Holocaust ――The borders――
Chapter:4
玲巳――Reimi―― 第3話
アスファルトの地面は革靴の叩く硬質の足音をすら喰らってしまう。
耳朶を叩く空気の音がもし届いていなかったなら、次の攻撃をかわす事すら出来なかっただろう。
彼は全力で脚を停める。
その間に、影は派手な音を立てて彼の目の前に着地し、一呼吸も待たず一回転して腰を低く構える。
それは少女だった。
ただまっすぐに伸びた、車が何とか双方に走れる程度の道で彼らは向かい合っていた。
「くっ」
距離としてはぎりぎりいっぱい。
もしもう少し間合いが狭ければ逃げられない――身体を反転させる余裕が、あるか、ないか。
――どうでる?
相手はどうやら同い年ぐらいで、夜の闇の中で輝く瞳を幹久に向けている。
まるで見下ろすような眼差し。
どこかで見た記憶があると思ったが、夜中の猫の目だ。丸く大きく、内側が光っているように反射する。
そんなどうでも良い事を考えていて判断が遅れる。
「今度こそ――殺す!」
――え?
動いたのに躊躇するように後退し、さらに彼女の言葉に絶句する。
それが大きな隙になり、彼女の動きを読めなかった。
急に視界から消える。
ざざざざっ
地面を大きく擦る音。
強引に左足首が右へと弾かれるのが判る。
体勢が崩れ、視線が自分の脚の方へと向く。
少女は背中を向けてそこに座り込むような格好で回っていた。
彼が完全に倒れる前に、完全に彼女は一回転して顔をこちらに向ける。
彼女の右拳が、見えなかった。
倒れ込む幹久の左こめかみ、それは勢いよく打ち上げられて回転する。
頭の中が真っ白になり、今自分がどの方向を向いているのかも判らなくなる。
どすん、と背中が地面を触れた感覚で、狂った平衡感覚が突如働き始める。
幹久は右手を叩き付けるようにして身体を強引に引き起こして、少女の姿を追い、間合いを切る。
また、少女とはぎりぎりの間合いを保っていた。
「待ってくれ、ちょっと、話を」
先刻、話が通じた。
日本語を叫んでいた。だから幹久は無駄かも知れないが、叫んだ。
「聞く必要はないでしょ」
だがあっさり返して、少女は一気に踏み込んでくる。
Open your eyes. Simply as Simply, Just Ashes to ashes and dust to dust.
「ああ、聞かせる必要はない。お前も、今度こそ手を抜くな」
――え
突然、全身が燃えるように熱くなる。
火で炙られたように両手両足が痙攣する。まるでそれは、拒絶反応のように。
「相手は、たかだか真性だ――大丈夫だ」
――黒崎先生?!
だがその痙攣は拒絶反応どころか、収束するように収まりながら『力』へと変わっていく。
身体の中心から、指先や末端にまで力が流れ込んでいくように――
視界がクリアになる。 意識が突然広がったように、周囲の全てが情報として流れ込んでくる。
少女の動きが急にスローモーションになったように見える。
「殺せ」
その時、脳髄が痛みを訴えた。
でも、それはほんの一瞬だったようだ。
まるで麻薬でも打ったかのように急に気が楽に、身体が軽くなる。
スローモーションの少女は踏み込んできた左拳で振りかぶった。
簡単だ。
身体を右に捻り、飛んでくるはずの軌跡へ右手を伸ばす。
そして予測通りのその拳を、右掌でほんの僅かに弾いて、自分の拳ごと一気に左肩へと引き込む。
がら空きになった彼女の脇腹へ、重心を移動させながらの肘打ち。
手応えがあった。
移動中だった彼女と、こちらの移動攻撃の分、巧くすれば肋骨を数本折る事ができたはずだ。
案の定、彼女は身体をくの字に歪めて横向きに転がっていく。
その姿すら遅く見える。
――殺せ
殺せる。
――殺せ
ああ、簡単だ
――あの時に、お前が見せた性能を『できそこない』に見せつけてやれ
ぴきり、とどこかで何かが甲高く罅入る。
ぞろり、と自分のココロから何かが、止めどもなく溢れ出す。
その時理性というものは殆ど何の役も果たさなかった。
彼の目の前で目を吊り上げる少女、彼女を『ヒト』だと、同じ存在だと思えなかった。
虫と同じ。表情すら変えない微生物と同じ。
――殺しても、構わない
何故か彼はそう思った。
「あらあら。黒崎藤司ともあろうモノが、こんな事にうつつを抜かすなんてね」
突然響いたイレギュラーな声に彼は思いっきり飛び退いた。
真後ろに跳んだつもりだったが、背中を強かに硬い何かに打ち付けた。
戦闘中に若干身体の位置が回っていたのだろう。
それを判断してもう一度、今度は正確に道に沿って後退する。
「怯むな」
声が聞こえて、彼は足を止めた。
視界には目標――少女の姿をしたモノが見える。
「あなた、抜けてからこんな事してたの」
「…なんだね?レイミ、君には関係のない事だろう?それとも君が現れると言う事は」
黒崎の声が聞こえる。
何を言っているのかよく判らないが、まあどうでもいい。
目的は決まっているし、やるべき事も判っている。迷う理由も必要もない。
――ただ排除する
怯むな。
彼の言葉通り、幹久はしゃがみ込んでいる少女目掛けて跳躍した。
数メートルという高さを優に超え、たった一蹴りで彼の間合いに入る。
「やぁあっっ」
だが、その視界から少女が消える。
ぶれる視界。
遅れて到達する痛みは、自分の側頭部から伝わってきていた。
着地するための脚が地面を掴み損ねたのを実感した途端、彼はその勢いのまま地面を転がっていく。
どすんという壁に激突する音と同時、まるで杭でも打ち込まれたように身体が押さえつけられる。
「やめなさい、マサクラフユミちゃん。一応ソレでも社会的に人間なんだから」
再び声。
聞き覚えのある少女の声。
――ああ、そうだ
レイミとか言った。
杭が、抜き取られる。同時に聞こえる靴音と、耳元で囁く声。
「間に――合いまして?イガラシミキヒサさん」
それが彼の最後に聞いた言葉だった。
「ふうん」
五十嵐幹久は県立の大学病院に入院した。
『奇病』が流行って以来、あまりにも立て続けに病気が蔓延しつつある。
はっきり言ってこれは異常な兆候だった。
そもそも風邪やインフルエンザが流行するのとは訳が違う。
エボラウィルス級の危険なウィルスが、突如何種類も発生している事になる。
――不自然だな
自分の中に巣くう物の事を考えて、木下は顎をなでた。
自分が病気であるとは彼はもう僅かにも考えていない。
あの時少女が現れたり、頭の中で声が響いたりする理由であったとしても、それは病気ではないと。
そして『祭司』と呼ばれるものに選ばれた――それが素質であるというものだったとして。
ではこの病院はなんなのか。
担ぎ込まれる奇病に冒された人間を調べて、何をしているのか。
自分以外が死ぬような、そんな状況が一体何に関係があるのか。
できる限り目立たないように病院で滞在しながら、担ぎ込まれる患者と話をしてみる事にした。
ここにいる患者のほとんどが重症患者だったが、話せる程軽度の者には共通点があった。
それは年齢でも性別でもなく、学歴でも職業でもなく、在る一つの接点。
記憶が途切れていく、崩れるように欠損するという点だ。
無論自分にはそれがない。
だが、この目の前の少年も『つい先刻の事』や『自分がやったはずの事』を完全に記憶から消し去ってしまうことがあるという。
たとえばそれは学校からの帰り道。
昨日書いたはずの日記。
昨晩食べた食事、一緒にいた家族の顔、人数、テレビ番組に至る細かい事まで。
それが不自然に切れている者や、『自然に』つながっている者まで様々だが、彼らが入院する直前には同じ症状が発症している。
もしかすると、彼らは共通の病気なのかも知れない。
――病気ではなくて、『素質』か?
最近浮かぶ疑問。
ある人間は、耐えきれないように弾ける。
ある人間は記憶を失う。
――では、この俺は
説明などできなかった。
そもそも『相似形』とはなんだろうか。
「それで、君を抑えたそのレイミって娘はどうなった?」
気になる。その名前が気になる。
だが、少年は首をゆっくり横に振って、自分にはそんな記憶はないと否定した。
そもそもレイミなどという名前の人間に知り合いもいない、と。
つい今先刻話したばっかりだというのに――彼女の名前が記憶から剥離してしまっている。
「そうか、ありがとう」
つい、と少年は顔を上げた。
「……僕は、一言でもそんな名前を言ったでしょうか」
彼の瞳は濁りきっていて、真剣さより諦めの方が強く輝いていた。
木下は適当に話を切り上げ、肩をすくめると彼に別れを告げた。
――成る程、操り人形の『素質』は高いな
一つの『命令』に対し何の疑いも理由も瞬時に『忘れ去り』、命令にただ従うだけの人形。
彼に残される理由は一つだけ。
その命令に従わない限り、自分の存在価値を失ってしまう――彼らにとって最悪の事態になり得るのだ。
人間は、良くも悪くも自分の持つ記憶によって動く。
記憶というのは自分自身を支える大地のようなモノで、たとえば一瞬前の事を忘れるような病気になったとしよう。
人間の一時記憶を溜める為に存在する、脳の海馬と呼ばれる部分が麻痺したりした場合に起きるため、泥酔した人間にもこの症状が現れる。
判るだろうか。足を踏み出した途端に自分が『何故、どのようにしてそこにいたのか』を答えられなくなるのだ。
ソレは純粋に恐怖ではないだろうか?
まるで、地に足がついていない恐怖。
自分の部屋に戻りながら、木下はそれについてじっと考えていた。
かたん
それは物音だった。
――!
たしかに、自分は、廊下を歩いていたはずだ。
ぞくりとした。
そこは自分のベッドの前、まるで今まで眠っていたかのような急激な記憶の変化。
扉を開けた記憶――気がついて木下は振り向く。
扉は開け放たれていた。
彼は躊躇するようにその光景を見つめ、やがて取り繕うように扉に近づき丁寧に閉める。
どくん
心臓が一度大きく跳ねるように脈動する。
何かが自分に挨拶するかのように。
大抵ソレは唐突に訪れるモノだ。
知らず知らずのうちに地面に根を張っているように、何の痕跡も残さずに。
抑えきれない鼓動が、自分の動揺を隠そうともせずうち続ける。
その動揺は果たして恐怖だろうか。
きこえ るか
視界が、まるで機械仕掛けのように細かく揺れて、そしてかたりという小さくて細かい音を立てると。
壊れたテレビがそうするように。
一度白く光って、消えた。
聞こえるか、娘達よ。返事をしなさい、娘達よ……
直接光が差し込んでくる、薄暗い朝の道場。
空気は冷たく、まるで刃物のように鋭く。
冷たい床板は足の中へと差し込んでくるような痛みを持たせるが、それは心地よく感じられる程。
ひゅっという耳慣れた空気を裂く音。
それは、彼女の目の前で踊る長刀が切り払っていく音。
紹桜流長刀術は、彼女以外の継承者は今のところいない。
今更――そんな感覚なのか、入門者がいない事に起因される。
それでも今長刀を振るう彼女に、そんな迷いはない。
非常に癖のある曲線と直線の組合わさった動きは、間違いなく実践的な武術である事を顕している。
日本刀と同じ製法で作られた刃は『引き切る』ようにしなければ切れない。
それを、僅かな直線的な突きから曲線的な引きへと微妙につなげる事によって間違いなく切り刻む――それは丁度、蟷螂のようで。
さらに長い柄を一度大きく振り回し、防御にも攻撃にも応用できる動作がつながっていく。
「…あら?」
とんとん、と床を数回跳ねるように踏み込んだ彼女は、違和感でも感じたのか長刀を突いた状態で立ち止まった。
そしてひゅん、と手慣れた動きで半回転させて長刀で床を叩き、くるっと違和感のした方へと身体毎視線を向ける。
「ヒイラギくん?」
少し恥ずかしそうな表情で、ヒイラギ――実隆が応える。
「朝ご飯です」
彼はそれだけ言い、くるっと背を向けて道場から出ていった。
――うーん、いぢめてあげたい♪
最近の、彼女の朝練の最大の楽しみになりつつあった。
真桜家に居候することが決まってから既に一月が経つ。
他人の家とは言っても、それだけ生活すれば自分の色というものが家に馴染んでくる。
自分が馴染むのか、それとも周囲が馴染んでしまうのか――残念ながらその区別をつけるのは難しい。
だがそれだけ経っても、真桜の家庭のリズムが判っていても慣れないものが、毎朝のコレだった。
――何で俺が、明美さんを呼びに行かなきゃいけないんだ
そう菜都美に聞いたら「居候でしょ。言う事ぐらい聞きなさい」だし、冬実に聞いたら「……明美姉さんの言付けです」だった。
つまり、彼が行かなければ誰も行かないと言う事になる。
勿論それは明美も判っている訳で。
もし、明美がそのせいで朝飯抜きになれば、当然災厄が降りかかるようになっているのであって。
――つまり
彼は逆らえないのであった。
「ほらー、とろとろ歩いてないでさっさと帰ってこいっ」
感慨にふける暇も与えられず、彼は両肩をがくんと落として食卓へと向かった。
母親、姉、菜都美、妹、そして実隆。
丸い食卓に全員が揃ってから朝食が始まる。
「おまたせ」
にこっと笑ってから明美が席に着き、全員が手を合わせてぺこりとお辞儀する。
今日の朝食は、めざしにサラダ、みそ汁という準和風メニュー。
――ドレッシングはノンオイルしそ味だが、それでも生野菜は和食ではないような気がする
そんなくだらない事を考えながらみそ汁を一口飲む。
「今日は、どうするの?」
結局卒業式には彼は参加しなかった。
初めは木下警部を見つけるつもりだったが、それは簡単にけりがついた。
この間の警察署で、彼が部署替えになり入院している事実を知ったからだ。
『長期になるわ。…そう聞いたから』
彼の代わりには井上という女性の警部補がついていた。
学校で彼に幾つかの質問をした女性だった。
『今度お見舞いに行く時、一緒に行く?』
そんな風に聞かれたが、別に会いたかった訳じゃないので彼は断った。
その後、手がかりを見つけるために駅周辺を隈無く調べてみる事にしたのだった。
彼が通いそうな店、あの日の前後に、彼らが通ったかも知れない場所。
それらしい目撃情報ぐらいは手に入ったモノの、結果タカヤにつながるようなモノはなかった。
逆に言えば――証拠を残さない程用意周到な連中だった、こうも言えるのではないだろうか。
「ちょっと、変な噂を聞きつけたんで、それを調べに行こうと思う」
菜都美は箸で器用にめざしを解体しながら頷く。
実隆は、何故か開きにされて背骨と両側の身、黒い腑を綺麗に並べられた皿を見て眉を顰める。
彼女が箸を止めて首を傾げる。
「…いや」
聞くのは憚られる気がした。
――別に、大した事ではないんだが
菜都美は首を傾げて、その――そう、身ではなく骨の方に箸を付けた。
ぼりぼりかじりながら、奇妙な貌をする実隆を見てにやりと笑む。
「いいじゃない、ヒトがどんな食べ方したって」
「……ああ、構わねーよ」
実隆はため息をついて、自分のめざしを頭からかじった。
半分は格好だけ。本当は骨なんか食べる気はなかった。
食べる気なら初めから解体何かしない。
ただ、不思議そうに見ていた実隆を少しだけ驚かせようと思っただけ。
実隆が不機嫌な貌でめざしを食べているのを見て、溜飲が下がる。
案の定口の中でごろごろする骨を丁寧にかみ砕きながら、彼女は卒業式の事を思い出していた。
――あの時……
実隆は卒業式に出席するべきだったと、彼女は言った。
今でもそう思っている。
いや、今と前とでは意味は違う。
その日の朝、実隆が出ていくのを見送ってから彼女は学校へ向かった。
特別な感慨はなかった。
ただ通い慣れた校舎がいつものように出迎えてくれて、今にも泣きそうな友人やいつもと変わらない笑った友人と話した。
「もう卒業なんだね」
友人は言っていたが、彼女にとってはそれだけに過ぎなかった。
――別に、これで今生の別れじゃないのに
とは思っていても何も言わなかった。
そして簡単な予行をして、本番。
実隆の名前はなかった。
呼ばれるべき人間が呼ばれず――その意味を測りかねたが、『クスノキタカヤ』は何事もなかったように卒業証書を受け取っていた。
クラス全員に聞く気になれなかったし、どれだけの人間がどれだけ考えて思っているのか判らない。
すぐにでも判りそうなモノなのに、誰も話題にしていなかった。
それは――触れてはいけないモノであるかのように。
実隆がいないことにも、誰も気づいていないように。
今彼女の目の前で食事をする彼は、あの世界にはいなかった。
――どうして
だから、逆に彼がいるという矛盾で、あの世界を壊したかった。
多分今の気持ちは、そんなある破壊的な衝動なのかも知れない。
「それで?」
今彼はどこにいるんだろうか。
そして、今彼を見ている自分はどこにいるんだろうか。
彼女は大学に行くために勉強していた訳ではないが、『行けるうちに行っておきなさい』という母親の言葉に押されて入学した。
「どんな噂なのよ。ヒトのめざし見つめてる暇あったら、教えなさいよ」
だけどせめて言葉だけでも。
彼が逸脱しないように。
どこかに行ってしまわないように――
そんな、はずはないのにと自分でも疑問に感じながら。
「ああ。何だか奇妙な薬が出回ってるって噂。魔力だかなんだかが上がって、簡単に魔法が使えるようになるって言う」
曰くは非常にとんでもない話だ。
口元を歪める実隆に、眉根を寄せていかにも胡散臭そうに貌を歪める菜都美。
「何よそれ」
「如月工業って、聞いた事あるだろ」
如月工業高等学校は私立の工業高校で、少なくとも知らない人間はいない。
山手にある櫨倉とは違い、広い繁華街側にある住宅地に面した場所にある。
野球部に力を入れているらしく、毎年甲子園参加する程の実力だ。
尤も有名なのはそれだけではない。
工業高校だから、ではないが、良い噂には尾鰭が付くのが定めなのか、悪い噂も絶えない高校だった。
実隆がアルバイトしているファミリーレストランでも良く見かける。
深夜に、だ――飲酒に関しては実隆は何も言うつもりはないが。
「ええ。あんまり好きじゃないけど」
菜都美はあからさまに『嫌』という表情を浮かべながら「好きじゃない」と誤魔化した。
その様子に少しだけ躊躇して、実隆はお茶を飲む。
「この間、この薬をやってて捕まった奴がいる。新聞とかじゃ伏せてるけど間違いないらしい」
「へぇ……って、その薬は麻薬とか覚醒剤の類なの?」
実隆は頷いた。
「『Hysteria Heaven』って名前の薬で、向精神薬のカクテルらしいけどね。これが名前は同じでも種類があるらしくて」
効果は基本的にダウン系の薬剤らしく、非常に精神依存性が高い。
ベースが不明だが、基本がアルカロイド系の半合成ドラッグの組み合わせだという。
常習癖がつくともうどうにも止められないという、まさに「麻薬」だ。
「噂もそうなんだけど、捕まった奴の証言が奇妙でね。どうせラリってたんだろうって決着はついてるけど」
その高校生は、普段薬を飲むのは自室だという。
だが発見された場所は、自分の自宅から遠く離れた山手の方だった。
室内着のままで、靴も履かないで倒れていたところを発見されている。
「おかしな事に身体のどこにも怪我も泥もなかったそうだ」
菜都美は箸を止めた。
露骨に嫌そうに貌を歪めたまま、実隆を睨むように見つめている。
「…なんでそんな事に首を突っ込むの?どうせ、そんなの関係ないんじゃない?」
「ちょっと」
母親の声が会話を中断させる。
二人の視線が彼女に向くと彼女は人差し指で右側を指さす。
そこには時計がある。
もう、学校に行かなければならない時間。
「わ、嘘」
「嘘じゃないの。全く、仲がいいのは判るけど、時間忘れちゃ駄目よ」
じろっと視線だけを母に向けると、かきこむように食事を終えて彼女は席を立った。
準備は終わっているのか、ごちそうさまと言うと洗面所に向かう。
「準備する暇なんかないわよ」
「顔洗って歯磨きぐらいしていくっ」
叩き付けるような水音が聞こえてくるのと同時に、それに負けないぐらい大きな声が帰ってきた。
「もう、あの娘は。ごめんなさいねー、あんなにがさつで」
思わず頷きそうになって、慌てて首を横に振った。
そして首を振ってからよくよく考える。
――どういう意味だろう
と。
何故かにやにや――いや、にたにたと明美は彼を見つめていた。
「ごちそうさま」
それを、冬実の柔らかい声が遮る。
朝食は沈黙とにぎわいの中で終わった。
ぱたぱたというスリッパの音が玄関に消えていき、菜都美の「行って来ます」がけたたましい扉が閉まる音に被さるように聞こえた。
それを耳だけで送ると、実隆も出発の準備を始めた。
冬も終わり、随分と暖かいので薄手の上着を羽織る。
バイト代は全て大家である菜都美の母に渡しているので、その中から出る小遣いが財布には入っている。
それをジーンズのポケットに突っ込んで、彼は玄関に向かう。
最初は豪華にかけ離れた世界の屋敷だと思っていたが、普段のように住み始めると色々とあらが見えてくる。
だから、気にならなくなっていた。
「…行って来ます」
廊下にさしかかったところで、玄関から声がかかった。
丁度出るところだったのだろう、冬実が制服姿でこちらを向いていた。
菜都美よりさらに短く刈り込んだ、丸い印象のある頭に鋭くきつい吊り目が印象的だ。
初めて彼女を見た訳ではなかったのだが、彼女が菜都美の妹だと知ったのは、実はここに来るまで知らなかった。
今高校三年生で、櫨倉総合学院に通っている。
挨拶はすれば返す程度だったのが、最近向こうから声をかけてくれるようになった。
丁度警戒する年頃ではあるが――ふと、挨拶する時の彼女の様子にはそれとは別の気配があるようにも感じていた。
それが何かは判らないが。
だからではないが、彼女と話をした事はない。
「ああ、行ってらっしゃい」
実隆の応えに彼女はぺこりと頭を下げると、僅か躊躇してもう一度実隆の方を向いた。
「ヒイラギさん」
いつもとは僅かに雰囲気の違う貌付きで冬実は彼の名を呼んだ。
「ん、何か用事か?」
一瞬目を下に逸らせ、ついっと目を細める。
「いえ……気をつけてください」
それだけ言うと、彼女は今度こそ背を向けて、扉の向こう側へ消えた。
◇次回予告
噂の調査に向かう実隆。
「ルールってものを教えてやる必要があるか」
情報を入手するためにカマをかけたつもりが、逆に巻き込まれる羽目になる。
果たして――この事件は実隆が求めるものがあるのか。
Holocaust Chapter 4: 玲巳 第4話
ここからは、取引の話だ。無論聞いてくれるよな
手を出してはならない禁断の領域
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