Holocaust ――The borders――
Chapter:5
冬実――Huyumi―― 第2話
冬実はバスタオルを洗い物を入れるかごに投げ捨てるように入れると、そのまま居間に向かう。
途中母親とすれ違うと、ばたばたという治樹の足音が聞こえてきた。
――間違いなく、そのまま風呂に入るのね
少なくとも治樹に知られることなく話ができる。
扉をくぐり、テレビを見ている明美と菜都美に向かって彼女は駆け寄ってぺたんと座り込んだ。
「……何?」
普段冬実はテレビなど見ない。
今みたいにちょこちょこした仕草も見せない、『可愛くない』妹だったから菜都美はあまり彼女が好きではなかった。
明美はちらっと視線を向けるだけで、驚いたように目を丸くするとまたテレビに視線を戻す。
「治樹が、目覚めました」
明美は無言でテレビのリモコンを取って、テレビを消す。
菜都美も顔を硬直させると、オウム返しに答える。
「目覚める?」
「はい。遅くはないと思います。…そろそろ、父の事も併せて教えるべきです」
相変わらず澄まし顔で淡々と言う冬実。
明美は、ああ、とまるで気の抜けた声で言うとにっこり笑みを浮かべる。
「もうハルくんもそんな年?へぇ、隅に置けないわねー」
「明美姉!」
くすくすと小さく笑いながら明美は菜都美の頭をぽんぽんと叩く。
菜都美はむっとむくれて黙り込んで、冬実に視線を向ける。
「手遅れになる前に教えてあげないとね。誰かを怪我させてからじゃ遅すぎるし」
こくりと頷く冬実。
明美はむくれたままの菜都美を一瞥して言葉を続ける。
「みーちゃん、ハルくんの事、お願いできる?」
「判りました。でも」
うんうんと明美は頷いて右手の人差し指を立ててくるくると回す。
「だーいじょぶよ、いざとなったら助けてあげるから。…で、どんな感じ?」
「まだ半覚醒です。恐らく自分の血でも見たんでしょう」
「冬実が教えるの?明美姉」
困ったような貌をして明美を見返す菜都美。
「仲が良いと最悪の場合まずいんじゃな…っ」
明美はとぼけたように笑い、彼女が言い終わる前に右腕で頭を抱きしめる。
「大丈夫よ。冬実なら心配いらないから。ハルくんがだだこねなかったら、今でも彼をお風呂に入れるでしょ?」
こくり、と頷く冬実。
「んもうっ」
菜都美は強引に腕を振りほどいて、唸りながら二人を見比べるようにぶんぶんと頭を振る。
「あたしの時は明美姉だったけど……じゃあ冬実っていつだったのよ」
「早かったわよ〜。なっちゃんより早かったから知らないんでしょうけどね」
誤魔化すように肩をすくめると、明美はもう一度、今度は真正面から菜都美を抱きしめる。
困ったように振り解こうとするが、明美は離そうとしない。
菜都美が全力で抗っても、不思議な事に物凄い力で逆に締め付けてくる。
「なっちゃんはいいのよ。ね」
背中を数回優しく叩くと彼女は菜都美を解放する。
戸惑うような、拒絶するような彼女の表情に笑うと、ほんの僅かに口元を歪める。
それが明美にとって最大の羨望の表現だった。
「後は私達に任せて。お願い」
最初は怖ろしく鋭くなった感覚から、それは始まる。
皮膚感覚だったり、聴覚だったり、嗅覚だったりする。
何かのきっかけが在るんだろうが、それを覚える――そうとも思わないうちに感じ、そして始まってしまう。
始まったら最後、完全に覚醒し切るまでその感覚は抜けない。
突然敏感になった感覚に振り回されるのがオチだ。
聞こえ始めた細かい音のために難聴に。
突然細部に渡り見えるはずのない映像のために盲目に。
それはノイズを取り除かなくなったラジオのように、感覚器だけが鋭敏過ぎる状態と同じ。
たとえば今すぐに、かさこそと這い回る虫の足音まで聞こえるような耳になったとしよう。
それら小さな音全てをより分け選択できる脳がなければ、恐らく耳に届くのは『ごう』という唸るような音だけだろう。
嘘だと思うなら、無作為に音を集めるメガホンを耳に当てればいい。
その酷い状態が現れると思ってもらえればかまわない。
治樹の場合、それがまず皮膚感覚で現れた。
――ん
食事後、自分の部屋に帰ってくる間に妙な違和感を覚えた。
目で見ていなくても階段や、手すりの表面が判ったような気がしたからだ。
その時は何とも思わず、そのまま宿題に手をつけようと机に向かう。
数分も待たない。
急に全身が痒くなって、立ち上がる。
「――――!」
声なく呻いて、彼はまるで何かの発作でも起きたかのように部屋を走り出していた。
動けば動くほど、まるで水の中にいるように――いや、もっと密度の濃い、柔らかいものの中を歩いているようで。
抵抗はないのに驚く程質感があって、まるで粒でも触れているかのように。
叫び声を上げそうになって、一瞬彼は正気に戻った。
「っ…ここ、は」
いつの間にか家の外に飛び出していた。
粒のように触れる空気が、先刻より早く流れて見える。
密度の差も温度の差も大きく、部屋の中にいた時のように停滞していなくて、まるで網の目のように。
でも何故そこまで判るのか判らない。
何故か身体が熱い。
それは興奮した時や運動していた時とは違う、熱病にうなされた脱力感でもない。
むしろ身体が別物になったような、意思や理性で制御できない何らかの力に突き動かされている、そんな、感覚。
がまんできない なにかに止めどなく後ろから後押しされているようで
彼は穹を見上げた。
星が一瞬瞬き、暗くなったかと思うと今度はいきなり満天の星穹に。
月が穹全体を覆っているようで、まるでそれは夢の中の光景としか、思えなくて。
彼は。
まるで惚けてしまったように穹に魅入られていた。
菜都美と明美はまだ仲が良い方だ。
残念なことに治樹とは険悪で、仮にも仲が良いとは言えない。
何かにつけて文句を言って突っかかってくるので、いつも彼とは喧嘩になる。
姉弟喧嘩なんてものはじゃれあいだと思っているかも知れない。
しかし少なくとも彼女らは、それなりに武道を習っている。
『こいつなら本気で殴ったって構いやしない』と思えば、骨折させることすら躊躇しないだろう。
一つ間違えば殺し合いに発展しかねない勢いで、じゃれ合っている。
止められる人間はいないだろう。
と、言っても、菜都美の方がいつも折れて手加減している。
それに『冬実』の名前が最後の切り札で、彼女が現れると治樹もおとなしくなった。
冬実が彼にべったりだったせいもある――その様はまるで母親とも思える程優しくて厳しかった。
菜都美に手を挙げても、治樹は冬実に頭が上がらない。
「……で?」
「うん、冬実ちゃんから言付けを貰っててさ」
眼鏡をかけた、菜都美の友人という少年が彼の中学の校門で待っていた。
理由なんか判らない。
それに何故彼なのだろうか。
「ふーん。……でも、ナツ姉の友人って事は冬実姉ちゃんの一つ年上だろ?」
つんつんした口調で噛みつくように首を傾げる。
でも、彼は全く顔色を変えずにこにこした貌で続ける。
「んー。だから菜都美ちゃんから頼まれたんだよ。何か、用事で動けないからってね」
待ち合わせ場所を教えて、御丁寧に小さな紙切れに書いた地図まで手渡すと、彼は『確かに伝えたから』と言って立ち去った。
――変な奴
紙切れは色気も何もない、A6サイズの真っ白いメモ帳の切れ端だった。
そこに几帳面に物差しを当てたような直線が並んでいて、細かい文字が書き込まれている。
彼はそれを一読して、駅の側にある公園であることに気づき、ポケットにねじ込んだ。
姉から直接呼び出しがあることは少ない。そもそも、こうやってわざわざ人を使うこともまずない。
だから何かあったのか、と彼は思った。
何か言わなければならないことでもできたから――それにしては、変な所に変な呼び出し方をする。
少し気になった。
――……うーん……心当たりとすれば…やっぱり昨晩の件かなぁ
他に理由が思いつかない。
そう言えば風呂を呼びにきた彼女と、あの後鉢合わせたのだ。
黙り込んだままじっと睨み付けられた。
絶対に外にいたことを叱られると思った。
『お帰り、ハル。どこに行って』
でも彼女は途中で言葉を飲み込んで、ただじっと彼を見つめていた。
――何で、止めたんだろ
冬実の表情は非常に極僅かな物で、それを知る方が難しい。
少なくとも治樹は昨日の彼女の貌はどの感情も感じられなかった。
彼女の笑みも、怒りも知っている彼がそれを判断できなかった。
初めて見る貌だったから判らなかったのかも知れない。
だから、怖かった。
――姉ちゃん、何か……知ってるのかも
そう思うと多少おかしな話でも、それを信用するしかないのかも知れない。
彼の利用する通学路は住宅地を迂回するような経路になる。
住宅地のはずれに学校があるからというのもその理由だが、通学時間帯の住宅地付近は特に車の交通量が多いのが最大の理由だろう。
その点住宅地を囲うように走る小さな歩道は狭く、街の中央とは逆方向になるので通学、帰宅の時間帯の車の量は必然少なくなる。
学校から下り、信号がある交差点を越えれば住宅地になる。
そこを曲がってしばらく進めば駅前まででられる。地図に示された公園は丁度駅裏と住宅地を挟んだ間にある。
彼は知らないが、駅の裏側は古くからの繁華街で奇妙に入り組んだ形になっていたためか、公園が多い。
駅向こうの繁華街とこちらに比べると圧倒的に数が違う。
山の手までは行かないのだが、それでも多く茂った木々が綺麗な公園だ。
――どうせ植林だろうけど
小学生の時に強引に集められた緑化募金を思い出して肩をすくめた。
そのせいだろう。必然的に駅裏は公園で分断されるという、当時の市長の政策は目的を大きく裏切ってしまった。
交差点を折れると、コンクリでできた塀が続き、公園まで伸びている。
センターラインが引かれた道路にもあまり車が走っていない。
彼はその、唐突に人気が切れて自然が迫り出した場所に足を踏み入れた。
ひゅ
多分。
空気を切り裂く音に気づいた時には、遅かったのだろう。
大きく視界が揺れて、ぶれて認識のできなくなった風景と顔と胸へのしかかるような砂利の感触に続いて。
――集団の気配が襲いかかってきた。
ひとつ、ふたつ、みっつ、四、五…十二まで数えて、彼は上半身を起こそうとした。
一番近い気配が二つ、彼を押さえ込んでいる。
一つは背中、一つは彼の右横で肩を動かないように砂利に押し当てている。
倒れている自分に気づいた治樹は、胸の下にある尖った石からくる激痛を堪えて顔を振った。
その途端に彼は頭を押さえつけられると同時、首筋に冷たい痛みと同時に、液体が流れ込んでくる感触。
ぴくぴくと身体が引きつり、そんな事お構いなしにそれは彼の身体を内側から浸食していく。
「出来たか?よし、そのまま引きずってこい。入り口をふさぐな」
かしゃん、という小さな金属音の後男の声がした。
大人に知り合いはいない。確かに恨まれる覚えもあるし、幾つか喧嘩で潰したチームもある。
尤も、そいつらは同級生か違っても一つ二つしか変わらない連中だ。
――まさか、やくざか
にしてはやり方がチープだ。
男の指示で気配が二つ、彼の後ろに移動していく。
――入り口は固められたか…
意外な力で地面から引き剥がされ、彼は抵抗する気力を失っていた。
一度に三人も相手にできるはずがない。なのに――ここに、残り十人はいる。
「…ふん、お前が真桜治樹だな」
声を出したのはやはり見覚えのない男。
多分高校生だろう。彼はそれを見て安心した。
「判っててここまでするんだろうが。んだよてめぇは」
ひくっと男の頬が引きつる。
意外だったのだろうか、怒りと言うよりも哀れみに似た貌でゆっくり近づいてくる。
「お前ら、姉弟そろって性格悪いんだなぁ。…目上の人間に対する口の利き方を知ら」
激痛。
ん、と発音しながら、思いっきり踏み込んだ拳が鳩尾を叩いていた。
抉るように痛みが走り、拳が引かれた途端胃液が逆流するのが判った。
顔を下に振ってむせながら、彼は殴った相手に唾をかけようと顔を上げる。
だが相手は既に遠く離れてしまっている。
「だから、お前誰なんだよっ……俺に用があるんだろうが」
痛みより怒りで頭が白くなっていく。
指先が震える。
男はにやにやと独特の嫌らしい笑みを浮かべて、そんな彼の姿を見下ろしている。
「んーん、俺達は用がない。…でも、お前の姉貴は、お前に用があってここに来るだろうな」
さあっと治樹の顔から血の気が引く。
彼の顔が面白かったのか、彼の様子に腹を抱えて嗤う男。
「まさか、お前らっ」
「ああ、お前を餌にして冬実を呼ぶ。あの野郎、俺を道路に突き落としておきながらまだ学生やってるんだろ!」
先刻まで笑っていた彼は、それを忘れたのか眉を吊り上げて怒りを顕わにする。
だがすぐに口元を笑みの形に変えて、もう一度顔を近づけてくる。
「だからだよ、お前は餌で、かつ良い道具なんだよ。お前がいないと話にならない」
「何をするつもりだ」
治樹の問いに、彼は本当に嬉しそうに冥い笑みを湛えて。
「んぁあ?冬実をやっちまうつもりなんだよ」
その顔が大きくぶれる。
遅れて、左頬に激痛。口の中に広がる鉄の味に、彼は血の混じった唾を吐き捨てる。
――歯は欠けてないか
じゃりじゃりした感じはしない。
何故か冷静にそんな感想を抱いた。
「お前の目の前でひん剥いて回してやるよ。ここなら人も寄りつかねえだろうし」
「な」
くくく、と嗤うと目で周りにいる連中を見回す。
「まさか、姉ちゃんを呼んでるのか」
ふとあの眼鏡の男の事を思い出した。
少なくとも彼の視界にはいない。見張りで外に立ってる奴らだろうか。
「いや、これから呼ぶのさ。……言わなかったかな、お前は餌なんだよ」
もう一度鳩尾に激痛。でも、もう感触がはっきりしない。
痛いはずなのに、痛みとして認識できないのかも知れない。
それを見た男はくすくすとおかしそうに笑う。
「お、効いてきたみたいだな。もうすぐ楽になるぜ」
――野郎…
彼の言葉通り、皮膚の感覚がまるで熱病にでも魘されているように曖昧になる。
舌先がしびれる。
「お前を動けなくしてから、呼びに行くんだよ。勿論穏便に、な」
男の右手が伸びてきて、髪の毛を鷲掴みにして無理矢理顔を上げさせる。
治樹は痛みに顔をしかめながら男を睨み返す。
「よぉく見ておけよ、お前の大切な姉ちゃんの悶える姿を。忘れられなくさせてやるぜ」
下卑た笑い声が響く。
――こいつら
まだ治樹自身は気がついていなかった。
彼の感じている怒りが、同族に関わる事だと言うことを。
それが怒りだけではない事に。
公園に入った時に、既に彼の中で何かのスイッチが入っている事に。
「そうだな、最後にやらせてやってもいいぞ」
ぶ つん
そしてそれが最後の引き金になった。
先程まで数を数えていた『気配』はより濃厚に、下手をすれば姿形は愚か指先の動きまで見なくても判る。
息遣いや――そう、まるで表情まで判る気がする。
めりめりという音を立てる全身の筋肉。
縄を締め上げたようなその音に、異様な気配に彼を押さえ込んでる男が怪訝そうな顔をした。
だがすぐにそれが激痛と後悔の顔に変わる。
左右から腕をひねり上げている男達の力を遙かに上回る力で解かれた上、手首を捕まれて逆にひねり上げられたからだ。
まるで冗談か漫画のようにくるんと宙で一回転する身体。
そして、簡単な音がして彼らは迫る地面へと激突した。
「な」
ぐったりと動かなくなる、先程まで治樹を縛り付けていた縛め。
治樹は、容赦するつもりはなかった。
解き放たれた獣と同じ。
目の前にいるのは、敵だ。腐った獣だ。今すぐに消さなければ、禍根を残すことになる。
残さないためにはどうすればいいのか。
――無論簡単な事だ
治樹は思考をしながら口元を歪め、僅かばかり重心を低く構える。
「殺す」
殺してしまえばいい。一人残らず、死体に変えてしまえばいい。
どうせ、こいつらを殺したところで誰も困りはしない。
彼は左手を突き出して、地面を叩き付けるように蹴った。
まるで凍り付いたように驚きの貌のまま、硬直している男に向けて治樹は右腕を振りかぶる。
先に延ばしておいた左手を素早く引きながら、右腕が伸びる。
ぱきん
乾いた甲高い音がして、彼の拳は男の右顎を捉えた。
そのまま身体を勢いで反対にひねりながら、今度は左拳で同じように顎目掛けて拳が走る。
良い手応えが、彼の左拳に返ってくる。
――来る
左右から二人。
前から五人。
後ろの気配二つはまだ動かない。
身体を沈み込ませて、まるで冗談のように彼の身体が真横に疾った。
「!」
反応する、
隙なんかない。
左から襲いかかった男は自分の目の前で旋風のように舞う黒い塊が一瞬見えただけに過ぎなかった。
右の男は、それが跳ね返ってくるように自分に襲いかかってくるのが判っただけだった。
「はは」
治樹の口から笑い声が零れる。
ほとんど身体を真横のまま地面を蹴って、左回転しての左脹ら脛による『裏脛脚』。
勢いを残さずきっちり身体を弾き、飛ぶように反対側へ浴びせ蹴り。
身体が動く。それも思い通りに、決して澱む事なく。
気配が動かなくなるように――二度と思い出せないように!
ぐしゃりという、何とも言えない肉を叩く感触。
そして拳から手首、肘にかけて伝わる冷たくて堅い――そう、骨を殴った時に覚える快哉。
全力で振り抜く時に感じる風切り音に、総毛立つような快感。
拳の先にあるモノが、滅びていくのを感じる脱力感。
それらすべてが今、彼にとっては堪らなくて、理性という枷が完全に働きそうになかった。
何故か彼の今の快哉全てが、彼の周囲を駆け抜けていく風のようで。
視界が丸く小さく、彼の見ているモノはまるで映画のように。
――俺はなにをやっているんだ
だから。
彼の『理性』から見たその風景は、異常としか言いようのない風景だった。
――やめろよ、死んでしまうだろ!やめてくれ、お願いだからやめてくれ――!
でも快哉は止まらない。
その感覚が、『ヒトをコロす』という一点に対して大きく揺らいでいるから、
身体が求め
ココロが喘ぐ
そんな言い訳のような矛盾。
――でも許せない、でも殺しちゃいけない
今度は彼の理性に対して即座に応答があった。
『何故。何故、俺はヒトを殺しちゃいけない』
それが何の声なのか、考えるまでもなく治樹は応える。
――当たり前だ、それは良くないことだ
『良くないこと?何故良くない』
――ヒトがヒトを殺すなんて間違ってるからだ
当たり前の事に対してあんまりにも意外な返答に彼は怒りを覚えた。
だが『彼』は応える。
『そうか、だったら構わないだろう。俺はヒトなんかじゃない』
そして尤もらしく首肯する。
『ヒトの決まりを守らなければならないのはヒトだからだ。ヒトでないものはヒトを狩らなければならない』
――何故
「ヒトは我々を脅かすからだ」
治樹はほとんど動けない男にそう言い捨てると、路地に逃げ込もうとするもう一人に襲いかかる。
真後ろからタックルでそのまま引きずり倒し、まず掌底を後頭部に打ち込む。
向こう側でアスファルトに潰れる貌に悲鳴。
感触を楽しむ間もなく、彼はそのまま髪の毛をつかむと身体を引きずりあげる。
手を離し――同時に一回転して足の裏で顔面を強打。
コンクリートの塀に後頭部をぶつけて、反射的な呻き声が上がる。
べとりと暗い赤い色を残して地面に崩れるそれに、彼はさらに上乗りになって拳を振り上げた。
もう、倒れている少年はその拳に畏れる事もままならなかった。
「なんだよぉ、付き合い悪いな」
僅かに丸みのある、柔らかい声で避難されて実隆は眉を顰めて反論する。
「普段から部活部活って言っておいて、んだよそりゃ」
当然のように吐き捨てる実隆に、まるで子供がするようにおろおろとする隆弥。
実隆はむっと彼の態度に貌をしかめる。
「あーにーきー、いい加減にしろっ、たく…」
「あははは、まぁまぁ。駅前に行くんだったらついでにうすかわまんじゅう買ってきてくれるかな?」
「なんだそりゃ。スーパーで買えばいいだろ」
うーん、と困ったように彼は顎をなでる。
「うん、ちょっと用事があって。駅に行くと大きく遠回りになるんだよ。それにあの北村屋のアレは最高な」
「あーわかったわかった、駅裏の北村屋だな。場所は判ってる」
何故か隆弥は日本茶と御茶請けに詳しく、妙にこだわっている。
講釈がまた始まりそうだったので、大慌てでそううち切ると彼は残念そうに眉を寄せる。
「……どうしてミノルは、饅頭と日本茶の話になると冷たいのかな」
「しつこいからだよ」
ふう、といかにも呆れた風にため息をついて肩をすくめてみせる。
即答だったので隆弥は悲しそうにしょぼくれる。
「ともかく判ったよ、ついでだから買ってきてやるよ。でも部活外の用事って、珍しいな」
彼は眼鏡の向こう側で数回目を瞬かせる。
そして、にっこりと笑って応える。
「野暮は言いっこなしだよ。まんじゅうよろしくー」
実隆は肩をすくめると右手をひらひらさせてそれに応えて、鞄を左手で肩から背中に引っかけるように背負う。
今日は菜都美も何か用事があるとか言って、さっさと帰ってしまった。
――もしかして、菜都美の奴と?
それはそれでアリかも知れない。
そう思った途端、何となく苛ついて今の想像を忘れることにした。
用事と言っても然したる物ではない。駅前のCD屋に予約していたアルバムが入荷したらしいので、取りに行くのだ。
遠回りになるので今日は部活がないはずの隆弥を誘ったのだ。
――いいや、家に帰って自転車だな
駅前まではかなり距離があるが、自転車なら往復しても気になるほどの時間ではない。
仕方なく小走りで家に帰ると、自転車を取って駅へと折り返した。
――あぶねー
隆弥の用事がどれだけかかるか判らないが、駅を二回も往復する気はない。
彼はCD屋の前で自転車の鍵を外しそうになって、隆弥の用事を思い出した。
北村屋という名前の和菓子専門店がある。別の用事ならまだしも、饅頭の事に限れば隆弥の性格が変わる。
下手すれば竹刀でめった打ちにされかねない。
――それも泣きながら、な…
ため息をついて彼は頭をぼりぼりとかく。比較的距離は近いから、そのまま自転車はおいていく事にする。
近道のつもりで裏路地に入った途端、彼は奇妙な光景を目にした。
彼の目の前に、ぼろ切れの塊のようなものが路地から投げ捨てられたのだ。
いや、ぼろ切れじゃない。そう見えたのは恐らくは学生服の成れの果てだろうか。
――!
ひどい有様だ。それは元は人間だったものらしい。
ぐったりと力無く彼の前で頽れて、顔面を地面に突っ伏している。
「おい、大丈夫…」
思わず抱き起こして、危うく彼を取り落としそうになる。
顔面はぐしゃぐしゃで、自分の血にまみれていて誰なのかすら判別できない。
勿論意識なんかありそうにない。呼吸があるのがせめてもの救いだろうか。
――酷えな
どうやったらここまで出来るのか。
どうしてここまで出来るのか。
その必要があったからなのか?それとももっと別の何かがあったからか?
何にしても、今まさにここにこれだけのことをしでかした奴がいるはずだ――
「はははははははははは」
湿った何かを打ち付けるような鈍い低い音に混じって、甲高いそんな声が聞こえた。
彼の視線は自然とその声のする方へ向けられていた。
黒い光沢――粘りのあるタールのような液状のものにまみれ、構わず腕を振るう少年に彼は見覚えがあった。
「こら、坊主、何やってやがる」
それが、実隆の出来る精一杯のことだった。
◇次回予告
「ちょっとハル、あなたこの格好」
治樹の存在が急速に変化していく中、柊ミノルが現れる。
明美と冬実は彼を何とかして抑えようとするが――
「ミノルとぶつけるか――いや、調整が間に合わなければ『クスノキ』に殺らせるか」
Holocaust Chapter 5: 冬実 第3話
…何か、別の要因が覚醒を促す、と言うのね
それが指し示す、『もの』
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