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The borders
第 5話 騎士団


 アレは出会いたくない敵だ。
 多分誰にだって、苦手とか得意な分野とかあるはずだ。私にとってそれはアレだ。
 アレというのはあまり適切な言葉ではないと思うかも知れない。でも、私はアレをアレ以外の言葉で表現したくない。
 最も適切な言葉が『アレ』だと思うからだ。
 君はにくまんを見て『これは黒砂糖と呼ぼう』とは絶対に思わないはずだ。何故なら不適切過ぎるからだ。判るな。
 まあ確かに、拾われて今まで生きているのはアレの御陰だ。そうさ。それだけだがな。
 なんだ信じていないのか?……いや、良いが、別にアレを見た目だけで判断したら痛い目に遭うと言ったはずだ。
 だから今では師匠ではない。アレであり敵だ。私にとって会いたくない最悪の一人、だ。
 ああ、騎士団は関係ない。確かに騎士団所属扱いになっているんだろ?まだ私は。
 だが本来は追放を受けるはずだった。実際に衝突したのは私ではなく、アレなんだが……私はその時には確固たる意志と自由があった。
 既に完成された人格であれば、それから先の人生を迷う事はあったとしても選択を迫られるだろう。
 いかに未熟であったとしても選んだ道は進むしかないだろう。それが責任という奴だ。違うか?
 残念ながら、私には自由が与えられていた。それから逃げる事なんか出来なかった。私はそのためにアレの弟子扱いだったのだからな。
 なんだ心配そうな顔をして。自分がどう思われているのか気になるのか?
 残念ながらどう思われていようと、『思われる』事だけはどうにもならない。
 それとも干渉できるか?まあやってみればいい。酷くなるだけのことだ。
 それは雪を掴んだ時に冷たいと思うか、思ったより堅いと思うか、面白いと思うかとの違いだ。
 多分アレも私のことをずっと弟子だと思って居るんだろう。別に――それはそれでいい。
 私にとってお前は弟子だ。不出来で、物にならないかも知れないが弟子だ。
 お前にとって私はなんだ?ただのぶらぶらしてるアクセサリーショップの店長か?
 仕事しない変な女か。それとも、実はぞっこん、落としてやりたいNo.1だとか。それはない?そうか。残念だ。
 いや、あくまでたとえ話だ。でもそういうものじゃないか?人間関係というのは。
 アレは騎士団所属で、私は扱いで、お前はフリーだが……できれば会わせたくなかったな。
 ああ、お前も騎士団に所属する可能性があるからだよ。
 アレが苦手でもあり、嫌いなのは騎士団が嫌いだからだ。
 騎士団はなにかだって?魔術師のコミュニティだよ。集団、徒党、ギルド、サークル、倶楽部、好きな呼び方をすればいい。
 ただし結社という言葉だけはやめておけ。それは誤った使い方だし、なにより印象が悪いだろう。
 魔術師はこぞって生贄を捧げて悪いことを祈り、自分の為に悪魔と契約するなどと思ってる輩が居るが、アレなんかいい例だ。
 どうやったらアレが、生贄を殺すことなんかできるか。
 五月蠅いな、少なくとも一人の人間に関わる時間が長すぎたと言ってくれ。
 否応なしに、確かに、私の殆どをアレは知っているから苦手なのだしいやなのだ。まさに敵だ。
 言っておくが私にとってのアレは、お前にとっての私なのかも知れないのだがな、通憲。


     ―――――――― Chapter:2 始まりの夏


 選択というのは非常に唐突に行われる。
 それが意志のある形で常に契約を交わされるとは限らないので、人生は神という名前の詐欺師との戦いだと言えるだろう。
 神という名前の詐欺師が用意した、運命と呼ばれる簡単で且つめんどくさい契約を、彼女は『選択』と呼ぶ。
 意志なくして、選択肢を削られながらも選択していく過程を、きっと彼女は『人生』と呼ぶつもりなのだろう。
 もう選択肢の殆どを削られてしまっているから、その表現は大きく間違っているとも言えるかも知れないが。
 初めから大きく逸脱した師匠との関係。
 記憶としては曖昧ではっきりしないが、彼女は白いバンの後ろに座っていた。
 パイプを組み合わせたような、簡素な折り畳み機能のついた予備の椅子だ。
 後ろを見ると、訳の分からないものが無造作に載せられている。
 がたがたと不規則に路面のでこぼこを拾い、彼女は体を固定しようと椅子のあちこちを持ったり引っ張ったりしている。
「契約、ですか。まあそう言うこともあるんでしょうけどね」
 助手席に座る男が、声を上げた。
 ここからだと殆ど見えないが、多分かなり若い青年だろうと言うことは容易に想像できる。
 声色に男性よりも幼さを感じさせるものが残っている。
「でもですよ。たとえば――弟子、という事にしてしまえば、騎士の方々も文句は言わないのではないですか」
「従者か」
 答える運転席の男は、こちらは比べるとかなり男らしさのある声をしている。
 張りのある、音がはっきりとした声だ。
 従者というのは通常騎士に一人付く、小姓の事である。
 少なくとも男の言葉からはそう言うのが聞いてとれた。
「異性の従者というのは」
「問題ですか?」
 助手席の男がちらりとこちらに目を向けた。
 がたん、と車が揺れた。同時に、男の姿がはっきり見えた。
 否。彼は席の間から、覗き込むように体を起こして、手を席にかけて彼女を見た。
 狭い車の中だから彼女も逃げようがない。
 もっとも逃げるつもりはない、だから、自分に向かってくる男――いや、彼女の目にはほぼ同世代に見えただろう、少年の顔を見上げた。
 小柄で、どちらかというと整った顔立ち。
 僅かに垂れた目と男にしては落ち着いた小さな唇。
 小さな日本人とは思えない鼻。
 顔の作りが細やかというよりは部品がそれぞれかなり小さく見える。
 のんびりとした、落ち着いた雰囲気は子供のようには見えないが、彼も、そして彼女も何故ここにいるのだろうか。
「……普通は問題だ」
 運転手の顔は見えない。
 少年が助手席に戻るのを見送って、少女はそのまま窓の外に目を向けた。
 がたがたと揺れる車内、目に映る自然物の間にちらつく木漏れ日。
 場所は――子供だから判らない。憶えてなどいるはずもない。しかし、かなり深い山の中で。
 葉擦れの音に混じる光が、それだけが妙に印象的に記憶に刻み込まれていた。
 こんな車の中にあって、少女は決して男達の家族ではなかった。
 落ち着いて少女の姿を見れば、恐らく年齢は10に満たないどころか、もう少し幼いようだ。
 おかっぱ頭に大きな目は、まるで拾ってきた猫の子のような印象を与える。
 着こんだピンク色のワンピースに、肩からかけられた小さなまるいポシェット。
 白いソックスに丸い毛玉のような飾りが二つづつ、時々揺れる車に合わせて揺れている。
 赤いビニールの靴がよく似合っている。
 泣いてもおかしくないような状況なのに、じっと外を見つめている。
「問題なら他にも掃いて捨てる程あるでしょう?だったら一緒、おんなじだと思います」
「普通はそう言うときは問題点は少しでも排除する物だ」
 相変わらず淡々と続ける男に、くすくすと少年は笑って言った。
「既に問題しかない場合、むしろ問題点だけで構成してしまえばどれが問題点なのか指摘すらできませんよ」
 開き直ったような少年の言葉に、運転をする男は右手で眉根を揉んだ。
「俺はお前の指導方法を間違ったのかも知れない」
「間違った?いえ、私の才能の欠落と努力のたまものが、今の私という形で結実しているだけのことです。御師はお気になさらず」
 にこり。
 彼は、子供とは思えない言葉で師と呼んだ男の顔を見ながら罵倒する。
 いや――罵倒されているように思う方が、多分それを罵倒と理解しているのかも知れないのだが。
 本人にその自覚はどれだけあるか、彼の外観では判らない。
 彼――杜若桐荏の外観にどれだけの意味があるのか、それすら。
 やがて車は夕闇に紛れるような形で、人気のない屋敷の入口をくぐった。
 門柱は門の錆により赤く変色し、門扉もいつか崩れそうな位腐っている。
 その向こう側にある屋敷はしかし、逆に何時建てたのか判らないぐらい新しい匂いがする。
 樹の匂い。石膏の匂い。土の匂い。どれをとっても、決して古ぼけたこの屋敷周辺とは時間を画する別物にしか感じられない。
 何故。
 だが、車に乗った人間達はそんな事を気にしている様子はなかった。
 まず少年が降り、すぐに少女が乗る後部ドアに取りついた。
 がら、と勢いよく開いた扉に、少女は少し怯えて体を反らせる。
 扉の向こう側に見えた少年に戸惑いのような貌を浮かべる。
 彼がにっこり笑って、すっと差し出した掌にも彼女は目をぱちくりと瞬かせて首を傾げるばかり。
「降りて。着いたよ」
 今の少女には逆らうだけの選択肢は残っていない。
 実際、彼女がそこにいる理由は、彼のせいでもあるから――そして、彼女が逆らう事も今はできないから。
「……うん」
 彼女は怯えながらも、そう答えると彼の手を取った。

 彼女を案内するように先導する少年。
 いつの間にか男は姿を消し、二人で屋敷の奥へと歩いていた。
 屋敷は、少女が感じた以上に大きく、内装は漂白したように白く、むしろ病的なまでに小綺麗な印象を受けた。
 これは清潔感という表現よりも無機質という言葉の方がお似合いな程だ。
 足下に敷き詰められたタイルも、冷え冷えとした黒い大理石だ。が、これが個人の所有物のようには思えないせいだろう、逆にこの屋敷には似合っているようにも思えた。
 廊下を歩いている限り、生活感を感じるような小物はない。
 壁にランプが並んでいて、古びたすすを吐き出しながらほのかな灯りを提供しているが、電気は通っているのだろうか。
「さあ、どうぞ」
 少年は突き当たりに有る扉に手をかけて、やはり体重を載せるようにして扉を開いた。
 黒檀で出来た、妙に物々しい扉は分厚く、多分少年の力では簡単に動かないのかも知れない。
 押し開いた扉の向こう側は、小さなベッドと机が二つあるだけの、真っ白い簡素な部屋だった。
 六畳ほどの空間は、二つの出窓があり、ここが角部屋なのだと言うことを認識させる。
 天井には四角く大きな――多分、電灯があり、部屋の内装は落ち着いた木製の壁を思わせる壁紙が敷き詰められている。
 そして、床は、薄いベージュ色をした薄手の絨毯が敷いている。
 だがそれだけで、まるでモデルルームのように人の気配がしない。
 生活臭のない部屋はまだここに誰も住んでいない事だけを理解させた。
「今日からここが君と僕の部屋だから」
 きょとん、として、少女は言葉の意味を掴みかねていた。
「別に、変な意味じゃないからね。一応君は僕の従者という扱いで、弟子になるから」
 少年はやはり悪びれもせず臆することもなく、まるで当たり前のことを伝えるように言う。
「……どうして?」
 だから少女が首を捻って、不思議そうな貌で言うのも聞き流すように右手を挙げて答える。
 貌に変化はない。
「そうだね」
 右手をそのまま自分の右頬に持ってきて、軽く拳を握る。
「正直言うと、自分の弟子、というのもおかしな話だけどね。君には才能があるという事だよ」
「才能?」
 こくりと彼は頷き、腕組みをする。
「そう。才能。魔術の才能だ。普通どんな人間にでも備わった生まれつき得意な分野というものだよ。判る?」
 ぶんぶん、と首を振って、無表情のまま彼女はじっと彼を見つめる。
「……私が?まほうつかいになるの?」
 正直な話だった。
 聞かなければいけなかった。
「そう。君はこれから魔法を使えるようになるんだ。でも、だから僕の弟子じゃ、おかしいんだよね」
 彼は自嘲するように苦笑して、肩をすくめる。
「僕は魔術師じゃない」
 魔術の基礎は判るけどね、と言いながら部屋の端にある机の引き出しを開く。
 真新しい木製の引き出しの中は、樹の匂いと古びた本の匂いがする。
 中には二冊の、酷く古びた本が有った。
 分厚い革表紙の、黒に金文字で『魔術』と日本語で刻まれた本。
「これは残念ながら魔導書(grimoire)と呼ばれるものじゃないけどね。教科書。これの中身だったら教えられる」
 再び残念だけどと繰り返すと、彼はその本を差し出す。
 少女は興味深げにそれを眺めて、手に取る。
「お、重いよ……」
 その様子ににこにこしながら、彼は机に腰掛ける。
「僕じゃ実践できない。僕には魔術を行使する為の大切な物が欠けてしまってるから」
 そして彼は多分、と言いながら腕を組んで、小首を傾げてくるりと頭を一回転させる。
「君は。僕には欠けたそれを、普通よりも激しく多く持っているのか、もしくはそれをコントロールできるんだよ」
 だから。
 多分、弟子ではなくて、『補助者』として宛われようとしているのか。
 桐荏はこの少女についての『理性』や『感情』は持ち合わせていない。
 まだ自己意志や責任、そして発展途上の感性すら無視する『騎士団』の行動にすらなんの感情も憶えていない。
 ただ。あるがまま。彼らが見つけた才能有る存在が彼女であり、それがたまたまこうした出会いの切っ掛けになったに過ぎない。
 そこに善悪の区別などない。
「だから君は」
 騎士団にまだ他の意図があることも理解している。
――僕の元に来ると言うことはそういうことだから
 彼は、今から彼女に何をするべきなのか、暗黙のうちに指令されている気分であった。
 それに反発することはできるだろう。直接、実際に任務として引き受けた訳ではないのだから。
 『だからこそ』、彼は『自分の意志で』、『最適化』してしまう。
「今僕の前にいる。さあ授業を始めよう。それとも先に休憩するかい?」

 少女の名前は笠下勇佳。笠下家の長女にして、『先日家族と共に事故死』した。
 今ここにいる少女は、既に社会的なつながりが一切存在しない。
 詳しい理由は彼女は判らないし、憶えてすらいない。
 多分、今後両親に会うことはもうないだろう――会ったとしても憶えていないか、忘れたことにされるだろう。
 勇佳がそれを理解するのはもっともっと後の話。
 今は、それよりも彼女の記憶を占めているのは、悲しみでも寂しさでもなかった。
 夢を見ているような感覚。
 ふわふわして、頭の中が真っ白で、何が起こっているのかを理解することも受け止める事も困難な状態。
 今の彼女ならこの時の状況をこう言うだろう。『エネルギーが有る状態』だと。
 エントロピーが高い状態とも一致する。うまくコントロールできるのであれば、これは大きな力として使うことができる。
 しかし制御する事は非常に難しい。
 内燃機関のエネルギー効率の低さをご存じだろうか。平均で15〜20、燃料電池ですら30%程度。通常はさらに低いと考えた方が良い。
 事実、彼女はこの時期は殆ど自分の意志による記憶はない。
 勉強をしたらしいということは判るが、内容はさっぱりなのだ。
 色んな事を書物と桐荏から学び、外から届く食事を済ませ、桐荏の案内でお風呂に入り、寝る。
 彼女が自分の意志を取り戻すまでに一週間以上かかってしまった。
 何をして良いか判らなくて、何もできなかったから、与えられた物を消化した。
 ただそれだけだ。
「おはよう」
「おはようございます……」
 だが。
 目が覚めた時、彼女は一斉に自分の中で疑惑と不安が襲いかかってきた。
 何故こんな事をしているのだろうか。
 何故こんな所に押し込められているのか。
 何故こんな本でこんな内容を憶えなければならないのか。
 今自分は何処にいて何をしているのか。
 友達はどうしているのか。
 本当にそれは不意だったが、彼女はようやく自分を取り戻し始めたらしい――これを回復と呼んで良いのか判らないが。
 普段の朝と違う様子に、桐荏はすぐ気づいたらしい。
 そして、これが訪れる事も理解していたようだ。
 すぐに彼女に駆け寄ると、躊躇せず抱きしめた。
 真正面から。
「泣いてもいいよ」
 桐荏は彼女に何があったのか、知っていた。
 しかし年端もいかない子供だ。教えたところで信じられないだろう。
 『騎士団』が何をしているかも、彼は理解しているから。
「大丈夫だから。僕は家族と思って欲しいな」
 彼女の家族は社会から完全に消えた。
 別の顔を持って、海外で完全に別の生活を営んでいることだろう。
 そのために騎士団が何をしたのかも知っているし理解している。
 魔術師。
 それは社会から隔離された中で存在するものでは、決してない。
 だが秘術でありその術(すべ)は一般的に知らしめる事が出来ない。
 従事する人間は出家するという言葉を用い、この騎士団――そう、『修道院』に取り込まれる形で魔術を学ぶ事になる。
 俗世と切り離される事がどれだけ怖ろしい事なのか。
――残念ながら僕にはもう理解できないから
 勇佳は抱きしめられるとは思っていなかったし、久々の人のぬくもりに、不意に崩れた拮抗が戻るどころか一気に崩壊するのを知るだけだった。
 たった一週間しか側にいなかった他人だが。
 もうどこにいるのか判らない両親以外の、今まで知っていた誰よりも近くて、今一番知っている人間。
 信用も何もない。ただ頼っていいなら頼るだけ――そんな意志すら持てず。
 無理もないだろう。まだ小学生にもならない子供なのだから。
 泣きじゃくる勇佳を抱きしめたまま、その感情を推し量ろうとするが、自分の中にないものは外側に見ることが出来ない。
 観察して自分の手元にあるデータと照らし合わせてこれらしいと尤もらしく理由付けするのが関の山。
 その一点に関してはコンピュータとさしたる差はない。それだけならむしろ劣るとも言えるだろう。
「……今日はおやすみにしよう。ね」
 ぽんぽんと背中を叩いて、彼女が体を離そうとするまで抱きしめていた。
 やがて泣き疲れたのか、彼女は泣きやむとそのままベッドにころんと横になり、そのまま寝息を立て始める。
 桐荏はくすりと笑い、彼女の上にシーツをかけ直してやると、そのまま部屋をあとにした。
「おやすみ。せめて良い夢を」
 これから見る現実は、夢などとはほど遠い物だから。
 彼は口の中で呟くと一度振り向き、彼女の部屋の扉を見た。
 白い壁の中に沈む黒い扉。
 重々しい黒檀でできたその扉に、彼はまさかもう一度出会うとは思っていなかっただろう。
 彼女に会うために。勿論それはさらに先の話になるのだが。

 笠下勇佳。
 自営業を営む笠下商店の一人娘。
 銀行から借りた借金に加え事業拡大・コンビニ化の際の負債が膨れあがり首が回らなくなる。
 別に勇佳は、だからつけ込まれたわけではなかった。
「才能というのは非常に面白い」
 きん、と甲高い音がした。男の指に填めたリングどうしが当たった時の幽かな響きだ。
 男の指には幾つものリングが填められているが、服装や態度は決して華美ではない。
 男は彼女の映っている写真を眺める。写真には運動会で走る彼女の姿が映っている。
 恐らく両親が撮ったものだろう。
 男はそれを机に置くと両手を組んで顔を上げる。
 桐荏がそこにいた。年の頃は中学生に満たない成長期の少年のようである。
「人間というものをこねくり回して作ってみたくなるな。それは神様の特権なのであろうが」
 男の言葉が『言葉通り』のものであり、男女間や人間の営みその物を差している訳ではない事を、彼は知っている。
 何故なら彼は『錬金術師』と呼ばれた末裔で、男の言葉はそれを揶揄する物だったからだ。
 男の言葉にはあまり反応を見せず、桐荏はただ言葉を継ぐ。
「私達の技術というのは、そのために造り上げられた物と聞き及んでおります」
「人の手による創造か。ふむ」
 尤も、と恐らく男は続けただろう。
 神への反逆ともとれる、無謀な行為とも言えるそれらに対して、人間は愚鈍且つ無意味な生き物でしかないと。
 だが、今回は彼と論議しているわけではない。
 男は続けた。
「……それで?」
 非常に単純な質問で、拍子抜けして意味を捉え損ねかねない言葉。
 しかし、今ここに彼がいる理由を考えればすぐに理解できる。
 新しく入った少女に対する教育の報告なのだから。
「カバラの基礎から始めております。子供の記憶力というのは非常に素晴らしく、価値有る素体かと」
 これは何も勇佳に限った話ではない。『子供』と言う点を彼は強調して言う。
 特に錬金術にとっては、何にでも変化する素体については非常に重宝し、また価値があるとされる。
 その最高峰が『賢者の石』と呼ばれる触媒である。
「そうだな。子供でなければ買い取った意味がない」
 じ、と桐荏を睨む視線に気づくが、彼は無視した。
「……しかし従者だと?」
「子供に最適では」
 上目遣いで、覗き上げるようにして彼は言う。
「異性というのは聞いたことがない。が、同性でも充分問題になったからな」
 尤も子供が産まれない分ましだと男はさらりと言うと人差し指で机をこつこつ叩いた。
 神経質な甲高い音が部屋中にこだまする。
「それについては私から口添えいたします」
 と、桐荏の隣に立っていた男が言う。
 桐荏曰く『御師』だ。
 男は眉を寄せたが、彼の言葉の意味は判っている。
「……成る程。興味はつかないな、錬金術と言うものは。……中世から宗教・医術・呪術・化学・冶金、ありとあらゆる総合学問にして『魔術』のカテゴリーに含まれるわけだ」
「『導師』様の割には、今気づいたようなお言葉を」
 桐荏は口元だけを歪めて、やや皮肉っぽく言う。だが『導師』は笑って小首を傾げてみせる。
「鏡崎、なかなか良くできているな」
「いえ」
 『騎士団』。ただし、意味は修道騎士団と呼ばれる、基督教の組織を元にしたものである。
 騎士団長は枢機卿や司祭ではなく別の階級で呼ばれる事になる、やはり魔術師だ。
「中庸を目指して、辿り着く場所を模索しながら出来た副産物か。我々に共通しながらもやはり異質よな」
 じゃり、と彼は自分の指を動かしてリングの音を立てる。
 耳障りな金属音に、鏡崎と呼ばれた男は顔をしかめるが、桐荏は全く顔色を変えない。
「中庸の地平とは、男であり同時に女であり、そこに総てが共存しありとあらゆるものであるという事でございます」
「どれでもある。であって、どれでもない、ではないと」
 ふむ、と息を吐いて肩をすくめる。
「では貴殿は失敗だと、御師はそうおっしゃっているぞ?」
「いえ、導師様。失敗ではなく実験作・実践の一つの形であり礎。どれでもないということはどれにでもなりうるという可能性の形なのでございます」
 面白がって話しかける導師に対して、さらりと応えると彼はにこりと笑った。
「私は御師の努力と結果に報い、さらなる精進を続ける所存です」
 まるで筋書き通りだ。桐荏は――文字通り自分の中で構築しておいた脚本通りに進む科白をただ読み上げれば良かった。
 今のところ、ほぼ予想通り。何も考える必要はない。
「良かろう。申請の方、滞りなく進めるとしよう」


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