XII.

 既存交通機関の衰退〔2〕自動車(b.バス・タクシー、作業用自動車)
   バス・タクシーなど自動車を利用した旅客交通機関は、単価や燃料費の高騰、乗客数の減少に伴い衰退した。貨物輸送もジェリディアムで大型貨物の転ブが普及するのに伴い大幅に衰退した。しかし一方で、転ブ再構成に必要な原料物質を運ぶトラックや、そのトラックとジェリディアムを一体化した、建設や引越し用の転ブトラックなど、転ブ社会をサポートする各種の自動車が開発・運用されている。

 
 電話を切ったヨヨハトおばさんの目は、いつもに増して、輝いていた。
 そうだよアタシゃね、ダテに転ブギライなわけじゃないのさ。あの人が『転ブを使うな』って言った時から、ピンときてるんだ。これはアタシにとって格好のお仕事だってね。
 フフ、さー血が騒いできたわ。悲劇のヒロイン、エリさん姫を、ちゃーんと送り届けてあげますよ、アタシゃ。
 と、胸の内では中世の騎士気取りな割に、彼女はエリに、こっそりこんな声をかけた。
 「エリさん、ちょっと梅昆布茶――分けてあげましょか」
 片目でウインクし、デスクの陰から右手でサインを送っている。サインの意味はエリにもよく分からなかったが、どうも静かについて来い、ということのようだ。
 給湯室でエリはヨヨハトさんから、二人してサマリーの自宅に向かう話を聞いた。
 「さ……」サマリー!? と、大声で叫びそうになったエリの口を、ヨヨハトさんは優しく右手でフタをした。
 「ストップ、ストップ、ストーップ……。なんだいエリさん、あなた知ってるの? サマリーさんのこと」
 口を塞がれたまま、目で頷くエリ。その返事にヨヨハトさんは、ゆっくりと首肯しながら顔をほころばせた。
 「だったら、話が早いかもねぇ。今日は二人で、うまく会社を抜け出さないとねぇ!」
 「えふっ、えふっ……」まだ口を塞がれていて、どうやら鼻も一緒に塞がれていたエリは、むせ出した。
 ヨヨハトさんはあわてて右手をどけつつ、
 「こんな感じでどう? まず私が主人の急用で早退する。これは毎度のこと、と。その後しばらくしてあなたが、風邪だと言って早退する。仕事? ああ、気にしないでいいわよ。私からも課長さんに、それとなく言っといてあげるから」
 そして、何やら持っていた紙をさしだすと、
 「それでいきましょ。ここはね、駅前の喫茶店。あなた駅まで分かる?」
 不安そうに首をかしげるエリ。ヨヨハトさんは、喫茶店の名刺の裏にかかれた地図に、会社までの道のりを書き足した。
 「この道をまっすぐ行った、大きなガードを左に行くの。いい? 会社を出たら、まず信号のある方へ行くのよ」
 エリは真剣な顔で頷く。作戦会議は終了した。
 「あ、それとこれ。梅昆布茶」
 ヨヨハトさんは、給湯室の戸棚から梅昆布茶の小包を出し、手渡した。
 「いい? 一気に何杯も飲んだら、舌がシワシワになっちゃうからね」
 エリは、なんだそりゃ、と微笑む。ヨヨハトさんも目をくるくるさせて微笑んだ。
 「もし雲行きが怪しくなったら、すぐ私に電話するのよ」
 二人はまたオフィスに戻った。ヨヨハトさんは自分のデスクに座りもせず、課長のデスクに向かっていった。自分の早退理由をまったく悪びれもせず、また無用なことをまったく言いもせずに述べた後、こう付け加えた。
 「それから、どうもエリさん、今日は体調がかなり悪いみたいなんですよ」課長に言い放つと、そそくさと後片付けをして帰っていった。
 人のいい課長は頼まれもせぬのに、エリにいたわりの声を掛けに来て、今日は早く帰って、病院にでも行きなさい、と言ってくれた。
 「はい、すみません」課長に嘘までついて……、責任感の強いエリには、これだけでもかなり気が重かった。だがその苦悶の表情は、課長にとっては自分の優しさの裏付けになった。それを敏感に察知しただけでも、エリの中に人をだました煩悶が広がった。しかし――。
 自分達の直面した危機を、少しでも回避することには代えられない。
 エリはおずおずと帰宅の準備をして、「じゃあ、すみません。お先に失礼いたします。お疲れ様です」
 と、いつもの彼女のあいさつをして、会社を後にしようとした。
 そして、いつものように転ブの前まで来て、はっと気づく。
 『死ぬ』
 さっと顔の血の気が引き、危うく気を失いかねなかった。目の前に突然現れた、黄泉の国への門。死ぬのがこんなに簡単であっけないものだなんて、エリは今まで考えたこともなかった。
 腰が抜けそうだった。崩れ落ちそうになる自分を、乾いた笑いでなんとかごまかし、オフィスの何人かが心配そうな目で見るのを、
 「おしっこ、忘れてた」と独り言のようにつぶやいて、へへ、へ、とトイレに向かった。こんな幼ない言葉を、たとえ独り言でも、エリが職場で漏らすのは初めてだった。
 給湯室の奥にトイレがあり、この給湯室を入る手前に非常口がある。ヨヨハトおばさんが、いつもここから出て行くドア――エリにはそれが、『脱出口』に見えた。
 「いくわよ……」
 まだ死の恐怖から逃れられていない。本当にトイレにも行っておきたい。でも、そんな気持ちを振り切った。生きるんだ。何があっても。
 そう。
 何があっても――大好きな、人のために、大好きな人のもとに!
 エリの頭上に青空が広がった。そしてひび割れのたくさんある、コンクリートの階段が眼下に伸びていた。2、3歩歩みを進めると、その後は一気に駆け下りた。
 ユキヤさんに、会う!
 ほとんど目をつぶっていたかもしれない、それほど無我夢中。
 だが、幸運にも、どんな車も道を走ってはいなかったし、彼女を妨げるどんな歩行者もいなかった。休日の銀行街のような街は、ビルの中を見てようやっと人間が生息しているのが分かる。だが、そんなことを確認している暇は、彼女には無かった。
 エリの、生への突撃だった。昼前の秋の日差しは、彼女の額を汗ばませた。やわらかな風がそれを少しく冷やしていた。街路樹の紅葉は時折ざわめき、それ以外には自分の激しい呼吸以外、聞こえなかった。走っているうちに、彼女は、今が本当に秋であることを思い出していた。空はどこまでも青く、雲はその白さで、いっそう青を際立たせていた。
 こめかみの脈動が、心臓と連動していた。エリは恐怖から狂喜へと、感情が変わっていくのを感じた。まるで漆黒の深淵の崖上で、色のある世界の端っこを、ひたすら走っているような気がしていた。自分の生命は、まさにそのぎりぎりに位置していた、ただ、その位置はそれほど重要ではなく、走っていること自体が自分の生命なのだと確信した。
 崖から落ちても、――走る!
 涙がぼろぼろ溢れていた。全身の細胞一つひとつが踊っているようだった。やがて、自分の熱気を肌に感じるほどに速度は落ち、激しい呼吸が嗚咽に変わった頃、彼女の目に約束の地、『飛天』と書かれた看板の喫茶店が、にじんで映っていた。
 外から見た店内は薄暗かったが、ヨヨハトおばさんらしき人が手を振っている。エリがぼおっと立ちすくんでいるのが分かると、すぐに立ち上がって、ドアを開けて出てきた。
 「エリさん! 大丈夫だった!?」
 その言葉にエリは火が着いたようにわあわあ声をあげて、ヨヨハトさんに泣きついた。ヨヨハトさんはエリを抱きしめると、エリの背中をなでながら言った。
 「よく一人でがんばったねぇ。ごめんね、置いてきたアタシが悪かった。でももう心配しないでいいよ……エリさんはアタシが守ってあげる。……守ってあげるともさァ。ここからは、一緒だよ」
 しばらくして、やっと泣き声の収まりかけたエリの頭を、ぽん、ぽん、と叩き、
 「さ、かわいい顔がそれじゃ台無しだよ。熱いお茶でも飲んで、一息いれましょ?」
 まだ眉毛を八の字にしたままのエリも、視線をヨヨハトさんの目からそらさずに、黙って頷いた。
 「さ、中に入ろ。ここのグレープフルーツ・ティーはホントーウに、美味しいんだから」
 喫茶店の中は外から見たのと同じく、昼間だと言うのに薄暗かった。採光をわざと悪くしてあり、白熱灯の明かりも少なめだった。
 席に座った途端、ヨヨハトおばさんは変わった質問をした。
 「あなた、何かヘンなことに気づかなかった?」
 「……え?」
 「ここの入口、転ブじゃなかったでしょ」
 「は、はい……」確かに、飲食店舗の玄関が転ブでないのは不自然だ。
 ヨヨハトさんはてきぱきと、エリのグレープフルーツ・ティーとサンドイッチ二皿を注文し、去っていく店員の背中を目で追いながら、
 「ここのマスターも転ブ嫌いなのよ。ここにはそんな人しか来ないの。今どき名刺っていうのも、そんなわけ。どうも――商売っ気のないマスターなのよねえ」
 エリはしばらく、先ほどの興奮状態から抜けきれずに呆然としていたが、ヨヨハトさんの言葉が自分を少しでも安らげようとするものだったことに気づき、少し遅い返事をした。
 「……そうなんですか。珍しい、ところですね?」
 「悪かったわねぇ、アタシも同類よ?」でも瞳は笑っている。
 「す、すいませ……」
 「――って言うあなたも、もう、お仲間だわよ」注文の品がエリの前に出されると、
 「じゃ、仲間のエリさんに、カン・パイ」自分の空になったティーカップを持ち上げ、かわいらしく首を傾けた。
 エリは一瞬、黙ってティーカップから立ち上る湯気を眺めていたが、やがて微笑み、
 「よろしく、お願いします」
 小さな、かちんという音が軽く響いた。
 うんうん、という頷きをしてヨヨハトさんは言った。瞳をまた、輝かせて。
 「そうと決まったら、腹ごしらえよ! ここのサンドイッチも、最高なんだから!」
 

(第13章へつづく)

© A.Matsu! 2000-2001 大禍時(おおまがとき)Indexへ