地球人インタビュー(1996.10 )

自然と一体になって暮らす人々


約束は、「次の満月に会いましょう」


関野吉晴さん
冒険家・医師。1949年東京生まれ。1971年一橋大学深検部時代、アマゾン川全流を下る。卒業後、探検を続けるため医師になろうと決意、横浜市立大学医学部へ入学。以来31回通算10年以上にわたって中央アンデス、アマゾン源流、パタゴニア、アタカマ高原、ギアナ高地、オリノコ川を歩く。写真集に「ゲレートジャー二一」1・2(毎日新聞社)、ギアナ高地(講談社)、「ケロ、遥かなるインカの村」(朝日新聞杜)、「アマゾン源流・インカの谷、未知の流れ」(旧本テレビ)、「南米大陸」(朝日新聞社)、「オリノコ」(講談社)、著書に「ぐうたら源流」「ロビンソンクルーソーの生活技術」(山と渓谷社)、「幻のインカ」(立風書房)、「わがアマゾン.トウチァンー家と一三年」(朝日新聞社)などがある。雑誌「サピオ」で「ルーシーの末商たち見聞録」を連載。




 
探検家、関野吉晴医師が、現在挑んでいる「グレートジャー二ー」は、早くも第一、第二、第三ステージの南米探検を終え、中米、北米探検行の第四ステージにかかっている。関野氏は、大学探検部時代から1990年までの20年間、行ったり来たりしながら南米の先住民たちと暮らしを共にしてきた。そこで、いつも関野氏の頭をよぎっていた疑間のひとつが、「彼らは、いったいどこからやって来たのか?」だったという。


  およそ400万年前、人類の祖先はアフリカの地に誕生、世界各国に拡散していった。南米の先住民たちは、そのなかのもっとも遠くまで旅してきた人々の、偉大な末商たちというわけである。思いがそこに至ったとき、関野氏は、<人類の旅>を逆にたどる(南米からアフリカを目指す)、5万キロの「グレートジャー二―」の計画実現を決意した。1990年、29回目の探検でのことであった。


  関野氏が第3ステージの南米の探検を終え、一時、日本へ帰国した機会に、お話しをうかがった。この「グレートジャー二ー」を発想する関野さんの胸に、最初、火をともしたのが南米の先住民たちとの交流がきっかけだった。自然に依存しながら生きる先住民の暮らしに焦点を当てた。(聞き手:つかもとこうせい)



文明との出会い


初めて、彼らと接触をもとうとするとき、関野さんはどんな方法をとるのですか。


関野 集落の入口から少し離れたあたりにテントを張って、ただひたすら待つんです。あえて先方の関心をかうようなやり方はしないことにしています。アンデス山中のケロ村、ここにはケチュア族が住んでいます。インカの伝統を色濃く残した先住民で、呪術師が多い。それからアマゾン水源地帯にすむマチゲンガ族。彼らと初めて会ったのは大学の探検部時代で、2回目のアマゾン探検に出た1973年でした。1978年には南米三大河川のひとつオリノコ川の水源地帯に住むヤノマミ族と接触しました。


どのくらい経過すると、先方からアプローチがあるんですか。

関野 さまざまですが、ケロ村の場合は、1981年に初めて訪れたのですが、無視されて相手にしてもらえませんでした。翌年もダメ。83年3度目のトライをして、ようやく一家族から声がかかり、幼児の断髪儀礼を頼まれました。3力月滞在するつもりで行って、1カ月後のことです。これがきっかけで、他の家族からも断髪儀礼を頼まれるようになり、ようやく村人の中に入ることが許されました。


アマゾンの奥地ともなると、文明とまったく接触をもたない先住民が、少なからず生きているなどと聞くことがありますが、彼らが最初に触れる文明というと、何なのでしょうか。


関野 それはキリスト教の牧師か、宣教師、それに木材やウランなど経済的メリットを求めてやって来る商人でしょう。アマゾンの先住民の場合、1950年に初めてプロテスタントに触れ、その後、カトリックと接触したといいますから、彼らが文明を知ったのはたのはここ45年ぐらいの間だと思います。でも、その間、布教はほとんどできなかった。閉鎖的ですが、僕は、そういった誇り高さが好きだったんです。

 宣教師が、スペイン語を教えるといっても、まず相手にしない。誰ひとり集まって来ないけど、ナイフだったらもらいに来る。今回、9年振りにヤノマミ族の集落を訪れました。4回目なんですが、彼らの間に、微妙な変化を感じました。奥地の集落まで行くのに、ポーターと一緒に森で一泊したんです。すると彼らは、食事の前にお祈りをし、村に着くと賛美歌を歌うんです。前はそんなことはありませんでした。

  アルミの鍋やナイフ、フォークなど、生活に便利なものは既に入っているんです。ただ、考え方、儀礼、生活様式などはほとんど変わっていません。その村の教会は伝導基地みたいな感じで、牧師さんが2人いるんです。皆、フロリダで、発音の学間、音声学の教育を受けて来るので、現地に入ると先住民族の言葉を覚えてしまう。スペイン語や英語ではなく、彼らの言語を学び、布教していくんです。聖書もヤノマミ語に翻訳したものがちゃんとありました。