新しい回路を求めて
この映画には、近代のもたらした事柄についての問い直しの痕跡が、随所に感じられます。もしかすると小栗監督個人の問題も含まれているのかもしれませんが・・・・。
小栗 俺は、このようにわかっているんだぞ、と見せる撮り方はしたことないんです。わからない、気になるから、そのことを考えたいし、感じたいんです。だから、いつもうろうろをしています。結果的にはシナリオとほとんど同じものができあがりますけど、言葉で書いたものと映画を撮るのは違いますから、撮影の段階でも、やつぱりうろうろの連続なんです。映画を見に来る人にしても、僕とは違ったその人なりのうろうろをしてくれれば、一番いいなと思っています。
これは主張の仕方といいますか、型だと思うのですが、自分はこうありたい、という理想みたいなものがありますね。それを基準に僕の家族はこうあってほしくない、とか、友人はこうあってほしくない、社会はこうあってほしくない、と、これもダメ、あれもダメと、否定を積み重ねていく型があります。
『眠る男』のシナリオを一緒に書いた友人からも、よく僕のそういうところを批判されるんです。「おまえさんの主張は、いつも他を否定している。逆の立場だってあるんだ、ということを考えなさいよ」とね。すると僕はひるむんです(笑)。否定しないで、なおかつ自己を放棄しない主張の仕方というのを考え出ださないといけなくなる。これは相当違った組み立て方をしないと維持できないんです。
これは、僕にとってのふるさとという問題と同じなんですけど、家族があって、地域があって、その地域が集まって国家がある。この繋がりに対して、僕は警戒心をもっていました。それは日本の天皇制とも繋がるような血族意識を育てられるようにも感じられたからですが、そこから何としてでも離れたいと思った。
例えば、僕の父親は明治生まれで相当頑固な人でした。僕は、父親の価値観を壊して、離れようともがくんです。近代というのは、明らかにそうした封建制と闘ってきたところがあります。僕もその中で、否定を媒介にして個の形成を、自分を励ましながらやってきたわけです。でも、行き着いたところは、アリ地獄の底。そこから僕は、簡単に這い上がれないことに気づくわけです。
個人の概念そのものから変えてかからないと脱出できません。一面的、直接的に、他を否定する形で自己を想定するこれまでの考え方では、もう成立しないのです。個の概念を変える。自分とは何かという考え方、いろいろなアクセスを用意する必要に迫られているのだと思います。難しい作業ですが、現在の市民運動というのも、そういう新しい回路を求めているのだろうと思うんです。
