Holocaust ――The borders――
Chapter:5
冬実――Huyumi―― 第1話
禁忌。
それを忌避する理由は様々で、それらを知る手がかりを見つける方が難しい。
特になんでもない伝統の場合には、既に廃れてしまっていて現在では何の理由にもならないこともある。
私は様々なそれらの禁忌を犯さなければならない。
いいえ、私にはタブーと言えないのかも知れない。
何故なら前提条件として、『人間』という枷が必ずつきまとっているのだから。
「ひ、ひい」
怯えた情けない男の声が聞こえる。
私の足の下で這い蹲ったモノがそんな鳴き声をあげているんだろう。
僅かに、後頭部から背中にかけてぞくぞくと悦びの震えが伝わる。
身体が求めている。何より自然が否定しようとしている。
人間を。
人間という名前の、全てを破壊し尽くすしか能のない種を。
だからこんなにも私の身体は、今高揚しているのだろう。
自然の摂理だから。
私はさらに右足に力を加える。
情けない声が甲高く響き、嗜虐心を刺激し、私の右足をさらに加速させる。
骨が折れるかも知れない。
筋肉がちぎれるかも知れない。
いつの間にか命乞いのような言葉も聞こえなくなり、意味のないただの悲鳴だけが響いている。
痛みのために口から漏れる音。
奏でる楽器はどれだけ醜くとも、その音だけは確かに愉悦の中にある。
ごきり、という破滅の音が響いて、楽器は沈黙した。
私はその途端興味を失って、楽器を爪弾いていた右足を引いた。
そこには、まだ痙攣する程命の残った人の形をした物がそこに転がっていた。
生きているのか死んでいるのか、どうせこの楽器は、あの臭い場所で全て直すことができる。
その程度のものだ。気にかけて得する理由なんかない。
人間が滅びなければならない理由は幾つもある。
幾らでもある。
でもそれでもなによりも、自然から生まれた私の身体が、それを認めている。
人間とは愚かな存在であると。
人間とは敵であると。
人間という名前の種族は、間違いなく私を滅ぼそうとすると。
それだけ強大な力を秘めておきながら、それだけ大きな力を駆使しつつも私よりも脆弱なのだ。
個々は赤子同然の弱い存在。
なのに何を怯える必要があるだろうか。本当に怯えるべきは、確かに人間種そのものだろうが。
彼らは個々としてではなく、群体としてその統制が行われている。
彼ら個々人を一人ずつ駆逐したとしても、彼らという種族の動きは決して止めることはできない。
彼らは我々とは違う。我々は彼らより種として脆弱ながら、個々は強靱だ。
だからこそ進化から落ちこぼれ、種として固着してしまったのだ。
種として進化を続けるにはどのような姿がもっとも望ましいのか。
それは簡単だ。個々の受ける脅威に比して種がより強固で有ればいいのだ。
種が、それを生み出したはずの自然をすら覆す事ができるほど、強固な――全地球上最強の種、人間。
だからこそ彼らはくべられなければならないのだ、あの、聖なる焔に。
神への、供物として――
でも。
でもそれすら彼らには、進化の階梯を上るための過程にすぎないというのだろうか。
くだらない理由で、私は、追い立てられなければならないのだろうか。
全て彼らの、例えそれは個々の思いでないとしても、掌の上で踊らされる人形のようで。
私は、背中から聞こえる怒号のような声に、ゆっくりと振り向いた。
Chapter 5 冬実 ― Huyumi ―
真桜冬実という少女は、良い意味でも悪い意味でも目立つ少女だった。
高校二年の冬、一度停学処分を受けた事件を境にして彼女の周囲から人が離れていった。
停学の理由は彼女が男子の上級生三人を半殺しにした、というものだった。
「本当に申し訳有りません」
母親が頭を下げるのを、彼女は表情も変えずにただ見つめていた。
頭を下げる向こう側には、しかめ面を浮かべて母親と彼女を見比べる一人の男。
冬実の、高二の担任だった。
まだ教員免許を取ったばかりという感じの若い教師で、時々辿々しく慌てる仕草が一部の女子の間で人気だった。
そんな彼が一度も見せたことのない程厳しい表情を浮かべて、彼女を見下ろしていた。
冬実にはその視線が、彼女を憎んでいるようにも見えた。
憎々しげに見下ろす人間の瞳――もちろんそんなはずはないのに。
冬実はついと視線を上げて、教師の瞳を射抜く。
彼女は可愛いというよりは綺麗だと言うべき、整った小振りの口と細く鋭い目をしている。
見る人によっては酷く恐ろしい顔つきに見えるだろう。
「何をしたのか、判っているのか」
教師の言葉数は少ない。
怒りに震えているのか、吊り上げた眉と一緒に瞼がぴくぴくと動いている。
これが始めてではないせいで、教師も許せないのだろう。
何をしたのか。
簡単だ。口で言うなら、本当に極々簡単な事だ。
――ヒトを一人、殺しかけた
残念ながら殺しきらなかった。
一人の廃人が出来上がっただけだ。
冬実は答えなかった。ただ僅かに目尻を上向きに上げただけだ。
その表情は笑みにも、また怒りにも見える。
獲物を見つめてほくそ笑む獣の顔――それも、たちの悪い猫か狐のような貌。
また逆に、『私は何もしていないのに』と相手を非難する貌なのか。
どんな表情も彼女の内面を映すこともなければ、またそれに他人が感じる物も千差万別だ。
一切表情を変えず相手に百の貌を見せる能面のように美しく、畏ろしい貌。
「はい」
硬質で濁りのない澄んだ声に、教師はさらに気難しそうに顔をしかめる。
「だったら」
何でそんなに落ち着いているんだ。
教師が紡ごうとした言葉は、決して現実的とは思えない言葉だった。
だから、声にならなかった。
「申し訳有りません。停学でも、謹慎でも、よく言って聞かせますから」
ただひたすら頭を下げる母親の言葉もまるで非現実。
――娘は犯罪を犯したのだ
その自覚があるというのだろうか。
致死にいたらなくとも訴訟を起こされれば間違いなく不利、彼女に勝ち目はない。
「じゃあ、後は全てお任せしますよ」
母親の様子にほだされたのか、面倒くさくなったのか、教師は吐き捨てて二人に背を向けた。
被害者との交渉も、基本的に学校は絡まないという形で済ませるつもりだ。
もう学校から事件は離れた――その途端、母親はため息をついて身体を起こした。
「さあ、冬実、帰りましょう」
そのときの彼女の表情は、明るかった。
冬実は無言で頷き、彼女と並んで帰途についた。
母親との会話は一言もなく、事件を詮索するようなこともしないまま帰宅した。
決してこれが初めてだったわけではないし、おそらく黙っておいても大丈夫だと彼女は踏んでいた。
「…また?」
ドアを開けて玄関をくぐりながら、一度冬実を振り返って問うた。
冬実は瞳を揺らせて、ほんの僅か驚いたような貌を――僅かな差で、気づく人間は家族ぐらいしかいないが――した。
そして目を細めると視線を落として、頷いた。
「だったら大丈夫」
母親はにっこりと笑って答えた。
死人がでたわけではない。
やられた相手が、何かを言うわけではない。あの教師とて巻き込まれるのは嫌だろう。
変な噂も流れて貰っては困るはずだ。
――特に男女の微妙な話が絡んでくるとすれば、絶対に
櫨倉統合文化学院のような進学校でそんな話があがったなら、なおのことだ。
職員はもみ消しに走るだろうし、何より櫨倉校長には話を通せる。
今更、気にする必要はない。
母親は打つ手をいくつか考慮して、まず何より、夕食の準備を始めることにした。
冬実はキッチンに消えていく母親を見送ると、靴を脱いで玄関にあがった。
「姉ちゃん、お帰り」
キーの高い声が階段を下りてくる足音にあわせて彼女に浴びせられた。
年の割に少年のようなそれに、小さく顔を上げて応える。
「ただいま、ハル」
そして、柔らかい口調で言うとにこりと笑みを浮かべる。
冬実の弟の治樹だ。
父親に似たぼさぼさの癖っ毛に、やんちゃそうな雰囲気を残した顔つき。
艶のない反射を返す薄茶色の髪の毛に気づいたのか、冬実が視線を強くすると治樹も怯えたように一歩退く。
「…色、抜いてるの」
有無を言わさぬ淡々とした口調で言う。
「あ、あの、これ…」
「……ハル」
ずいっと一歩、治樹より早く踏み込むと、彼はまるで痺れたように動かなくなる。
もう相手の呼吸音も聞こえる程のごく近い距離。
「ごめんなさい」
観念したような彼のその声を聞いて、冬実は治樹の肩から抱きしめる。
「髪の毛でも身体の一部だから。自分で痛めつけてどうするの」
ぱさぱさの彼の髪をすくように指を通し、子供をあやすようにゆっくりなでる。
「……もうやめなさい」
「はい、姉ちゃん」
もう一度彼を抱く力を込めて、解放する。
一瞬縋るような目で彼女を見返した治樹は、次の瞬間音を立てそうな勢いで顔を真っ赤にする。
「姉ちゃんっ!」
「…今更、何を恥ずかしがってるの」
無感動な声で言い、本当に不思議そうに首を傾げる。
「今は、誰も視てないから」
治樹の顔を赤くしてむくれた表情に微笑みで応えると、ふいっと彼は視線をそらせた。
「……ふん」
彼は無性に恥ずかしかった。
姉に抱きしめられた時に抵抗できなかった事。
思わず素直に答えた事。
解放された時、寂しいと思って彼女を見つめてしまった事。
――くそっ
でも姉が悪い訳でもないので、それ以上声を上げる事もできずただ沈黙していた。
『子供扱いされている』ような気がするのは気にくわない。
だからこんなにもいらいらしているのに、冬実には逆らえない押しの強さを感じてしまう。
大人のつもりの精神と、大人になり切れていない事実に板挟みになっているような物だ。
いつの間にか背伸びをしている。
そんなもの必要ないのに、と思っていても――自分ではそう思っていなくても。
彼自身は思っていない事でも、彼は、もう動き始めていた。
冬実に半死半生の傷を負わされた学生の数は、既に片手では足りなくなっていた。
最初の三人は、『公表された』人数だった。
「くそ」
今から一年前、『不幸な事故』としてほとんど何の話題にも上らなかった事件がある。
そのときの被害者は男子生徒一人、本来なら既に高校卒業して大学に進学しているはずなのだが、まだ高三だった。
理由は半年の入院生活だ。
といっても彼も留年しない程度の成績でしかなく、素行も悪い為寧ろ喜ばれたぐらいだった。
少年の名は柴崎誠という。
歩道橋の上で言い争っているうちに転落、たまたま通りかかったトラックの上で跳ねて歩道に落下。
両足を複雑骨折、左腕を圧迫骨折、内臓破裂という無茶苦茶な状況で彼はリハビリを含め半年で瀕死状態から復帰した。
復学してからも彼は沈黙を保っていたが、以後半年間特に目立つ行動もなく過ごしてきた。
「宮田が失敗…もう再起できないのか」
放課後の体育館、空手部の部室で数人が集まっていた。
ロッカーに背を預けてだらしなくベンチに腰をかけた誠を取り囲むようにめいめい適当に座り込んでいる。
「無理ですね、あの様子じゃ」
櫨倉総合文化学院は有名な進学校だが、武道系クラブでも有名で、スポーツ特待生のみのクラスが存在する。
各学年につき一クラスあり、そのほとんどが武道系で固められている。
通常そのまま櫨倉へ進学するが、彼らは国士舘大学などへやはり特待生で進学していく。
これは櫨倉の特殊な所でもある。
「セイ、もうやめようぜ」
武道系特待生として入学した彼らは、あまり成績を重要視されない。
だからではないが、品行方正とは言い難い学生も少なくない。
柴崎もまたそんな仲間の一人だった。
宮田というのはフルコンタクト空手の大会に出場する程の生徒だった。
彼が、一つ年下の冬実に半殺しにされて、精神的にも完全に打ちのめされていた。
「気にくわねぇ」
復学してから最大の標的であり、何とかして泣き叫ぶ彼女の姿を見てやりたかった。
目の前で地べたに這いずって、許しを請わせてやりたい。
できれば、それも自分の手で。
「俺はあいつに半年前、歩道橋から突き落とされたんだぞ」
誠の怒声にも、そこに集まっている数名の男子生徒にはあまり反応しない。
彼よりも冬実にまつわる話の方が、むしろ怖ろしかったからだろう。
――突き落とされたって、まずお前の方が無理に迫ってるだろうが
いつもは素直に従っていた彼らも、既に疑念の眼差しを彼に向けるようになってきている。
弱味を持ったお山の大将など、誰も従わないのが普通だ。
「…なら、搦め手を使えばいいだろう」
にやにやと笑っている一人が、完全に引いている生徒の真ん中に立ち誠に言う。
彼はスポーツ特待生ではない。
眼鏡に鋭い目つきをした、痩せ形の彼は先代の剣道部主将を務めていた。
今でも定期的に剣道部に顔を出しているらしい。
「搦め手?どうするつもりだ」
「簡単だよ。――弟を使うんだ」
彼は口元を歪めて嗤うと、小さく肩をすくめてみせる。
「全然知らない間柄でもないからね。彼を捕まえて、餌にすればいいだろ?手はずは任せて貰う」
誠ですらその表情に嫌なものを覚える。
まるで愉しんでいるような、ある意味不気味な、醜い表情。
此と比べれば下卑た笑みの方がまだ人間味があって赦されるだろう。
彼が何故剣道で特待生として入らず、学歴だけで入学してきたのか判らない。
判らないが、彼の放つ剣気とも言うべきものは――とても、剣道だけで培われたモノとは思えない。
「お、おう。だったら手はずが決まったら連絡入れてくれ」
「判った」
彼は一言だけ告げて、そのまま部室から出ていく。
途端に緊張の糸が緩み、そこにいた全員がため息をついた。
誠は額に浮かんだ冷や汗を腕で拭うと、地面を見つめて呟く。
「あいつは…明治時代の剣客か何かか?」
「『ポン刀』って渾名、伊達じゃないらしいしなぁ」
「おう、噂じゃ駅裏でやくざを切り伏せたとか」
「人斬りだよ人斬り。もぅ、俺らなんかとは格が違うよ、どっかおかしいんだよあいつ」
てんでばらばらに先刻の人物の話をする彼らに、誠は檄を飛ばすように大声で言った。
「よし、集められる人数集めておけ。あいつの弟を拉致るぞ」
部室を出て、彼は大きくため息をつく。
今のところ依頼はない。だが以前から目を付けていた真桜家が焦臭くなっているのは分かる。
あの菜都美という娘に関してだけ言うなら、可もなく不可もなく。
依頼がない限り相手にする必要性はない。
『目』は覚めているようだが、彼女自身がそれを畏れているのか発現を確認できない。
だが、冬実は違った。
――確実に、敵だ
彼女は敵対している。
敵視してかまわない。もし牙を剥く理由があるなら、かこつけて消す事も辞さない。
尤も、彼女と事を交えるならばそれなりに覚悟をしなければならない。
今彼が所属するこの学校、『櫨倉』だって怪しいのだ。
――そのためにも俺が入学しているのだろう
そもそも奴らは狡賢い。人間の間に隠れて潜み、個々人に対して被害を与えようとする。
『隣人』を愛することができない世界を、彼は守らなければならない。
この人間の境界に立つ事で。
ぶるっと彼の両腕が、瘧にかかったように震える。
「が、はは、くくく」
背を丸め大きく目を開き、喘ぐように笑い声をこぼす。
――斬りたい
がたがたと身体を震わせながら、ゆっくり身体を逸らしていく。
――建前なんかどうでも良い――斬らせろ!
ここ最近は、もう生きているモノを斬った記憶がない。
夜に鍛錬と称して立木を斬りつけるだけでは物足りない。
背筋を疾るモノがないから、そんな、ただの物なんか斬っても意味がない。
「が――はぁ」
刃が皮膚を撫でる感触。
そのまま筋肉の繊維に触れる刃、引く時の僅かな抵抗。
苦もなく骨まで寸断する――その時の愉悦。
今の彼はそれだけを求めるただの獣、人間と化物の境界に立ち全てを寸断する為に生きる門番。
彼は――否、『彼』という存在は極めて最小限度の人格の欠片で形成されている。
酷く歪で、醜く欠けている。
でもこれ以上人間性も感情も与えられない。
もしそんなことをすれば『楠隆弥』という人物は『彼』に押しつぶされて消えてしまう。
「真桜治樹、お前は、生贄だ」
ゆっくり反り返った胸を戻し、眼鏡を中指で押さえる。
彼は、震えの収まった身体で歩き始めた。
どうせこれからの時間、特別やることもないのだ。
紺色の竹刀袋に入った刀を片手に、彼は家路についた。
「ハル?」
真桜家では、風呂は基本的に年の順に入る。
特に毎日道場で古武術を教える明美は、都合上一番最初に入る事になる。
勝手に沸かして勝手に入っているとも言うが。
家族の中で唯一の男子の治樹は、全員の風呂が終わってから入る。
正確には『放っておくと入らない彼を無理矢理』、入れるために最後になってしまうとも言うのだが。
彼を風呂に入れるよう催促するのが彼女――冬実の仕事だった。
「ハルー?」
着替えて首から頭にかけてバスタオルを巻いて、髪の毛を叩いて水気を取りながら廊下を歩く。
二階に菜都美、冬実、治樹の部屋があり、一階に居間と食堂、母親の部屋がある。
彼女は階段から二階を見上げてもう一度声を張り上げたが、反応がない。
仕方なく、彼女はそのまま二階へと階段を上る。
――昔はだだをこねてたけれども
小学生まで、治樹は風呂に入るのを嫌がっていた。
いつからなのか、そしてその理由は全く判らなかったが、冬実が無感動に引きずって風呂に入れていた。
中学になると流石に――それまでなんにも気にしなかった癖に――一緒に入るのを嫌がって、自分から入るようになった。
だから未だに冬実に呼ばれると、壊れたバネ仕掛けの人形のように風呂場へ駆けて行くのだが。
とんとんとんと規則正しい足音を立てて登り切ると、冬実は眉を顰めた。
人気がない。
風呂上がりで居間でくつろいでいる菜都美と明美、母親以外階下にはいなかった。
彼女の無表情な顔が、少しだけ訝しげに眉を寄せる。
「ハル?いないの?」
寝ているのだとしても気配はするはずだ。
しん、と静まりかえってしまった暗い二階の廊下を歩き、治樹の部屋の扉をノックする。
返答がないのを見越してノブに手をかけると、彼女は何の躊躇いもなく扉を開いた。
そこにはただの真っ暗な部屋しかなかった。
「ハル」
声をかけるが、それはむなしく闇に呑まれて消えてしまう。
入り口にある電灯のスイッチを探り、部屋を照らしても様子は変わらなかった。
トイレにいても返事は返ってくるから、今彼はここにいないのだろう。
勝手に夜中に出歩いているとしか考えられない。
「……こんな時間に」
冬実はため息をついて彼の部屋を出た。
家族にしか判らない程微かに眉を吊り上げて、彼女は怒っていた。
――黙って出ていって。何をしてるの、ハル
たん、たんと硬質な足音を立てて階段を降りながら、ふと彼女は目を瞬かせる。
――ハル?
微かな音が玄関から聞こえた。
玄関から廊下が直接繋がっていて、吹き抜けのような階段までは何も遮る物はない。
彼女は立ち止まると、踊り場のような場所で蹲って耳を澄ませた。
フローリングの廊下を、衣擦れさせた足音が近づいてくる。
やがてそれが階段を登る足音に変わり――
「っ、姉ちゃん」
「お帰り、ハル。どこに行って」
冬実は彼女の目の前で硬直する治樹を上目遣いに見上げて、きょとんとしたまま黙り込んだ。
彼は頬を赤くしていたが、外気が冷たいからだけではなかった。
まるで全力疾走してきたかのように息が上がっている。
その割に身体の震えもなければ、興奮しているようにも見えない。
――……そう
黙り込んだ彼女を見て怯えるように身体を硬直させたままの治樹に、立ち上がってすぐ隣について肩を叩く。
「お風呂よ」
「う、うん、すぐ入る」
案の定弾けるように自分の部屋に駆け上がっていく彼を見送って、眉根を寄せて物憂げに首を振った。
――『覚醒』が始まってるから
明美に伝えなければ、と彼女は小走りに階段を降りて今に向かった。
◇次回予告
「んぁあ?冬実をやっちまうつもりなんだよ」
袋小路に誘い込まれる治樹に、襲いかかる男達。
抑えきれない感情に、治樹は一線を踏み越えてしまう。
後に残るのは、累々と横たわる屍。
Holocaust Chapter 5: 冬実 第2話
手遅れになる前に教えてあげないとね。誰かを怪我させてからじゃ遅すぎるし
先手――それは三年前に
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