雑感 2002/05 |
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ウチの近くに小学校があるが、体育の指導がどうもヘンだ。 「〜しましょう …… …… もっとちゃんと手ェふれー! 〜してください …… …… ダラダラすんなぁ!」 こんな繰り返し。言っているのは一人の教師だ。 聞きようによっては多重人格者が指導しているようにも思え、おかしい。 先生も苦労しているな、と思う。 教師が生徒に強権的な態度をとらなく(とれなく)なって久しい。が、それでは秩序だった指導はしづらい。 指導者のパーソナリティに団体が心服しきっていない場合、ていねい語調でミッション=クリアは難しいのだ。 例えば救急救命では、「救急車呼んでください」ではダメで、「救急車呼んで!!」と命令しなければならない。「お願い」では人は即座に行動しないのだ。 まだ団体活動を始めて間もない大勢の小学生を、「おだやかな口調で」指導する。さぞかし難しいことだろうと思うが、自分のスタンスをどちらにおくべきか迷ったまま指導するのでは、生徒の信頼も得られそうにない。どうにも悪循環。 かえってこういう多重人格的指導は、人格形成期の生徒に悪影響があるような気もする。ここまで考えると、笑って済ませられる問題ではない。 これ以上の責任を学校側に押し付けるつもりはない。教師自身ものびのび教育できないという風潮が、心配なのだ。 教師だけではない。小泉サンのメルマガも、まれに「です・ます調」から「だ・である調」になることがある。今の日本を指導してゆくのは、並大抵のことではないだろう。この方も教師同様、苦労している。 〔2002/6/27:ちょうどこれを書いた頃から、語調が「だ・である調」中心に移行している。バックナンバーをお持ちの方は、ご確認を。〕 ところで僕も人のことは言えない。この使い分けは難しい。 この両者はガラリと雰囲気を変えてしまう。中間色を出そうとすると、スタンスの崩壊した文章になりかねない。 ただ文意を伝えたいだけでも、どちらにすべきか考え込むことがある。
どちらも長所がそのまま短所になる。 口語的な文章には、両者いずれかを適当にくずして、リラックスさせることになる。 本来両者が混濁する文章は好ましくない。が、自分の印象や感情だけは「だ・である調」で素直に表現したり、ピンポイントで読者に直接呼びかける時などのみ「です・ます調」を用いる、という場合もある。 ちょっと面倒だけれど、それだけ日本語の表現方法は豊富だということだ。 後は、その使い手次第なんだけど……ネ。 他の手法としては、広告コピー・新聞の見出し的な、「語尾省略・体言止め」もある。 (例:【ミラクル・スマイル】、【うそこニュース】等)。
インドには、あらゆる宗教紛争を解決する処方箋が、歴史の中に散りばめられているという。 確かに、ヒンドゥ・仏教・ジャイナ・イスラム・シク、そしてカトリック(ポルトガル)・プロテスタント(イギリス)――ぱぱぱっと考えて、これだけ多くの宗教がダイナミックに関与している地域も、珍しいと思う。 で、なんでカシミールがうまく解決しないんだろう。 昔との違いは、
もし、他の大国に借りを作らないような解決ができたなら――相次ぐテロにうんざりしている某国が教えを乞うような、「哲学先進地域」に返り咲けるかも、しれない。 でも……。 お互い核兵器に頼りだすようでは、まだまだ遠い、かな。
「まったく、ドイツもコイツも!」 というのが口癖の友人が、昔いた。 この言葉、周りを否定して「自分は肯定する」オイシイ言葉である。 だから僕は、毎度毎度「イギリスもフランスも」と合いの手を入れていた。相当クダラナイけど、茶化さなきゃ気が済まなかったのだ―― その学生時代、「人格形成における戦前とのミッシング=リンクが、日本人にはあるのではないか?」と考えたことがある。 社会的な「個」ではなく、単なる「私」に向かう現状では、社会関係は収縮する。 結果、全体主義の悪い部分は残存したまま、私利私欲が横行する社会機能マヒの暗闇の中に、「個人」が埋没してしまう。 現在の社会問題の噴出――学級崩壊、少年犯罪、職業モラル低下、他、他、他……の一因は、ここにあると、今でも思う。 また、戦前の高潔な人格者の話を聞くと、とても今の僕らにはマネできないような気がする。 どうもどっかで、切れてる。何かが根本的に違う。 この国での生活にボディブローを与えてきているようで、空恐ろしい。 で、外務省。 世襲官僚――親の威信と才覚、そして人格を継ぐはずの人々にして、現在の体たらく。 ま、送別会で宣戦布告をすっぽかしたようなトコロ(これは勿論在アメリカ日本大使館、昔も今も大使館の「頂点」だそーな)だし、それがちゃんと世襲制で旧態依然というか……えっと、どうフォローしたらエエの? にしても「英文が読めなかったから、突き返した」って、ホント? これ、職能・態度・行動――全部そろってメチャクチャよ? 「官僚である前に人間だった」杉原千畝は、もう外務省にはいないのだろうか。 (この言葉、裏返すと「人でなし外務省」になるなぁ……ワーオ) もう恥はかき倒した(まだあるの?)のだし、もっと堂々とやってくれ! さあ、みなさんご一緒に。せーの。 「まったく、ドイツもコイツも!」 「イギリスもフランスも」 ――。 名誉回復を祈る! 〔2002/05/25:一部カットしました。〕
「国境線」を越えた幼な子は、組み伏せられた母(?)の悲鳴を呆然と聞いていた。 クラクションの喧騒は大きくなる。 無力なる国へ、ようこそ。 この国では客人よりも国境線よりも、サラリーの計算が大事なんだよ。 明日にすりゃよほどマシな国境線を越えられたかも。 さっさと帽子を返さなきゃ。あーあ。 客が家に来た。他国の武装警官が応接間に上がりこんで、彼をひこずっていった――まぁ普通は、ビビりますな。 ただし、家の主人はその道のプロ、それでメシ食ってるお役人様がたなんだけど。 国境線を駆け抜ける、これも元々異常事態。 やすらけく訪問しあえるための、領事館。 たったそれだけのことができないのは、なぜ? あの小さな門扉の前に、悲しみの川が横たわっている。 僕がデリーのパキスタン大使館を訪れた時には、門の中(つまりパキスタン側)で警官に持ち物チェックをされた。この時はアーミーナイフを申し出て、預けている。普通、こうあるべきじゃないのかな。
にしても、「生茶」のCMは元気デマス! 主人公の女性は、ふとしたことで「生きかえるん」。 一話目は園児の行進ごっこで。二話目はフェリーとのエールで。 手にはキリンの生茶、という設定。 ちゃんと時代背景にシンクロしてるのも、かなりスマッシュ。 (三話目は「空」かな――裏読みしすぎ?) 〔三話目?は森で説明編でした。うーん……ちょっとピンボケしたかな? 四話目(野球編)での復活はウレシ。るん♪〕 昔電車に乗っている時に、目の前に座った女性に惹かれた。 申し分なく好みのタイプなんだけど……なぜか表情に憂いを含みすぎ。 もっといい顔してればなぁ、と思っていた。 やがて次の駅で隣の席の人が降り、一つ席を隔てていた彼氏と合流した。 ――その時の彼女の笑顔といったら! まるで初めて陽を浴びたお花のよう。 なんだそゆことかぁ、と落胆するより、単に嬉しかった――その瞬間に出会えただけで。 一曲書けちゃったほどだ。タイトルは章題のとおり。 こんな笑顔にはこっちが「生きかえるん」。
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