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The borders
第 6話 錬金術


 勇佳のような特例は十年に一度あるかないか、非常に稀だと言えるだろう。
 しかし騎士団が、いかに隠匿された組織だと言えども、その組織を構成する骨組みは人間である。
 余命80もない存在が組織体を維持し続けるには、必ずと言っていいほど新人の育成が必要となる。
 できる限り多く、確実に。
「御師は」
 それからさらに一月。
 慣れれば、人間というのは順応する物で、精神的に不安定なところも見せずにすくすく成長した。
 笠下勇佳は、もう自分の名前以外に財産を持っていないと言うだけで、この屋敷に留まることにしていた。
 それが自分の意志ではなく、宛われた逃げられないものであったとしても。
 『逆らう』という意志を持たない子供は、どこかで安定した足場を用意されればそこに落ち着く。
 どうしようもないことを思い知る――それは知識でも諦めでもなく、殆ど本能的な――までは大変だが。
「食事中だよ」
 と返して彼女のテーブルを見ると、既に皿だけになってしまっている。
 桐荏の視線に、彼女は勝ち誇ったようににかっと笑みを浮かべて、両手で頬杖をついて彼を覗き込む。
「僕が食事中だ」
 切り返して、クロワッサンを引きちぎる。
 一応彼女も真似をして『御師』と呼ぶが、実質そうだとしても彼女は彼の従者扱いである。
 本来は彼の世話をするべきなのだが、それはあくまで立場と建前であって、彼とほぼ同等の扱いを受けている。
「じゃ、そのまま聞いて。今私の習っているカバラと御師の錬金術ってどう違うのか判らない」
 勿論全然違う物だ。
 しかし、良く言われる無から有を生み出す秘術という立場からではなく、その本質を突き詰めてみれば錬金術もカバラもさしたる差はない。
 桐荏は彼女の発言に少し興味を覚えた。
 普通は有り得ない――だからこそ興味本位ではあるが、彼女の言葉がどういう意味で語られた物なのかを知りたくなる。
 純粋にカバラを学んだ彼女が、錬金術と共通点をどうやって見いだすのか。確かに錬金術師がカバラを教えているという不自然な状況もある。
 どう違うのか、という言葉の意味の捉え方で大きく異なるのだから、彼は消去法で一つ提案する事にした。
「判った。じゃあ、午後は錬金術の基礎講座にしよう。どうせ興味有る事しか集中できないでしょ?」
 勇佳は両腕を大きく上げて嬉しそうに笑った。

 カバラはヘブライ語のKBR、受領する、いただくの意味の言葉から名付けられている。
 神からの賜り物ぐらいの認識で構わない。まさにその言葉が示すとおりの物だ。
 通常カバラでは『生命の樹』、セフィロトという総ての理に当てはめて物事を分解し、セフィラーに従って物事を改変しようとする。
 勿論その本質はセフィロトという基準に従って世界を知ろうとする事他ならない。
 人ですら各セフィラーによってその現象総てを説明できるという。
 セフィロトはそれを四つの世界として分類し、それぞれの球体、セフィラーとそれを結ぶPASS、小径で構成されるとする。
 この小径をタロットの大アルカナと対で考えることもあると言われている。
 通常、上はエネルギーが強いが形を持たず、下に向かう毎にエネルギーその物は下がるがより具体的に方向性が定まるとも言われている。
 アツィルト界は神の世界・神名、元型・四元素の火を差す。
 続くブリアー界は大天使の世界、創造、四元素の水、イェツィラー界、天使の世界、形成、四元素の風に続き、最後がアシャー界であり、悪魔の世界、物質・活動、四元素の地を差す。
 ケテルという名前の1のセフィラー、そして10のセフィラーであるマルクトまで、それぞれの意味があり、まずこれを憶えることがカバラでは必須となる。
 最も重要ということではない。必要なら書き写した文様を持ち歩けば済む話だからだ。
 だができれば憶えておかなければならない。実際に幽体による高次元(複雑さの程度を考えると低次元と言うべきだが)での行動では、物質は持っていけないからだ。
「御師。つまり錬金術って、るつぼでぐつぐつしてる訳なんだ」
 何故かどこか嬉しそうに言うと、勇佳は右手の甲で頬杖をついて、人差し指と中指に挟んだ鉛筆をぶらぶらと揺らす。
 にこにこしたまま、桐荏は首を傾げて目を数回しばたたかせる。
「どうだろうね。結局それは魔術における実験と変わらないから、そうかも知れない」
「だよね」
 にっと歯茎をむき出しにして笑う。
「だったらさ、錬金術師ってのは直接物を見ることで、カバラ術師ってのはあれこれ想像と予想を巡らせるだけの違いだと思うけど」
 ううん、と言って勇佳は首を捻る。
 一度体を起こして、腕を組んで、反対側に首を傾げる。
「あ、それなら錬金術師の方がかしこいのかな?」
 実際には、感覚が頼りになる錬金術の方が難易度は少ないかも知れない。
 カバラで行われる精神修養は、自らの感情を自らの意志でコントロールして、各セフィラーの励起を促すのだ。
 簡単なはずがない。そう言う意味では錬金術の方が簡単と言えるだろう。
 まだ目の前に物があり、形があり、重さもあるからだ。
「何故、そう思うんだい?」
 桐荏の質問に、勇佳は難しい貌をして頭を抱え込んだ。
「えーと」
 言葉にはならないのかも知れない。
 なったならなったで、怖いかも知れない。
――才能
 そんな優秀で幼い生徒は、いや弟子は彼にとって非常に刺激的な存在だった。
 魔術という物それ自体が既にオカルト化している限り、そして迷信扱いされている今、簡単にそれを扱うことは出来ない。
 最も桐荏自身は、彼女の言うとおり賢い選択により錬金術を修めた訳だが。
 それも彼の選択だったといえば選択だったのだろう。いや。
 まだ選択できるものは幸せだ。
 選択する、いや、選択することが目の前に近づいていて、その選択のために用意できる何かがあるような場合はなおのことかも知れない。
 普通は選択する、なんてことはできない。
 定められた何か一つがそこにあるだけで。
 今こうしていても、既に勇佳は籠の中の鳥、選択するだけの物を与えられず、選択するための力さえ奪われている。
 そして、開き直ったかのような子供とは思えない適応力を見せて今、その才能を見せつけている。
 自分の感性だけで、魔術の最も安全で最も利用しやすい方向、核、力、根源を彼女は感じ取っている。
「わからないから」
 一瞬それが回答とは思えなかった。
 だが、勇佳は少し気まずそうな貌で上目で彼を見つめ、もう一度言う。
「わからないから。かたちもなにもない、そんなものって判らないから、その、判りやすいのを選んだから」
 だから錬金術は簡単に――とは言え、その修行は怖ろしく長く辛いが――修得が可能だ。
 カバラの魔術に比べれば。
 では君は――一瞬込み上がった質問を、彼はかみ砕いて飲み込んだ。
 もう二度とでてこないように呪詛で固めて。
 見た目は年齢差が少ないかも知れないが、これでも彼は彼女より10年以上多く歳をとっている。
 どちらにせよ騎士団の逸材、しかしカバラの術師ではない。
「そうだね。体にも刻まれる記憶というものがある。今日は、最後にその話をしよう」
 カバラの術師になるためには、余程の素質がなければ『達人(adept)』と呼べる人物にはなれない。
 基礎的な素養に加え、周囲の状況・環境が大きく左右する。
 魔術書の中身を判らなければならない。それは読解力という基本的な学力だけではすまされない、ある種の感性が不可欠だ。
 暗号化技術をもって、意図的にほぼ無意味に複雑に難解過ぎる内容として刻まれるそれらを、理解する事は非常に困難だろう。
 恐らく――それを作った人間の感情や世界背景を理解した人間は、なんの苦労すらなく読み下してしまう――いわばそんなもの魔術書と呼ばれるものなのだ。
 騎士団には推薦でしか入団を認められない、と、言うよりも、魔術を扱えるであろう素養を認められたならば、彼女のように『無理矢理にでも入団させる』。
 特に彼女は酷かった。そう彼は記憶している。
 なにせ、騎士団が考え得る最大の『隠者(hermit)』と『導師』が彼女の確保のために動いたのだから。
 最も末端には何も知らされていない。彼とて、たまたまその事実を知らなかったら、こんな暴挙認められなかったかも知れない。
 知っていたから、巻き込まれた。
 そうなのかも知れない。
 ともかく特例中の特例だから、今この特例に甘んじる。
 それが――桐荏の選択だった。
 そして恐らく上が望む結末も判っていた。
 判っていたから――

 魔術と言うらしい、この勉強は面白い。
 小学生だった勇佳は、物語のように面白く、判りやすいこの学問が好きだった。
 勿論初めから面白がってやってたわけじゃない。
 他にすることがなかったから。
 それ以上思い出そうとすると、苦しくて、辛くなるから、忘れたくて続けていたような感じだったが。
 だが。
 初めて渡された魔術書というものを読み始めてから、世界が変わったように感じた。思えた。
 それは子供心に強烈な印象を与える事が出来た。
 そのせいだろうか、彼女はそれを聖書のように扱い、周囲の人間に興味を持ち始めた。
 今目の前にいる『御師』は、どんな考えでこの魔術を扱っているのだろうか。
 タイプが違う魔術らしいが、それはどんなものなのだろうか。
 自分は正しい事をしているのだろうか。自分は正しいのだろうか。
 文章にすると何でもない事のようだが、彼女はただ感情のままに読みとり、考え、そして選ぼうとしていた。
 騎士団とはなにか。
 何故自分を拾ったのか。
 まだ子供だったのは否めない。彼女は、自分の身に起きた出来事と騎士団の因果関係を結ぶことは出来なかった。
 実践している訳ではない。だから、まだ真に魔術師と言うには問題があるだろう。
 原因はある。御師が魔術師ではなく、そのために実践を教えられないということだった。
 魔術師ではないのに、何故カバラの魔術を熟知しているのか。
 答えは簡単だった。
「昔、カバラ系の魔術を実践していたのは事実だよ」
 ある日、桐荏は言った。
「結構面白くてね。元々そう言う魔術をするために居たんだけどね。たまたま錬金術に素養を見いだされて、丁度術師も居なかったからね」
 だが今では、記憶はしていても実際に行えないという。
「その本にはどう書いてあったか、憶えているかい?私はもう魔術を扱う事の出来ない人間なんだ。セフィラに対応する精神的要素の昂揚が不可能なんだよ」
 魔術師が、儀式の最中に『飛ぶ』事はしばしばある。
 意識を高次元に移す際に、より『形を失う』必要があるため、肉体感覚を失わなければならないからだ。
 通常幽体離脱がカバラ魔術師の技術として存在するのはこのためである。
 幽体――アストラルと呼ばれるそれは、肉体と次元が違うため、時間・場所・存在するエネルギー密度が大きく違う。
 桐荏が言うのは、自らの精神状態をそのような昂揚状態に持っていかなければならないという事なのだ。
 つまり簡単に言えば。
「……御師は感情がないんですか」
 彼は微笑みを張り付けたまま、無言だった。
 だがそれが充分雄弁に物語っている。
 落ち着き払っているように見える彼のこの姿も、感情がないのが原因なのだろうか。
「人間の精神というのは、意外に簡単な構造をしているものなんだよ」
 その代わり、彼は笑みのまま、奇妙な説明を始めた。
 この教室は、彼と彼女の二人しか居ない。実際には彼女の個室とも言うべきかも知れない。
 彼は彼女の机の前で深々と椅子に座り、足を組み、両腕を大きく広げた恰好で続ける。
「形を見たことがないだろうから判らないかも知れないけど、握りしめたらぐちゃりと潰れる」
 机の上で、彼は右手を差し出してきゅ、と握り拳を作ってみせる。
「形だって簡単に代わる。まるで粘土細工さ。こう、少しこねてやれば別の物に代わる」
 右腕はひじを付け、まるで、空気中に粘土があるかのように彼は少し力を込めて、こねる。
 空気をこねているようには見えなかった。
 まるで――一流のパントマイムを見ているようだ。
 いや、もしかすると錬金術というのは、実際に空気も形を与え、姿を与え、たとえば金属に変化させることができるのかも知れない。
「錬金術には、先刻説明したような話以外にも『賢者の石』の話や、とある過去の偉大な錬金術師の『変身』の話がある」
 賢者の石は現実に存在せず、錬金術師が目指すべきある種の精神要素であるという話。
 結果的に科学から背いた形で錬金術が成長した背景には、この考え方がどうしても必要だったのだ。
 オカルト化した錬金術。
 その行き着くところが『中庸』であり、錬金術師が変身する話も、この『中庸』に関する話なのだ。
 ある日、姿を消した師匠を捜す弟子が、森の中で美女を見つける。
 良くその顔を見れば、それが師匠だったという、錬金術に関われば必ずと言っていいほど聞かされるだろう寓話だ。
 実話かも知れないが桐荏はそんな話に出くわしたことはない。
 極めた錬金術師は、男でも女でも『あり得る』状態になるのだというのだ。
 それはあたかも鉄も卑金属も、総てが金である状態を持つ賢者の石であるかのように。
「錬金術というのは、中庸であるが故に総ての境目を失う学問の一つだ。私は、冷静沈着でありながら、興奮して怒りに我を忘れているのに笑っている、そう言う状態なんだよ」
 完全な中庸。
 それは、なんにでもなれる総ての状態であるとする、ある種の理想。
 賢者の石その物の体現。だからこそ、錬金術の奥義であり、目指すべき地点と言われるのだ。
「……つまり、カバラの術のような『偏在化』はもう出来ないんだ」
 ぽつりと彼女が呟いた。
 何故か、唐突に彼の笑みから生気が消える。
 いや、そう言う風に感じてしまう事に勇佳は驚いた。
 体が思わずさがっている。でも、ただがたんと椅子を揺らして僅かに後退しただけで、彼女はまだ椅子に留まっていた。

 怖い。

 何が怖いのか判らない。
 でも。
 ただひたすらに、今目の前で笑う『御師』が怖かった。

 多分、その日を境にしてからだろう、桐荏の態度が変わった。
 実際に変わったわけではなかったのだろう、むしろ、勇佳が彼の態度の粗を見つけられる様になったと言うべきではないだろうか。
 気付いた事実と、気付かなかった方が幸せだったと思う真実。
 いつしか、彼女と師匠の接触する時間が減り始める。
 具体的には魔術の基礎講座が終わりを告げ、新たに彼女に部屋が与えられ、自ら実践を行う段階に入ったからだ。
 早かった。桐荏も後半年かかると踏んでいた、と彼女を讃えた。
 でも勇佳は別にそれが嬉しいことだとは思わなかった。
 ただ、桐荏と会う時間が減る事は純粋に良かったと思った。
 多分今彼女が感じている圧迫感は、桐荏には判らないものなのだろう。
 彼女がほっとした顔を見せても何にも思わなかったのは事実。
 それに桐荏は組織でただ弟子を持っているだけではすまない立場にいる。
 弟子の独り立ちは荷物が無くなるだけの事なのかも知れない。
 ともかく――それから一日べったりと一緒にいるということはなくなった。
 決められたペースで寝起きして、定められた修行を行い、研鑽を続ける。
 単純作業というのはヒトにとっては毒のようなもので、やがて慣れと飽きがくる。
 やがてぎくしゃくとしたこの関係に終わりを告げる事態が発生した。

「御師!」
 だからもっと早く気付くべきだったのかも知れない。
 笠下勇佳はそこまで考えが回るほど、まだ『魔術師』として大成していなかったと言うべきだろうか。
 それとも、まだ子供だったと言うべきだろうか。
「やあ、勇佳」
 桐荏も歳をとっているはずだった。
 だが、見た感じは殆ど変わっていない。少し背が伸びた程度か。
 それに比べ成長期を迎えた勇佳は、恐らく同年齢の男の子と並べれば背が高い方になるだろう、早熟な雰囲気を携えた少女に育っていた。
 おおよそ、予定通りに。
 だから桐荏は彼女に微笑みを向けた。
 それは一種挨拶であり、自然な動作であり、そして彼にとって極々珍しい、親しい人間に向ける顔だった。
 だが勇佳はその顔に張り付けられた仮面が気にくわなかった。
 多分それが反抗期という精神的な成長故に与えられるものなのだろう。
――いや、初めて見た彼の『無表情』な素顔への恐ろしさも含まれているだろうが。
 今はそんな感情だけで彼を呼び止めた訳ではなかった。
「新しい弟子って、私は何も知らされてません」
「当たり前だろう、弟子を入れるなら真っ先に勇佳、キミに言わなければならないさ」
 彼は大きく両腕を広げた。
 その向こう側。
 振り向いた時に背中の裏に隠れた姿。
 今は、彼の脇からこちらを見返す、冷たい感情の無い目。
「じゃあ」
「言いたいことは判るが勇佳。……済まないが今忙しいのだ」
 踵を返す。
 桐荏のその態度にも興味を示さず、ただ黒い虚は勇佳を見つめる。
 身の丈1m程の、本当に小柄な少年。
 恐らく年の頃は六、七というところか。
「その少年は何なんですか!」
 短く刈り込まれた子供らしい髪型に、まだまだ成長過程にある未熟な体。
 だからこそ、無意志なその貌が怖ろしい。
 無感動な瞳が突き刺さってくる。
「だから」
 彼女の師は、酷く淡々と告げた。
「補充要員だよ。魔術を受け継ぐためのね。……私の仕事はそれを『造る』事なんだよ」
 錬金術師というのは、様々な物を造る。
 形有る物を合成するのが彼らの仕事ではない。
 形無き精神までも合成する、無から有は魔術師の特権ではない。
「では、また」
 にかっと笑みを湛え右手を挙げて挨拶をすると、彼は子供の右手を引いて歩き始めた。
 一瞬憶えた殺意を無視し、彼女は逃げるようにして自室に帰った。
 この頃は既に自分で研究を続けるという形で、殆ど師に頼る事無く一日中部屋にこもる事が多くなった。
 何の偶然か、師が新たな弟子を迎える噂を聞きつけた。時々顔を出すように部屋に現れる師に聞けば済むことだろうと思っていた。
 そして数日が過ぎ、数週間が過ぎ、あわや数ヶ月が過ぎようとしていた。

 来なかった。いや、来なくなったのだ。

 そこに来て今日のこの出来事だ。いかに魔術を修めていようとヒトはヒト、子供は子供だ。
 彼女は今抱いている、自分を突き動かしている感情というものには気付いていなかった。
 そして、嘘をつかない、嘘がつけない自分の師匠の言葉があまりに意外な物であった事に少なからず衝撃を受けた。
 隠す訳でも、果たして弟子でもなければ、彼はそれを『製造』すると言い切った。
 『人造人間』ではない。遙かな昔に考えられた、フラスコの中から生まれる生命体などは伝承に過ぎない。
 そも生命は確かに『スープ』から発祥したと言われるが、同じ事を繰り返したところでフラスコから生まれるのは何万年というスケールでのお話。
 ついでに言うなら、その栄養分を喰う現存する生命体が発生してしまうだろう。
 だからアレはそんな錬金術の産物ではなく、人間。本当の幼稚園児――いや、既に小学生ぐらいの歳なのかもしれない。
 尤もそのどちらとしても、どちらにも属さない訳だが。
――補充要員を造る?
 流石に勇佳の歳になればそこそこ理解できるようになる。
 たとえ箱の中で育てられていたとしても。
 この組織の具体的な大きさや、その活動がどのような物なのかは把握できなくても。
 小さな子供の頃からきちんと目的を持って育てられ、他の世界を与えられなかったから、まさに純粋培養の魔術師として成功しようとしていると言うべきだった。
 倫理・社会は『必須の知識』として既に修得している。
 政治の原理も憶えた。
 日本語は古典から近現代文学を漁り、決してひけをとることはないだろう。
 総ては『賢者の智』を得る為の最初の一歩に過ぎないのだから。
 だがそんな彼女には、人間関係を育てるだけの時間を与えられたことはなかった。
 最初に『新しい弟子』に感じたのは『嫉妬』という感情。
 次に師匠に感じたのが『嫌悪』。
 その理由。
――私……は?
 師匠は錬金術師。自分はカバラの魔術師。
――……師匠に、『造られた』の?
 聞けるだろうか。
――聞けない
 調べられるだろうか。
――判らない
 今ここで何故こんな研究をしなければならないのだろうか。
 何の疑問も持たずに今まで過ごしてきたのは、果たして間違いなのだろうか。
 言葉にならなかった総ての感情を、自分の中で反芻するようにして言葉にして飲み込んでいく。
 言葉として形にした感情は、既に感情ではなく理知的に判断する材料となる。
 自分を形作る一部となる。

――逃げよう

 それが彼女の結論であり、この組織に対する一つの感情であり、そして決別でもあった。
 育てられた恩義はあっても、組織に招かれたのは彼女の意志でも選択でもない。
 そして総てを奪われた状態で成長し続けたのも事実。
 まるで――あの子供を見た時に感じた恐怖は、鏡を覗き込んだ恐怖だったのだろうか。

 彼女のその後の行動は迅速だった。
 夕方までには完全に姿を消し、足跡を消して社会にとけ込んで行った。
 騎士団には警察のような捜査能力はなく、彼女を追跡する事も行われなかった。
 笠下勇佳の籍は既に社会的には存在せず、死人が歩いていたところで誰も気にしないだろうから。
 そして――そんな孤立状態でどれだけ生きることができるのか。
 『騎士団』純正の魔術師の『能力』を確認できる、『騎士団』としても有益な物と判断した。
「しかし、とんでもない事をしてくれたよ、勇佳」
 たった一つ、桐荏が担当していた『魔術師の卵』を総て同時に解放してしまった事を除けば。


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