第4回 預言
このコラムは決して真実が書かれているとは限りません。
論理的に『魔術的に』考慮した、『主任魔導師』の語る講義の一つであります。
これは我が精霊学院の講義の一つであり、また一つの形であります。
尚質問、批判等意見は受け付けます。
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予言と預言には明確な差がある。
予言者というのは世界にいくらでも存在し、プレコグニションと呼ばれる超能力や未来視等様々な姿がある。
通常は映像、直感のような形で未来の断片をたぐり寄せ、知るという物だ。
予言書の多くがよく判らない形をとるのはこのせいであると、私は考える。
また一部には『ささやき』の形で与えられる場合もあるという。
では預言とは。
これはキリスト教などで『聖者』と呼ばれる人間が神の意志を伝える事を指して言う。
通常ではない形であり、普段は使われないとされる。
今回はこの『預言』に対して焦点を当ててみたいのだ。
預言が使用されるには、あくまで『神がかり』があり、神の言葉を伝えるという必要性がある。
問題は『神』の存在等である。
テトラグラマトン、YHVHの別称であるそれが指し示すように、『神』とは『言葉』であるという。
この世の上位世界は全て言葉で構成されている――というのが魔術における解釈である。
――光あれ、と神は言った。
それが世界の始まりとするユダヤ-カバラ系列の創世では、この世のほとんどは言葉で支えられ言葉により変質する。
言葉とは神であり、神とは言葉である。
では、世界中に満ちたそれに気がつくのは、誰なのか。
ここで『カバラ(KBL)』の言葉が産まれる理由が現れてくる。
カバラとは『受諾する』という意味であり、この世の全てに満ちた『神』――言葉を意味のあるものとして受け止めることを指すのだ。
こうして神(の言葉)を受け止めた人間が、それを伝える事、それが預言である。
――と言ってしまうと小さな矛盾を感じるだろう。
そう、神そのものが存在しないではないか。
逆に言うとこの文面で言う『神』とは別のモノを指していると考えられないだろうか?
そう、前章で記述した『無意識の自我』である。
普段は理性の下で眠っているこれだが、これは産まれてからの記憶を忘れずに握っている。
長期記憶と短期記憶の話はご存じだろうか?前者が肉体的であり後者がむしろ精神的なものである。
詳しくは省くが、以外に人間というのは記憶力が悪くなく、生存のための本能故か『決して忘れない』記憶を残す事ができる。
さもなければお湯でいつまでもやけどをするだろうし、刃物に素手で触れるような真似をするだろう。
目で見た情報のほとんどを『覚えていない』というのはこの『短期記憶』と呼ばれる意志で認識されるものだけであり、実際には一度見た物は(完全ではない形であるが)二度と忘れられないよう記憶されてしまう。
これは耳で聞いた物も全く同じ事である。ただ、それを意識して理解したり記憶として引き出せないだけなのだ。
デジャブと呼ばれる現象もこれが原因であろう。
ここまで語れば何を言いたいか判ると思う。
長期記憶の塊が『無意識の自我』であり、人格的な『神』と認識される物であり、そして魔術に欠かせないあるファクターだと言う事だ。
意識している『もの』を自我と借りに呼ぶと、自我は(長期的な物も勿論あるが)短期記憶に支えられる非常に曖昧な物である。
これに引き替え、今までの様々な経験と記憶をため込んだ『無意識の自我』はまさに神に等しいかも知れない。
だが時としてそれが自我に牙をむく場合『霊に取り憑かれた』『悪魔』と呼ばれる事となる。
それだけの力を、我々人類は産まれた時から備わっているという事に気がつき、無意識の自我と向き合えるようになるための手段―
―これこそ魔術なのだ。
最後に。
この無意識の自我は、確かに怖ろしく強い。
だがあくまで自我の意志の下に存在する物である。
意志を保つために魔術師は魔法円や奇怪な文様、精神集中のための呪文、音楽を利用する。
それにより無意識の自我を抑制し、思い通りに操ろうとする。
時として他者に影響を与えるために『特有の音(聴覚刺激)』や『形状・光(視覚刺激)』を無意識に発生させる。
人間に対して、又は動物に対して影響があっても物理的に与えられないという理由はここにあるのだ。
また魔術も万能ではない。
今までに語ったとおり、それはあくまで自分の力の範疇でしかないのだから。
本気にされると困るんですが(^^ゞ
これで第二回魔術講義を終了します。
まぁ、こういう考え方が一つのオリジナル小説の糧になっていくんだと思ってください。
ではまた次回をお楽しみに。