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The borders
第 7話 逃亡生活


 こぽこぽというお湯が沸騰する音。
 建築材としてのむき出しのコンクリートで囲まれた給湯室。
 実際にはこの給湯室も、壁紙や塗装を行った上で販売される――もしくはそのように注文を受けて作られるはずだ。

  こぽん。 ぴちゃん。

 しかし、今こうして真新しい給湯器やコンロなどが設置されたここは、これから恐らく手を加えられる事はないだろう。
「……よし」
 ここの持ち主になった女性がそれを一切考えていないからだ。
 給湯器の隣には御家庭用の小さなコーヒーメーカーが据え付けられ、女性がコーヒーを落としていた。
 サイホンなんか付いていない、ただお湯を注ぐだけの本当に簡単な作りのコーヒーメーカーだ。
 だが一人でコーヒーを飲むには充分すぎる代物だろう。
 実際女性には、一度に1リットルものコーヒーは飲みきれないはずだ。
 ……それが普通だ。
 満足げに女性は黒い液体をカップに注ぎ、そのまま一口口に含み。
 そのまま給湯室をでた。

 この部屋は、きちんと登記されたある商用のビル内にあるテナントの一部。
 女性はこの部屋をいたく気に入り、オフィスとして購入した。
 と、言うことになっている。
 実際のところは誰も購入していない。女性が不法占拠しているのだ。
 しかし誰もそれには気付いていない。
 恐らくこれから先、それに気付くことはない。
 何故ならこのビルに入っているのは彼女のオフィスのみ。
 誰もそれが売りに出されていると気付かない。
 彼女が、それを拒んでいるから。
 彼女が建築中のビルに目を付けて、そのテナントを入手しようとしたから。

 結果として、彼女のオフィスを残して『建築中のまま』このビルは取り残された。

 まるで時間を切り取ったかのように、内装を完全に張り終える前に建築は中止された。
 彼女がここを放棄しない限りこのビルは完成しない。
 存在すら――恐らく忘れ去られるだろう。
 実際にはこのような『誤魔化し』は長く通用する物ではない。
 『時間停止』と彼女が呼ぶこの『結界』は、人間の心理の隙をつくものだから、誤魔化せない部分がある。
 たとえば、とある滑らかに秒針が動く時計を使った『時間停止』と呼ばれる手法がある。
 錯覚か、それとも本当に時間が停止しているのか。
 また意識が感じる時間の長さが変化しているのか。
 これらは自分で簡単に確認できる『心理的な隙』だ。
 結果的に時間が停止しているのかも知れないし、そう感じるだけなのかも知れない。

 しかし彼女はこうも思う。実は人間というのは全て『感じたまま』が尤も怪しい物だ、と。

 果たして魔術と呼び、今こうして実際に結界を張っている術者として感じる。
 恐らく魔術を知らない人間には『万能』に見えるのだろう、と。
 かたんと音を立てて、彼女は簡素な応接セットのテーブルにカップをおく。
 ガラスで出来た卓と、ぴかぴかと鏡のような光沢を持つ素材むき出しの足。
 合皮でつつんだソファ。
 彼女はそのソファに体を沈め、足を組む。
 タイトスカートと黒いストッキングに包まれた足が、灰色のオフィス用カーペットの上で踊る。
 恐らく誰かが居ればその仕草に思わず目を向けただろう、そんな妖艶な仕草。
 だがそれを見とがめる者はいない。
 うちっぱなしのコンクリートに区切られたこの広い空間の一部、ごくごく彼女が使用する一部分以外は――本当に建築中のままでうち捨てられているから。
 カーペットもちょこっと内装材から拝借したものだし、ここで使っている真新しい応接セットだって購入したものではない。
 だからといって――そう、だからといって彼女が罪に問われる事はまず有り得ない。
 何故なら、このビルという一部分だけは『時間が切り取られている』のだから。
 魔術の基本は精神操作から始まる。
 特にカバラ系統の魔術は、彼女のような術者はまず自らの精神に潜む力を引き出す。
 『セフィロト』『生命の樹』と呼ばれる十のセフィラーと二十二の小径からなる真理に照らし、全てを読み解き組み立てる――それがカバラ。
 感情を制御し、好きなセフィラーを昂揚させ力を引き出す魔術。
 まずは自分。次に他者へと干渉する事により術を完成させる。
 自分という格好の『試験材料』により術の効果を確認しながら行う為に、一様にしてカバラの魔術師には『奇行』を持つ者が多いとされる。
 またそれ故に彼らの術は強力なものが多く、容易に集団を操り――それが律せられたものであろうとなかろうと――様々な犯罪を引きおこすことがある。
 悪魔の仕業としか考えられない行動。
 常識的な論理では考えられない結末。
 超自然と思われるような事実と結論。
 しかしそれらは全て『思いこみ』の結果であるとしたらどうだろうか。
――魔術という物が科学を凌駕せず、歴史に埋もれた理由は何故か考えれば判るだろうに
 女性はコンクリートが切り取った蒼い穹を見ながらため息をついた。
 そして、カップに手を伸ばす。
 ぷうんと濃いコーヒーの臭いが鼻を刺し、彼女の思考を僅かに中断させる。
 彼女はこの香りが好きだった。
――なのに『騎士団』は魔術を求め、魔術師を『製造』し、伝統を守り、継承しようとする
 既に分かり切った結論。
 魔術とは現実に作用するものではなく、精神に作用するもの。
 人間の本来の姿をむき出しにし、またそれを破壊するもの。

 魔術とは。
 人間という最も怖ろしい小宇宙の中の神を起こして操るものである――

 それが彼女の、笠下勇佳の追い求めた真実、結論、結果だった。
 あの時少年の瞳に感じた自分の以前。
 狩られた恐怖と、師匠に感じた畏怖。
 それは人間の尊厳と、そして開けてはならない狂気の向こう側だったのだろう。
 論理で突き詰めて手に入れるまでにおよそ十年の歳月を必要とした。
 魔術は万能ではない。
 しかし彼女には、憶えた魔術しか持ち合わせていなかった。
「長かったぞ」
 だから矛盾かも知れなかった。
 魔術でもって、彼女は今ここにいる。
 その魔術を否定しながら、現実を、人間社会を見つめている。
 時には詐欺まがいの手段でもって生活の糧を得、その原理と社会の仕組みという相反する二つを学んだ。
 滑稽かも知れない。
 優れた魔術師は優れた詐欺師であり、催眠術師であり、小説家である、と。
 何より自分を騙す事が出来る事が前提条件とする、比較的奇妙な詐欺師であることは言うまでもない。
 おかしな話だった。
 だから大見得切ってわざわざ魔術をインチキであるとネタばらしをする下らない雑誌はいらない。
 当たり前だ。魔術師は皆そう思っている。
 判っているからこそ魔術師は魔術師たる所以なのだから。
「尤も、どれだけ逃げても無駄だろうな」
 勇佳は大好きなコーヒーを口に含んで思考を停止させる。
 鼻腔を刺す香りで完全に思考を停止させ、ただその香りを楽しむ。
 つんとした刺激と、ふんわりとした後味のようなこくのある香気。
 そして舌の上に残る苦み。
 焙煎の具合で大きく変わるそれを、彼女は隅々まで触れるようにゆっくりと確認する。
 この瞬間は彼女の大切な時間。他の誰もが、それは勿論神すらも彼女に触れることのない瞬間。
 魔術師が、魔術を持って世界を征服したり経済界に君臨したりしない理由はいくつかあるが、殆どの場合はやりたくない・興味がない・意味がないという理由である場合が多い。
 実際騎士団はあれだけ大袈裟に魔術をもてはやしているが、決して経済的に世界を牛耳ったりしている訳ではない。
 フリーメーソンだって、本来友愛会として一つの理念の為に『信頼』を切り売りする世界。
 秘密結社や陰謀などちゃんちゃらおかしい。そんな事があり得るなら既に誰もがやろうとしているだろう。
 それは魔術も同じ。
 魔術を知らないからこそそう感じる。
 魔術を知れば知る程、無理だと判る。
 所詮魔術は詐欺の一つに過ぎないのだから。とはいえ――怖ろしく便利であることに間違いはない。
 そもそもまともに働きもせず家を持ち、趣味に投じるという事が出来るのは本当の金持ちか犯罪者しかいないだろう。だがそれを――魔術は与える。
 尤もそれは、人間の人生を引き替えにして初めて身に付くという、引き替えにする物が大きすぎる力だ。
「『騎士団』の逆鱗に触れず、彼らに役立つようなポジションが必要だ」
 いっぱしの生活を送りながら、食うに困らず逃げまどう。
 それが板についてくるまでおよそ二年。
 子供だった笠下勇佳もあっという間にすれた大人になっていた。
 若い。しかし、見た目以上に年齢を判らなくさせるその外観。
 ボリュームのある長いつややかな黒髪は体の半分を覆い隠すような長さで、スリムな体型だが胸や腰は充分女性を強調し。
 そのくせ妙に手足が短く見えて、どこかちぐはぐに子供っぽさを感じさせる。
 服装の仕立て次第で高校生にも大人の女性にも見える。
 そして、大きな丸いだて眼鏡を彼女はかけている。
 これがますます彼女を幼く見せている原因でもあった。
「まあしばらくは様子見――としゃれこもうか」
 だがその玻璃の向こう側で笑みを湛える貌は決して――いや、もうそれはヒトのそれではなかったのかも知れない。

 取りあえず2杯目のコーヒーを作る。
 コーヒーというのは世界では3種類の原種から、既に200を越える品種が存在し、大抵コーヒー豆には地名が名付けられている。
 アラビカ、ロブスタ、リベリカという3種類のうち、通常飲まれているコーヒーは薫り高いアラビカ種の交配種である。
 缶コーヒーに使われるロブスタ種は、ロブ臭と呼ばれる独特の臭みのせいで好まれないが、安価でカフェインが強いためインスタントなどにも用いられる。
 実は豆でドリップしたコーヒーと味が違う最大の原因はここにある。
 そして、生産性の悪いリベリカ種は、生産こそされているが少量で、通常日本では手に入らない。
 コーヒー豆の品種だけではない。農園の育て方でまた味が変わる。
 限定的ではあるが、完熟させた豆だけで作ったこくと香りの強い、まるでチョコレートのようなコーヒーもある。
 彼女は、香気も苦みも強いコーヒーが好きだ。入手のしやすさから結果的にアラビカ種のティピカを今は購入している。
 しかし好きの限度というのを越えているかもしれない。何故なら一杯は平気で飲み干すからだ。
 カップで二杯目ではない。コーヒーメーカーで二杯目という意味である。
 勿論このオフィスにいるのは彼女一人である。一人で既に1リッターを越えてコーヒーを摂取し始めたというわけだ。
 鼻歌交じりにお湯を沸かし、コーヒーメーカーに注ぐ。
 良いアイディアを思いつく為にはコーヒーは惜しまない。
 二年の間に色々身につけたが、一番駄目な癖がこのコーヒーを飲む癖だった。
 エスプレッソのような濃いものも嫌いではないが、カフェインが少なく独特のこくがないと文句を言ったために、店から苦情が出たこともある。
 エスプレッソは豆を深く煎り、脆くしたところへ圧力をかけて一気にドリップするコーヒーで、普通よりもカフェインの抽出が少なく、コーヒーの味が濃くでる。
 また、水出しコーヒーでも基本は同じで、濃く香りも強いがカフェインが少ない。
 だから一番手軽なこのコーヒーメーカーでぽたぽたとゆっくりコーヒーを抽出する方法を選んでいる。
 カフェインがたっぷり抽出されたコーヒーの香りをくゆらせながら彼女はオフィスで足を組む。
 騎士団の目的は至極簡単。
 魔術の伝統を続けること。
 魔術を極める事ではないのだ。極めた魔術を伝統として引き継いでいく事が重要であり、彼らの求める事だ。
 確かに彼女はそれを邪魔しようとした事になっている。しかし、実際には逃がした卵達もいくらか回収されているだろう。
 それは不本意だが、逆に言えばそれも一つの交渉材料になる可能性もある。
 ある種、彼女自身という魔術の『技術』も重要なはず。だが、彼女の自由を確保するのと引き替えに――
――私が……それでは本末転倒だ。何のために私は、こんな。……
 考えてみれば、難しい話ではない。
 しかし、簡単にいくわけではないだろう。そもそも、騎士団の考え方が気に入らないから今ここにいるのだ。
 勿論戻る気はない。戻れない。だから――
 そこまで考えを巡らせて、ふむと頷いて腕を組んだ。
 部屋中にコーヒーの香りが漂う中、まるで眠るようにうなだれる勇佳。
――騎士団は秘密主義だ。私の持っている秘密を暴露されるのも嫌がるだろう
 しかしその秘密とて、週刊誌などで騒ぐような代物ではない。
 実はオカルト雑誌に持っていったところで、これも話にならない。
 結局秘密は秘密なのだ。
 どうやってもその秘密は漏れることなど、ありえない。ともしいえるのであれば、逆に彼女の今の状況というのは、別に大きく危うい訳ではない。
――本当にそうか?
 もしそうであるなら、彼女の逃亡というのはさほど難しいものではない。
 ただ彼女を追う理由が、魔術師の卵を解放した罪を償わせるものか、彼女自身の価値のためになるからだ。
――ならば罪をどうにか償えば良いのか?
 かたりと小さな音が、彼女以外いないはずのこのフロアに響く。
 勇佳は唐突に割り込まれたその気配に気づき、一気にカップの残りをあおる。
 そもそもこのビルは結界によって完全に現世から隔離している。
 昔の仙人の住処も同じような仕組みがそなわっていたといわれているから、恐らく似たような物なのだろう。
「……誰だ?」
 だからここに来る人間というのはあまりにも限られている。
 くるりと優雅に椅子毎振り向くと、そこには小さな女の子がいた。
 綺麗に切りそろえたおかっぱ頭で、日本人形のような鋭く細い吊り上がった目を持った、どこかはかなげにも見える女の子。
 自分の胸の前でぎゅっと縮めた両腕には、手縫いだろうか、小さな人形が抱きしめられている。
 おすまし顔とも違う何とも言えない貌で彼女をじっと見つめている。
「……お前のようなモノが来る場所ではない。即刻立ち去れ」
 だが勇佳は彼女のそんな雰囲気にも気圧されず、片眉を上げるといぶかしがるように睨み付け、端的に言い切る。
 くるり、と最初振り返ったようにもう一度向こう側を向く。
 そして腕を組んで、天井を見上げる。
 いや――天井の向こう側、何もない、抜けるような蒼穹を彼女は、その視線の先に捉える。
「まどか」
 小さく少女の声が響いた。
 勇佳はゆっくり目を閉じ、ふっと力を抜くように息を吐く。
「『円』か。……良くない。あまりにも似合い過ぎる名前だ。――だから、その意味は非常に良くない」
 まどかと名乗った少女の貌は変わらない。あまりにも無表情で、感情を忘れてしまった、まさに日本人形だ。
 尤も着こんでいるのは白い無地のワンピースなのだが。
 勇佳は立ち上がり、くるっと半回転してもう一度彼女と向き合う。
 但し今度はさらに視点が高い。
 子供を見下ろす大人の視点――尤も勇佳の身長であればさほど高くないが、それでも酷く小さい少女とは比べるべくもない。
「と言うことはお前、後ろに連れてきたのではなくて『内側』に抱いてきたか」
 返事はない。しかし、先程自分の名を名乗ったのだから、言葉が分からない訳ではないだろう。
「その男……父親か?」
 今ここにいるのは二人だけ。
 ここの主人として君臨している我が儘な魔女と、本来ここに在らざるべき少女。
 後ろにも誰もいないし、彼女が抱きしめているのはただの人形、恐らく熊か、猫の手製のぬいぐるみだ。
 判断に迷うのは耳が丸く茶色をしている癖に、口元が猫なのか熊なのか判別がつきづらい形状をしているからだ。
 目も互い違いに、どこかずれた形で止められた黒いボタンが二つ。
 合計四つの目が勇佳に向いている――いや。
 少女は目を丸くして、そしてついっと細めるように伏せた。
 戸惑いと、肯定。
 ふむと勇佳は腕を組んで首をかしげる。
「『創造主』ではなさそうだな」
「はい」
 今度は明確に返事があった。何も知らなければ睨み付けているかのように感じる視線だが、少女にそんな感情はありそうにない。
 こんな貌をしているだけ、こんな貌に『作られた』存在。誰かが作った人形。
――いや、『器』か
 そう、器。中身が空っぽの器。そしてそこに納めるのは。
 勇佳はふっと短く息を吐き出し、意識をクリアにする。
 魔術師というのは――特にそれが一流であろうとなかろうとだが――あらゆる感覚を自分の意のままにする必要性がある。
 意識で自在に操る事が出来なければ、肉体の感覚を失った時に制御ができるはずもないからだ。
 彼女は少女の中に納められた『気配』に焦点を合わせて自分の感覚を一気に解放する。
 深呼吸してじっと見つめると言った方が正しいだろうか。
 勇佳が本来見えてはいけないモノ、『霊』を見る時には緊張を解いてそれにふれる事にしている。
 創造主ではないものを抱え込んで、意志がはっきりしないというのはどういうことか。
――ふむ
 勇佳は眉を顰めた。
 手におえないような事ではないのだが、いかんせん、今この状況があまりにも不自然、いや、非常識な事を思い出す。
 今彼女が対峙しているのは彼女の隠れ家なのだ。
 お客を招く為の場所ではない。結界の中なのだから、入る事は普通は出来ないというのに。
 考えられるのは彼女が結界を解除したか、もしくは元々親和性のあるモノなのか。
「お前」
 勇佳は今までいぶかしがるように細めていた目をくりっと大きく丸くして。
 そして、どこか優しげな笑みを浮かべた。
「丁度良い、そう言うことなら助けてやろう。どうせ自分の行き先も決まっていないのだろう?自分が何をしたいのかすら明確ではないのだろう?」
 結界を無視してここに辿り着いた。これは『まどか』が人間でなければ別段不思議ではない。
 引き寄せられたのだろう。
 この結界は、魔術の心得のない多くの人間を拒むモノだからだ。
 まどかという名前がはっきりしているくせに、所有者、もしくは創造者は彼女の目的をきちんと設定していないこと。
 目的を達成したから彼女の存在意義は失われたにもかかわらず、ここまではっきりした形を保っている事が、その矛盾が彼女を苛んでいる。
――自然発生、ではないだろうが、ふむ
 偶発的にここまで顕現することは有り得ない。
「だったら、私の言うとおりにすることだ」


「なんだ、私の出る幕などなかったかな」
 勇佳は『人形』の後片付けのために、とある場所まで出かけていった。
 首都高速でほんの数十分。東京湾の向こう側にある都市に、探す青年がいた。
「え……」
 そしてそのすぐそばに、一人の女性がいた。
 うつろな目をした青年と、焦燥感にやつれた一人の女性。
 同年代ぐらいだろう、彼に肩を貸している姿を見て口元をゆがめて見せる。
「あぁ、君。そう君だ。君がいれば恐らく、彼は大丈夫だ。今はまるで糸が切れた凧のようだがな」
 勇佳はいつもの超然とした態度で、年齢不詳の雰囲気を湛えた笑みに凄みを効かせる。
 ぎゅっと絞り込まれる瞳。
「宙を舞う凧を追うのは難しい……が、残念ながら落下する凧を受け止めなければならない」
 謎かけのように、勇佳はたとえ話を続ける。
「私は凧が落ちる行く先を探しに来たんだが、まあ、そこに君がいたという訳さ」
 そう言って肩をすくめると、彼女は興味をなくしたようにくるりときびすを返した。
「あの」
「大丈夫だよ。その男は助かる――落下する凧には、地上に縛られた糸がないんだから」
 女性の言葉にかぶせるようにして言い切ると、顔だけを彼女に向けて笑う。
 子供のような無邪気な笑み。
「大丈夫だよ。糸の代わり、君が風になってやれば凧はまた舞い上がる」
 そして今度こそ勇佳は振り返りもせず、自分のオフィスに向かう道を戻っていった。

 それはある種のきっかけだった。
 勇佳はゆっくりとながら、自分がいるべき立場を見つけるようにしてゆっくり足場を固めていく。
 あの時の少女は、世の中の裏側でしたたかな女として。
 『ヒト』とは違う場所で。
 人のために。
 彼女が選んだのは、その職業。
 
 それが、『始末屋』だった。


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