雑感 2003/10 |
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ひさびさに歌でも詠もうかな。 (季語=全部「日本シリーズ」(?)) <第一戦 ●(4-5x)> 二十勝投手同士で 打撃戦 それらしくもあり らしくなくもあり 敵ながら ファンに手厚き 球団は 地域の宝 身売りすまじを <第二戦 ●(0-13)> こりゃホーム・アドバンテージと 言い切れぬ セの他球団に 申し訳無し <第三戦 ○(1-2x)> 追撃の 端緒たるべき サヨナラ打 辞去思わせぬ 声も高らか やっと勝つ 監督の声 ぶつ切るな おのれCM 逆効果だぞ <第四戦 ○(5-6x)> 四球にて リリーフ直後に 押し出すも 見よその次は 三球三振 また延長 値千金 本塁打 いざや振り出し 星は五分五分 <第五戦 ○(2-3)> 本塁打 シングルアーチが 目立つのみ 塁踏み荒らす 攻めはいずこへ 「甲子園、最後の試合」の 挨拶に 勝ちも王手も 惜別を識る <第六戦 ●(6-1)> 鷹打線 ホームで威力 百倍す 大虎の夢 醒ます鐘撞く <第七戦> プロなのに 親が球児を 見るごとく 優勝戦の 一喜一憂 目を覆い 隙間から見る ビハインド 回追うごとに 指狭まりつ 四面楚歌 彼我歴然の 九回二死 天蓋一矢 報いるが花 表彰に 立ってなお歯を 食いしばる 金本の目に 猛虎宿れり 監督に 感謝したくも 今はまだ 取っておきたし 他年の今日に 潔し 77の 背中で言う ここに夢あり 次の夢あり 了
最近、96歳の作家の方と知り合った。 このMさんの含蓄に富む新聞コラムや淡麗な短歌にも脱帽しているが、なんと全部「自分の歯」をお持ちなのだ。 ……歯に関しては僕より若い(がーん)。 論より証拠、見たまんまの健全さに、早速僕は「歯のていねいブラッシング」を励行している。 気さく飄々とした雰囲気もあいまって、Mさんは僕に全く「老い」を感じさせない。 昔、職種別の「適齢期」について聞いたことがある。 たとえば、力仕事では(熱心にやってくれればだが、)若者の方が仕事になるし、会社役員などでは多くの経験や交際術などの「年の功」を発揮できる、ということ。 数学者などはきわめて若い時期にピークが訪れたり、画家などは特定不能だったりする。 スポーツの種目別適齢期は、一般的にも良く知られることだろう。 確か政治家の最適齢期は、60〜65歳くらいとされていたはずだ。 もちろん、数ある職業の中で最高齢クラスだ。 本当の政治家が醸成されるには、それなりの時間を要する、ということだ。 年齢で一括りに考えるのも元々おかしいと思うが、73歳定年制だと、実はそのピークから8年ほどしか経っていない。 通常の「働き盛り」が30〜40歳なら、48歳で定年にされるようなもの――といえば言い過ぎかもしれないが、このIT化社会・高齢化社会・個別化の時代では、時代に逆行気味な気もする。 「若い活力を吹き込みたい」というのは分かる。 しかし単なる政界のベテラン追放劇になるのも、困る。 江戸時代の月代(さかやき=武士や町人が剃っていた頭)は、「ルックスだけでも早く長老(=ハゲ頭)になって尊敬されたい」という願望が、そのままヘアスタイルとして定着したという説もある。 だとすれば、禿頭も高齢も憧れの存在だったのだ。 「老い」という言葉には、『悲しいこと』・『回避すべきこと』・『軽侮』という悪いイメージがある。 ミーハー志向の若年層メインの大量消費社会は、高齢化社会ではもはや過去のものとならざるを得ないが、このイメージを大いに助長したと言えるだろう。 日本をこんな潮流に乗せた張本人は、まさに今から『老人』になる方々だし――今さら『尊敬しろ』というのも無いものねだりかもしれない。 とはいえ、年齢は「みんな順番」。 だから、それも楽しんだ方がいいに決まってる。 今老いを嘆けば、10年後の自分に一笑に付されるだけなのダ! それを楽しめる社会の方がいいに決まってる。 今老いを笑えば、ウン十年後の自分が一笑に付されるだけなのダ! 楽しくいこー、年取った時も! え? 何? だ、第7戦? ひ、広沢最後カッコよかったなあっ! ……ダイエーおめでとう、とほほほほ……。 ら、来年リベンジじゃあっつ!!!!
ちょっとショック以外の言葉におき代えにくい。 乱セの中での今年の独走は、まさに彗星だった。 本当に命を削りながらの采配だったと思う。 関西に元気を与えてくれたこと、感謝の言葉も無い。 さらに優勝翌日、スポーツ誌での個人広告「応援感謝」には、感激の至りだった。 単なる優勝に留まらない、たくさんのドラマに包まれたシーズンだった。 ありがとう、星野監督。 といっても…… 日本シリーズは今からだから、終わったような物言いは今したくない。 新生阪神も今始まったばかりのはずだし、次の優勝を彗星並みのスパンで考えたくもない。 「日本シリーズ、がんばってください!」 本当に、今はこれしか言いようが無い。
万歳三唱――中国、有人宇宙飛行に成功! ついに漢字名の船で、漢字名の宇宙飛行士が宇宙に到達した。 漢字文化圏にいる我々にとって、非常に名誉なことだ。 純国産というのがまた素晴しい。 技術開発の基本は、やはり自分で作ることだ。 (それがたとえ「先行者」であってもネ。) 「長征」の名を冠しているから、相当な覚悟で作られたロケットなのだろう。 わが国にも素晴らしい刺激として歓迎したい。 なにより、東アジアの名誉である。 さて、そんな国に比べると、ホント同情に値する政権がある。 ミサイルと核開発を手がけ、周囲を恫喝ながら、それを載せるトレーラーも作れず輸入する――。 太平洋戦争時、占領した島にあったブルドーザーが何をする機械か分からなかった日本軍の話を思い出す。 『日帝』を卑下するくせ、その欠点や汚点をいちいち踏襲している感があり、まことに歯がゆい。 他人を脅すなら、足元ぐらい自分で作れよ、と言いたくなる。 ロケット工学の使い方も褒められたもんじゃないが、もともとそれを成せる工業力・民間活力と、汎用性の高い基礎技術が無視されているんじゃないだろうか。 最初の核開発についていうと、原爆のマンハッタン計画と、原爆を投下した戦略爆撃機B29の開発費用はいずれも同規模の額で、両者の合計は当時の日本の国家予算に匹敵していた。 そもそも非常にぜいたくな技術開発だ。 なおかつ、多数の研究者を召集できる工業化社会がアメリカにはあった。 技術開発を組織化できる土台が根本的に違うことも忘れてはならない。 『他国の人々を無慈悲に殺傷する兵器を手に入れた』――極端な技術開発に邁進することが、自国民を無慈悲な逃亡生活に追いやっている現実に、なぜ気づかないのだろう? 「中華」の面目を躍如した中国にくらべ、国運の差が如実に表されているような気がしてならない。 ともかくも中国、オメデトウ! ミッション・コンプリートを祈ります! 〔16日朝、無事帰還。 中国の新世紀を印象付けるものとなった。 2008年には北京オリンピックも控え、ますますアジアの超大国として華開くだろう。 日本国内における窃盗団などの悪印象は、日中協力の下に根絶しよう!〕 〔2003/10/18付記: 「ODAなどの支援を受けている状態で、不経済な行為をするのはどうか?」 という意見もあるようだけど――これ、ヤッカミじゃないかなァ。 確かに宇宙開発は贅沢だ。 でも、大いに国威を発揚したことだし、短期的な経済効果で量る類のものではないだろう。 無論軍事転用は望まないが、反対にこまごました技術が民間転用されれば、中国の技術力も進歩する。 日本のW杯の収支を見れば、北京五輪よりも経済に資するミッションかもしれない。 ――百年ほど前、日本海海戦の大捷報をパナマ運河で聞いた孫文は、喜び勇んで万歳をした、という。 平和技術であるべき宇宙開発と比較するには一難があるが、今日を生きるアジア人としても、国家の枠組みを越えて、中国が成し遂げてくれたことの意義を考えたいと思う。〕
あらあら、遂に「道頓堀ダイブ防止工事」が始まったな。 こういう消極的なことに使う予算は、すぐに出るのネ。※ これが、「不景気のノリ」ってヤツかな。 「大阪はそんなノリとちゃう」 ……そうか。 18年前の悪ノリの方がお好きか。 カーネルおじさん他たくさんの器物が犠牲となった、前回の暴動の方が確かに大阪らしいかもな。 大体その「ノリ」ってやつは、大阪発祥からそのまんまなんでしょかねェ。 ノリなり文化なりってのは、積み重なり変化していくものだと思いますが。 せっかく無難でエコ=コンシャスな伝統ができかけたと思ったけど……もう知らんぞ。 その道頓堀川自体も、90年ほど前は「そうめん流し」をしてたそうじゃない。 誰の世代がヘドロ川のノリにしてくれたんだい? 臭いのは……若者のせいではない。 その罪業を棚に上げて、クサイとか汚いとか平気で言える口は、どの口かな? 死人が出たから危ない? じゃ自動車文明も全否定できるよね。 運転中に背中を押されて死亡した人がいたら、自動車は排除すべき危険な物体かなぁ? 普通危険なのは、後ろのヤツじゃないのかなぁ。 (今比較にならないと笑った人は、自分の感覚が麻痺していることにも気づいた方がいい。 出力100psの車を運転するということは、普通の人間が騎兵100騎分の暴力を手に入れるということでもある。 今日も何人が自動車文明の犠牲になったことだろうか?) 文化が危険性と矛盾する場合は、そこかしこにある。 例えば、ミナミが安全性を第一に望むなら、多くの店を類焼させた法善寺横町の細い石畳も、涙を飲んで排除しなければならない(……なんてことは、考えたくもないんだけど。 でも法令に反してさえいるのだ)。 もしかしたら、飛び込んだが最後、消費活動ができなくなり、資本主義に合致しないので排斥されているのかなぁ。 だとすれば、クサいダイブ者もクサい道頓堀川も、消費社会の犠牲者だよな。 人が嫌悪感を覚えたとき、人が快哉を叫ぶとき。 いずれも商売のチャンスだけど、それを生かせないというのは浪花のあきんどとして、不甲斐ない。 てゆーかなぁ。 根底にあるのは、「そんなノリちゃう」という意見に代表されるように、高齢者の単なる違和感じゃないかな。 「近頃の若いモンは……」っていうやつ。 自分が若いモンだった頃の、理屈抜きの感情の横溢を忘れてしまった人の。 ロン毛、うっとうしい。 茶髪、見苦しい。 ダイブ、けしからん。 みたいな。 その老いぼれた偏狭さには心から憐憫する。 もっとひどいのになると、 「飛び込むヤツら、目立ちたいだけや」 「目立ちたいんやったら、もっと他の事でやれや」 これらの意見がこの現象の本質を言い当てているとは、とても思えない。 当人達はそんな事はどうでもイイくらいハイになっていたはずだ。 「目立ちたい」などという低劣な感覚でいられたヤツは、根っからの阪神ファンとは言えない。 そんな中途半端な気持ちで飛び込んでも、道頓堀の名を冠する値打ちは無い。 初秋に、人ごみの中で単なるドブ川に飛び込んだだけだ。 さらに、結果論だがのべ5300人では目立つのも難しい。 わざわざくっさい思いまでして、他人と同じ事をして、「目立つ」と思えるヤツがいたなら、こりゃ相当おカワイソウな人だ。 どうも……何がなんでもダイブ者を卑下し、ダイブを否定したいがための類推に聞こえる。 まあ現地の住人(?)の多くが望むなら、工事も仕方ないとは思う。 そんなにダイブが嫌なら、いっそのことフィレンツェのヴェッキオ橋みたいにしたらいいよ。 ともかく、今より危なくならないようにだけは、願う。※ 僕自身はこの行為には、いくつかの条件をつけた上でだが、別に反対していない。 反対する理由が、究極的には身勝手な論理(汚濁)や余計なお節介(危険)やただの感情論(嫌悪)としか思えないからだ。 現時点では奨励もできそうにないが……暴動沙汰に比べたら、カワイイもんじゃない? にしても、なぜ民放TVが一様に排除意見を前面に出しているのか、いまだに理解できない。 お得意の「思考停止」だろうか。 そういう一面的な硬直が、この国をダメにしてるような気がする。 意識調査では大部分の人が「よくない」と思っているらしいが、本当によくないのはクサイものにフタをしようとする考え方だと思う。 水質汚染然り。 破壊的衝動然り。 一方NHKは、ほぼ事実報道に徹しているように見受け、やっぱりレベルが一つ上だなぁと思う。 死亡事件も事故ではなく傷害事件としての詳報を伝えていた。 しかし、民放各局は死亡事件を枕詞にして『ダイブ排除キャンペーン』でもしているようだ。 まず犯人を責めるべきなのに、いつのまにか「ダイブはダメ」にすり替えられている。 こういう姿勢は翼賛的にさえ思える。 若い世代に限っては「(大阪らしくて)いい」と答えた人が半分ほどいたらしい。 面白がっているだけの向きもあるだろうが、見るべきところを見抜いている御仁も多いと信じる。 君たちの世紀だ。 年寄りの事なかれ主義という欄干は、一足で飛び越えていってほしい。 1.もし万一、「サイパンのバンザイ=クリフを思い出すので辞めてほしい」と戦中派の方に言われたら、これは即座に自粛すべきだろう。 だが、もちろん同一視できるレベルの事象ではないし、そういう意見も聞いたことがない。 (ただし、突き詰めると行動原理は両者とも日本民族の集合無意識に由来するとも推測でき、ゆえに「大阪のノリ」という短いスパン・狭い次元では説明できないものかもしれない。) 2.日本人の一斉の捨て身の行動は、近隣各国と巨大な某同盟国の恐怖心を駆り立てる恐れがあるので、政府は容認しないよう隠密裏にメディアに圧力をかけている……ワケないよな。 3.とにかくこれ以上参集者数が増えすぎると道頓堀が危険なので、民放では容認的態度を取らないよう協議している……この辺が妥当なセンかな。 将棋倒しなど、ダイブどころじゃない事態を想定しているのかもしれない。 TVメディアの影響力は、何にしろ強い。 ダメと言い切れる理由が一つも無い事こそが、ダメと言い切らなければいけない理由なのかもしれない。 ※ と、ここまで書いて、ひっくり返すんだけど。 工事費用は150万円で、けっこうリーズナブルだった。 しかも僕が見た限り、ダイブ防止よりも安全性を高めるような工事だった。 橋桁外側の出っ張りを欄干上部から斜めに覆うので、万一押されて落ちても、出っ張りで頭や体を強打する危険性はなくなる。 ただし、そこに足をかけて低い位置からダイブすることはできなくなった。 まあ、ダイブ自体をサポートしているワケではないので、当然だろう。 この出っ張りを伝って何回も飛び込んだ人が多かったらしい。 僕も複数回のダイブには反対だ。 着衣で何度も飛び込めば、蒸散作用で体温は急激に奪われる。 つーか、次のヤツに譲ったれよ。 一回で満足でけんよーなダイブは、集中力が足らん。 しかし、標識の有刺鉄線はナサケナイ。 しょうがないんかな。
泣かせるナァ、昨日の試合。 去年優勝の監督が辞任するという事態は、どうもよーワカラン。 こう言っては身もフタもないけど、阪神の監督なんてこの18年、何年Bクラスで留任したことか。 〔2003/9/16:しかも今年の巨人は、Aクラス。〕 時代がドライすぎるのか、「首のすげかえ」という旧式なスタイルか。 あるいはその両方か。 マーフィーの法則に「人事は残酷なほど優れている」といったような句があったけど、それなのだろうか。 おっとっと、あくまで『本人の意思』、か?……なんともなぁ。 ここ2年、阪神―巨人戦は印象に残る試合が多かった。 今年4月、緒戦にして今期唯一の引き分けは、最高にアツくなれた。 清原も笑って打席に立ったあの大舞台は、まさに「伝統の一戦」の風格があった。 去年の巨人優勝決定も、試合の幕切れはかなりトホホだったけど、試合後の原監督の言葉には、ラグビーの「ノーサイド」の理念に通じる爽やかさを感じることができた。 久しく有名無実だった『伝統の一戦』が、それらしくなっていた。 長い間、ホント引け目を感じる言葉だったけど、今はプロ野球の醍醐味として…… ペナント防衛VS奪還を期して両監督が渡り合う来年を、勝ち負けを越えた大勝負を、期待していた。 そんな中での辞任。 「何じゃそらー!」という感は否めない。 その経緯もさることながら、今辞めてしまうのは、原監督も巨人も、全っ然、らしくナイ。 いやもっと単純に、わずか2年にしてこの『記憶に残る』監督が去るのは、本当にツライ。 だからこそ、甲子園の観客全員がこの監督の名を叫んだんだろう。 試合後の原監督の毅然とした挨拶には、スポーツマン※の気概を感じた。 この辞任劇の最後の救いだったように思う。 『(これからだぞ……必ず帰ってくるんだから!……)』※※ そうだ、そうだっ! ※ スポーツマン: 最近は陸上競技選手のみならず、スポーツ選手全般を「アスリート」と呼ぶようになったけれど、ここは古風な言い方が合うと思う。 ※※ 『(これからだぞ……必ず帰ってくるんだから!……)』: 読唇術で推測される星野監督の原監督への激励(MBS 「VOICE」・「阪神の星野サン」より。部分)。 読唇術によるものだから僕も保証はできないけど、ネ。
中国・珠海市での集団買春、まことに遺憾だ。 2つの点で疑問が残る。 1つは、この事件に限らず、集団買春というもので享楽を得ることができるセンス。 個人的には、理解できない。 四百人近くというから、そういう状況に図らずも巻き込まれた人も、パーティーの中にいたのではないだろうか。 で、「せっかくだからヤッとこ」という感覚にでもなるんだろうか。 自発的・能動的であるべき男性生理が、群集論理の受動的状況の中に埋没し、マスターベーションにさえ遠く及ばない。 大和男児の最終兵器は、こんな性行為をするためについているのではないぞ??? ただし、そういう産業がこの街に成立しているということが、是非はともかくこの事件の前提となっている。 色々な問題は付随するが、性産業を全否定することは社会的には不健全だろうと思われる。 もう一つは……これが非常にシビアな問題だが、9月18日という日付。 僕は正直な話、「柳条湖事件」と言われるまで分からなかった。 こう言うと、中国の方を余計に怒らせることになるのだが、日本人の認知度自体、相当低いと思われる。 ついでに言えば、このパーティーは前日の17日に開催されていた。 忘れた日付の前夜祭など、ありえない。 一方の中国人も「何でもこじつけて怒りだす」性分では無いだろうから、それだけ両者に認知度のギャップがあるということだろう。 例えば8月15日に日本の繁華街でアメリカ人が乱交パーティを開いても、「戦勝記念」とでも言われなければ、個人的には特に怒りだす問題ではないような気がする。 この辺はお互いの感覚の相違だから、日付に怒り出すような民族性なら、商売人はそういうことも考慮しながら宴会をセッティングする必要があっただろう。 12月7日にハワイで乱交パーティを開くようなマネは、日本企業にはまず不可能だ。 日付を知っていてそれが国民感情を害することが分かっている場合、むざむざ顰蹙を買うようなことは、しないはずだ。 というわけで、ここは中国人に誤解しないでいただきたいのだが、その日に合わせてわざと嫌がらせをしたわけでは、ないだろうこと。 反対に、「オマエら、9月18日が何の日かも知らなかったのかよ!」ということについては、大いに怒っていただいて然るべしと思う。 僕も反省します。 こういう知識の差から生じる誤解や不信が、同じ東アジアでけっこう多いというのは、ちょっと問題じゃないだろうか。 9月18日はアメリカ独立記念日やパリ祭よりも、東アジアにとっては重要な日付かもしれない。
昨日まで高知に行っていたのだけれど、その最終日、9/30の新聞では、 元土佐藩主・山内家第18代当主がお亡くなりになったとのことだった。 地元の高知新聞では、一面をはじめ3記事、一記事はほぼ紙面の全面に及んで大きく扱われていた。 それによれば…… 初代土佐藩主山内一豊は妻の内助の功で有名だが、一豊自身もひとかどの人物であり、妻のみが強調されるのはふさわしくない――18代当主はそう主張して、司馬遼太郎と和やかに論戦したこともあったそうだ。 また、時代は下って幕末、藩主山内容堂は幕末の志士の敵役とされがちだが、土佐藩に動乱を招かず無事維新を迎えた采配においては高く評価すべきである、とも。 容堂の息子(18代当主の祖父)は武市瑞山の助命を涙ながらに訴えたというエピソードもあり、山内家の中でも意見の分かれたところだったらしい。 (以上は抜粋ではなく筆者の要約) 当主のご冥福をお祈りしつつも、歴史に新たな蒙を啓いて高知を後にさせていただくことができた。 それが、大阪に帰り新聞を開くと、わずか数行の死亡記事になっていた。 少しさびしすぎる気もするのだが、地元新聞のありがたみがよく分かる一件だった。
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