面白荘だより(11)  文=土岐浩之

   
  元祖・四海楼のチャンポン      チャンポン・ミュージアム     ボウリング発祥の地


             チャンポン生誕100年

               ボウリング発祥の地もあった   


                癒し系・シーボルトの足湯 
   


 今年はチャンポンが長崎の地で生まれてちょうど100年になるという。
それならと、長崎にチャンポンを食べに出かけた。
わたしが目覚まし時計不要の生活を始めてまだ100年にはならないが、
目覚ましに起こされることもなく、ポケベルや携帯電話もない暮らしは実に気分がいい。
それなのに、面白荘に最近インターネット電話が開通した。ささやかな変化と言えば
これぐらいのことだ。

         ★チャンポン博物館

 長崎の友人に『チャンポンはどこで食べる?』と聞いたら、全国チェーンのRを教えてくれた。
わざわざ長崎まで来て全国チェーンの店でもないだろう、そう言うと、安くてそこそこ旨いから
いいじゃないか・・・という返事。

 『ほかにないのか?』と尋ねたら『じゃあ、チャンポンを創り出した店に行け』ということで
チャンポン生みの親の老舗<四海楼>へやってきた。
 グラバー邸のすぐそばにそびえ立つ大レストランだから分かりやすい。表の石段を上がった
2階部分に『チャンポン・ミュージアム』という博物館があった。入場無料だから、のぞいてみた。

 小さなこの博物館には、チャンポン誕生の由来や、当時使われていた器、テーブルなどが
並び、チャンポンの由来、レシピを書いたものまで展示されていた。

 由来によると、チャンポンのルーツは福建料理の『湯肉糸麺(トンニーシーメン)』で、明治の中頃に
日本へ渡来して四海楼を開いた初代陳平順氏が、中国からの留学生たちに栄養のあるものを
食べさせてやろうと、この福建料理を元に考案したのがチャンポンの始まりだという。

 もちろん長崎近海で獲れる豊富な魚介類があったからできたのだろう。
イカ、カキ、小エビ、かまぼこや竹輪、それにもやしやキャベツ、キクラゲなど季節の食材を巧みに取り入れ、
チャンポンは長崎ならではの郷土料理に育っていった。

 チャンポンが定着し始めた明治の後半、陳平順氏の娘さんが『特許をとったら?』と父に勧めたが、
平順さんは『みんなが喜べばそれでいい』と、言ったという。
そのおかげか、いま、長崎市内でチャンポンを食べさせる店は千軒を超えると言われる。

 中国では挨拶代わりに『ご飯は食べたか?』と聞く。これは今でも変わらない。
福建語でご飯を食べるという意味の『吃飯(シャポン、セッポン)』が、チャンポンの語源だという説も
あながちウソではないかも知れない。

 ともかく、四海楼でチャンポンが生まれて今年で100年だという。
エレベーターで5階に行きチャンポンを食べることにした。

 港を一望できる広い店内。メニューを見ると蓋付のチャンポンセットというのがあった。
ご飯と餃子とチャンポンがセットになったもので1,400円。普通のチャンポンは900円。
なるほど、友人が全国チェーンの店を勧めた意味が少し分かった。

 普通に比べれば値段はやや高めだけれど、食べてみると納得のいく味だった。
鶏ガラと豚の骨で時間を掛けて煮込んだスープは、少しもしつこくない。
まるで何度も漉したのではないかと思われるほど上品な味になっている。

 蓋付の小振りな丼に入ったチャンポンは、もとは出前用だったという。
大正時代には、このチャンポンが1杯10銭だったと博物館の展示パネルに書いてあった。

        ★長崎は発祥の地だらけ


            

             グラバー園内にある居留地境の石標

 四海楼のそばを歩いていたら、『ボウリング発祥の地』という石碑を見つけた。
碑文によると『文久元年(1864年)6月22日ここの外国人居留地内にボウリングサロンが
初めて出来た』とある。なるほど、長崎は国際都市だったし、すぐそばにはグラバー邸も
ある。ここらは居留地だらけだったのだろう。

そしてその居留地から新しい文明が長崎に伝わっていった。グラバー邸に馬小屋があった。
小高い丘の上の邸から、グラバー氏たちは馬や馬車で長崎市内に出かけていったのだろう。

ボウリング発祥の地から100メートルも離れていないところに、別の石碑があった。
『国際電信発祥の地』とある。明治4年(1871年)長崎-上海、長崎-ウラジオストック間に、
海底電線が開通した。敷設したのはデンマーク系の大北電信会社だという。

 日本に初めて汽車が走ったのは品川-横浜間かと思っていたら、 実は長崎が先だった。
横浜-品川間の鉄道が走り出す 7年前のこと, 慶応元年(1865)に英国人グラバーが
長崎の居留地の海岸通りに400mほどのレールを敷き, 上海の展示会で買った
蒸気機関車を走らせたという記録があるらしい。

当然、長崎にも『鉄道発祥の地』の石碑がある。
まあ、日本で初めて汽車が人を乗せて走ったのは長崎で、横浜-品川は営業としての
鉄道発祥の地ということだろう。

長崎には、こういう発祥の地がいろいろあるが、私の知る限り横浜の方が多いようだ。
横浜にはアイスクリーム発祥の地、西洋理髪、近代街路樹、君が代発祥の地・・・なんてのも
あった。
長崎に海底ケーブルが開通してから遅れること132年。

わが面白荘にようやくインターネット電話が開通した。

 IP電話にした理由は簡単明快。電話代節約のためだ。
この田舎の町にもADSLが使えるようになり、ブロードバンド時代の仲間入りをしたのと
同時に電話回線も変えたというわけだ。おかげで海外通話はかなり割安になり大助かりだ。

しかし、わたしが昔から使っている”脳波電話”の便利さにはかなわない。
完全無料、受話器も送信機も回線も不要、NTTからも請求が来ない。
”脳波電話”というのはテレパシーみたいなものだ。

”脳波電話”の呼び出し音が鳴り、なぜか気になって友人の家に電話をかけてみると、
病気で急に入院した・・・なんてことがあった。こういうことが重なると”脳波電話”の方は
回線を切ってしまおうかと思ったりする。けれど切らなくても、そのうちボケて使えなくなるだろう。

長崎の帰りに佐世保の波佐見に寄った。波佐見は焼きものの街だ。けれども量産品が多く
窯元というより工場の集まりだ。そんな波佐見の街で妙な看板を見つけた。

木片に『生活雑貨・ほほほのほ』と書いてある。ふざけた名前だと思いながら、
つい覗いてみる気になるから、やはり巧いネーミングだ。

やや古い民家を改造したショールームに手作りの、いかにも”癒し系で〜す”という商品が並んでいる。
長崎夢人工房・まえだせいえいプロデュースの店だそうだ。
まえだせいせい・・・という人は博多のキャナルシティでも店のプロデュースをやっているらしい。

玉石混淆の商品たち。その中で、いかにもニューファミリー好みの品をいくつか買った。
『いかが?癒し系でしょ?ね、ね』まるで、そう語りかけてくるようで、可笑しかったから、
買ったまでだ。ふだんなら絶対に買わないだろう。私の好みではないからだ。

ランプ型のガラスの一輪挿しには<アラジンくん>と名前が付いていた。
こういう呼び名も背中がむず痒くて好かない。

ミニ屏風が並んでいた。『仲良し』とか『一生懸命』、『あかげさまで』などなどと書かれた屏風。
その中で比較的イヤミの少ない『ほっ』という文字を選んだ。
ミニ屏風の前に、このアラジンを置いて、後ろにはわが家にある中国の藍染めとか、インドネシアの
藍染めなどを背景にすれば、何とか使えるだろう。

ただ、最近こういうたぐいの品物に人気がある。

何でだろう?・・・と、聞けば『ほほほのほ』と笑われそうだ。気に入る人はやたらはまるかも知れない。
そんな店の一つとして紹介しておこう。店は波佐見の郵便局前から少し露地を入ったところにある。
 

   
 『ほほほのほ』の看板     その店で買った一輪挿しとミニ屏風 シーボルトの足湯

     ★ 足湯はホントの癒し系

 波佐見の帰りに佐賀の嬉野温泉を通ったので、有名な足湯で、疲れをとっていこうと立ち寄った。
嬉野の足湯は<シーボルトの足湯>と呼ばれている。温泉街のど真ん中に、ちょっとした広場があり、
妙な赤い屋根ががある。

 浅い岩風呂みたいなところに注ぎ込まれるお湯。旅人たちや地元の人らしい老人たちが足をつけている。
若いカップルもやってきた。靴下を脱いで、お風呂のまわりに腰をかけ、みんなで足をつける。
『チャポッ』と足をつけると、思わず『ウーッ、いい湯だなア』と声が出てしまう。

足をつけて向かい合っていると、つい見知らぬ人とも話をしたくなったりする。
『おじいちゃん、いつもここに来んしゃると?』
『は〜い、いつも来よりますたい』おじいちゃんは近所の診療所に通うついでに立ち寄るらしい。

足下から全身にぬくもりが伝わってくる。地元の人と話をしているとゆったりした時間が流れる。
足湯は、ホントの癒し湯だった。

ちなみに足湯のそばにはシーボルトの湯の由来を書いた石碑がある。

それによるとオランダの外科軍医少佐だったシーボルトが嬉野に立ち寄り、
ここで湯につかったのだという。

嬉野の街も紫陽花が咲き乱れていた。シーボルトが愛した紫陽花。妻のお滝さんの名を取って
Otakusa と呼んでいた花。

シーボルトが長崎に来たときはまだ27歳だった。33歳で幕府から追放処分を受けるまでの
6年間、日本近代医学の父と言われるほどの功績を残したが、お滝さんと紫陽花の話も有名だ。

長崎-佐賀と文明開花の道は繋がっていた。

長崎にはシーボルトの記念館もある、娘・楠本稲の墓もある。その近くには<龍馬通り>があり、
坂本龍馬が1865年に設立した日本で初めての貿易カンパニー<亀山社中>跡がある。

鎖国から開国へと激動の時代の風が吹き抜けていった道だった。

                                        
 (次回は・・・・)
(2003.6)