ゲームとこれからの人のために
インベーダーゲーム、ブロック崩しに代表され、そしてそこから始まったコンピュータゲーム。
文化の発展は常に娯楽――快楽と共にあったという。
このコラムではゲームのルーツを無視して、コンピュータゲームに与えられた責務を考察してみたい。
尚、このコラムで語られている全てがフィクションではなく、また全部がノンフィクションであるとは限りません。
コンピュータゲームが大きな子供のおもちゃから一般大衆の娯楽に変わって久しいこのごろ。
はたして、昔と今とどう変わってきたのだろうか。
よく言われるコンピュータゲームの分類があるが、これは大きな間違いであると著者は指摘する。
ここでいう分類とは『ジャンル』ではない。
アーケードゲーム、パソコンゲーム、コンシューマゲームなどという機種・性能等を比較した場合の分類である。
これは一般的に正しいと思われているが、よく観察すればそれはジャンルの集合体であり便宜的な呼び名に過ぎない。
その証拠に、この分類はコンシューマ機の発展により全く無意味な物と化した。
NAOMI(=DreamCast)やTITAN(=Saturn)に代表されるSEGAの基盤がこれを象徴しているとも言える。
故にコンピュータゲームを大きく捉えてみると、もっと別なところで分類されるべきだと感じるだろう。
シューティング、アクション等に代表される『点取り』ゲーム、プレイヤーに役割を押しつける形で進むシュミレーションゲーム、そして最近流行になったノベルゲームである。
恐らくどの機体であってもこの3つの分類で分類が可能な物がほとんどだろう。
古典的なのは点取り型のゲームではないだろうか。
恐らく誰もが良く知っているタイプだ。
勝てばいい。
それが必須条件になっているゲームであり、プレイヤーには『点取り』を強要させる。
もちろん簡単にとれるのであれば面白くないから、様々な仕掛けがしてある。
最近の代表格が格闘アクションと呼ばれるジャンルである。
心当たりはないだろうか?『必殺技』と呼ばれるコマンドを覚えなければならなかったり、探す必要があったり。
あまつさえ益々複雑化していく超必殺技。
点取りタイプらしい発展をした1ジャンルである。
シュミレーションゲームは押しつけられる役割によっては様々にジャンル分けされる。
もしかすると、ゲームの本質はこれではないかとまで言えるほどである。
アクションゲームであってもたとえば――そう、フライトシュミレータはパイロットの役割を強要し、ロシアまで飛んで核燃料貯蔵庫を爆破しろと言う。
ノベルタイプでも小説で言う一人称が多いのは実はこれに当たる。
プレイヤーは常に感情移入できるよう細かに設定されたゲーム、本コラムではこれをシュミレーションゲームと呼ぶのである。
ただ勘違いしないで貰いたいのは、シュミレーションゲームと呼ぶべきものはあくまでも『仮想世界』を体感させる物だと言う点である。
そういう意味では音楽系のゲームはまさにシュミレーションゲームなのだ。
DJを体感させてくれるゲーム、暗殺者を体感させてくれるゲーム等、まさに様々なのだ。
ここまで書いたところで恐らく反論があるのではないだろうか、と著者は思う。
『なんだ、大きな口叩きながらこれも分類になっていないじゃないか』と。
目に見える話をしているわけではないので大きく誤解を受けるだろう。
通常は目に見える分類で感じているから、そう思うのである。
だがゲームを表面的に分類することで我々は大きな『損失』を受け取っているのである!
例を挙げよう。
あるアクションゲームは確かに『アクション』に分類されている。
だが、当時のゲームシステムでは非常に負担であったらしく、次のような小馬鹿にされた歌まで作られた。
『一歩歩いてローディング、二歩歩いてローディング、ゲーム時間よりもロード時間の方が長い』
これではゲームとしてすら成り立っていないかも知れないが…
またあるゲームはアドベンチャーゲームだと分類されているが、中身はほとんど文章垂れ流しの『電脳小説』。
フライトシュミレータとは名ばかりのドッグファイトゲーム。
著者の言いたいことが判るだろうか?
『ゲームの持つ娯楽性がどの方向にあるのか』
すなわちどんな意図によりどんなプレイヤーを対象にしているのか、で分類すべきであるということだ。
これが著明にに表れているのは同人ソフトと18禁ソフトだろう。
同人の場合、『こういうの』というのを前面に押し出すために好きな人間だけが手に取る事ができる。
(まぁ、同人に手を出す人間は通常文句を言う人間ではないのだが…)
18禁の場合、『ヤるのが目的』な物とそうではない物に分けられるだろうか?だが、結局は18禁にしかない臭いに惹かれているのは否めないのではないだろうか?
ともかくそれらを大きく含め分類できるのが先に挙げた3種類である。
点取りゲームは『戦争ごっこ』を楽しむための、闘争心とそれらを活用するゲーム。
きっとイライラを解消できるだろうし、また逆にそれによるストレスも手にはいるだろう。
またいらぬいざこざの種にもなりかねない。
シュミレーションゲームは『仮想空間』にどっぷり浸かって現実逃避できる。
無論、あり得ない事態を体験することで直面した場合に役に立つかも知れない。
だが、それに浸ることで二度と帰ってこれなくなるかも知れない。
そしてノベルゲームは、『著者の意図』を追うことで新たな知識と考え方を身につけられるかも知れない。
さらに深みへと――反論を述べるために、また賛同の意を示すために――はまることもあるだろう。
ただ自分が言いたいのは、どのゲームどの形式のゲームであっても、いや、ゲームに限らず娯楽は何らかの目的があるはずなのだと言うことである。
その目的――そう、作者の意図にそぐわないプレイヤーはゲームをすべきではないのである。
戦争を仮想体験してみたい人に向けて造られたものが、戦争反対者に与えられるべきではないように。
きついアルコールを子供に飲ませないのと同じように。
ただ目的をはき違えるプレイヤーと、そう、制作者が現代の狂った一面を生み出しているのは否めない。
娯楽。そう、所詮娯楽である。こんなもので人を殺すきっかけになどして欲しくないし、争いの種にもして欲しくない。
願わくば――ゲームの中の理想郷が、革命家達の心を揺さぶるほどリアリティのある物であって欲しい。