面白荘だより(5) 文=土岐浩之
     
  
釣れたてのアジとメバル    愛車シェーラザードUと筆者


            地球の自転とともに
              
               潮まかせ波まかせ風まかせ

                 愛車はシェーラーザードU


 
面白荘の日々は、潮と風と波によって動いている。
言い換えれば地球の自転・公転と呼吸によって動かされているわけだ。
ぐうたら漁師は当然そのシステムに組み込まれている。ときどきはみ出そうとするが、
ままならない。
 下手に逆らうときついしっぺ返しが来ることもある。
何日も魚が釣れず、食べ物が乏しくなる。兵糧攻めにあっているのだ。
けれども地球はやさしい。いつも最後には彼の窮状を救ってくれる。
Thanks 地球! ありがとう玄界灘よ。
     
         ★小アジは入れ食い

 きのうは久しぶりにアジ釣りに出た。潮も大潮だったし、朝方に満潮が来る日だった。

ぐうたら漁師が早起きすることは滅多にない。夜中まで本を読んでいたり、インターネットで
遊んでいたりするから、起きるのはどうかすると昼近くになったりする。

この辺りの人たちは夜が早い。9時頃になるとあたりは真っ暗である。
その中で、のっぽのマンションのてっぺんだけが煌々と灯りがつき、不夜城のように明るい。
ぐうたら漁師の住まい<面白荘>である。

一度、プロの漁師と話していたら、『最近、マンションのてっぺんに灯りがついとるけん、
目印になってほんによか。あれは灯台代わりたい』と言われた。いつの間にか面白荘の
住人は灯台守になっていたようだ。

 朝、5時半。東の空が朝焼けに染まる。
べた凪の海に舟を漕ぎ出す。”笹舟”と彼が呼んでいる手漕ぎボートだ。

若いときからヨットをやっていたから、海技免許と無線の免許を取得し、
エンジン付のボートも運転できる。近くに船溜まりもあるのだが、
マイビーチを見たとき、手漕ぎボートにしようと決めた。
この海では、できるだけ油を使いたくないと思ったからだ。

笹舟は砂浜にひっくり返して、鎖で係留しているから、すぐに出せる。
朝日に向かって漕いでいく。

10分もしないうちに釣り場に着く。
網篭にこませのアミを詰めてサビキ(アジ釣りの仕掛け)を垂らし一振りする。
こぼれたアミに小さなアジが群がっているのが見える。

ピリピリとかすかな手応えが竿先から伝わってくる。も少し待とう。
ホラ来た! ぐぐーっと竿先がしなった。
軽くあわせてリールを巻く。

上の針に生まれたてのアジゴが3匹、下の方の針に中アジが2匹かかっていた。
この時期のアジはまだ小さい。中アジと言ってもやっと20センチ程度。
生まれたての赤ちゃんは5センチぐらいしかないが、唐揚げにしたり、南蛮漬けにはちょうどいい。

20センチほどのアジはタタキにしたり、寿司にしたり、塩焼きにもする。
アジは入れ食いだった。ときどき16,7センチのメバルも混じった。
30分も釣ったら、食べきれないほどになったのですぐに竿を納めた。これで何日か食える。

中アジが18匹、小アジが20数匹、メバル4匹がけさの釣果だった。
半分は近所の独り暮らしのおばあちゃんに上げた。いつもこうだといいのだが。漁は海任せだ。
今夜はタタキとアジの押し寿司でも食べよう。メバルは煮ておいて明日の食糧に。

わたしは真夏でも滅多にクーラーを持って行かない。
エアポンプでバケツに空気を送り込みながら釣り、1時間もしないうちに帰ってくるから、
魚はまだ生きている。

活きてぴちぴちしているのを浜でさばき、内臓を渚に捨てる。
カモメたちがやってきてきれいにしてくれる。トンビも来る。
みんな海岸の掃除をしてくれるから大助かりだ。

      ★海との出会い

以前、友人から聞かれたことがあった。
海辺での自給自足の暮らしについて『いつ頃から、そんなこと考えていたんや』と。

新聞記者時代は人並みに時間に追われる生活もした。3日連続の徹夜もした。
いくつも時代は過ぎて、ぼんやりと海辺に暮らすことを考え始めた。

海が好きか、山が好きかと問われれば、いつでも躊躇なく『海』と答えていた。
山にもよく行ったが、『ぼくは登山家ではない、下山家だ』と言っていた。
実際登るより下るのが得意だった。

このような好みは、たいていの場合幼児体験とか、幼い頃の原風景に起因する
ことが多い。

考えてみると、思い当たるフシがある。小学生のころ、夏休みにはよく
来宮(熱海の西)の別荘に一人で行っていた。
上の兄弟たちは、たいてい夏休みに入るのが遅かったから、『先に行くよ』と
東京駅から列車に乗り、ひとり旅をして来宮まで行く。

駅に着くとさすがにお手伝いさんが迎えに来ていた。
お手伝いさんはいたが、1週間ぐらいは一人で暮らした。
別荘は丘の中腹にあり、裏の山を登っていくと、眼下に芦ノ湖が見えた。

だらだらと坂道を下っていくと、町へ出る。町の向こうには海岸があった。
顔見知りの漁師のおじさんを訪ねると『おう、坊や来たか』と言って、すぐに
カニ捕りに連れて行ってくれる。

サバの頭なんかを長い竹竿の付いた網の中に入れ、岩の間にそ〜っと降ろしていく。
しばらくすると、子供の頭ほどもあるワタリガニが何匹も何匹も網の中の餌を狙って
這い登ってくる。おじさんは『まだまだ』と言う。

じっと我慢していて、『いまだ』という合図で、さ〜っと一気に網を引き上げる。
ずしりと重い。ワタリガニがいっぺんに4,5匹は捕れた。
持っていった大きなバケツがすぐにいっぱいになった。
当時は熱海のすぐそばの海岸でこんなにカニが捕れたのだった。

ごちゃごちゃした土間のあるおじさんの家で、カニをゆでて貰って食べた。
『どうじゃ、うまいだろ?』おじさんも顔中カニだらけにして一緒に食べた。
『うん、うまい』わたしの顔もカニだらけだった。

なぜか『おいしい』ではなく『うまい』というふだん使わない言葉が自然に出た。
それが自分で不思議だったし誇らしい気分だった。

部屋から眺める水平線や、夜の海も大好きだった。
大好きだった本も持って行かず、このときばかりは『一人暮らし』を満喫していた。

思えばこんな幼い体験がわたしを海好きにしたのかもしれない。

目の前の海でも、昔はカニがたくさん捕れたそうだ。

『むかしは、そこらを泳ぎよったとばい。わたしら、泳ぎながらカニば捕まえよったとよ』
土地の古老は懐かしそうに話してくれる。

それがウソでないことは分かる。熱海でさえカニが捕れたのだから、
この辺りで捕れないはずがない。
いまも時折小さなワタリガニが捕れる。

カニ篭にイカを入れ、一晩沈めておくと、翌朝にはカニが1,2匹入っていることがある。
ときにはハモが入っていることもある。
逆に小さなカニを餌にして篭を沈めておくと、タコが入る。タコのカニ好きは呆れるほどだ。

タコが自給自足しているのだから、同じスキンヘッドのわたしが自給自足できないはずはない。
そういうわけの分からない理屈で、ここの暮らしが始まったのだった。
玄界灘よ、本当にありがとう。

        ★21歳の姫君シェーラザードU

 船と無線の免許を持っているのに、わたしはクルマの免許は持っていない。
深い理由や哲学があってのことではない。面倒だったからかも知れないし、事実東京では
クルマはあまり要らない。田舎ほど必要だろう。

 しかし、いまさら免許を取っても乗る時間は限られているから、昔から愛用しているチャリンコで
我慢している。遠出するときは妻の運転で出かけ、わたしはナビゲータをつとめるのだ。

 わたしの愛車(マイチャリ)は、名前を<シェーラザードU世>という。
シェーラザードは、ご存じ『アラビアンナイト』の語り部であり、のちの姫君でもある。
千夜一夜わたしを楽しませてくれる愛車。彼女との付き合いは長い。

 『自転車身分証明書』(Bicycle I.D CARD)によると、彼女は1982年7月4日生まれ。
もう21歳、妙齢の姫君だ。

生まれたのは東京・神田の『アルプス自転車工業』である。
アルプス自転車と言えば、日本で初めて折りたたみの自転車を考案した萩原さんの会社だ。
折りたたみ自転車は世界でも日本にしかなかったから、萩原さんは世界で初めての考案者だ。

 だから、シェーラザードも折りたたみ自転車だ。
たたんで袋に詰め、電車に乗ったり、フェリーに乗ったり、飛行機に乗ったりして、
ずいぶん、いっしょに旅をした。
国内だけではない。海外にも一緒に行った。

20年以上も付き合えたのは、もちろん自転車が丈夫でよくできているからでもあるが、
設計段階で、ギア比を小さくしておいたからでもある。
つまり年を取って脚力が衰えても大丈夫なほど楽なギア比にしておいたのだ。

アルプスのおやじさんは笑っていた。
『ずいぶん軽くしますね。大丈夫ですか?』
『ああ、じきに年を取るから、これでいいんですよ』わたしも笑って答えた。

20年前には軽すぎると思ったギアが、いまはちょうどよくなったから不思議である。
もともと、わたしはガンガン飛ばして日本一周したりするタイプではない。
12段のギアだが、ちょっと向かい風になってもすぐにギアを落とすし、少し疲れると
坂道でもないのにすぐ落とす。自転車の乗り方まで”ぐうたら”なのだ。

自転車で旅をしているとクルマにはない良さがある。
まず、風のにおいが分かる。蝉の声が聞こえる。クルマだってオープンカーなら同じだが、
これからは窓を閉め切ってエアコンを入れて走ることが多い。

それだけではない。例えば道を聞こうとする。クルマのウインドーを下ろし、田んぼで
働く人に道を尋ねる。『ああ、もう少し行くとパン屋があるけん、そこで聞きんしゃい』
と言うのが普通。

これが自転車だと応対が違う。
『ああ? あんたどこから来なさったと〜?』
道を聞いているのに、向こうから尋ねられたりする。
『はあ、福岡からで〜す』

『福岡ね。そらきつかったろう? ま、ちょっとお茶でも飲んでいきんしゃい』と言われたりする。
こうして土地の人からいろいろと面白い話を聞いたり、ご馳走になったりしながら旅が出来る。
等身大の親しさ。これが自転車の良さだ。

シェーラザードとは一緒にスイスアルプスに行ったことがある。
その話はまた別の機会に譲ろう。

ともかく丈夫で、いつまでも美しい愛車・シェーラザード U世号。
しかし、部品はもう補給のきかないものが多い。
肝心のギアは、当時世界一軽量と言われたサンツアー(大阪・前田工業)の製品だったが、
この会社はとっくにつぶれた。

ブレーキのマファック社(ドイツ)もつぶれた。
サドルのイデアル(イタリア)はどうなったか?フレームのレイノルズ社(英国)は?

ほとんどが安い中国製の自転車ばかりになってしまった世界の自転車。
いいモノは残るというのは幻想なのだろうか? 
それだけ日本人が自転車を知らなかったということの証しだ。

イタリアなどの自転車王国では、まだ部品メーカーがしっかり残っている。

写真は昨年の9月に撮影したものだ。
腕に星条旗のバンダナを巻いているのは、9.11の犠牲者に哀悼の意を表して
半旗のつもりだった。

シェーラザードU世は、きょうも年老いた主人を乗せて、颯爽と海岸線を走り抜けていく。

(2003.6)