東シナ海に何を見た、ああ沖縄戦から60年
*** 2005年12月23日〜12月31日 ***
★旅の始めに
今回も姉妹HP「男のイクジな日々」とのジョイント企画である。(子育てに興味がある方はそちらのHPもご覧ください。)
昨年の10月に息子が生まれ、しばらく旅はお休みということになったのだが、もう大丈夫じゃないの、ということで、今年の9月から旅を再開し、近場のケアンズに行った。(詳細は「子連れはつらいよ、ケアンズのイクジな日々」をご覧ください。)しかし、子連れの旅の困難さは想像以上で、年末の旅はどうすべきか思案していた。旅には行きたし、子連れはつらし、である。一番のネックは飛行機の中で息子が退屈し泣きじゃくるということなのだ。それで、2〜3時間ならば何とか耐えられるだろう(注:息子もそうだが、世話を焼く親のの忍耐も含む。)と意を決し、冬の沖縄に行くことにした。
実は私は沖縄は初めて。多くの人からとてもよい所だと聞いてはいたが、なかなか機会がなかったのだ。私にとって、沖縄はまさに未知の世界なのである。ワクワク。
★初めての沖縄
●沖縄の歴史
沖縄のことは知っているようであまり知らない。それで読んだのが高文研という出版社の「沖縄修学旅行」という本。沖縄の歴史と現在をコンパクトではあるが、生々しくまとめてある。ちょっと考えさせられる本だ。
沖縄がもともとは琉球王国として本土とは別の歴史を歩んでいたのは多くの人が知っているだろうが、さていつから日本になったのだろうか。本によると1609年に島津藩に侵略され、島津藩を通して幕藩制という日本の国家体制に組み込まれたという。ただその後も形式的には琉球王国として存続を続け、日本の一つの県として「沖縄県」となったのは、270年後の1879年のことだった。
太平洋戦争で沖縄戦という悲劇を経験した沖縄は、さらに苦難の道を歩まされることになる。1952年は対日平和条約により日本が独立を回復した年であるが、沖縄にとっては日本から切り捨てられた屈辱の年であった。そして沖縄が日本に復帰するのはそれから20年もあとの1972年のことである。
沖縄の人々の心の中には私たち本土の者には推しはかれない複雑な思いがあるのだろう。
●沖縄戦とは
沖縄の歴史の最大の悲劇は太平洋戦争時の沖縄戦。私も中高生のときに学校で教わったのだろうが、正直なところあまり記憶に残っていない。今回の旅行で本を読んでみて愕然としてしまった。それほどに沖縄戦は悲惨な戦いだった。
沖縄戦が始まったのは1945年3月23日、そして米軍が沖縄に上陸したのは4月1日。今回の旅行は読谷村(よみたんそん)に滞在しているが、米軍の上陸地点は何と読谷村の海岸。ホテルのベランダからは美しい海岸風景を眺めることができるが、60年前には米軍が大挙して上陸したわけだ。
そもそも沖縄戦は日本にとっては「本土決戦」のための捨石作戦だったという。来たるべく本土決戦に備えてできるだけ時間を稼ぐのが目的なわけだ。当時の沖縄戦の兵力は米軍が54万人に対して、日本軍は11万人(うち2.5万人は沖縄現地で徴集した補助兵力)ということで、勝敗そのものは戦う前から決まっていたのだ。
沖縄戦の悲劇は住民が戦争に巻き込まれ多くの被害者を出してしまったこと。マラリア死や餓死などを含めると15万人の県民が死亡した。(県出身の軍人含む。)当時の県人口は約60万人だったので、何と県民の4人に1人が命を落としたことになる。
その中でも悲しいのが「集団自決」という名の命の落とし方。読谷村にチビチリガマというほ洞穴があった。(ガマは洞穴のこと)60年前に上陸した米軍からこの洞穴に身を隠していた住民83人が集団自決で命を落としたという。集団自決というと多少聞こえはいいが、家族同士が殺しあったわけだ。「鬼畜米英、天皇のために死ね」と徹底的に教え込まれた住民たちのとった行動だった。別の洞穴では赤ん坊の泣き声を止めろと日本兵に言われ、母親がやむなく赤ん坊の口を押さて窒息死させたなどという悲惨な出来事もあったという。(今は子を持つ身ゆえその話には背筋がぞくっとした。)
現在もチビチリガマは当時の状態のまま残されていて、お墓になっていた。私たちはその前で手を合わせるしかなかった。
沖縄には「命どぅ宝」という言葉がある。「命こそ宝」という意味だそうだ。こうした過去を持つ沖縄だからこそ特別の響きを持つのだろう。
●沖縄の米軍基地
沖縄には日本にある米軍基地の75%が集中している。県土面積の10%、沖縄本島の19%が米軍基地なのだ。(ちなみに次に割合が高いのは静岡県の1.2%)
滞在している読谷村は面積の半分弱が米軍基地だ。隣の嘉手納町にいたっては何と8割が米軍基地だ。
もちろん沖縄に米軍基地が多いのは知っていた。しかし、これほどまでとは思わなかった。うーん、と唸らざるをえない。
読谷村周辺で車を走らせるとたしかに基地だらけだ。道路の両側が基地で、道路が基地の中を通っているような場所もある。滞在の最初のうちはクリスマス休暇らしくほとんど戦闘機の姿を見ることはなかったが、27日からはしばしば戦闘機を見かけた。映画の中でしか見たことのないあの三角形に似た機体である。空中で旋回したりすると私にとっては「トップガン」の世界である。もちろん爆音も相当なものである。こうした現実を目の当たりにすると、いろいろと考えてしまう。そもそもの話、つまり日米安保条約については話が難しすぎるし、いろいろな考えもあるからコメントは控えよう。ただ県民間の平等という単純な
視点から考えると、やはり沖縄の重い負担は説明がつかないのではなかろうか。
沖縄は米軍にとって「太平洋の要石(キーストーン)」と呼ばれていて非常に重要な拠点だそうだ。きっと地理的に重宝する場所なのだろう。だから米軍が沖縄基地の機能縮小に抵抗するのは当然だ。だが、日本政府が沖縄県の基地負担を軽くするよう努力するのもまた当然だろう。ただその当然のことに日本政府が積極的でないように見える。東京人の私でもそう感じてしまうのだから、沖縄県民の苛立ちは想像以上に大きいのだと思う。
★沖縄のイクジな日々
どうも重い話ばかりになってしまった。沖縄でのイクジについて書いてみよう。
●保育園に行こう
前回のケアンズで感じたのは、旅行は妻にとって日常よりもたいへん、ということだ。普段は保育園に預けているので、旅行となると見知らぬ土地で育児をすることになる。旦那(夫)の協力もたいしたことがなく、妻の負担は増し、ストレスもたまるというわけだ。それで私は考えた。では旅先の保育園に預けたらどうだろうかと。地元の子供とも遊べて息子も楽しいだろうと。(このへんはこじつけ)
今回の旅行の準備はまずインターネットで預けやすそうな保育園を探し、そしてその近くのホテルを探すという順番だ。見つけた保育園は読谷村の「ニライハート保育園」。8泊9日なので中7日、そのうちの5日間預けることにした。(今回は初日は3時間、あとの4日間は4時間の予定。)
最近息子(1歳2ヶ月)は遅ればせながら人を識別できるようになったようで、人見知りらしきものをする。だから初めての保育園はちょっと不安である。案の定、初日は保母さんの顔を見ただけで大泣きだ。3時間後に迎えに行ってみると泣きはらしたような顔で、保母さんによると昼食も口にしなかったという。
こういうときは母親のほうが心配になるのは世の常だ。ひょっとしたらもう預けるのはやめよう、と言い出すのではないかと覚悟していた。ところが予想に反して妻はこう言った。「可哀想だけれどこれも子供にとってよい経験よね。」
うん、妻も成長しているようだ。ただ、ならし保育ということで、今回は毎日3時間預けるように変更となった。
●旅の生活
06:00 息子が目を覚ます。妻の私ももっと寝ていたいので無視しているが、それも30分が限界でやがて息子はギャーギャーと騒ぎ出す。
06:30 やむなく起きて息子のオムツを替えてやりしばらくおもりをする。
07:30 ホテルの朝食。子供用の椅子に座らせると意外と静かになる。普段は手づかみで散らし放題で食べるがそれはできないので、スプーンで食べ物を口に運んでやる。
08:30 朝風呂に入る。私にとって一時の安楽の時間である。
09:30 息子がウンチをしたので処理をしてオムツを替える。そして保育園に行く準備をして出発する。
10:00 保育園に到着。息子は保母さんの顔を見ると必ず泣く。
10:30 近くのゴルフ練習場に到着。しばし息子を忘れ練習に精を出す。
11:30 練習を終えレストランへ。夫婦2人で食事をするのは久しぶりである。
12:30 食事を終え、保育園に向かう。
13:00 保育園で息子を引き取る。
13:30 ホテルに戻り、一緒に昼寝をする。
15:00 昼寝から起き、しばらく息子の相手をする。
16:00 ぶらぶらと散歩をする。息子はベビーカーに乗せるがしばらくすると飽きてしまい、抱っこをせがんでくる。スーパーで夕食を調達する。
17:30 散歩から戻ってきて、息子と一緒に入浴する。
18:00 部屋で食事をとる。息子は手づかみで獣のようにエサ、いや食べ物を口に運ぶ。食べ物をまき散らしたり、食器をひっくり返したりするので、全然落ち着いて食べられない。まるで戦場のようである。食事が終わると吸入をしてやる。以前にも書いたが息子は喘息気味なので、抗アレルギー剤を1日に1回吸入してやることにしている。
19:00 息子の就寝の時間である。「寝かしつけ」は大事ということで一緒に添い寝をする。
20:00 息子が寝入ったので、ようやく自分の時間。せいぜいテレビを見るかパソコンをいじるかである。
22:00 就寝。夜中に息子が何度か起きるし寝息もうるさいので、なかなか熟睡できない。
まあこれが平均的な一日だ。もちろん旅行中も育児は妻が中心的にやっていて私はあくまで助手のような立場だが、私も少しは協力しようと頑張っている。
旅行でリラックスできる面もあるが、逆に疲れてしまう面もある。うんそっちの方が多いかもしれない。子供が一緒の旅行は何というか、そう、生活そのものなのである。
●発熱
赤ん坊という生き物は病気ばかりしていて、旅行中だからといって遠慮はしてくれない。以前北海道に行ったときも咳がひどくなって地元の医者を2軒ハシゴをした。
そして今回は発熱である。保育園の4日目。息子を預けてチビチリガマの見学をしたあとゴルフ練習場に向かっていたところ、ケイタイが鳴った。保育園の保母さんからで、息子が熱っぽいので体温を測ったところ、38度あるという。赤ん坊の
平熱は高いので、38度は微熱程度である。保育園では様子を見ながら預かってくれるとはいうがそうもいかないので、すぐに引き取りにいく。
息子はたしかに熱っぽいがぐったりした様子はない。まだ医者に行くほどではないと判断し、ホテルで寝かせることにした。息子は2時間ほど眠ったので多少はよくなったかと思いきや、体温を測ってみると何と40度もある。こ
れほどの発熱は初体験である。ややあわてつつ医者に診せにいったわけだ。
簡単な検査をしてもらったところ、インフルエンザではなさそうで、2〜3日で熱は下がるだろうとの見立て。インフルエンザでなかったのは不幸中の幸いと気を取り直して、ホテルに戻った。
高熱にもかかわらず息子はまあまあ元気で、夕食も普通に食べてケロリとしている。これが赤ん坊の病気の面白いところだ。熱があってもけっこう元気に遊んだりするのだから。
翌朝になると、あら不思議、もう熱もなくいつも以上に元気である。
そんなわけでその日は保育園にも元気に泣きながら預けられてしまった。
★ゴルフネタはないのか
私の趣味の一つはゴルフ。旅先でのんびりとゴルフをするのが大好きである。しかし子連れの旅行だとなかなかそういうわけにはいかない。
しかし、今や沖縄の有名人といえば、宮里藍。沖縄県はゴルフ先進県である。
こんな旅行でもゴルフネタはあるのだ。
●伝説の練習場、大北練習場
宮里3兄弟の父、宮里優氏がゴルフのレッスンプロであるのは有名だ。宮里優氏の著書を読んだことがあるので、宮里一家のことは意外と詳しい。宮里優氏は40歳でレッスンプロになったという変り種で、沖縄の大北練習場で今も教えているらしい。宮里3兄弟がこの大北練習場で練習していたとは著書に書かれていなかったが、まあ普通に考えればここが主たる練習場であったのではなかろうか。ということで、私としてはここを宮里3兄弟の伝説の練習場と
呼びたい。
さあ、大北練習場に行ってみよう。もちろん、息子も連れて。
大北練習場は名護市にある。読谷村のホテルからは高速道路を使って約1時間である。これほど宮里3兄弟が有名になってしまったので、練習場もきっと改装したりして近代的なのだろうと思っていた。ところが行ってみると予想に反してごくごく普通のちょっと老朽化した練習場だ。壁に宮里藍のパネル写真がいっぱい貼ってあったり、ゴルフ用品売場に宮里優氏の著書が何冊も並べてあるので、ここがあの伝説の練習場であるということはわかる。しかし、特別なのはそのくらいだ。
受付のおばちゃんに聞いてみた。
私「宮里プロはまだここで教えているの?」
おばちゃん「ええ、教えていますよ。ただ本土のお客さんはそちらを通してもらわないと教えられないんだわ。」
指差すほうを見てみると、パームスプリングスゴルフアカデミーとやらの掲示板があり、そこには研修生の名前が20人分くらい並んでいる。この練習場はパームスプリングスゴルフアカデミーの沖縄校という位置づけになっているらしい。まああれだけ有名になればいろんな話がくるのだろう。また聞いてみる。
私「ワンポイントレッスンとかはないのかな?」
おばちゃん「1回で上手くなるわけないと先生が言うのでやっとりません。地元の人にはスクールで教えてますが、最低でも半年だったかねぇ。」
ということで、宮里優氏はまだこの練習場で教えているのはたしかである。
このひなびた練習場(失礼!)からあの宮里3兄弟が巣立っていったのかと思うと(あくまで私の想像)、私のゴルフへの情熱もまただんだんと熱くなってくるのであった。
宮里優氏の「宮里藍に教えてきたこと」なるDVDを思わず買ってしまった。
●宮里家の故郷、東村
宮里一家の実家はたしか沖縄本島の東村。あの宮里3兄弟がどのような場所で育ったのかはちょっと興味深い。大北練習場だけでは我慢できなくなった私は、日を改めて宮里藍の故郷である東村を訪れることにした。
東村は沖縄本島北部の村だ。私の滞在しているホテルから大北練習場のある名護市まで1時間、東村はそこからさらに1時間くらい北の村である。
東村のある沖縄本島北部はいわゆる「やんばる」という地帯である。やんばるとは「山原」の意味だ。たしかに名護市を過ぎると急にあたりは閑散としてきて山が多くなる。私のイメージしていた沖縄に近い感じだ。ホテルを出てから2時間くらいで東村に到着。とてものんびりした雰囲気。海岸には誰もおらず静かな海岸線である。
さて東村に来たはいいが、どうしよう。そもそも宮里優氏はまだこの村に住んでいるのだろうか。仮に住んでいるからといってその家を見に行く程の野次馬根性もない。それで行ったのが、東村の中学校。宮里藍は高校からは東北高校に行ったわけで、少なくとも中学まではこの村の中学に通ったわけだ。だんだんとストーカーっぽくなってきたなぁ。(笑)繰り返し書いておくが、私は宮里3兄弟がどんな地で育ったのかそれを単純に知りたいだけなのだ。
カーナビを頼りに中学校に行ってみた。海岸からわずか30mほどの所に校門がある。中学校と高校が一緒の敷地にあるようだ。たしか宮里藍の学年は十数人ということだったので、ひっそりした学校を想像していたが、コンクリート造の校舎はなかなか立派なものだった。でものんびりした雰囲気の学校だ。(もちろん今は冬休み)
この地はいわゆる過疎地である。村の中でほんの数時間過ごしているだけだが、都会育ちの私からすると、こんなにのんびりしていていいものだろうか、なんて考えてしまう。そして、子を持つ親として、子供がもまれずに育ってしまって大丈夫だろうかと心配にもなる。 しかし、ここであの宮里3兄弟は育ったわけだ。宮里藍は無類の勝負強さを身につけている。
人と環境についてどう考えたらよいのか頭が混乱する。
私なりの結論。人はどこで育つかも大切だが、もっと大切なのは、人はどう育つかではなかろうか。どこで育っても、親や環境がしっかりしていれば、子供はしっかり育つ。もちろん自然に恵まれていたほうがずっといい。
★旅の終わりに
沖縄での8泊9日の旅はあっという間に終わった。息子の子守りや病院通いであまりのんびりというわけにはいかなかった。
でも初めての沖縄の空気は新鮮で、食べ物もとても美味しかった。そして沖縄の歴史や現状には愕然とし、いろいろと考えることもあった。
息子はどうなんだろう。いろんな土地に連れて行かれ、いろんな病院で診てもらい、見知らぬ人に預けられ。。楽しいのか、それともつらいのか。
きっと楽しいんだよね。だって君は僕の子供なんだから。