面白荘だより(10)  文=土岐浩之

             
  バラをくれたNさん     おばあちゃんから貰ったバラ      ビーチャのおばあちゃん    ビーチャ


                   TOKYOと地方には時差がある
                 
                    何を急ぐか、ここは伊都国

                      おばあちゃん3題ばなし

  
 海外に1ヶ月ほど旅をして、日本へ帰って来る。成田に近づくと、途端に時計の音が
チクタク、チクタクと早回りを始める。
『ああ、また帰って来てしまった』。この音を聴く度にそう思ったものだ。
日本と外国では時計の速さが違う・・・そう感じていたバブル期。いまでは、それほどでもなくなった。
日本のテンポがゆっくりになったからだろう。いまに中国ベトナムあたりが、すごいスピードで走り
始めるに違いない。日本と外国に時差があるように、TOKYOと地方にはまだ時差がある。

            ★おばあちゃんからバラを貰った

 『おばあちゃん、元気しちゃったね?』
『はあ? 草むしりばしよりますと。もう年取るとやおいかんですたい』
近所の独り暮らしをしているNさん宅をのぞき、声を掛けた。

 『おばあちゃんな、元気ンよかねえ』
 『な〜んの、ああた、今年は雨の多かでしょうが、草のよう生えるもん』
 ご主人と死別してもう20年になるというNさん。80を超えても元気に草むしりなどしている。

 この町には、ゆったりとした時間が流れている。
東京や大阪、そして博多の都心部、さらにこの面白荘周辺と、それぞれに時差があるのが面白い・  
 
東京と大阪と福岡の人々は歩く速度が違う。東京から大阪に転勤したとき、郊外の駅でタクシーの列に並ぶ。
ホームから階段を駆け上り、駆け下りて列に並ぶ。東京のスピードに慣れているわたしは、いつもトップだった。
3日目から馬鹿馬鹿しくなり、ゆっくりと上り、トップを譲った。

大阪・梅田の地下街を歩いていると、やたら人にぶつかる。どうしてだろうと、歩きながら考えた。
わたしの歩き方のテンポが速すぎるのだ。

大阪に3年いて、東京へ帰った。郊外の駅でタクシーの列に並ぼうと階段を猛スピードで駆け上った。
2段飛び、3段飛びで上り下りしたのに3番目だった。4日目にようやくトップに立てた。
それでもうアホらしくなり、次の日から走るのはやめた。

新宿の地下街を歩いていて、やたら人にぶつかる。どうしてか?と思ったら、ぼくの歩き方が遅すぎたのだった。
大阪のスピードに慣れてしまっていたのだろう。

何年かして博多へ転勤してきた。天神地下街を歩くとき、気をつけて歩いた。
うっかりすると、すべての人を追い越して行きそうになる。

『そんなに急いで、どこへ行くの?』と聞きたくなるほど歩くスピードが速い。
周囲を眺めながらゆっくりと歩いてちょうど良かった。以来、博多ではゆっくりと歩くことにしている。

ところが、糸島の田舎に越した。しばらくしたら、天神のスピードが速いと感じるようになってしまった。

これは一つには歳を取ったからかも知れないが・・・・。いつでもスピードは上げられる。
少しエンジンが息切れするけれど。でも、何のために? ここは伊都国なのだ。

文明というものはスピードとともに、けたたましい音を立ててやってくる。
文化は長い年月をかけて音もなく積み上げられていく。そんな気がした。

文明を追い越して、『ここまでおいで』と手をたたいていたこともあった。
たまには、そういうことをしてみるのも面白い。

現代文明を追い越して、近未来の異次元に遊ぶ芸術もある。それも面白いけれど、
最近はあまりしなくなった。

ゆったりとした時間の中で、点てて貰ったお茶をいただく・・・そんなひとときの方が、はるかに豊かだということに
遅まきながら気がついたからだ。

時代はいま、スロー・ライフ、スロー・フーズの時代。お茶は、その先端を行く文化ではないだろうか。
いまこそ茶道が見直されていい時代なのかもしれない。

『おばあちゃん、これは何ちゅう松ですな?』

『はあ、これね。こらあああた、五葉松ですたい。主人が盆栽ば習いござったですもん。
 ばってん私は盆栽やら興味の無かったけん、主人が死んでから直植えしたとですよ』

『このトマトば見てんしゃい。よう生りよるでしょうが。トマトは私の好物やけん。まちっとすると、
トウキビのでくるけん楽しみにしときんしゃい。私がコーンスープが好きだけん、作りよっとですたい』

『コーンスープね。洒落たもんば食べんしゃあですな。そんなら冷凍しておくとね』
『そうそう、たくさん採れたら茹でて冷凍しとくとたい。実の入ったらあぐるけんね。
ああ、バラば持って行きんしゃれんね? よう咲いとるでしょうが』
『ほんなこつ、きれいかア』庭には、真っ赤なバラとピンクのバラが咲き乱れていた。

『花入れの中に十円玉ば5つか6つ入れとくとですな、花が長持ちするとよ。
 10日や2週間は何ともなかよ。テレビの番組でそげん言いよったったい』
おばあちゃんはそう言いながら、バラを切ってくれた。
家に帰って早速花入れに十円玉を6個入れバラをいけた。

きょうは花入れを対州焼(対馬の焼きもの)の船徳利にした。

朝鮮半島のにおいのする独特の船徳利。恐らく幕末あたりのものだろう。
博多の古美術店で数十年前に買ったものだが、この店の主人も既に他界した。
いまは息子さんが跡を継いで細々とやっている。

           ★おばあちゃんたちは元気

 こないだ自転車で散歩していたら、向かいのおばあちゃんが、台車に玉葱をいっぱいに盛った
箱を二つ乗せて運んでいた。ところが段差に来て、箱の一つが倒れ、玉葱が道に転がった。

わたしは慌てて自転車を降りると、玉葱を拾い集めた。
おばあちゃんは喜んで『よかったら、持って行きなはらんですか』と言ってくれた。
『じゃあ、少し譲って下さい』と財布を出そうとしたら『何?ゼニやら要らんよ』と受け取ってくれない。

仕方なく、そしてありがたく頂戴することにした。
おばあちゃんは『もう1回行かにゃならんとよ』と言いながらとぼとぼ、空の台車を押してまた
畑の方へ行った。
わたしは自転車を家の中にしまい、後を追った。

おばあちゃんが、畑の方からやってきた。少し腰をかがめて、台車を押してくる。
『おばあちゃん、手伝いに来たよ。どれ替わろう』そう言ってわたしは台車を押した。

畑からおばあちゃんの家までは数百メートル。のんびり世間話などしながら
初夏の日差しの中を歩いた。

『はあ、そんならもしかして、ああたが元新聞記者ばしよんしゃった人ですか?』
『はあ、そうです』
『そうね。誰か言いよんしゃったですもんね』

『ああ、Wさんの奥さんでしょう』
『そうそう、Wさんの奥さんたい』

Wさんというのは、同じマンションの7階に住む人で、最近、保険会社を勤め上げた
ご主人が定年を迎えた。
ご主人は私の釣り仲間。いつも元気な奥さんは、山菜摘みと貝掘りの名人でもある。

きょうも、この家のおばさんから掘りたてのジャガイモをいただいた。

こないだ油ば届けてくれたとはあなたね?』とおばさんに聞かれた。
『は?油ちゃ食用油ね? いいやわたしじゃなかですよ。Wさんじゃないと?』
『いやあ、Wさんなら、ばあちゃんもよう知っとるけん。誰か知らん人やったて言いござったですもんな』

なにか、油のお返しにジャガイモを持ってきてくれたらしいのだが、わたしは油など上げていない。
『ほんなら、このジャガイモは貰われんよ』と言ったが、おばさんは
『うんにゃ、それはよかと』と行ってしまった。

田舎に行くと老人が元気なのに驚く。 
いつもヒジキを分けて貰う浜のおばあちゃんも、犬を散歩させながらテングサを採っているおばあちゃんも
みんな元気だ。そしていつも身体を動かしている。

『おばあちゃんのおやつ』という本がぼくの本棚にあった。
朝日新聞学芸部編の昭和61年に出された本だ。

こんな本持っていたっけ? そう思って開いてみたら思い出した。
たしかこの本の書評を書いたので手元に残っていたのだ。

春夏秋冬に分かれている。春の項を見てみると
ヨモギもち、ひなあられ・・・など読まなくても分かるのもあるが、
<しきしき>とか<やいごめ><変わりくずもち>なんてのもある。

しきしき・・・・ハチミツと重曹を入れて香ばしく焼いた和風ホットケーキ。
        ぜひ、あつあつのうちに。

やいごめ・・・・お米で作る和風ボップコーン。
        煎っても油で揚げてもいい、香ばしいおやつ。

変わりくずもち・・・くずがなければ片栗粉でも簡単に出来る。
          つるんとした口当たりがやさしい。

こんなふうに、ひとこと説明を加えたあとに、作り方が書いてあり、
おばあちゃんに聞いた話も載っている。
ちょっと作ってみたくなるおやつ。懐かしいおやつがいっぱい。

さっそく『変わりくずもち』を作ってみた。吉野葛に負けない秋月の本葛と沖縄の黒糖、
きな粉が手元にあったからだ。

葛と黒糖を同分量、それに3倍の水を加えて中火で煮ていく。
だんだん鍋底からとろみがつき始め粘ってくると混ぜるのに力がいる。
フツフツと煮立つまで練り続け、まな板に広げたきな粉の上に広げ、
皿にその上にきな粉をまぶす。

きな粉のついてないところに触るとやけどするから、気をつけて伸ばし、
包丁で端から食べやすい大きさに切り、切り口にもきな粉をまぶす。

簡単で美味しいおやつだ。
くず餅は、おばあちゃんのにおいがした。

近所の元気なおばあちゃんたちも、トコロテンの作り方、オキュウトの作り方などを
教えてくれる。なかなか、わたしも、そこまではヒマがない。
遊ぶのに忙しいからだ。

          ★おばあちゃんの干し飯

 『わたしは、だいたいおばあちゃんに声を掛けられることが多い。
悪友にそんな話をしたら、『マダム・キラーじゃなくて、ばあちゃんキラーやな』と笑っていた。
あとは3歳以下の女性にももてる。その間がからきしダメなのだ。

この傾向はわたしがまだ小学生のころから続いているような気がする。
中でも忘れられないおばあちゃんがいた。

わたしは終戦をいまのピョンヤン(平壌)で迎えた。小学5年生だった。
ピョンヤンの町はソ連軍に占領され、わが家も接収されて、家を奪われた日本人は
数所帯ずつ同居させられた。

当時はソ連兵は何をするか分からないと、日本人は恐れおののき、特に若い女性は
丸坊主になって地下に隠れたりする人もいた。そんな中でわが家の連中は、少しも
ソ連軍を恐れていなかった。わたしはキエフ生まれということもあり、なぜかソ連の人も
同じ人間じゃないかと思っていた。

向かいの住宅には小さな子供たちがいた。
私はすぐにその子らと仲良くなり、遊んでやった。
片言のロシア語は、その子供たちから主に習った。
聞き覚えのままだから、多分間違っているかも知れない。

中でもビーチャという男の子は、まだよちよち歩きの2歳半だったが、私によくなついた。
『ビーチャ、イジシュダ(おいで)』と呼ぶと、トコトコと道を渡ってやってきた。
親たちは遠くから眺めていた。

そのうち、我が家に上がり込んでは遊ぶようになり、砂糖入りのコーヒーを薄めて
飲ませると『ハラショー』と言って喜び、『イッショーラジーン』(もう一杯)とおねだりする。
人なつこく、笑顔の可愛い子だったが、礼儀正しく小さな紳士のようだった。

家まで送っていくと、母親が『スパシーバ』(ありがとう)と、迎えに出た。
『パンを持って行け』と言われたが『結構です』と笑顔で断った。
ビーチャのお母さんはシーマと言った。

やがて、母親のシーマもビーチャを連れて家を訪ねてくるようになった。
お袋は相変わらず、戦争の勝ち負けなど無視して対等に相対していた。
それが気に入ったらしく、ときどきビーチャの家に一家で招待された。

お袋は台所で、ロシアの家庭料理を習ったり、日本の料理を教えたりしてご機嫌だった。
終戦間もないころだし、さんざんドイツに痛めつけられた彼らは決して豊かでは
なかった。それでも将校たちは、住宅を与えられ、配給の物資も兵隊たちより
マシらしかった。

『コーヒーなんて何年ぶりかしら』と、ビーチャのお母さんは喜んで飲んだ。
コーヒーや砂糖が、戦争に負けた日本にあること自体、信じられないようだった。
それだけではなく、我が家にはチョコレートのストックもあった。

お袋は、原価で買う約束で毎朝、パンを買うことに成功した。
ロシアの黒パンは酸味があって美味しかった。

そんな私たち一家を横目に見ながら、ほかの日本人たちは、それでも
一歩たりとも外には出ようとしなかった

平壌を去る日が来た。
チャーターしたトラックで国境近くまで行き、あとは歩いて38度線を越える計画だった。

前夜には盛大な別れのパーティーが開かれた。仲良くなったソ連の人々は全員顔を揃えた。
しかし、ただ一人来ない人がいた。シーマの家のおばあちゃんだった。
彼女は、娘のシーマと私たちが仲良くしているのを知ってはいたが、口をきいたことはなかった。

出発の朝、支度をしていると、道の向こうから誰かがやってくるのが見えた。
おばあちゃんが、何か両手に大事そうに抱えて歩いてくる。
やがて、おばあちゃんはドアをノックした。

しわくちゃの顔を、一層しわだらけにして、おばあちゃんが言った。『娘たちが大変世話になった』
『これは、おなかが空いたら途中で食べて下さい』そう言って、わたしに何やら新聞紙にくるんだモノを
差し出した。見ると、焼き飯を乾かしたような手作りの非常食だった。

おばあちゃんは、言葉を継いだ。
『私の娘時代は日露戦争があった。おかげで絹の靴下も買えなかった。ベルトもなく、
縄で縛っていた。日本が憎らしかったよ。でも、あんたたちはいい人だった』。
『気をつけて行くんだよ、ダスビダーニャ(さよなら)』おばあちゃんは、鼻をすすりながら、そう言い残すと、
また、とぼとぼと、もと来た道を帰っていった。

おばあちゃんの、あのしわだらけの顔を、私はいまでもはっきり思い出すことが出来る。
言葉の
言ひとことが、ずしりと胸に響いた。
(2003.6)