ここに辿り着くまで、妙に悲壮感が漂っていた。体調はガタガタ、時間も無し。不安と焦燥にまして「目的地の崇高さ」は、まるで自分自身までカッコイイかのような錯覚をさせていた。
だが、乗り合いワゴンの屋根の上に乗り、風に吹かれつつブッダガヤへと近づくにつれて――気が楽になってきたんだろうか、そんなことはどうでもよくなってきていた。
そして――なぜかスピッツの「青い車」が、頭の中に流れ始めた。それはブッダガヤにいる間、止まることはなかった。
(上の文は「青い車」の歌詞ではありません――念のため。
本来、この日の僕を表現するには「青い車」の歌詞そのものを書くべきで、後は蛇足だと思うんだけど――(こういった場合、著作権法上どういう記述をすれば妥当なんだろう?)、もしよかったら上の文章の横に、「青い車」の歌詞を重ねてみてください。)
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ガヤで泊まっていた宿は、かなり程度がよく、1階のレストランも高級感溢れるものだった。
ブッダガヤで知り合った韓国人の兄妹と、ここで少しゼイタクな夕食を共にしたのだが、カシミール=ナンのオイシサはトップクラスだった。
とここまでほめておいて、インドらしいスタッフとのやりとりを……。
チェックアウトは済ませ、夜行列車の予約を頼んでブッダガヤに観光しに行った。荷物もフロントで預かってもらっていた。
ところが帰ってみると、予約は取れていなかった。スタッフも申し訳なさそうに、次の列車の予約は手数料無しでさせてくれと言う。しょうがない。宿代もマケてもらって、もう一泊することにした。
同じ部屋に戻る。するとホテルのスタッフが「忘れ物だよ」と、折りたたみ式のハンガーを渡してくれた。
「お、気がきくじゃん、サンキュー」
10ルピーも渡しただろうか。しかし、彼は不服そうだ。
「もっとくれヨ」
「……いくらほしい?」
「50」
ああーん?
そのプラスチックのハンガー、そんなに大したもんじゃないぞ?
「……そうか。
君がそう言う。オレが50渡す。君は満足だ。それはいい。
しかし――50はハンガーより高い。オレは悲しい。悲しい思い出を、このホテルから持って帰る。君はそのホテルのスタッフだが、それで満足か? そーかそーか満足か。ほら50ルピーだ。受け取りたまえ」
彼はインド人らしくない素振りで、困り始めた。やがて、
「ア、アー……ノー・サー(おお、「サー」扱い!)」と、手を振った。
「どうして?」
「それは私の仕事に――ふさわしくない」
――オッケー!!!!
「今、君はホテルのことを自分のことより大事に思った。その気持ちは素晴しいものだ。このホテルは君がいれば良くなる。あ、これはオレの気持ちだ。取っといてくれ」
50ルピー、あげた。
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ガヤで一日ロスした。
この宿でギリギリの判断をしていた。
カルカッタのマザーハウスにはぜひ立ち寄りたかったが――。
帰りの便まで後3日。
鉄道ならばすぐさまデリーにとって返すべきだろう。カルカッタから飛行機を使えれば一発なんだけど……金が足らない。
クレジットカードに頼っていた今回の旅では、そのカードが盗まれた途端、本来旅自体が終わっているはずなのだ……もはや、これまでか?
もう一度ガイドブックを読んでみる。
「Youth Fare」割引――30歳未満は25%OFF!
自分の歳を数えなおす――いやそれは大丈夫。
残ってる金を数えなおす――ギリギリ足りる――!
――明朝、カルカッタに着いてからは、慌しく行動した。
まず宿の確保。サルベーション・アーミーのドミに滑り込む。
次にインディアン・エアラインズへ。リクシャーのじいちゃんもガンバって運んでくれた。バッチリというか、結構ヤバイ時間だけど――明日夜のフライトを手配できた。
旅の最後が、つながった。
これで後はマザーハウスに行くだけだ――。
昼下がりにならないとマザーハウスのボランティア本部は開かない、とどこかに書いてあったので、そこらを散策することにした。
カルカッタ公園、フォート・ウィリアム(要塞。州政府管理で一般人は入れない)を横目に、フグリー河畔からヴィクトリア記念堂に向かおうとした。
……どうも道に迷ってしまったようだ。周りにはオレ以外誰もいない。
(地図には道があるのだが)南側には水路があったりして行けない、で歩いていると、いきなり検問付きの要塞の門がババーンと出てきた。
ちょっと……やばいな。
引き返したのだが、アーミーが一人、ついて来てしまった。
「オマエは何をしに来た」
「ここは立ち入り禁止区域である」
「罰金を100ルピー払いなさい」
「罰金を500ルピー払いなさい」
「罰金を1000ルピー払いなさい」
困ったなぁ。
しかし「罰金」がハネ上がっていくのは、逆に単なる脅しだということだ。理解できないフリをして歩いていたが、なかなか人通りのあるところまで出れない。仕方無しに。
「……Willsを一本、どうだい?」
インドの一般的なタバコの中で、最高級のやつだ。
友達にでもあげるようなさりげなさで――けっこうギリギリの演技。
アーミーは無言で受け取り、帰っていった……。ホッ。
ビーリー吸ってなくて、よかった〜あ。
しかし何だったんだ、1000ルピー。
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いらんところをフラフラしながら――ついに4時ごろ、「マザーハウス(マザー=テレサ主宰「神の愛の宣教者会」本部)」に到着。
仏跡巡りが主体だったとはいえ、最後の日々はここでボランティア三昧をするつもりだった。
それが、何やかやで余すところたった一日、それもギリギリのやばいスケジュールでだ。
それでも――ここに辿り着くことができたのは、感慨無量。
自分の中の急性キリスト教的使命感も、教会の雰囲気でついつい熱くなり、ついでに目頭も熱くなってしまった。
しかし。
一日だけだと、特にボランティア登録をする必要はないらしい。
いや、登録できないらしい。ということは……
「ちいさなメダル」(ホントは「不思議のメダイ」)もらえないなぁ。残念。
明くる当日、病状悪化のため、マザーはミサを欠席。残念。
「残念」「残念」と思うことは、何かの欲目でボランティアをしようという、しょーもない自分がいる、ということだ。そんな自分に、残念。
ミサのうちにそんな自分に気づいただけ、ヨカッタ。
少なくともこの日は、まあまあ清新な気持ちで行動できたと思う。
――この日の出来事については別に記したことがあるので、多くは書かない。夕刻、カルカッタ・ダムダム空港のロビーで得た、ドあつかましい確信(独り合点)で代言しておこう。
「名も無い一人のボランティアとして諸事に携わったとき、こんなオレさえも、マザーそのものだったのだ」
他のボランティアのみんなもそう、シスター達もそう。一人ひとりが、その意志の体現者なのだ――。
過分な光栄に、頬は洗われ続けた。
それは今も、続く。
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デリーに着いてからが大変だった。ドメスティック(国内線)とインターナショナル(国際線)で、デリーは空港が別なのだ。
国際空港行きのバスを探し、飛び乗る(これ、タダだった)。そして飛び降りる。たったかたーと出国手続きを済ませ、余ったルピーもダージリン=ティーに化けさせ、インドを後にした――。
機内で聴いたYen Town Band(Chara)の「あいのうた〜Swallow Tail Butterfly」は、ひどくロマンティックに旅の終わりを歌い上げてくれた。
調子に乗ってエコノミークラスでコニャックを頼んだりする。
家に帰り着いて、一日以上寝散らかした。英語で寝言を発し続けるオレに、家族は恐れをなしたそうな。
だがその後、恐れおののくのはオレ自身。
――帰国後3、4日経っても下痢が止まらない。
実にラージギール以降、10日以上も、水のような下痢が続いていたのだ。
お医者さんを訪れると、血液と便の検査をしようと言う。この年は日本でO−157が猛威を振るった年、検便では強制的にO−157の検査が付加されていた。オレの方は厳重な検査に越したことはないので、一も二も無く承知した。
そして数日が経ち――検査結果を聞きに行った。
「今回検査した分では、とくに感染症には罹っていないという結果ですね。しかし……。
あなたの血中コレステロール値、これはね――軽い飢餓状態を示してますよ」
「え??」
「ですので、栄養のある食べ物をたくさん摂って、早く回復してください」
「……はぁ……」
――その後、「回復」には実に1週間以上を要した。
「インド・1〜仏跡巡り編」
完
ご笑覧サンキュ〜。
SoonまたComing : 「インド・2〜バック・トゥ・インディア編」
だもんで、【インド連発】は、まだまだ続きます――。
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