変わらない。
 満たした魔力の隅々まで自分の意識を満たすことが出来るのだから。
 彼の心臓の鼓動も、呼吸も、血流も、肌のふるえもひきつりも、汗のにじみすらもわかる。
 それが彼女にとっては偽りの命であると判っているのに。
 あたたかくて、大切に感じられて、安心する。

 こんなにも離れた位置で、こんなにも身近に感じられて。

「あなたは――私を倒せるの?」
 なぜかうれしくて、涙がでそうな程に感極まって。
 ウィッシュがヴィッツに割り込んだ時にはすでに決まっていたから、判っていたから、それがウィッシュとの取り決めの一つだったからこそまおは上機嫌だった。
 勇者がまおの想定していた一番うれしいシナリオの上に乗っかっている今のこの事実に。
 間違いなく喜んでいた。
――だから何の気負いもなく全力で。
「えい」
 まおはただ右手を動かしただけだった。軽く、とんと掌底で扉を押す感覚で。
 だがナオにとってはそれは、全身を巨大ななにかで叩かれるのと同じだった。
 鳩尾を中心に、彼の身体がびしりとつっぱる。
 まるで大きなボールを抱かされたような、不自然な恰好。
 だのに両脚は地面から離れない。両脚は地面に釘付けにされ、引っ張られている。
「がぁあああっ」
「ほらほら♪がんばらないと」
 彼はその場から全く動いていない。
 動こうともしていない。
 しかし、真後ろに押される感覚と、両腕両脚を引っ張られる感覚は本物だ。
 丁度人形をつまんでもてあそんでいるような。
 びきびきと全身の筋が伸びきるような感覚。
「そうそう。そう言えばさ」
 まおが小さく首を傾げる。
 右手の人差し指で頬を押さえて。
「貴方のお姉さんだったかな?この城の外にいたのは?」
 一瞬全身の感覚が消える。
 それは錯覚。しかし間違いなくナオの意識が総てその言葉の続きを促す。
 貌が引きつる。でも声にならない。
「一人であんなところにいて大丈夫かな?」
「あぁああっっ!」
 反る。首が反り返る。
 まだ力が加えられる。
 逃げるだけの余裕がある。
 気づいたのか無意識なのか――ナオはさらに背を反らせて拘束から逃れようとする。
 いきなり拘束が解ける――そこまでためられていた自分の力で一気に反っくり返る。
 ごろん、と床に投げ出されると、何も考えずに床で一回転して立ち上がる。
 だが眼前に――一気に接近するまお。
 くすり。
 小さく笑う彼女の口元だけがアップになる。
 嘲笑を湛えた彼女の口元だけが――
「――ぐ」
 背中に衝撃。
 何が起こったのか、既に視界だけで理解する事はできなくなっている。
 音?いや、方向感覚が戦闘中になくなっている。
 今のナオには全身の皮膚の感覚だけが鋭敏になったような状況だ。
 判るのは気配――自分とまおの距離感覚しか既にない。
 石畳という不安定且ついい加減な足場すら、雲の上のように掴めず。
 最初からもみくちゃに振り回されてしまったからか、三半規管が多分麻痺している。
 水平感覚もなくなっている。
 そんな、まるで着色済みの明度の高い闇の中で、ぞわりとした水のような感触が忍び寄ってくる。
 中央、水を操る塊がいる。
 それがまおで、明らかに彼女が自分目指して走り寄ってくるイメージ。
 判っていても体は言うことを利かない。

 それは明確な死のイメージ。

 ずどん、と音がしてまおの右手が頬をかすめ、左腕で胸元を押さえつけられて、壁に組み付けられた格好になる。
 両膝をついた格好で、完全に動けないナオを見下ろす格好のまお。
「勇者ってさ」
 左手であごを掴み、真正面からナオを見つめる。
「そう言う責任のなかで魔王とた立ち合うんだよね」
 平和とか。
 ヒトの命とか。
「自分の中にある何かと向き合う事が出来なければ、棄てるモノを選べなければ私は」
 右手で、表情から力のなくなっているナオの貌を撫でる。
 あごから、鼻、額を前髪を払いあげてそのまま顔を被せるように。
「ぉ!んんん!」
「戴くからね」
 両手を離す。
 その時、久々に重力を思い出したナオの体が床に向かって落下する。
「ぜんぶ。世界も、何もかも」
 キミの命も。
「別に逆らってもいいわ。それぐらい赦したげる。だって、私は魔王なんだから」
 すっと彼女の体が離れる。
 視界は真っ暗で、赤い絨毯を引いた石畳が眼前にある。
 毛羽だって頬を差す絨毯でも、今は体を起こす事が出来なくて、むしろ気持ちが良い。
「ナオ。キミは――可愛いよね。ずっと側に居てもいいよ。キミは大事にしてあげる」
 一歩さらに遠ざかる。
 ナオは立てない。
 叩きつけられるという事は、全身の筋肉がそのたびに収縮するため、非常に疲労する。
 恐らく今のナオは疲労の蓄積がピークに達していて、全身の筋肉が悲鳴を上げているのだろう。
 だから動けない。
「でもね」
 まおは重ねて言葉を紡がなければならない。
「他の人はじゃまだよね。キリエはもういないから、あとはやっぱりおねーさんだよね」
 まおはナオが動かないのを確認するように一呼吸。
 そのままくるんと一回転して、髪の毛が収まるのを待つようにぴょんと足で跳ねる。
「ウィッシュ、ヴィッツ?たしか、フユの事良く知ってるよね?お願いできるかな」
「御意」
 すっと頭を下げる二人。
「ナオ、あなたは」
 くりっと頭だけナオに振り向いて。
 そこで、小さな衝撃と体の中心から広がる冷たさ。
 けふ。
 げっぷのように押し出された胸の中の空気。
 口の中に広がる鉄の味。
 背中に密着する気配。
 顔は見えない。丁度背中側だから、貌を見せなくて済む。
 自分の体は触らなくても判る。
「も」
 けふ。
「……もう少し、丁寧にやってよね」
 がら空きの隙だらけの背中からの一撃。
 この感触なら鉄製の刃、それも切れ味の悪い即席の武器。
 でも残念ながら心臓直撃ではなかった。
 口の中に混じる血の味に血反吐を吐こうとして唇が震える。
「俺」
 両脚が浮いている。
 いつもの、まおの力ならばふりほどくのも簡単、この状態で刃を抜く事だって簡単にできる。
「……ごめん」
 肩からタックルするような態勢のまま、ぶん、と斬魔刀を振るいまおを投げ捨てる。
 ずるんと彼女は刃を滑って、地面にごとんと倒れ込んだ。
「痛、痛いって、ねえ」
 ごとごとと転がって、まおは体を起こした。
 顔をしかめて、まるでただ転んで起きあがったかのように。
「何するのよ、丁寧にやってって」
 どん。
 今度は真正面から。
「ごめん」
 彼の体を受け止めるしかなかった。
 普通、人間の骨格というのは良くできていて、内臓はきっちり骨格で守られている。
 これは衝撃には弱い物の、簡単に内臓そのものが傷つくことがないように進化した結果とも言える。
 通常面打ちは脳天ではなく僅かにずらして首筋を狙うと言われるのは、この所以でもある。
 守られている頭蓋そのものを断ち割る事は相当難しいからだ。
 実際ナイフや剣などで心臓を突く方法は限られている。
 普通にやれば、骨に阻まれて、男の力とはいえ通常は心臓を突くことは出来ない。
 だからナオは剣を真横に寝かせて突進した。
 喩え直撃しなくても、その勢いで骨を折る事が出来れば充分だと。
 実際は骨に当たったとしても、滑ってあばらの隙間に刺さるのでそれは杞憂だったが。
 先が欠けた斬魔刀は充分殺傷力のある突きが出来た。
 これがふつうの斬魔刀なら突く事はできない――したとしても刺さる事は絶対にないのだが。
 小さなまおの胸に到達した時、それは阻む事も防ぐことも出来ずずぶりと沈み。
「けふ」
 またあの音をまおは漏らした。
 そしてまおの全身に走る激痛。
 ナオの残した勢いそのままに彼女の体が浮き上がる。
 両手が遅れて外側に広がる。地面を離れる足が、遅れて背中側に反り返る。
――ああ
 刃は背骨に到達して、彼女をそれ以上ナオに近づけることはなかった。
 だから反り返った腕を戻す必要はなくて。
 ただ力を抜けば良かった。
 今度こそやられた。
 感覚が失せていく。まず耳。意識がブラックアウトするまでもう少ししか時間がない。
 痛みの感覚がなくなると同時に体が動かなくなる。
 視界はもう針の穴を覗いているように縮まり、自分が声を出しているのかどうかも判らなくなる。
――ああ
 その視界が、暗い天井を映し出し。
――どうしてそんな顔をしてるの
 割り込むようにナオが姿を現し、何かを訴えている。
 自分の手で斃した魔王に、なんて泣きそうな貌をして掴みかかってるのか。
――馬鹿
 多分。
 まおは、最後に呟いたその言葉だけは声になったと確信できた。
 そしてまおの世界は暗転した。
 ざ、と耳障りなノイズのような響きが彼女の聴覚を叩き、落ち込んだ闇が「SIGNAL OFF」と白い文字を浮かび上がらせる。
――思い出した?
 ぴりぴりという甲高いヒスノイズをまとわりつかせる声。
「どうにかねー。てかあんたが出てこれるんなら、私があそこに居る必要はなかったじゃないの」
 ふん、と少し不機嫌そうに鼻を鳴らしてみせると、声はくすくすと笑う。
――何を冗談を。自分で身代わりを選んだ癖に
「まあそうだけどさ」
 真っ暗だったはずの空間に光りが灯り、白い床に革張りの椅子が姿を現す。
 簡単な応接セット。
 向かい合わせた椅子の間に置かれた小さなテーブルには紅茶が二つ。
「それで。システムの調子が悪くて記憶喪失になってたみたいだけど」
 向かい合わせた椅子に深々と座り、右足の上に組んだ左足を載せる女性。
 まおとは対照的に長い髪をしていて、顔つきはどことなく彼女と似ている感じがする。
 まおはちょこんと革張りの椅子の端っこに座る形で、両手でカップを持ってふーふー息をかける。
「そだよー全く。何だったっけ?ほら、あの……えと」
 くすくすと女性は笑う。
「記憶喪失癖がついたの?」
「ちょ、馬鹿にしないでよ!ちぇ、元は私が作ったってのになんだよーえらそーに」
 ずず。
 紅茶をすする。
「あいつらの残した『黄昏の猛毒』、アレって酷いのよー。もう、しかたがないからさ。諦めなきゃって」
「何を?」
 ずずず。
 ふは♪とおいしそうにため息をついて、まおはその女性の顔を上目遣いに見つめる。
 女性は嬉しそうに首をかしげている。
「私の作ったシナリオ。もう、ダメだよ。これ以上続ける事は出来ないよ」
「本来ならまお様のサポートが在って、魔王が世界に存在すべきなんだよね」
 うんうん、とまおは頷くとカップを置いて、体を投げ出すように椅子に座る。
「私が直接触るのは間違いだったね。結局さ、色々忘れたりしたせいもあってさ、結果的にせいぜい辞め時を少し先延べにしただけだったよ」
 女性は優しい顔で少しだけ首をかしげる。
「そうだね」
 しかし、女性の顔に悪戯っぽい笑みを湛えた。
「でもまお様もこの世界の住人なんでしょ」
「え」
 くすくすと女性は笑う。
「楽しかったんじゃない?戻りたくないって顔してるよ?」
「そりゃそうじゃない。楽しかったに決まってる。でもさ」
 まおはふくれ面でぷっと口を尖らせて文句を言うが、女性には通じない。
 彼女はそんな様子のまおを楽しそうに眺めながら言う。
「でもじゃないよ、ねえ?まお様も大事な人間の一人。たった一人でも犠牲はでちゃダメでしょ」
 小首を反対側にかしげ、くすくすと笑う。
「ちょ、ちょっとあんたー!誰よだれー!だれだよー!」
 がたんと大あわてで椅子から降りるまお。
「私知らない!ちょっとまって?!」
 くすくす。
 まおの態度と反応に、おかしそうに笑うと女性は両腕を組んで胸を張る。
「じっつは、違うんだなー。ま・お・様♪今回のシステム異常を捕らえたM.A.O.は、すぐに下位のサブシステムを起動させたんだ」
「って、……なに?それ?私知らないわよ」
「知らないよね。知らされてないはずだから、ね。Azathothって名前なんだけどね」
 女性は笑って椅子から立ち上がる。
「ねぇまお様?まお様にも選択権があるべきだと思いませんこと?私は、少なくともまお様の味方のつもりなんだけどね」
「まさか、もしかしてあんた」
 女性はとぼけるように笑いながら答える。
「ひっどいな。M.A.O.の目的は全人類の救済。まお様もその中の一人に数えられていただけじゃない」

 ウィッシュとヴィッツはすぐに元の部屋――ユーカが覗く部屋へと戻る。
「おしまい、かな」
 二人が戻るなり、ユーカは言った。
「ん。フユさんは大丈夫?」
 いつの間にかユーカの側にはミチノリがいて、フユを抱きしめている。
「かぁら〜だ〜」
「どうやっても息を吹き返す気配はないがな」
 相変わらずのんびりと呟くミチノリを押さえ込んで言う。
 その様子にヴィッツはおかしそうに笑い、ウィッシュは彼女をちらりと一瞬だけ見る。
 すぐにユーカに視線を戻すと、肩をすくめて続ける。
「おしまいだよ。見てたんなら判るでしょ。もう」
 ウィッシュの目が見開かれる。
 ユーカは振り向いて、魔王の最後を目撃した。
「あっさりだね」
 ウィッシュは感想を述べながらフユに視線を移す。
「フユさんなら簡単に戻せるんだけどね、あとはキリエちゃんをどうするか、だね」
 ちらっとヴィッツに目を移して、ユーカを見るウィッシュ。
「……それは?」
「勇者殿の選択になりますよ、って事かな?」
 そう言ってウィッシュは腰に手を当てて、両肩をすくめてみせる。
「キリエちゃんの体はご存じの通り、元に戻せません。ずったずったのぐっちゃぐちゃ。……まあ不可能はないんだけど」
 そう言うと、まおに駆け寄って揺さぶっているナオの姿に目を移す。
 まおは完全に事切れたようだった。
「『勇者の特典』の事か」
 ユーカが気がついたように言うのを、ウィッシュはにっこり笑って応える。
「そろそろ特典を報せる使者が現れる頃じゃないかな?」
 鼻歌でも歌うように言うと、再びナオの居る廊下へと視線を移した。
 勿論、ここはナオの居る廊下と直接繋がっている訳ではなくて、そこを見えるようにしつらえているだけだ。
 簡単に言えばスクリーンとカメラの関係か。
「でもね、一つだけ問題があるのは判ってる?それは『勇者』のこと」
 ユーカはまおを揺さぶる彼を見ながら苦笑いをしてウィッシュに目を向ける。
「優しすぎる事だろう?」
「それは良いことでもあります。非常に良いこと。悪いはずはない。でも、だからまお様の事を恐らく迷うはず」
 ユーカはため息をついてミチノリの方を向く、いや、より精確にはフユの様子を窺うように視線を向ける。
 フユはミチノリが回収し、ウィッシュの案内によってこの城内に入ってきた。
「――どうにか、できるのならさっさとその選択肢を潰したらどうだ」
「んー、まお様の意志も関わりますからねぇ。ま、フユさんはすぐにでも戻しましょうか?」
 ぱちん。
 ウィッシュが右手を捻るようにして指を鳴らすと、スイッチが入ったようにフユの目が開く。
 しばらくぱちくりと瞬きをすると、きょろきょろと自分の周囲を見回す。
 そして。
「離しなさい」
 ぎん、とミチノリを睨み付けて、振り払うようにその拘束から逃れる。
 勿論ミチノリが指をゆるめたからなのだが、まるで彼女自身が無理矢理逃れたようにもみえなくない。
 その辺はやっぱり人徳という物だろうか。
「……ここは?カサモト?」
「おはよう、将軍さん?」

  早かった。

 怖ろしく早く、また彼女の視線は鋭く絞り込まれ、まるで獣のようで。
「うわっ、落ち着けフユ、彼女は敵じゃない!」
 ユーカが止めて彼女の腰に腕を回すまでに移動した距離は5m強、振り下ろした言霊扇の回数は両手で4回。
 間違いなく本気で殺す気で踏み込んだ。
 だが、ウィッシュもそれを読んで。
「幻像ですか」
 攻撃を受けたのは一瞬遅れた残像。これだけでも攻撃を避けるだけなら充分効果的なのだ。
「ま、将軍様なら間違いなく襲いかかってくるって思ってましたから」
 くすくす。
 勝ち誇ったような顔をして腕組みをするウィッシュ。
「生き返らせたのはボクの手際なんだけどね?ま、どうせ聞きはしないだろうし」
 それに、殺して確保しておいたのもボクなんだけどね。
 彼女はそう思いながらフユの出方を見守る。
 腰に巻き付いたユーカをふりほどかず、睨み合いながらしばらくの時間。
「……取りあえず、今すぐ殴る真似は止めることにしましょう」
 彼女は言うとユーカに目を向ける。ユーカは彼女を解放して体を起こす。
「――キリエの解放も、できるんでしょう?あなたなら」


 ナオは、ごろんと音を立てて転がったまおの姿に焦って駆け寄った。
 けふ、けふと呼吸に合わせるように空気が漏れるような音がして、半開きの目も見えてるのか、じっとナオを見つめて。
「まお!まお!」
 比較対象ではない。比べてどちらを選べと言われても無理な相談。
 あの時出会ったまおと、自分の姉。
 大事な姉とまおを比べるなんて真似出来るわけがない。
 でもやるしかなかった。
 体が動くという陳腐な形ではなく、明確な意志で。
 姉を殺そうとするまおを赦せなかった。
 話をして終わる――はずはない。
 今先刻まで自分を殺そうとしていたものが、あっさりと姉を殺すと言った。
 それが直接的であろうとなかろうと。
 引き金になった――でもそれは、彼の意思だろうか。
 まおは血を口の端にこぼして笑みを湛え、ナオは泣きそうな貌で彼女を抱きかかえている。
 判らない。
 困り果てて彼女の名を呼ぶ。
 だから彼女は、少しだけ困った笑みを湛えて動かないはずの右手を彼に伸ばして。
「……ばか」
 囁くように零して、そのまま全身から力を抜いた。

 魔王まお、享年ひみつ+14歳。

 壮絶な最期だった。
「まお、俺っ、どうしてっ、どうしたらっ」
 本人も何を言っているのか判らなかった。
 何が起こったのかまだ理解していなかった。
 まおは彼の刃を受けて体を浮かせ、人形のように体を突っ張らせて、そのまま力なく頽れた。
 胸と背中の二カ所の突き疵からはだらだらと、水袋に収めた液体が漏れていくように床を染めていく。
 朱。
「何で、その」
「あんまりとりみださないでくれるかな」
 かしん、と甲高い何かが締まるような音が響いて、世界が変わった。
 急に彼の周囲がネガティブに色を反転させて、丁度時が止まったように。
「おっと」
 声に顔を上げたナオは、色の変わった奇妙な世界の真ん中に、それが居ることに気付いた。
 小さな男の子。
 金髪で、蒼い吊り目。白いタキシード、黒いシャツに赤いネクタイを着こんだ奇妙な少年。
 こちらに向けて差し出された手には白い手袋。
 唐突すぎるその登場と、あまりに風景にそぐわないその服装。
「おやおや、なに?ボクのこと?いやぁ、なに?拍手喝采の方がいいの?」
 無邪気な顔で首をかしげながら聞く。
「誰だ」
 そもそも良く判らない事が多すぎて混乱する。
 ナオは、何から聞いて良いのか判らなかったが取りあえず言った。
「何なんだよ。なんだ?勇者と魔王のエンディングでも用意してくれたのか?」
 少年は目を丸くして左腕を袖をまくって見る。
 するとぺぽっと間の抜けた音がして、彼の細い手首に何かが巻き付く。
 その直前までなにもなかった――今、彼の言葉に合わせて現れた、と言うべきだ。
 腕時計だ。彼はそれをひとしきり眺めて呟く。
「そうだね、そろそろ時間だ。でもそう言う意味じゃない。それに、ボクは特典係じゃないしー」
 つい。
 彼は上目遣いにナオを見上げる。
 大きくて、その内側の奥の奥まで透けるのに、暗く冥く黒く、光が届きそうにない。
 つややかで透明度の高い、澄んだ黒水晶球。
「でも特典係よりも大事な特典を選ぶためにボクは現れたのかも知れないよ?」
 くすくす、と悪戯好きの子供の笑顔で笑う。
 何かを企む子供の顔。
「……誰なんだよ結局……ここって何なんだよ」
「ひとつづつ行こうか。僕の名前は――そうだね。にゃるらとーって呼んでくれるとありがたいかな」
 にゃるらとーは何かを謀るように彼をじろじろと眺め、やがてじろりとまおを見下ろす。
「そう、ここは今隔離された場所。今までキミが居た夢の世界とは別の場所。実際には殆ど変わらない、ボクが割り込みをかけてキミをスニフしてる」
 それならスニフキンかな?と自分で自分の言ったことにけらけらと笑う。
「場所っていうだけならキミは決して今の場所から動けない。動かない。だから夢。ボクの声が聞こえる場所っていうだけ」
 同時に急に何も見えなくなる。
 世界だと思っていた物に黒い帳が襲いかかり、全てが真っ暗になる。
 ただ男の子、にゃるらとーをてらす謎のスポットライトで切り抜いたような部分以外存在しない真の闇。
 突然自分の事が判らなくなって背筋が寒くなる。視線を降ろしても何も見えない。
 目に見えるのは、にゃるらとーだけ。
 彼の様子にくすくすと嫌らしく笑うとにゃるらとーは言う。
「判ったでしょ?今のキミはボクの掌の上。尤も、ボクはあーくんに手を出すなって言われてるから安心してね」
「だっ、だから、誰なんだよお前!一体何の用で現れたんだよ!」
 怒鳴るナオ。
 だが、にゃるらとーはくすくすと余裕を見せた笑みを浮かべる。
 先刻までと雰囲気が変わった。どこかナオをすっと覗き込むように鋭く目を細める。
「ボクはにゃるらとー、あーくんの為に踊るピエロさ。そしてキミには、そうだね」
 ううん、と軽く考えるそぶりをして、右手で顎を支える。
「アレ」
 そう言って左手でついっとまおを指さす。
「ボクさ、魔王さんとちょっとお知り合いでさ♪お願いされてる事もあってね。それが」
 と、今度は両手を自分のポケットに入れて、ナオを『見下ろす』。
「『物語を終わらせてくれ』なんだよねー。ね、ナオ君?キミが実質最後の英雄、勇者ってことになるのさ」
 そしてにゃるらとーは息を継ぐようにナオの様子を窺い、沈黙を続けそうな様子を見てから言う。
「何か。何でも、今なら全ての願いを叶えてあげよう。普通なら考えられない事ですら今なら叶えられる。世界を変える事も。――魔王になることだって」
 そこで、見覚えのある笑みを湛えた。
 それはここに来るまでに何度も何度も見せられた魔物の笑み。
 嫌らしい、口の端を吊り上げた笑み。
「さあ、何を選ぶ?」
「それは――いや」
 被せるように彼は応え、やがてゆっくりと思考の為沈黙する。
 どういう意味なのか。
「そもそも俺に特典を与える為に来た訳じゃないのに、それはどういう」
「だから言ってるじゃない。ホントはボクはここにくる理由はない。ホントは来ちゃいけないし。でもね、魔王さんの――ああ、いや、『魔王』のお願いでね」
 『魔王』は物語を終える為に。
 それは、事実上シナリオをひとつ、つまり勇者に斃されるという意味ではなく。
「お願いっておかしいかな。あーくんは『魔王』の異変に気付いて、さくさく終わらせなきゃいけないってね」
 でもその前にお願いされてるんだからお願いだよねー、と彼は続けてけらけらと笑う。
「それでね。今から『魔王』を退場させるから、代わりにキミに何か提案して欲しいってことさ。どうだい?これなら判るよね?」
「え?」
「魔王を退場させるの。判るでしょ?それがあーくんの『魔王』との契約だし、そのためにボクがここに来たの。で、折角だから今回の勇者にもお手伝い願おうってね」
 ナオはどくん、と自分の心臓が鳴るのを自覚した。
「ん?あ、もう決まってるみたいだね?」
 とにゃるらとーは自分の右手を耳に当てて小首をかしげる。
 ナオは何も言っていない。
 でも、にゃるらとーは目で彼の言葉を促す。
 決まっているはずのことを選択させる事には意味はない。
 ただその意志を確認することが重要なのだろう。
 ナオが黙っていると瞬きして可愛らしく催促する。
「……俺は、まおを退場させたくない」
「だーかーら?ボクにできないことはないって言ったでしょ?ボクにどうして欲しいの?」
 むいっと首を伸ばすようにしてナオに迫る。
 迫られて、彼は一歩退く(退いたつもり)。
「ダメダメー、逃げたってダメだよー。ボクはキミの首根っこを掴んでるんだから、キ・ミ・は・逃・げ・ら・れ・な・い♪」
 まるで襟首を捕まれているように視界が動く。
 そして、彼の貌が眼前で視界一杯になる。
「ボクにどうして欲しいの?」
「あ、あのなっ!俺はっ!」
 にゃるらとーの顔がにやついている。
 ナオはかーっと胸から首に、そして顔に血が上るような感触を覚える。
「俺は、まおにまだ居て欲しいんだ」
 ぱちぱち。
 見えたのは、にゃるらとーが二回瞬く瞬間。彼の顔が一気に赤い海に沈み――レッドアウトの直後めまいがする。
 ふっと気がつくと元の廊下で、元の視界で、にゃるらとーはもう手に届かない程遠くに居て。
 まおが足下に倒れていた。
「聞いたよ?確かに聞いたよ?キミは言ったよ?選んだよ?」
 そして、まるで自分は何の関係もないからと、責任を押しつける子供のように言う。
 にゃるらとーは。
 ただ混乱を与える為だけに。
「キミの最愛の、求めていたはずのキリエちゃんではなくてまおを選んだって事を」
 え?
 ナオがあっけにとられて、一瞬沈黙する。
 そして次の瞬間絶叫した。
「えーっっ!何?!何それ!ちょっと待ってよ、それってどういう事だよ!」
 騙された。ナオだけではなく、ここまで読み進めればだまされたと思うだろう。
「普通に騙されてると言えるでしょう。気がつかない方がどこかおかしいです」
 五月蝿い黙れマジェスト。
 同時にまおはがばりと起きあがった。
 それはまるで低血圧の起き抜けではなくて、元気な子供でもここまで起きないだろうという激しさで。
 ついでに、胸にあったはずの穴はなくなっている。血まみれだったはずなのに、ソレすら忘れている。
「あーくそー!ほんまにー!なんでー!」
 しかも大音声で叫ぶ。
「ちょっと待ってよなんだよー!何で私ここでこんな平気に生きてたりしてるのよー!」
 と文句を言いながら立ち上がるまおの真後ろには、先程から佇んでいたマジェストが咳払いでもするように言う。
「仕方がありません陛下。ここはそう言う世界なのですから。いわばギャグ?ギャグマンガ属性の世界なのです」
「ちょっと待ってよ。おかしくない?だいたいさ、私もう魔王じゃないでしょ?」
「えー、その辺はおいおいお話しなければなりませんが、陛下。取りあえず、そこで唖然としてる勇者殿にかける声があると思いますが?」
 ぎょっと首をくりんと回転させるまお。
 驚いて背筋を伸ばすナオ。
「あ、あはははー」
「……げ、元気そうだな」
 よくよく考えればかなり間抜けな会話である。
 つい直前まで殺し合っていた(というか一方的に殺されていたわけだが)のだから。
「ナオ様。まずはそろそろお開きのお時間ですので」
 マジェストが言うと、まおの向こう側から、ウィッシュとヴィッツがミチノリとユーカを連れてやってくる。
 勿論、その後ろに控えているフユ。
「ナオ!」
 一番後ろにいたのに、全員を押しのけるようにナオの元へと駆け寄って取りあえず両肩を掴んで揺する。
「大丈夫?ケガしてない?どこか痛くない?」
「いやその。……あのね、姉ちゃん」
 ちら。
「無事なの?」
 無視。
 フユには慣れっこなのか、既にそう言う感情はどこかに置いてきたのか。
 ともかくナオは全員のちくちくした視線を回避したくて、取りあえず何度も頷きながら彼女をふりほどく。
 そして、彼はまおに顔を向けて聞く。
「あのさ。あのさー、えと、まお?これって結局どういう事なんだよ」
 まおの方も目を丸くして?マークを幾つも飛ばしている。
 その代わりとでも言うように胸を張り、マジェストが説明を始めた。
「そうですな、今後ともよろしくというとこで御座います。ですが、我々も今後は活動を縮小しまして、世界征服は金輪際ぽいすてで御座います。よろしいですかな?」
 一瞬まおの顔がぱっと輝いたようにも見えた。
「えと、……何で?」
「魔王として世界征服を行うだけのですな。力はもうないのですよ」
 本当は滅びるはずだった。そこを、あの『這い寄る混沌』がチャラにした。
 簡単に説明すればそうなのかも知れない。
 実際には騙されたような気もするんだが。
 ナオは信じていないようだし。
「……しんじないよね?」
 当事者であるまおも同意の視線を向けてくる。
「信じないも何も。……あのさ。それで、キリエはどうなるんだよ」
 マジェストがあっはっはといつものように誤魔化す笑いをすると、すっとウィッシュが側に寄ってくる。
「普通、死者を蘇らせる事は出来ません。でも勇者が魔王を斃すことにより、女神とか女神とか女神とか女神とかが、こう天の声で囁く訳です『良くやった、勇者ナオよ』」
「え?その、あの?」
 既に書き割りや科白稽古のレベルではない。
 ぶっつけで無理矢理、何の演出も何のくだりもなく、それこそとってつけたように。
 というか、ウィッシュは自分が女神だといわんばかりの口調でもあるのだが。
「『良くぞ魔王を斃し、世界に平和をもたらした。さあ、お前に望みの物を与えよう』」
 ウィッシュだけが妙に声色を変えて得意げに言う。
 意外と小振りな胸を反らす感じは、まおにも似て少しかわいいかもしれない。
 ナオは困って周囲を見渡す。
「え、えと、えと」
 まおは困っている。
 ユーカは苦笑いをして見つめてるだけだし、ミチノリはいつものようににへらーとしてるだけ。
 ヴィッツは何故か顔を赤くして沈黙してるし、フユは彼の背中に回って彼を抱きしめるだけで満足しているらしい。
「つまり俺に言えと」
 ナオは眉根を押さえて、フユに支えて貰わなければきっとその場にしゃがみこんでいただろうが、そのままむうと唸ると顔を上げた。
「ええ」
 にっこり。
 ウィッシュが言うと再び『女神』の時の貌になって続ける。
「『勇者よ、何を望むのか』」
「キリエを返せ馬鹿野郎」
 シーン。
 ウィッシュも顔を変えない。
 マジェストも生暖かい眼差しをしたままで。
「ちょ、何だよ。そりゃ。だ、大体それだってお前らが言えって迫ってきた癖に」
「『勇者よ、そんなものでいいのか』」
「そんなものって、おい!ちょっと待てよそりゃ何だよ、大体、俺、ここでキリエに生き返って貰わないとさ……その」
 じー。
「……あのさ」
 まずやっぱり真っ先に気がついたのはフユだった。
 フユの視線の方向、ナオから見て左手、後ろの方。
 ぽんぽんとナオの肩を叩いて、フユは彼に視線を促す。
「あ、えーと、その。久しぶりー♪」
 顔を真っ赤にして手を振るキリエの姿。
 ち、と舌打ちして右手で指を鳴らす悔しそうなマジェストと、非常に哀しそうな顔のウィッシュ。
「……出てくるの早すぎですよ、キリエさん」
「ってなんだよ、俺、これ以上待たされるの怖いよ!お前らナオに何を言わせる気だったんだよ!」
「とかいって、本当は聞きたかったんじゃないですか?」
「て、てめっ」
 がーっと頭から蒸気を噴き出しそうなほど真っ赤になって、ウィッシュにくってかかるキリエ。
 いつの間にかシコクで一緒だったメンバー全員と、フユとマジェストがそこに揃っていた。
 キリエがウィッシュに絡むのも、それを冷ややかに睨むヴィッツも、どうして良いか困っているまおも。
 やっぱり取り巻きになってるユーカとミチノリも。
 ナオの一番側で、彼を手放そうとしないフユも。
 結局何のために戦っていたのか判らないまでも――魔王が世界征服を止めるという何らかの偉業?に立ち合う事になったのだ。
 フユはナオが無事で側にいればそれ以上何も理解するつもりはないようだし。
 初めから最後まで仕掛け人だったユーカ達と、マジェストは一番落ち着いた今を安心しているようだし。
 まあぶっちゃけると。
 まおとキリエとナオの3人と、これを見ている読者だけが納得できていないのだった。
 まおが困った顔でナオを見て、ナオは肩をすくめて両掌を空に向けて天を仰ぐ。
「まじー。あんた、ぜんぶしってるの?」
 マジェストは彼女の言葉に微笑みを浮かべたまま応える。
「知らなくても良いことは、私は全く存じ上げません。ただ、魔王陛下が率いていた魔王軍という勢力は今後最小限度に留めなければならない、という一点だけお伝えします」
「それって」
 魔王という存在そのものはこの『世界』に残すということ。
 全てを縛り付けていた人間を更正するプログラムから、人間を解放するということ。
「人間の行動は、今回の魔王陛下の行動で既に或る程度予測可能な範囲に留まった。と、にゃるらとー様からの御伝言です」
「……つまり?」
「陛下の活動を停止して、人間を自由な状態で『教育』する方がむしろ今後は効果的であると」
 そしてマジェストは真面目な顔をしてじっとまおを見つめる。
「魔王陛下。猿も木から落ちて、かにに挟まれ灼けた栗を顔にぶつけて臼に踏まれたのですよ」
「なんのたとえだ」
 はっはっは、と笑うとむくれたまおの頭を撫でて、マジェストは人間達を眺める。
「今後はお一人ではないということです。予定通り『魔王』は終わりを告げて、人々は解放される。尤も、本当の『解放』の為にはまだまだ働かなければいけないのですが」
 既に変わり始めていた人間というもの。
 幾つもの迷信と、間違いと、そして世界に訪れている危機と。
 ともかく、人類はまだまだ生きるための戦いを残している。
「だったら、まだまだ私も色んなところでがんばらなきゃいけないの?」
 嬉しそうに言うまおに、マジェストはどう答えようと考える暇も与えず。
 まおは彼の手を思い切り引っ張る。
「じゃあじゃあじゃあ!取りあえずすぐ動けるようにしなさい!命令よ命令!魔王軍再編のための仕事はまじーの仕事よ!」
 マジェストはまおの上気した顔を見て、幾つも浮かんでいたからかう言葉やネタも取りあえずほっぽり出そうと思った。
「御意で御座います、陛下」

「どう?違和感はありませんか?キリエさん」
 キリエは腕をぶんぶん振り回して、少しその場で駆け回ってみて、首をぐりんぐりんと動かしてからウィッシュを見る。
「もしかしてウィッシュさん、子供好き?」
 ぎく。
「えーと、それは何故でしょうか?」
「猫被ったまま応えられてもなぁ……ねぇ?」
 ヴィッツに視線を向けるとただくすくすと笑うだけ。
 ちぇ、とウィッシュは肩をすくめ、両手を腰に当てる。
「何だよ、これでいい?全く。そうだよ、少し若くしてる。元より少なくとも二つは若いはずだよ」
「だよねー。俺こんなに背が低くなかったはずだし。胸……は、この際良いとして」
 良いらしい。
「便利よねー、ウィッシュさん。もしかして凄いヒトだったんだ」
 この期に及んでである。
 だが、キリエにとっては、訓練後に少し出会って、ほんの僅かお願いされたという意識しかない。
 『ちょっとだけ、ヴィッツと入れ替わってくれないか』と。
 その間に殺されてたりしたことは彼女は知らない。
 彼女の体は、あとから新しく作られた物だと言うことも気付いていない。
「やっぱ魔法使いなんだねー。錬金術ってこんなに便利だったんだ。俺も憶えようかな?」
「止めときなさい。それは錬金術じゃないし、キリエさんには無理な話ですから」
 ヴィッツの言葉にきっと眦を吊り上げる彼女。
 でも、ウィッシュはすぐに言葉を継ぐ。
「ボクも同じ事を言うよ。キリエさんは今のままで今のまま生きて欲しい。詳しいことはきっとユーカさんやナオさんが教えてくれるよ」
 真相は闇に落とし込んで。
「良ければ、みんなとお別れの時間だよ」

 ナオとまお。
 まおの後ろにウィッシュ、ヴィッツ、マジェストが並び(今ここにいるのは彼らだけだし)。
 ナオの背中にフユ、ユーカとミチノリはその後ろにいて、ナオの隣に少し小さくなったキリエが居る。
「お別れ、だね」
 まおがどこか恥ずかしそうに笑う。
「色々楽しかった。めーわくばっかりかけて、最後はなんだか生き死にの話になってたけどさ」
「全くだ。魔王だって知らなかったから大変だったぞ」
 とはユーカの言葉。
 ナオは苦笑いして肩をすくめ、後頭部をかりかりとかく。
「お前さ、何で俺のとこに来たの」
 え、と彼女は息を呑むように声を上げる。
 周りが一気にしらけた空気に包まれる。
「魔王だったんだろ?俺が勇者だったんなら別にさ、ああいう形で会ってなきゃもう少しさ……って、なんだよ」
 まおは顔を真っ赤にしていて。
 周囲から妙にとげのある視線が跳ぶ。
「お前な」
 キリエは何故か嬉しそうだし。
 ユーカが頭を掻きながら呟いて、すぐに生暖かい顔をする。
「魔王は勇者を捜してたんだよ。――早くこの話を終わらせたくて、さ」
「おわったんだよ。私は、これで。……ホントはね、ナオ。私、居なくなる予定だったんだけどねー」
 どき。
 一瞬ナオはにゃるらとーとの会話を思い出す。
「どっちにしてもさ。私はキミに助けられたようなものだしね」
 最後のシナリオを終えて。
 魔王は『魔王』であることから解放された。
「……ホントは幾つも話しちゃいけない事もあるし、話したいこともあるけどね。……ね」
 つぅっと目を細め、ナオを見つめる。
 それは先刻までぎゃーぎゃー騒いでいた子供の貌ではなかった。
 ナオはどきっとして貌を一気に真っ赤にした。
「……む」
 フユが顔をしかめる。
 キリエが無言で眉を吊り上げる。
「会えて良かった。――『次』も会えたら。また、会いたいな」
 その時の魔王の貌は、何も喩えようがない程明るく。
 ぱっと華が開いたような綺麗な笑顔だった。


 勇者ナオご一行様が魔王を斃した御陰で、魔王は世界征服を辞めた。
 世界を覆い尽くしていた魔物は姿を消した。
「ナオ。手合わせを」
「姉ちゃん、いい加減に訓練に戻させてよ」
 狩りに行くことが少なくなって、フユはもてあました時間でナオをもてあそんで、もとい訓練していた。
「カキツバタはもう歳と体力から外したのだから、戻る理由はないはずでしょ」
「でしょって、あのね!第一姉ちゃん、その言い方だったらキリエが歳くったみたいだからやめて。お願いだから」
 キリエは二歳若返ったせいで、体力が若干体力が落ちてナオとは釣り合わなくなりパートナーから外された。
 外れただけであって基本的には同じ軍内にいる。
「が〜んば〜ぁれぇ〜」
 割り込んだり邪魔される事なく最後まで言葉が話せるのも、ここで仕事をしている時だけ。
 訓練場の端でぽやーっとした空気をまき散らしながら、声援をするミチノリ。
 ちなみにユーカはいつものように自宅で奇妙な実験を繰り返し。
「『魔王』は終わったが、世界の全てを教えてくれた訳ではないんだな」
 多分それはシコクも同じで。
 そしてまだまだ広いこの世界の端で。
「ねー、次はどこいこーか?」
「どこって魔王陛下、次はクシロでございますよ。なかなか『勇者様』はおられませんねー」
 『勇者』になるべき人材を捜して、魔王は世界を練り歩く。
 人類全体を覆っていた『魔王』はその姿を変え、未だに人類を救おうとしている。
「だったらさ、取りあえずおんせんー」
「ダメです。そんな暇はございません。ささ、クシロへ急ぎますぞ」

 だから多分、きっと、背の高い男と小さな女の子の組み合わせを見かけたら。

「えーやだよーそんなのー。おんせんーおんせんー!さけほっとー!おーさーしーみー!」

 次の勇者はきっとキミかも知れない。


 魔王の世界征服日記
続く?


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